第二章 部長さんと巫女さん
翌日、部誌に掲載された作品を全て読み終えた私は、再び文芸部室へ足を運んだ。昨日と同じように部室に居た部長さんは私の来訪を飛んで喜び、(本当に飛び跳ねていた)、昨日と同じようにもてなしてくれた。
「部誌、どれも面白かったです。二つ目の……えっと、〈あなた最期の日〉なんて、高校生が書いたとは思えないくらい、完成されてて」
「うんうん! あのメルヘンな世界観、素敵っすよねぇ!」
「あ、でも、一番好きなのは〈しいたけ〉氏の作品でした」
「がっ……う、うん、面白いっすよねぇ、へはは……」
……どうやら〈しいたけ〉氏は部長さんのようだった。
それから少し会話をして、部長さんはもし良ければ、と、より古い部誌を何冊か引っ張り出してくれた。相も変わらず暇だった私は、放課後を利用して読もうと、ありがたくそれらを受け取った。
『で、お前はなんでそれを図書室で読んでいるんだ?』
個人用の席に座り、静かに部誌を読む私に、結が話しかけてくる。
『別に部室で読めばいーだろ? あの部長、寂しがってたぞ』
「私はまだ部員じゃないからね。一応、その辺の線引きは大事にしないと」ひそひそと言葉を返す。「それと、図書室では静かにね」
『静かに、って……私の声、誰にも聞こえんだろ』
「私が反応しちゃうじゃん」
『……お前、変なところで真面目だよな』
呆れつつも納得したのか、粛々と同じ部誌を読み出す結。どうやら結の読書速度は私よりやや早い程度らしく、私のタイミングでページをめくっても問題無く共有できることがありがたかった。
……しかし、本当にどれを読んでも面白い。同年代がこれほどのものを書き上げていることに、意味も無く誇らしくなってしまう。そりゃあ、世に売り物として出版されているものと比べたら見劣りする部分もあるかもしれないけれど、特に今読み切った〈スプリンター〉なんて、提示されたテーマがとても素晴らしくて、
『今のはめちゃくちゃつまんなかったな』
「…………」
ばっさりにも程がある。
私を絶句させることで図書室の静寂を保つ作戦なのだろうか。
結と作品の感想を幾つか共有して気付いたことだけれど……私はどうも、作品の良いところだけを見てしまう癖があるようだ。悪い部分からは目を逸らしてしまうというか、そもそも知覚できないというか。〈良い〉と感じた部分の感想は共感し合えても、〈悪い〉と感じた部分の話になると、擁護の言葉ばかりが溢れてしまう。
すべての感想が、面白かった、の一言に向かってしまうのだ。
私は感受性の欠けた人間なのだろうか、と考える。その点、結は作品の良い面と悪い面を客観的に見た上で、自分にとって面白かったかどうかの評価をすぱっと下してしまえるから凄い。低俗に全てを肯定してしまう私の生き方は、難しいことを考える必要がない点で幸福と言えるかもしれないけれど、それはただ思考から逃げているだけのような……
「――もし、そこのあなた」
と。
思考をぐるぐると迷走させながら部誌とにらめっこしていた私の耳に、一つの呼び声が届いた。声は真横からのもので、どうやら私を対象にしているようだ。
「少々、お時間よろしくて?」
言葉面とは対照的に棘の無い、けれどどこか上擦ったそれに顔を向けると、そこには一人の女子生徒の姿があった。背は高く、綺麗な長い金髪を携えた少女――
その風貌に、一瞬目を奪われる。
美醜の判断に疎い私だけれど、何となく彼女が〈綺麗な人〉という側に属することは分かる。モデルのような、或いは精巧な人形のような、と例えられるタイプの人間だ。表情は柔らかく、人当たりの良さそうな笑顔に、私はテニス部で見かけた子だ、と急速に過去の記憶を思い出した。
掘り起こされた、と言った方が正しいかもしれない。それだけ、彼女の笑顔は劇的だった。
「……えっと。時間、は大丈夫だけど」遅れて言葉を発する。「どうしたの?」
優しい笑顔につられてか、私にしては珍しく、初対面からタメ口だった。おそらく同級生だから、特別問題も無いのだけれど
『まさしくつかさとは別世界の人間って感じだな……』
結の言葉に心の中で同意する。当然、女子生徒はそれに気付かず、「ここでは少し……」と周囲を見渡した。図書室は静寂が求められる場だから、おしゃべりをするなら別の場所で、というのは別におかしくない行為だけれど……一体、何の用事なのだろう。
結と顔を見合わせる。結は、『分からん』と肩を竦めた。
連れてこられたのは、屋上へと続く階段の踊り場だった。わが校では屋上は普段解放されていないけれど、それ故に隠れスポットとして機能している場所だ。
私もたまにここでお昼を食べる……けど、ここって体育館裏とかお手洗いの個室とか、そういう意味合いの場所では……?
