虹の約束

@chironoichinichi

船出の日

 まばゆい光。空から大きな、とても大きな水滴が落ちる。地を震わす。

悲嘆に暮れる人々。群衆。怒号。静寂。

 僕は何もできず、ただ見ている。喉から声にならない音が出る。取り返しがつかない、悔やんでも悔やみ切れない。号泣する。


 クルックー、クークルックー・・・ 

森の鳥の声で目を覚ます。また同じ夢。胸が裂けそうな、忘れてはいけない何かがあるのに、思い出せない。ただ、自分は大切な何かを失ったという喪失感だけがリアルに残る。


 パタはグラン王国の首都、ダリアから馬車で5時間ほど離れた湖のほとりで育った。代々漁師の家系で、自分も幼い頃から父親について、湖に出て、漁を手伝ってきた。

 今日は、遂に、自らの舵取りで初めて船を出す日だ。湖・・・王国には大小様々な湖があるが、この湖は、ダリアをはじめ、王国内の人々の喉を潤す唯一無二で最大の湖で、人々は敬意を持って「湖」と呼んでいる。この湖では、15歳になると、湖の恩恵を受け生きていくにふさわしい者であることを湖の主に認めてもらう儀式を受ける。パタは、伝統的な漁師の装い、オレンジ、緑、紫の3色が絡み合い、蔦のように伸びている紋様が施されたベストと、濃い茶色のズボン、膝から下は、布紐で締め、息を吐き出した。

 湖の主を見た人はいない。祖父の祖父のまたさらに祖父のさらに気を遠くなるような昔に、湖の主と契約を結んだ先祖がいると言われているが、御伽話のようなもので、「認めてもらう」というのが一体何を指しているのか、パタにはわかっていなかった。ただ、湖の男たちは、父も含めて、行けばわかる、という。

 誰もがそう言われて儀式に参加し、よくわからずに儀式を終えたのだろうとパタは思っていた。それが伝統だから、と。


 居間では、父と母が神妙な面持ちで待っていた。母から、湖の主に捧げる、果実を煮詰めた汁が入った筒を受け取る。父からは、錫を。

 「湖の中央で祝詞をあげ、筒を投げ入れろ。あとは自然と流れていくだろう。」

 「自然と?錫は何に使うの?」

 「行けばわかる。」

 (またそれか・・・行っても何もないから、みんなそう言うんだろう。)

 「錫も投げ入れてもいいの?」

 「行けばわかる。」


 パタはそれ以上のやり取りを諦め、家を出た。湖は目と鼻の先だ。

 小舟に乗る。普段は3人で乗り、漁をするが、儀式の日は一人で漕ぐ。湖の中央まで、約5時間ほど。日の出とともに船を出し、そして、日が沈むギリギリに帰って来れるかどうか。湖の中央よりも手前に漁場があるので、中央まで行くのは初めてだ。大きな岩があり、それが目印だと言われている。


 両親や近所の人の見送りを背に、ゆっくりを船を漕ぎ出した。いつもよりも、やはり力がいる。しかし、湖岸の人が見えなくなったあたりから、自然と、何かに引き寄せられるように船が進んでいく。勝手知ったる漁場のあたりまできて、短く休憩をとった。水を飲みながら、湖の下を見た。湖に映る自分の姿を見て、微かな違和感があった。が、それが何なのかははっきりとわからない。

 「早く行って、早く帰ろう。」

 パタは誰にいうともなく一人呟き、また船を漕ぎ出した。さらに勢いが出て、不思議なほどスムーズに進む。

 空は快晴だが、いつも湖の中央あたりは靄がかかっている。普段、中央に人が行かない理由の一つでもある。湖の主への敬意と、実際に靄があって、無闇に近づくと危険だから、湖の子供達は、幼い頃から、絶対に一人では湖にでないこと、そしてくれぐれも湖の主の聖域を荒らさないことを耳にタコができるほど聞かされる。


 もう湖の中央にかなり近づいているはずなのに視界は変わらず良好だ。


(漁場から中央の方を見た時は、確かに靄があったはずだけど・・・・風で飛ばされたのかな・・・)

途中休憩を挟みながら、4時間以上漕いでいる。

(そろそろ、目印の岩が見えても良いはずだけど・・・遠くまで岩という岩はないけど、途中で方向を間違えたかな?)

