第7話 腹黒王子に操られる可哀想な事務官


 朝の会議が始まって数分。

 私は震える手で、先ほど配られた新しい資料に目を通していた。



 

 な……なんなの、これは!?



 

 その資料はこの会議で1番重要な予算案だというのに、計算間違いだらけのひどい出来栄えだった。



 

 パッと見ただけでおかしい数字になっているのがわかるのに、これを作成した人はまったく気がつかなかったというの?

 こんな資料を殿下に提出してしまうなんて……!

 

 朝一には間に合わないというから事前確認できなかったけど、しっかりチェックするべきだったわ。

 このままじゃ…………あっ!



 

 チラッとジョシュア殿下に視線を送ると、ちょうど殿下が資料を静かに閉じているところだった。

 会議の途中で資料を閉じるということは、もうこの会議を続けるつもりがないということを意味する。



 

 あああ……やっぱり!



 

「……この予算案は誰が作ったのかな?」

 

「あ、私が」


 

 作り笑顔を浮かべたジョシュア殿下の質問に、小太りのカール子爵が手を挙げた。

 褒められるとでも思っているのか、カール子爵はやけに自信満々な表情でジョシュア殿下を見つめている。


 

「そうか。これはカール子爵が……」

 

「はい! 私は昔からこういった計算が得意でして、今回もぜひ私がやりましょうと率先して動いてですね……」


 

 意気揚々と話すカール子爵を、ジョシュア殿下はニコニコと優しく微笑みながら眺めている。

 その笑顔が偽物だとわかっているのは、この中では私とトユン事務官だけだ。



 

 殿下……すごく怒っているわ。みんなはどうしてあの禍々しいオーラに気づかないのかしら?

 爽やかぶったあの王子スマイルに騙されすぎでは?

 きっともうすぐ……あっ。



 

 カール子爵から視線を外さないまま、ジョシュア殿下が左の指でコンコンと小さく机を叩いた。

 何も知らなければただの動作だと思われるその行動には、隠された意味がある。



 

 あの合図は……!



 

 私は自分の目の前に座るトユン事務官をチラッと見た。

 同じタイミングでこちらを見ていた事務官と目が合い、周りに気づかれないくらいの最小限の動きでお互いコクッと頷く。



 

 トユン事務官……出番です!



 

 カール子爵の話がまだ続いている中、トユン事務官がコホンと軽く咳払いをして席を立った。

 

 その瞬間、会議室の空気がピリッと凍りつく。

 会議に参加していた人たちは不安そうにトユン事務官を見上げ、陽気だったカール子爵もピタリと話すのをやめた。



 

 ……まぁ、こんな空気になるわよね。



 

 温厚なトユン事務官が立ち上がっただけで、怯え出す人たち。

 なぜなら──



「ありがとうございます。カール子爵。……ですが、この資料はいったいなんですか?」


 

 普段のトユン事務官からは想像できないほどの低く冷静な声に、容赦のない冷めきった目。

 視線を向けられていない私ですらゾッとしてしまったほど、恐ろしい空気が流れている。


 

「……え?」


 

 先ほどまで輝いていたカール子爵の顔は、今では真っ青になっていた。


 

「ここも、ここも。なぜこんなに間違いが多いのでしょう?」

 

「え。そ、そんなに……」

 

「まさか気づいていなかったのですか? 私でも初見ですぐに気づきましたよ。よくこれで計算が得意だなんて言えたものですね」

 

「あ、あの……トユン事務官、もも申し訳ございま……」


 

 嫌味満載で詰め寄られているカール子爵を、参加者たちは見て見ぬふりだ。

 下手に庇って要らぬ火の粉を浴びたくないからである。



 

 ……トユン事務官、冷徹な役がだいぶ上手になりましたね。

 もっと徹底的に詰め寄れと殿下に怒られて、嫌味を言う練習をたくさんしていたのが懐かしいわ。


『このおバカさんが!』

『計算ミス⁉︎ 次からは気をつけてくださいよね⁉︎』

 

 などと、下手な罵倒しかできなかったのに、よくここまで……。

 おかげで、今では最強の冷徹事務官として名が広まっておりますわ。



 

 本来、トユン事務官は虫も殺せぬほどの心優しい穏やかな人だ。

 人に文句を言ったり、追い詰めたりなど絶対にしない人。


 そんな事務官がなぜこんなことをしているのかというと、貴族たちを押さえつける悪役が必要だったからである。

 

 ジョシュア殿下は、臣下の前では外見も内面も完璧な爽やか王子を演じている。

 そのため、そんなジョシュア殿下の腹黒部分を代弁する役が必要だったのだ。



 

 まさかそれが心優しいトユン事務官になってしまうなんて、お気の毒というか本当に殿下ってば意地が悪いというか……。



 

「もう結構です。あなたはこの企画から外れてください」

 

「そっ、そんなっ……!」


 

 トユン事務官が目で合図を送ると、入口に立っていた警備兵がカール子爵の腕を掴んでズルズルと引きずっていく。

 何度見てもこの光景には胸が痛む。



 

 ああ……また1人辞めさせられてしまったわ。

 あの腹黒王子のせいで。



 

 ジョシュア殿下は、まるで『俺には何もできない。ごめんね』というような困った表情を浮かべながら、カール子爵を見送っている。



 

 まあ。あんなに悲しそうな顔をしちゃって。

 さすが、臣下の前では心優しい王子の仮面をしっかり被っているわね。

 きっと心の中では『うるさいな。早く出ていけ』とでも思っているに違いないわ。



 

 カール子爵が部屋から追い出される瞬間、ジョシュア殿下の口角が一瞬だけ上がったのを私は見逃さなかった。


 

「では、会議を続けましょう」


 

 トユン事務官の掛け声に、その場にいた全員がピシッと背筋を伸ばす。

 あんな場面を見ては、誰もカール子爵の件に触れたりはしないだろう。みんな何事もなかったかのように会議を再開している。



 

 この1件で、またトユン事務官の冷徹ぶりが噂されてしまうわね……。

 可哀想な事務官……。

 

 でも、みんなトユン事務官に怯えすぎじゃないかしら? 

 ジョシュア殿下のほうが、もっと嫌味ったらしくて小言もうるさいわ。

 氷のような目や声だってもっともっと恐ろしいのよ?

 

 落ち込ませる言葉だけじゃなくて、こっちを苛立たせる言葉もたくさん言ってくるし、精神的苦痛は何倍も多いと思うわ。

 殿下のことを麗しの完璧王子だと思っている方々に、ぜひとも一度あの恐怖を味わっていただきたいものだわ。



 

 会議の記録を取りながらチラッと殿下を見ると、思いっきり目が合ってしまった。



 

 わっ! 考えてることがバレた!?

 ……まさかね。



 

 うっすらと口角を上げたジョシュア殿下の笑みに気づかないふりをして、私は慌てて議事録に目を移した。

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