『カツアゲか? カツアゲなのか?』
「…………」
楽しそうにしちゃってまあ。
「申し訳なかったですわね、理由も告げずにこんなところまで」
「それは良いんだけど……暇だし」
今更だけど、特徴的な話し方をする人だ。最近、話し方に癖がある人によく会うなあ、と、ちょうど部長さんのことを思い出したタイミングで。
「――文芸部の部誌ですわよね、それ」
つい、と指をさされる。その人差し指は、私が今胸に抱えている部誌を指していた。
神妙な面持ちに首を傾げる。彼女は言葉を続けた。
「この高校の文芸部は廃部になった、って聞いたのですけれど……」
その言葉に、私は納得と疑問を同時に覚える。
つまり、この人は何らかの理由で文芸部を探していたのだ。例によって文芸部の情報は秘匿されているから、その部誌を持っている私から入手の経緯を聞きたがっている、と。
……けど、廃部になったという情報は何処から来たものなのだろう。少なくとも三年前まで、文芸部は正式な部活として活動していたわけだから、〈文芸部があったことは知っているけど、今どうなっているかは知らない〉という人はいてもおかしくないけれど、にしたって廃部になった、なんて確定的な言い方をするだろうか。
まあ、ただの予測を述べた誰かがいただけかもしれないけれど。
「文芸部なら、別館の三階にあるよ」右手で部誌を見せる。「この部誌もそこで貰ったんだ」
私がそう伝えると、彼女は「別館三階……!」と口に手を当て、目を見開いた。
「立ち入り禁止の場所にあったとは、盲点でしたわ……!」
困惑する私を前に彼女はにこにこと笑い、私の空いている方の手を取った。
「ありがとうございますですわ!」
「ありがとうございますですわ……?」
「わたくし、湊川巫女と申しますの」太陽のような笑顔で言う。「あなた、文芸部に入部する……の、ですわよね? いえっ、そうであっても、そうでなくても、ぜひ、今後ともよろしくお願いしたいですわ!」
「は、はあ……」
『……なあ、もしかして文芸部に関わる奴らって、全員変なのか?』
それが巫女さんとの出会い。
立ち入り禁止、の言葉に違和感を覚えたのは少し後の話。巫女さんのその言葉が、友達になろう、という意味だと気付いたのは、更にもう少し後の話だった。
「…………」
部屋の隅で、スマートフォンをぼうっと眺める。「別に必要ない」と反対する私と「持っておくべきだ」と主張する父との中間点で持つことになった、かなり型が古く、出来ることの制限されたそれに、私は深く感謝していた。
「同級生の連絡先を貰ってしまった……」
チャット欄には〈みこ〉という名前が追加されている。今日の放課後、ばびゅーんと別館三階へ向かった巫女さんが「もし良ければ」とくれたものだ。いや、連絡先は交換するもので、あげる、くれるという表現が正しくないことは分かっているのだけれど、私なんかにという気持ちから、そんな表現をしてしまう。
有り体に言うと、めちゃくちゃ嬉しい。
『お前、いつまでそれやってんだよ……』
一方の結は呆れた様子だ。どこか怒っているようにさえ見える。
『友達に飢えるにも程があんだろ』
「そりゃそうだよ。中学生の私にとって、〈二人組を作って下さい〉と〈猫沢さんは先生と組んで下さい〉は同じ意味だったもん」
『は。それで舞い上がってるわけか。良かったな?』
もの凄く刺々しい結の声に、私はたじろいでしまう。何か彼女の機嫌を損ねる様なことをしてしまったのかと考えたけれど、心当たりは全く無い。と言っても私のことだから、きっと無意識に彼女を傷つけてしまっていたのだろう。こういう時は、下手に出ることでご機嫌取りを図るか、或いは――
「へいへーい! どうしたの結、拗ねてるのかな?」
こうして、もの凄く癪に障る態度を取ることで怒りのオーバーフローを狙うか、だ!
『なんだ貴様その態度は』頬を膨らませる。『別に拗ねてねえよ。はー拗ねてない拗ねてない。どうせ私は初期加入SSRみたいな存在だよ!』
めっちゃ拗ねてる……
SSRって……校内教育支援センターがどうしたと言うのだろう。
『良かったな、ああ良かったな! 初めての友達が出来てよ!』
「え、あ、それは違うよ」結局アッパーテンションが持続せず、素で話してしまう。「友達は巫女ちゃんで二人目。結が一人目だもん」
『…………』
途端に黙り込む結。「ど、どうしたの?」と慌てて聞くと、結は小さく首を振った。
『これに関しちゃ、私が子供だったな』
「……?」
『や、なんでもない』恥ずかしそうに頭を掻く。『私も生前は友達の少ない人生だったからな。相手にとってはちょっとしたことでも、舞い上がっちまう気持ちは分かるぜ』
照れたように笑う結。なんだかご機嫌そうな彼女に、私は内心で胸を撫で下ろす。もしかしたらオーバーフロー作戦が時間差で成功したのかも、なんて考えながら、何かの折に怒りが再燃しないうちに別の話題へ転じる。
「やっぱり連絡先の交換って、一般的には気楽に行うものなんだよね」
『まあ、そうなんじゃないか? リテラシー的には慎重に行うべきもんだろうが、過剰に気にしても人生立ちいかないからな』
「だよね……ねえ、結はチャット欄、何人だった?」
私のふとした質問に、結はにやりと笑った。
『お、なんだ。プラス一された程度で私に張り合うつもりか? 左は有名野球選手から右はスタートアップ企業の敏腕社長まで、あらゆる分野を兼ね揃えた東方不敗のSNS所持者だったこの私と?』
「すごっ……!」
いや、別に張り合おうとしてたわけじゃないけども。
流石に公式のものを含めて七つしかない私の弱小SNSで勝てるとは思っていない。
ちなみに公式を含めなければ三つだ。うち二つは父と兄。なんだか泣けてくる。
……クラス用のグループチャットとかあったらどうしよう。
私は本当に泣いてしまうかもしれない。
「え、なに、結って有名人だったの? 芸能人? シースー?」
『シースーって……や、芸能人ってわけじゃないが、多少な。私の名前で検索したら色々出てくると思うぞ』
言われるがまま、検索欄に〈天草結〉と入れてみる。すると、生前の彼女と思われる可愛らしい写真とともに、大量の記事が出てきた。
「小さな天使、脳腫瘍と戦った高校生涙の最期、感謝の言葉に一同号泣……凄い、下に行っても下に行っても出てくるじゃん……!」
ただただ驚いてしまう私に、結は『どうだ』と胸を張る。
私なんて昔調べてみたら地名しか出てこなかったのに……
適当に一つ選び、開いてみる。それはドキュメンタリー番組の内容をまとめた記事のようで、よく分からない器具に繋がれる彼女と、それを優しく見守る母親、さらにそれを見て号泣する芸能人さんの写真が載せられていた。