一度船を止め、コンパスを覗く。湖は不思議な磁場が働いているので、首都ダリアで売られているようなものではなく、地元の漁師が使う湖専用のコンパスだ。

 と、漕いでもいないのにスルスルと船が動いていく。

(え・・・何だよ、これ。自然と流れるってこういうこと?どうなってるんだ。)

パタは、魯を固定し、湖の中を見た。自分が映って・・・・

(ん?)

また微かな違和感を感じ、見ていると、湖の中の自分が幼い姿へと変わっていく。どんどん幼くなり、5、6歳くらい?の少年になった。少年が神妙な面持ちでこちらを見ている。パタは目を逸らすことができず、しばらく呆然と見ていた。

と、少年の口が動いた。何かを話しているが、聞こえない。口の動きから読み取ろうとするが、わからない。何かを必死で伝えようとしているように見えるが、本当に全くわからなかった。

「わからないよ。何?僕に話してるんだよね?何?」


湖の中に気を取られているうちに、いつの間にか、大きな岩の前に着いていた。船が自然と止まる。湖には、いつもと変わらない自分の姿が映っていた。


(今のは何だったんだろう。湖の主が子供?僕に似ているようにも見えたけど。)


不思議なほどの静寂が満ちていた。

空気も澄んでいるように感じる。

(靄もないのに、なぜこの岩が見えなかったのだろう)


パタは、自分で考えても答えが出ないことを、知っている人が教えてくれなければわからないことを知っていた。

(ん?なんだ?僕は誰から教えてもらおうというんだろう。わからないことを知っている?なんなんだ。そういえば。さっきから変だ。)

パタは船が進むにつれ、自分の頭に、心に、自分のものではないような考えが浮かぶこと、にも関わらず、それは「知っている」という感覚と結びついていることに気づいた。

『祝詞を・・・』

頭の中に、声が聞こえる、言葉が浮かぶ、不思議な感覚。

(まただ。不思議だけど、懐かしい気もする・・・。)


祝詞、どれくらい昔から詠まれているのかもわからない、代々この湖に伝わる言祝ぎ(ことほぎ)。

湖の子供達は物心がつく頃から、この祝詞を覚えさせられ、披露させられる。寝る前に、久しぶりに会う遠く離れた親戚に会う時に、湖の民の集まりがある時に。祝詞を覚えるのが早いと、湖の恵みをたくさん受けられると信じられているから、どの家も子供が早く覚えられよう、励むのだ。


かくいうパタは、祝詞を皆の前でつっかえることなく詠めるようになったのは5歳の時。早い子は、3歳くらいで詠むことができるので(意味はおそらくわかっていないが)、月並みより少し遅いくらい、だ。


 しかし、パタが皆に言っていないことがある。2歳の誕生日の日の朝、祝詞を確かに完全に詠むことができたのだ。皆に披露するために、朝早く起きて練習していた時、一度も突っかかることなく。まだ祝詞を完全には覚えてはいなかったが、頭に祝詞の言葉と、その意味する情景が流れ、何の苦労もなく思いを込めて詠むことができた。幼心にも、不思議な感覚だった。

 祝詞を詠むにつれ、自分の体の中の何かが目覚め、記憶が呼び覚まされ、思いが溢れてくる。

 幸せな感覚、満ち足りた感覚、高揚する感覚、力が溢れる感覚、その後の悲嘆、悲鳴、後悔、喪失感。

 結局、パタは高熱を出し、誕生日祝いは延期に。祝詞も、誕生日に皆の前で披露することはなく、ただ寝て1日が終わった。


 幼いパタは、その朝に経験した、他に比べることの出来ない高揚感、喜びを求める気持ちと、その後の喪失感を恐れる気持ちとをうまく処理することができず、いつしかその両方に蓋をして、忘れることにしたのだった。