『こうして取り上げてくれたお陰で、結構な額の寄付が集まってな。諸々の出演料も併せりゃ、ビッグな別荘が建てられるくらいになってたんじゃないか?』
「へええ……」
『くくくっ、未成年の命は金になるからな……!』
とんでもなくひねた言い回しについ笑ってしまう。記事に載せられている写真を見る限りでは、小さな天使という表現の通り可憐に見えるのだけれど……
「ねえ、結。もしかしてだけど、テレビに出るときは猫被ったりしてた?」
『おー、もう被りまくってたぜ。人間、一人の時間が長いと方向性はどうあれ何かを拗らせてしまうもんで、拗らせた人間ってのは大抵ウケが悪いからな』
「え、エンターテイメントに真摯だね……」
『ま、今はその分飾らず話させてもらってるよ。つかさと話すの、結構楽しいんだぜ?』
「……そっか。それは良かった」
幽霊という行動が制限された存在になって、結がどんな思いで日々を過ごしているのか、気になっていたけれど……楽しいならそれで良かった。
ほっとすると同時に、私は結の生前を思い描く。本人は楽しそうに語っているけれど……その人生には、大変なことだって多かったはずだ。
私とは全く異なる人生。何処にも行けず、病室に缶詰めにされる毎日。
病室の窓から、彼女は何を見ていたのだろうか。
「病気、辛かった?」
ふと気になったことを口にし、直後に自らが愚かしい質問をしてしまったことを悟る。けれど結は特別気に留めた様子も無く、『いや、そうでも無かったぞ』と返した。
『私の場合、物心ついたときから病気が友達だったからな。つかさだって、普段感じているはずの重力を重いと思ったりはしないだろ? もちろん、病気のせいで学校に行けなかったのはしんどかったが……ま、その分、貴重な経験も出来たしな――ああ、けど』
死ぬのは怖かったな。
あっけらかんと語られた言葉に、私は、「……そっか」とだけ返す。
人生最期の日。彼女がそれをどんな気持ちで迎えたのか、私には想像しかできない。
世界でたった一人、まるで自分だけが取り残されたように感じた夜は、私にもある。孤独は刺すように身体を痛めつける――けれど、実際に痛いわけでは、無い。
訂正だ。私は彼女の痛みを、想像すら出来ない。
「…………」
興奮していた気持ちが完全に冷める。
「……私は脳腫瘍って病気について、名前くらいしか知らないんだけど……やっぱり、お金だけじゃ簡単には治せない病気なの?」
『ん……まあ、脳の病気だから、丸ごと取り換えるわけにもいかんしな。私のは悪性だったし、完治ってのは厳しいってお医者様に言われた気がする。それでももう一年、いや二年は引き延ばせるって話だったが……』
「……それは、しなかったんだ」
『父さんも母さんも言葉には出さなかったが、嫌そうにしてたしなー。そこまで生に拘る理由も無し、両親を楽にさせてやる道を選んだよ。今頃は夫婦水入らずでバカンスでもしてんじゃね―かな』
「…………」
もしかしてご両親は、娘のためにこれ以上お金を使いたくなくて、延命を嫌がったんじゃないか、という想像を、私は頭を振って霧散させる。例えどんな背景であれ、本人が納得しているなら口を挟むべきじゃないし、下卑た想像はそれこそ失礼だ。
彼女は両親のために命を消費した。それは、意味のある行動の筈だ。
「……ねえ、質問してもいい?」
『さっきから質問ばっかりじゃねーか、お前』
「う……」
『はは、別にいいよ。ちょっといじっただけだ』
それで? と続きを促す結。
「うん。別に改まって聞くことでも無いんだけど……もし、今後成仏出来る手段が見つかったら、結はどうしたい?」
『……む』
私の質問に、結は腕を組んで悩み込んだ。
……どうしてそんな質問をしたのか、私にも上手く言語化は出来ない。
少なくとも、彼女の人生に憐憫の念を抱いたから、では無い。結は自らの人生に満足している。可哀想だなんて思うのはお門違いだ。けれど……もし。
もし、結が、第二の人生に縋りたいと思っているのなら。
その時は、私が――
「…………」
一分程度だろうか、目を瞑っていた結は、『そうさな』と語り出す。
『何の因果で悪霊になったのか分からんから、確かなことは言えないが……成仏できる手段があるなら、したい、かな』
「……そっか」
『とは言え、急いでるわけじゃねーさ。未練が無いってだけだからな。特別調べるような手間は……まあ、私が鬱陶しくなってからでいいよ』
「あはは、了解。だったらしばらくは一緒だね」ん、と拳を突き出す。「それじゃあ……改めて、今後ともよろしく」
『……ああ、よろしくな』
結の言葉に、私は寂しさと安心を同時に抱く。そのどちらも胸の奥底に仕舞って、私はただ、彼女との会話を楽しむ。
少しだけ、また、結のことを知った夜だった。
「ところで。この記事を見る限り、結の没年は高校三年生のはずなんだけど」
『……まあ、細かいことはいいじゃねーか』
自称十六歳は、目を逸らして笑った。
五月になり、部活動体験期間が終了した。
今日は入部届を提出する日だ。中学の時はクラス担任の先生に渡すだけだったような気がするけれど、本高校では個々人が部活ごとに指定された場所へ出向くようだ。活動場所だったり教室を間借りしていたりとまちまちなようだけれど、文化部は、部活ごとの部室へ集まれば、それでいいらしい。厳密には部活動未満の文芸部だけれど、同じように部室へ行けば大丈夫なはずだ。多分。
一緒に行こう、と連絡し合った巫女さんを図書室で待つ。十分ほどして、「お待たせしましたわー」と小声で現れた巫女さんを視界に捉え、私は席を立った。
「よし、行こっか」
巫女さんと並んで歩き出す。結が巫女さんの逆隣りに居るから、三人での横並びとなる。マナー的にはあまり良くないけれど、結は人をすり抜けられるから問題無し。こういう時、幽霊は便利そうだ。
「部活、楽しみですわね!」
道すがらそんな話題を振られ、私は「だね」と言葉を返す。まだ付き合いの浅い彼女だけれど、今日の巫女さんはいつにも増してご機嫌そうに見えた。
……おそらく彼女の機嫌は、〈ご機嫌〉と〈とてもご機嫌〉の二つなんだと思う。
「えっと……小説を書くんだよね、文芸部って」
「ええ、わたくしもそう聞きましたわ。実はわたくし、中学生の頃から趣味で執筆活動を嗜んでいたのですけれど……それを共有する場、というものに憧れていたんですの!」
「へええ、中学生の頃から」
それは凄い。私の中学時代なんて日々をやり過ごすことで精いっぱいで、小説を書こう……というか、何かを生み出そうという気力は僅かも無かった。
「巫女さんはさ、どうして小説を書こうと思ったの?」
にこにこと笑う彼女に気になったことを聞いてみる。巫女さんは「そうですわねえ……」と思案し、やっぱり一番は、と言葉を続けた。
「面白そうだったからですわ」
「なるほど……」
「面白そうだったからですわーーー!」
「なんで二回言ったの……?」
にしても、面白そうだったから、か。
とても巫女さんらしい理由に納得する。基本的に、スタートラインを軽々と飛び越えられる人間は強い。巫女さんは、間違いなく強者側の人間だろう。
「――それと、他に理由があるとすれば」
巫女さんは言葉を続ける。彼女は、歌うように言った。
「憧れたから、ですわ」
「……憧れ」
夢見る少女のように、巫女さんは目を細める。
ひどく幼く、儚い表情だった。
「初めて小説で泣いた夜の衝撃は、今でも鮮明に覚えていますわ。自分が涙を流しているって気付いたのは、文字が掠れて読めなくなってからでしたの」
……ああ、その気持ちは良く分かる。
いつも通りに小説を読んでいると、突然その瞬間はやって来る。どうして自分が泣いているのか、という言語化もままならず、ぐちゃぐちゃの感情のまま、操られるように次のページへと進むあの感覚。その瞬間、世界のギアが一つずれるんだ。
「一冊の本から見えるもう一つの世界。しょせんはつくりもの、なんて言われることもありますけれど、少なくとも当時の私にとって、それは本物でしたわ。そんな本物を、わたくしはわたくしの手で創ってみたいんですの」
面白そうだったから。そして、憧れたから。
どちらも幼稚と言えば幼稚だ。けれど、始まりは誰だってそんなものだと思う。
――かつて、月に触れようと手を伸ばした誰かが居た。
始まりのバトンはいつだって、無謀から始まるものだろう。
私は、彼女の夢を応援したいと素直に思った。
「って、偉そうに語っちゃいましたわね。こんな子供染みたこと……」
「ううん。素敵だと思うよ、凄く」
本心からそう言うと、巫女さんは照れたように目を背け、「そ、そう言うつかさちゃんは、どうして文芸部に入ろうと思ったんですの?」と聞いてくる。私は少し困り、どうしたものかと、結をちらりと見る。会話に参加できない結はいつも通り暇そうにしている……かと思いきや、意外にも真剣に、私達の会話に聞き入っていた。
いや、正確に言えば、巫女さんの言葉に聞き入っている、のだろうか?
一拍遅れ、視線に気付く結。結はくいっと顎を上げる。
……自分で答えろ、ということらしい。
「えっと……うん。本音を言っちゃうと、暇だったから、というか、なんとなく、なんだけど。けど、今の巫女さんの話を聞いて、私も理由を探したいって思った」
「理由探し! とっても青春で素敵ですわね!」
『……へえ』
私の言葉に手を合わせる巫女さん。そんな巫女さんのさりげない言葉に、何故か結は、感心したように声を漏らした。
「確かつかさちゃんは小説を書いたこと無いんですわよね? 良ければ、なんでも聞いて欲しいですわ! わたくしの腕では、小説の書き方なんてとても教えられないかもしれないですけれど……基本的なルールとか、書式設定とか、ちょっとだけなら、力になれると思いますの!」
華のある笑顔でそう言われ、私は「ありがとう」とお礼を返す。
「それじゃあ、さっそく聞きたいんだけど」
「ええ、ええ! なんなりと!」
私は、ずっと気になっていたことを質問する。
「そのお嬢様口調は、何かの拘り?」
「キャラ付けですわ」
「…………」
「キャラ付けですわーーー!」
「……そっか」
高らかな彼女の声が無人の廊下に響き渡る。
どうやら私は、あらゆる意味で得難い友人と出会えたようだった。
「ううっ、このせまっ苦しい部室に部員が三人も……! 自分、マジ感激っす……!」
部室へ到着するや否や、机に突っ伏して泣き出す部長さんに困惑する。会うのはこれで三回目だけれど、その度に彼女は感激している気がする。
「ごめんね。東さん、こういう人だから……って、もう慣れたものかい?」
部長さんの隣で穏やかな微笑を浮かべているのは、噂の顧問先生だろうか。年齢は三十代半ばくらいの、優しそうな男性だった。
「部長さん、わたくしが初めて来たときも泣いてましたわ」
こそっと私に伝える巫女さん。それが聞こえたのか、先生は楽しそうに笑った。
「わ、笑ってるんじゃねーっすよ先生! 折角の新入部員が逃げちゃったらどーすんすか!」
「もし彼女たちが逃げ出すとしたら、原因は東さんだと思うなあ」
くす、と巫女さんが噴き出す。『親子みたいだな、なんか。部長さん小さいし』という結の呟きに、私は心の中で同意した。
「だって、だってっすよ! 部員が三人もいたら、それはもう部活じゃないっすか! 生徒会のお堅い面々だってこれにはイチコロっすよ!」
「ああ……東さん、去年部費が下りなかったの根に持ってたのか」
「そりゃそうっすよ! 自分、部室まで取り上げられそうになって、お陰様で土下座の精度がみるみると……いえっ、そんなことはさておき!」
慌ててこちらへ向き直る部長さん。彼女は深々と頭を下げて言った。
「改めて、文芸部へようこそ! どうぞ座って、心から歓迎するっすから!」
目尻に涙を残し、部長さんは笑顔で手を広げた。
「前に説明した通り、文芸部では小説の執筆と年三回の部誌作成が主な活動内容になるっす。十月の末ごろに県の文芸コンクールがあって、そこに部誌を投稿したいっすから、その二か月前位までに部誌を完成させるのが当面の目標となるっす。っすから、小説の最終提出期限は八月末、みんなで読み合わせの機会も欲しいっすから、七月末までを目途に、頑張って執筆して欲しい次第っす」
ばばっとそこまで説明した部長さんは、既に頭が〈っす〉で支配されている私の脳へ「あ、活動日は毎週水曜の放課後っす。と言っても、連絡が無い限りは暇だったら来るくらいで大丈夫っすよ!」と情報を付け加えた。
「……よし。何か、ここまでで質問はあるっすか?」
「はいっ!」巫女さんが元気に手を挙げる。「小説の種類に制限があるか聞きたいですわ!」
「うへへ、良い質問っすね」
にやりと笑う部長さん。求めていた質問が来た、といった表情だ。
「一応テーマが毎回あるにはあるっすけど……内容は完全に自由っす! ミステリーでもホラーでもサスペンスでも、なんならテーマに則ってなくてもいいっす! へへ、拗らせた高校生らしくグロテスクだったりちょっといやらしかったりしても平気っすから、是非ともじゃんじゃんリビドーを開放してもらって……」