 頭で祝詞を覚えてからも、詠んでいると、何かが引きずり出されるように呼び覚まされる。その感覚を恐れて、いつしかパタは、祝詞を詠むことを嫌がるようになった。祝詞を大事にする湖において、それは模範的とは言えない態度だった。

 両親は、無理強いはせず、ただ、時が来るのを待ってくれたが、湖の民たちの中では、変わった子だと噂されるようになった。子供は残酷だ。家で、自分の親がパタやパタの両親のことをどう言っているのか、聞いたままをパタに伝えた。そうして、パタは、心を閉ざして、ただ文字の羅列として祝詞を詠む術を身につけ、5歳の誕生日の時に披露したのだった。

 そういう苦い記憶もいつしか消え、祝詞を詠むことに何の抵抗も、感慨もなくなっていたが、この湖の中央では、不思議と幼い日の様々なことが思い起こされた。


 (祝詞を詠もう。)

 パタは、今では何も考えなくても口からスラスラと出てくる祝詞を詠んだ。

そして、筒を投げ込もうとした時。また声が聞こえた。

『祝詞を』

(今詠んだじゃないか。)

筒を投げ込もうとするが、どうも気が乗らない。

(もう一回だけ詠んでみるか。)

祝詞を詠む。チラリと何かの情景が浮かんだが、いつもの癖で心を閉ざし、ただ最後まで詠むことに集中する。

詠み終え、今度こそ筒を投げようとした、その時。

湖の中の自分と目が合った。5、6歳の少年の姿になった。

瞬間、流れた情景、記憶、喜び、悲嘆、そして喪失感。

パタは声をあげて泣いた。

幼い日に蓋をした感覚。逃げた日々。

自分の記憶なのか、遠い昔の記憶なのか。混乱しながら、でも、逃げてはいけない、と直感的に感じた。今逃げたら、一生逃げ続けることになる、と。


自然と祝詞がまた口をついて出てくる。

祝詞に込められた意味、祝福、祈り。悲願とも言える、切実な願い。

パタは、何度も何度も、何時間も祝詞を詠んだ。声が枯れるまで、涙が枯れるまで。


どのくらいの時間が経っただろう。

パタは、残った力を振り絞り、筒を湖に投げ入れた。

筒はしばらく湖に浮かんでいたが、突然、何かに引っ張られるように、湖の底に沈んでいった。

パタはそれを静かに見ながら、再び、湖の中の自分と目を合わせた。


『錫を。』

パタは錫を鳴らした。

シャン・・・シャンシャン・・・

錫の音が鳴るたびに、15歳の自分の中で、何かが解け、無理やりに築いていた壁が崩れるのを感じた。

錫を続けて鳴らす。

湖の中の5、6歳の少年が錫が鳴るごとに姿を変えていく。

そして、いつしか、15歳の今の自分の姿へと変わった。


(あぁ、あの場所に、約束の場所に行かなくちゃ。)


夢はいつも、喪失感で終わっていた。

しかし、祝詞を何度も詠み、そこに込められた真実な思いを受け取った今は、喪失感の先にある希望を見つけた。

水滴は弾け、広がり、そして、いつしか虹がかかっていた。

あの場所で終わったわけじゃない。祝詞に込められた真実を伝えないといけない。


筒が浮かんできた。筒の蓋が開いている。


(あぁ、流れたんだな。)


(帰ろう。しかし、へとへとだ・・・・)

パタは湖に映る自分に微笑んだ。

体は疲れているが、希望を見つけたから。

本当の自分を見つけた。


その時、空に大きな虹がかかった。

『約束の虹だ』(約束の虹だ)

『(行こう、約束の場所へ)』



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