「なんなら小説じゃなくてもいいよ、竹取物語とか」
「え……竹取物語って小説じゃないの……?」
部長さんの言葉に被せる様に言われた先生の言葉に、私は衝撃を受ける。つい漏らしてしまった言葉に先生は笑い、部長さんは「あー!」と悔しそうにした。
「浮世先生、自分のインパクトを取らないで欲しいっす!」
「あはは、ごめんごめん」
「全く……せっかく文芸部の治外法権っぷりを力説出来るところだったのに……」
「…………」
どうやら部長さんはテンションが上がると暴れ出してしまう性質を持つようだ。気付かれないように手綱を握る先生の手腕は、まさしく結の例え通りお父さんのようだった。
「あの……竹取物語が小説じゃないってのいうのは、どういう……」
「おっと。その説明をするためには、ノベルと小説の厳密な違いから説明しなきゃだね」
「はいそこー、長くなる話は後にするっすー。もし竹取物語が現代で出版されてたら多分小説のジャンルだったっすから、細かいことは気にしなくても大丈夫っすよ」
私たちの会話をくすくすと笑って眺める巫女さん。自分の質問が半分流れてしまったのに、器が大きい。結なんて既に飽きて天井を眺めているというのに……
……さて、と部長さんは咳ばらいをする。
「じゃあ、今回のテーマ発表といくっす」
と言っても先に述べた通り、飾りみてーなもんなんすけど、と続ける部長さん。とは言え、初の小説執筆となる私はテーマを支柱にすることになるだろうから、私にとってはけっこう重要だ。猟奇殺人とか言われたら、その、すごく困る。
「というわけでテーマどん。はい、恋愛っすね。わー」
何処からか取り出したフリップをばばんと置き、テーマが発表される。巫女さんがぱちぱちと拍手を送り、私は少し遅れてそれに倣った。
『恋愛か……』
暇を持て余していた結が神妙な面持ちで呟く。
恋愛。猟奇殺人よりは遥かにマシだけれど、生憎私に春はまだ来ていない。
生まれも冬だしね。
「ちなみにこのテーマは昨日自分がAIに出してもらったものっす。個人的にはもっと頓智来なものを期待したんすけど……ま、ま、料理の甲斐はありそうっすよね」
ところで、と部長さんは話を変える。
「お二人は執筆経験がおありっすか?」
「ええ。中学生の頃からですので、少々ですけれど」
「おお、即戦力っすね!」
「私は……えっと、完全に初めてで……」
「可能性の塊ってわけっすね、大丈夫、なんとかなるっすよ!」
巫女さんにはさわやかな笑顔を、私には優しい笑顔を見せる部長さん。コロコロと表情の変わる楽しい人だ。私はだんだんと緊張が解けていき、巫女さんと共に文芸部の空気に浸っていく。会話は楽しく、確かにこれなら、なんとかやっていけそうな気がした。
小説だってきっと書ける。
私は、そんな自信を持った。
「書けないっ……!」
パソコンを前に頭を抱える。『まあ、こうなるよな』と結は冷静に笑った。
「うう……」
開いているパソコンは学校から入学時に配布されたものだ。様々な機能が制限されているけれど、小説を書く分には問題無いのだそう。「いい時代になったものですわよね!」と楽しそうに言っていた巫女さんに最低限の設定をして貰っており、今すぐにでも書き始められる状態、なのだけれど……
『そもそもパソコンを開いたのが間違いだったな。小説にはプロットってやつがあるんだろ? 先ずは適当な自由帳にでも……って、更にそれ以前の段階だよな』
そう。私には書くことの出来るものが存在しないのだ。今まで〈自分が小説を書くとしたら〉という視点を持たずに生きてきたばっかりに、執筆のスタートラインにすら立てていない。無趣味がこんなところにも影響している。
私はスマートフォンを開き、〈文芸部☆〉と書かれたグループを開く。諸々の会話を終えた後に入れてもらったそのグループには、ざっくりとした執筆上のルールや注意点が記されたファイルが送られていたけれど……残念ながらというか当然の如くというか、内容に困った人向けの助言は一切記されていなかった。
『なんか伝えたいメッセージとか無いのか? 未成年の主張、みたいなさ』
「うーん、あんまり社会への不満とか、無い人生を送ってきたからさ……」
人はかくあるべし、というような考えも特に持っていない。正しい生き方とか、どちらかと言えば教えて欲しい側の人間だ。
正しい生き方。もちろん、そんなものが存在すれば、の話だけれど。
「そういう結は? 結、多分道徳の授業とか好きなタイプだったでしょ」
『ん? まあ、確かに私は制作側が想定している回答を考察してはにやにやしてるタイプの嫌なガキだったが……』
「お、思ったよりあくらつだね……」
『けど、私もつかさと同じで、創作者としての視点を持たずに生きた人間だからなぁ』
『そもそも、自分で言っておいてアレだが、小説……物語って、メッセージ性だけあっても駄目だよな。エッセイじゃあるまいし……むしろメッセージ性なんて無い方がいいのか?』
腕を組んで悩む結を見て、私も考える。
「うーん……人が作る以上、メッセージ性が一切無い作品っていうのは存在し得ないと思うけれど……主張が無い、ならともかくさ」
『それは確かに』ふむ、と頷く。『小説ってのは、書き手側の意志によって生み出されたものだもんな。作者が小説を介して物語を〈伝える〉……即ち〈メッセージ〉か。最も、それを解釈すんのは読者だけどな』
「だね。だから作者の主張が無い作品って、メッセージ性の無い作品じゃなくて、読者の解釈がより自由で無限大な作品ってことだよね」
『そこへ行くとアレだよな、〈くじらぐも〉ってまさしく読者の解釈幅が広い作品だよな。恐らく私とつかさが人生で初めて読んだ小説だが……ふむ、改めて考えると面白いな』
段々と話が逸れていく。けれど私は敢えて筋を戻そうとはせず、むしろ少しでもヒントを得ようと結との雑談に専念する。
「小学校に上がる前は絵本を読み聞かせて貰ってたけど、絵本ってメッセージ性の分かりやすいお話が多かったよね。〈おおきなかぶ〉だったら力を合わせることの大切さだし、〈さんびきのくま〉だったら……えっと、努力は報われる、とかかな」
『いや、どうだ? 確かに絵本ってのは情操教育の面を孕んでいるものが多いが、案外難しい内容も多くなかったか。少なくとも幼少期の私は〈はらぺこあおむし〉から芋虫の成長譚以上のことは読み取れなかったぜ』
「むむ……」
確かに、当時の私もそうだった気がする。ええと、読み聞かせる大人側の意図としては、主人公である〈あおむし〉の成長を通して、子供に大きくなる素晴らしさを伝える――とか?
『〈みにくいアヒルの子〉なんて、素直に受け取ったら最悪だぜ? 結局ガワが全てで中身なんて誰も見やしない、ってな』
「それは絵本じゃなくてアンデルセンの性格が……いや、なんでもない」
私はアンデルセンの作るお話が大好きで、童話集も持っているけれど……どうしてあの人は童話作家を名乗っていたのだろう、と度々思う。〈マッチ売りの少女〉なんて、初めて読んだ日の夜はご飯が喉を通らなかった……まあ、読み手をそこまで揺さぶる能力があるからこそ、彼は童話作家だったのだろうけども。
『こうして振り返ってみると、メッセージ性が分かりやすい、分かりにくいってのはあっても、小学校低学年辺りまでに触れる物語ってのは読み手が自由な作品が多いんだな。深く考えてもいいし、考えなくてもそれはそれでいい、みたいな』
「うん。やっぱり想像力を養うための物語が多いのかな……そうすると、生まれて初めて考えさせられた――まるで作品に操られるみたいに、思考を強制された作品って、〈ごんぎつね〉が最初だったよね」
『ああ――思えば、人生最初のバッドエンドだったな、アレは』
バッドエンド。
短くまとめられたその言葉は、けれど当時感じた衝撃を良く表している。〈ごん〉の改心も献身も報われず、ただ犯した罪に追いつかれたあの終わり方は、未完成な私たちにとってそう形容するしかないものだった。
何がいけなかったのか。
どうすれば救われたのか。
それとも――あの終わり方は、彼らにとっては救いでもあったのか。
当時は何も分からなかった。今でも、きっと分かっていないのだろう。
『学校の課題でラストシーンについて作者の気持ちを答えよ、みたいな問題があってすげー困った覚えがあるな。私としては〈ごん〉には生きていて欲しかったし、わざわざ殺した作者を恨んだりしたもんだぜ』
「――作者の気持ち、か」
小学生の頃、国語のテストで良く出題されていたけれど、思えば中学校に上がって以来、見かけなくなった問題だ。
小説は書き手側の意志によって生み出される、と結は言った。私もそれは正しいと思う。けれど、意思って、具体的にはなんだろうか。きっと、その正体こそが作者の気持ちと形容されるもので――それを見つければ、私にも小説が書けるような気がした。
自分だけの、意思を。
「そういえば……結、今日は巫女さんが気になってるみたいだったよね」
唐突な私の言葉に、結は『そうだったか?』ときょとんとした表情を見せる。特別質問に意味は無い。単に、雑談の延長だ。
「ほら、文芸部に行く途中でさ。私と巫女さんが……えっと、どうして小説を書こうと思ったか話してるときに」
結はあー、と頷く。
巫女さんはあのとき、小説を書く理由に興味と憧れを挙げた。それこそが彼女の意志で、彼女にとっての作者の気持ちなんだと思う。
『巫女本人……ってより、私が気になったのは巫女の言葉だな。あの子、なかなか面白い人間性してるよな』
「ん……? まあ確かに、言葉遣いは面白いけれど」
『馬鹿、人間性だっつの。思想とか理念とか、そういう部分だよ』
「あ、なるほど」
納得する私の横で、数時間前のことを思い出すためか、結は目を閉じる。
『つかさが小説を書こうと思った理由に、その理由を探したいから、なんて答えた瞬間、私はなんてつまんねー回答をするんだと呆れたもんだが……』
「そんなこと考えてたんだ……」
『巫女はそれに対し、〈青春らしくて素敵だ〉、って返してたよな。理由探しっつー地味な要素を、即座に青春なんて綺麗な言葉へ昇格させた手腕に、私は感心したわけだよ』
「……ははあ」
巫女さんがあまりにもさらっと言うから流されてしまっていたけれど……彼女の引き出しの多さと、それを引く早さは、確かに凄い。それが小説を書いて身に着いた能力なのか、そういう感性を初めから持っていたからこそ、彼女が小説を書けたのかは分からないけれど……
「……駄目だ。自分に出来る気がしない」
『弱気だなあ……』
パソコンを閉じ、ベッドへ転がる。『そのまま寝るなよー』という結の言葉に、私は靴下を脱いで応じた。
『おい、マジで寝るなよ……? まだ夜八時だぞ』
「いいじゃん、お風呂も入ったし、歯磨きもしたし、小説も進まないしぃ……」
それに、普段の私の就寝時間は夜九時だ。結に出会ってから夜更かしも増えたけれど、八時ならば十分に、私の睡眠射程圏内なのだった。
『半ばふて寝じゃねーかよ……』苦笑いされる。『それとも夢の中で小説案を練るか?』
「いいね、それ」
結の冗談に、けれど私は乗っかる。今は、どんな小さなヒントでも欲しいのだ。
「じゃあ、私は寝るからさ」リモコンで部屋の電気を落とす。「結、子守唄よろしく」
『えー……』
とんでもなく嫌な顔をされる。ちなみに結の歌は、凄く上手い。
「この前はやってくれたじゃんさー」
『アレはお前が悪夢で泣いて目覚めるとかいうとんでもねえ無様を晒したからで……いや、ま、やってやるよ。どうせ私はまだ眠くないしな』
「やった、これで快眠間違いなしだね!」
『その代わり、だ』びしっと指を指される。『お前、ちゃんと夢の中で案、練っとけよ。じゃなきゃ私は歌い損なんだからな』
「あはは、任せてよ」
話しながら、既に眠気が立ち込める。私が瞼を閉じると、結は『しゃーねえなあ……』と呟き、それから子守唄を歌い始めた。
ねんねんころりよ、おころりよ。
聞いているうちに、自分が幼児に戻ったような気分になる。まだ、自分が特別な存在だと心の底から信じられた頃だ。世界は広くて、未来は明るくて、死は遠いおとぎ話の存在で。或いはあの頃であれば、私にも小説が書けたのかもしれない、なんてあり得ないことを考える。
意識が海の底へ沈んでいく。心の奥が、温かかった。
「あ、オツっす、ねこさん!」
翌日部室へ向かうと、いつものように部長さんが出迎えてくれた。
部長さんは、いつ部室へ行っても先に居る。もしかしてこの方、文芸部の精霊か何かなのではないかと度々思うのだけれど、今日に限っては部長さんの在中は予定調和だ。
「唐突に呼び出して申し訳なかったっすよう。さ、さ、とりあえず席へどうぞっす!」
促されるまま、私は椅子に座る。部長さんは流行りの曲を口ずさみながら、がさごそと後ろの本棚からお菓子の箱を取り出した。
「そういえば、今日は巫女さん来ないんですね」
今日は金曜日、本来ならば活動の無い日だけれど、放課後に荷物をまとめている最中、唐突に〈今日、部室に来れる人は来て欲しいっすー!〉という連絡が届き、いつも通り暇だった私は部室へと足を運んだ。一方の巫女さんはその連絡に対し、来れない旨のメッセージと謝罪を伝えるスタンプを一つずつ。メッセージ内では、理由までは書かれていなかったけれど……
「みたいっすね」お菓子の箱をどんと置く。「これに関しては事前に連絡しなかった自分に非があるっす。みみさん、忙しいみたいっすから」
部長さんは巫女さんをみみさんと呼ぶ。苗字のみなとがわ、と名前のみこ、からそれぞれ頭文字を取った形らしい。私のあだ名より捻りが効いていて、ちょっと羨ましい。
「渡したいものがあったんすけど、みみさんにはどっかで個人的に、ってことになるっすね。
ちょっとだけ、どきどきするっすけど……」
「どきどき……ああ、巫女さん、おっぱい大きいですもんね」
『なっ……馬鹿じゃねえのお前……?』
部長さんの言葉に私は脊椎で言葉を返し、それまで暇そうにしていた結にとんでもない低音で突っ込みを入れられてしまった。私は慌てて口を隠し、心を許しすぎてしまったことを謝罪しようとする。けれど部長さんは私の台詞に引くことは無く、「そうなんすよっ!」と強く頷きを返し、哀しそうに天井を仰いだ。
「ほら、自分なんて見ての通りの低身長っすし、発育の良い方を見ると冷や汗がだくだくとっすね……みみさんがすげー良い子なのは重々承知なんすけどっ、どうしても二度三度とお母様に病院へ連れて行かされたトラウマがっ!」
「く、苦労してるんですね……」
自身の無遠慮が流れたことを安心しながら、私は合いの手を入れる。部長さんはハッと我に返り、ぶんぶん頭を振った。
「ま、まあそんなことはさておきっす。アレですアレ、えーと……そう、ねこさん! 小説は書けそうっすかね……って、昨日の今日で書けそうも何も無いっすよね」
若干ぎこちない、けれど誠意のある笑顔で、部長さんはそんな質問をしてくれる。
「……実は昨日の夜、書こうとはしてみたんですけれど。なんというか……自分が書けるものが、よく分からなくて」
『お前ら、よく普通みたいな顔で会話出来るな……』という結の呟きを全力で聞き流しながら、私は昨夜のことを思い返す。当然と言えば当然だけれど、結の子守唄があったところで、名案が降って湧いてくることは無かった。
「――書けるもの、っすか」
「部長さんには、書けるものってあるでしょうか? これだけは譲れないっていう持論とか、専門的な知識とか……」
私の質問に、部長さんは神妙な面持ちで視線を落とした。その表情は悩みながら言葉を捻出している……というよりも、言うべきかどうか、そのものを悩んでいるように見えた。
まるで――自らの罪を、告白しようとしているかのように。
「――ある、と言えたら格好良かったんすけどね」
視線を落としたまま、部長さんは語る。自嘲するように、小さく笑った。
「残念ながら、自分には何も無いっす。信念も、意思も、何も。ただ面白いと思って貰えればそれで良い……へへ、プライドとか持ってないんすよね、自分。もし〈邪道だけど絶対受けるテーマ〉とかあれば、自分は何も考えず飛びつくっすよ」
「…………」
それは別段、悪いことではない。
特別自身の意見を持たず、ただ社会に求められているものを書く……ある意味で、最高にプロフェッショナルとして完成された考え方だ。偏屈な拘りの末に墜落するより、断然賢い……けど。
「正直、意外でした。もっと……こう、文学かくあるべし、みたいな方だと」
「うへへ、そう思われがちみたいっすね、自分……まあ文芸の極致とも言える文豪の方々は、自らの思想を作品へ乗せることが多いっすからねえ。文芸の看板を背負っている以上、当然と言えば当然かもっす」
「それも、あるんですけれど……」
リュックサックを漁って、入れっぱなしにしていた部誌を引っ張り出す。「ぶえ」という謎の巫女さんの呻き声に首を傾げながら、私は言葉を続けた。
「〈命を辿る〉を読ませていただいたとき、凄く拘りのある方のように感じたんです。メッセージ性が強くて、お話がとても練られていて……」
「あ、あああっ……」
「ぶ、部長さん……?」
私の言葉に、部長さんはわなわなと震えだす。どうしたのかと問おうとしたところで、彼女は机に突っ伏し、動かなくなってしまった。その様子が余りに壮絶だったために私は頭が真っ白になり、慌ててスマートフォンで公的権力を呼ぼうとしたところで、結の『落ち着け落ち着け』という言葉が、私の耳に響いた。
『こりゃあれだ、自分の作品が批評されることに慣れてないだけだ』
「な、なるほど……」
にしたって何も突っ伏さなくても……なんて考えてながらも、部誌をリュックサックへ戻す。部長さんはやがて、「うう……自分は弱い人間っす……」と、赤く染まった顔をゆっくり上げた。
「作品を世に公開した以上、これは避けられない事態だと言うのに……くくく、ねこさんも気を付けた方がいいっすよ、思春期に書き上げた作品は、出来の良し悪しに関わらず黒歴史と化すっすからね……!」
「そ、そうなんですか……」
文芸って怖い。私たちは黒歴史を覚悟して書かねばならないと言うのか……
部長さんはパンパンと二度頬を叩き、「……もし、自分の作品にメッセージ性があるように感じて下さったのであれば」と、真面目な表情で語る。
「とてもありがたい話ではあるっすけど、そのメッセージ性と自分の意見は、きっと別物っす。自分はとても浅い人間っすから、高尚な思想なんて、持っていないっす――せいぜいそれらしい嘘を付くことが、限界っすね」
「嘘……」
「へへ――ペラペラな自分が小説を書くには、それしか手段が無くて」
私は多分、これまで、心のどこかで作者と作品をイコールに考えてしまっていたのだと思う。作者の意見と作中の意見、作者の嗜好と作中の嗜好、作者の倫理観と作中の倫理観を、全て、同義だと――少なくとも、ひどく近しいものだと思っていた。けれど部長さんは、嘘で塗り固め、デコイで覆い隠し、偽りの自分を見せかけて。そうやって、小説を書いていた。
「自分が小説を書いているのは、それ以外に何も出来ないからでしか無いっす。十八年間、読書以外のことを何もしてこなかった自分には、もう、それしか残っていない――だから、それだけは、譲りたくない」
「…………」
「自分にだって、出来る筈なんすよ」
部長さんは、吐き出すように、そう言った。その言葉には、実力不足への自己嫌悪と、現実への悔しさと、それでも諦めたくないという、彼女自身の意地があった。
何度打ちのめされたのだろう。何度、がむしゃらに起き上がったのだろう。
「――東先輩!」彼女を呼ぶ。「お願いがあります!」
「え、は、はいっ、なんすか!」
「頭を撫でてもいいでしょうか!」
「良いっすよ! ……え?」
了承を得て席を立つ。部長さんの後ろを取り、私は未だ困惑する部長さんの頭を、優しく撫でた。小さく、けれど柔らかい手触りを感じ、これだけ華奢な身体で十八年を戦い抜いたことを、私は素直に尊敬した。
『な、な、何が起きてるっすか? 自分、小動物扱いを受けてる感じっすか……?』
「そんなこと無いです……! 先輩は、私の先輩です……!」
「わ、すげえ、意味わかんねーっすね!」
自分でもどうしてこんなことをしているのか、よく分からない。けれどとにかく、どうしても部長さんを労いたくなったのだ。
『こうして見ると、野生に生きるハムスターみたいな存在だな……』
結の呟きに心の底から同意する。小さく可愛らしい生き物であることは変わらずとも、野生の生き物は現実を知っている。幾重にも辛酸を舐めた上で、生きることを諦めていないのだ。
「え、えーっとっすね。そのままでいいっすから、聞いて欲しいっす」撫でまわされながら、言葉を発する。「自分に出来るアドバイスがあるとすれば、何が出来るかじゃなくて、何をしたいかを考えるといいかも、ってことっす。論文じゃないっすから、書くための武器が揃っていなくとも小説は戦えるっすからね。ご自身がこれまで積み上げてきたものを信じて、十から十一を生み出すっすよ!」
「何がしたいか……で、でも私、やりたいことも、本当に無くて……部長さんの小説みたいに積み上げてきたものも何も無くて、ですね……」
我ながら情けなさが過ぎる言葉を、けれど部長さんは「あはは、それは違うっすよ」と笑い飛ばす。撫でられ慣れて来たのか、心地よさそうに喉を鳴らした。
「子供が勝手に大人になるように、時間は勝手に積み重なっていくものっす。人間、生きている以上は〈何もしていない〉、なんてあり得ないんすよ。最も、それを活かせるかは自分と、状況と、運次第っすけど……」
「……私にも、あるんでしょうか。積み重ねた、何かが」
「そりゃ勿論。例えばこの場で自分を撫でる選択をした、とんちきな性格とかっすね」
「あ、す、すみません……」
いい加減失礼だろうと手を放し、そそくさと席へ戻る。部長さんは苦笑いしてから、何かを思うように、自分の髪に触れた。
「……撫でられるって、意外と気分が良いもんすね」
「え?」
「や、何でもないっす!」ぶんぶんと手を振る。「とにかく、ねこさんにはねこさんだけが積み上げたものがある筈っすから、それを探してみることを推奨するっすよ!」
私だけが積み上げたもの。私だけの、何か。
私はふと、結のことを想った。
「……少し、見えてきた気がします」正直に話す。「まだ、時間はかかりそうですけど……なんとか、やってみます」
「ゆっくりで良いと思うっすよ」柔らかく笑う。「自分のアドバイスが必ずしも正しいわけでも無いっすからね――っつーわけで、ねこさんにはこれをプレゼントっす!」
そう言って、部長さんは唐突に鞄から封筒を取り出し、私に差し出した。
「……? あ、ありがとうございます」
意図が分からないまま、おずおずと受け取る。手から手へ渡される際、封筒の中で小さな紙が揺れたような感覚がした。
「その封筒には図書カードってやつが入ってるっす。かなり脇道にそれた会話しちゃったっすけど、実は今日は、これを渡したくて皆さんを呼び出したっすよ!」
「図書カード……あの、どうして……」
「まあ、貰い物というか、大学の先輩にねこさんとみみさん、お二人のことを話したら大層喜ばれて押し付けられたというか……要は自分を介したお二人への入部祝いっすね。ちょっとお金が使えるようになったからって器の大きいところを見せようとした結果の産物っすから、どうか自由に使って欲しいっすよ」
「は、はあ……」
「色々言ってはみたっすけど、結局はプロの小説を読むのが一番勉強になるっすからね……おそらく一冊くらいは買えるので、お暇なときに本屋さんにでも行ってみては?」
先輩さんとの仲良さげな距離感を匂わせながら、部長さんは軽々しくそう言う。果たして金銭的なものを他人から受け取ってしまっていいのか、と少し申し訳ない気持ちになったけれど、結局私はもう一度お礼をしてから、丁寧にそれを仕舞った。
「すみません。相談に乗ってもらった上に、こんなものまで……」
「いやいや、ねこさんくらい執筆活動に真摯な方って、なかなか居ないっすからね。自分にもすげー良い刺激になったっす! 図書カードの方は……ま、最悪換金してもいいっすから」
「い、いえ……! 大切に使わせていただきます……!」
かしこまった私の言葉に、部長さんはくすりと笑った。
「……よし。とりあえず今日やるべきことは終わったっすね」ぱしっと手の平を合わせ、時計を見る。「どうっすか、まだ時間はあるっすけど……今日はお開きにするっすか?」
部長さんの言葉に、私は頷いて、再び「今日はありがとうございました」とお礼を言う。それを受け、部長さんは楽しそうに締めの言葉を放った。
「ではでは、また後日!」
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