まだ見ぬ未来へ 3

 広間は、やや低い位置の縁台に向かって、緩やかな段差になっていた。ちょうどミュートの下にある演台は、まさにこの大神殿の中心とも呼べる場所だった。


 楕円形に広がる演台には、一つの背の高いテーブルもあった。木製のテーブルには氷星が刻まれ、水差しと銀のコップが置かれていた。


 人々は演台に向かってゆくアズナイの姿に気づいた。


「ちょっと、アズナイ殿だ、静かにしろ」

「喋るよ、アズナイさまだよ」


 そんな声が至る所から飛んできた。


 アズナイは演台に立って、両手をテーブルに載せた。広間は静まり返り、誰しもが口を結んで目を広げ、アズナイを見つめている。


 女神ミュートの足元で、アズナイは首をゆっくりと回して人々を見ていた。


 まるで、ひとりひとりの顔を、今一度確かめるかのように。


 時間が止まったようだった。――見えない結晶が人々をまた、縛り付けてしまったように。


 リティは少し不安すら覚えた。まさかアズナイは言葉を忘れてしまったのではないだろうか。


 ――しかし、アズナイの顔は少しも弛むことなく、その真剣な目と沈黙によって雄弁に語りながら、じっと人々の顔を見ていた。


 リティにもその目が向けられた。その視線には願いと覚悟の熱が凝縮されているようだった。


 アズナイは一度、すうと目を閉じた。


 にわかに人々からざわめきが起こる。


 アズナイはわずかに顎を上げて、目を開いた。青い瞳――まるで彼の結晶の魔法の象徴とも思われる青い瞳に、燭台の灯りがともっていた。


 そしてついに、アズナイは唇を開いた。



「長い旅でした。――本当に」



 その一言だけだった。つぶやくような声だが、不思議なほどよく通った。


 人々からどよめきが起こった。やがて人々は口々に、思いのたけを語りはじめた。


「――長かったな」

「生きて、ここまでこれたな」

「アズナイさまのお陰です!」

「母ちゃん……」


 人々の中ですすり泣く声が聞こえてきた。リティの隣の兵士は、顔に手を当てて、うめき声を上げた。



 アズナイは毅然と背を伸ばし、強い眼差しを人々に向けて続けた。


「そうです。本当に長い旅でした。しかし。――しかし驚くべきことに。この旅はまだ、今もって終わってはいないのです」


 人々はまた静まり、驚きのため息と眼差しをもって、アズナイへ注目した。


 アズナイは根を張るように両手をテーブルに載せて、前のめりに語りはじめた。


「私たちはあの、氷の年を生き延びました。不幸にも、旅の途中で亡くなった方もいました。それに、この私の結晶の中で亡くなってしまった方もいました」


 そこでアズナイは言葉を切り、頭上を見上げると目を閉じた。


 人々からまた、どよめきが起こる。


「アズナイさまー!」

「アズナイ殿!」

「あなたは、よくやられました!」



 アズナイの頬に涙が光った。


 やがてアズナイは顔を前に向け、目を開いた。――涙をなんら恥じてはいないようだった。それどころかより力強い眼差しをもって、また人々に語りだした。



「見てのとおり、私は一介の人間です。

 このような私を信じ、ついてきてくださったことに、感謝しております。

 そしてまた、私の旅もまだ、終わってはいないのです。

 ――みなさん。みなさんはまた、旅に出なければなりません。

 私はまた、みなさんにお伝えするのです。

 旅に出よ、と。

 ――この聖地に至る旅も、困難と、あやふやさの旅でした。本当に……。

 けれど、あれほどの道を、私たちは歩んできたのです。驚くべきことに。

 そしてまた、私たちはこの北の果ての聖地ファナスより、旅に出なければなりません。

 かの静寂の女神ミュートが。慈悲深き母なるミュートが、そうしたように。

 この世界を甦らせるための、新たな旅へと!」



 広間には拍手と歓声が轟いていた。


 人々は目に涙を浮かべ、手を打ち鳴らし、声にならない声を上げていた。抱き合う者もいた。


 あるいは、唇を結んで、じっと天井に目を向ける者もいた。



「長すぎだよ。旅って言うけどさー。まだまだ終わんないね、これじゃ」


 とメイナがぼやいてきた。リティは答えた。


「旅は終わらないんだよ。だいいち、いつはじまったのかも、わかんないけど」



 アズナイは汗だくになり、演台を後にした。リティは駆け寄ると、アズナイの右手を取った。


「アズナイさま! 疲れました? 大丈夫ですか?」

「ふふっ。ああ、これくらいは、なんでもないよ。それより、これからだ。――すべては、これからだよ」


 左手にはメイナが飛びついて、


「あっちに、干し肉とか乾燥チーズがあるよ! マクアのお粥も作ってるみたい。それとさー、アズナイさまも、レスリングしてみなよ。レガーダのとこで!」

「ははっ。食べ物のほうはありがたいな。明日からはまた、旅がはじまるから。力をつけないとね」



 宴は夜遅くまで続いた。アルガーダが地の底に潜り、シェイテが囁く深更になっても、大神殿の火は消えることがなかった。


 アズナイは王家や貴族の集まりのほうへ歩いていった。


 リティは内心びくびくとしながら、メイナと一緒についていった。


 十人ほどの兵士は、いずれも兜をかぶり、鎧を帯び、腰の剣に手をかけていた。


 奥には、白銀の王冠を戴いた、精悍な男が簡素な椅子に座っていた。白髪まじりの金髪に、同じ色の髭を蓄えていた。額や頬には皺が目立った。


 その男――王の周りにはよい生地のチュニックを着た人々が、喜びと不安の混じった表情で佇んでいた。


「王家の人たちは、あんまり騒いでないねー」と言うメイナにリティは答える。

「そうねえ。こんな、いろんな人たちと一緒だと、怖いんじゃないかなあ」

「なんで? 偉いんでしょ?」

「――そうねえ。きっと、玉座がないからじゃない?」

「そうなの? よくわかんないや」


 そのとき、手前の兵士はアズナイに気づいたのか、背筋をいっそ伸ばして、「アズナイ殿です!」と、重大な報告のように言った。


 周りの兵士もガチャガチャと鎧を鳴らせ、アズナイを見て首をぐいと下方に向けた。――略式の敬礼だ。


 貴族たちはひそひそと話をし、恐ろしい者でも見るようにのけぞった。


 アズナイはそのまま進むと、椅子に座る王冠の男の前に行って、ひざまずいた。


「陛下……。我らがレイゴルム王よ。――先ほどは、あなた様を差し置いて、お騒がせいたしました。平にご容赦を賜れますよう」


 すると、王は咳き込んでから、手すりに手をかけて立ち上がった。とたんに侍従がその体を支えにきた。王は前に歩み、アズナイへ手を伸ばしながら言った。


「アズナイ殿……。結晶のアズナイよ。そなたは……。頼む。顔を上げてくれぬか?」

「もったいないお言葉です。それでは……」


 そう言ってアズナイは王へ顔を向けた。


「そなたに、計りしれぬ恩を受けたな。まことに、感謝をしても、しきれぬほどの。追って、望みの褒美を――いや、謝礼を贈らせてほしい。領土と、それから王都での宮殿も……」

「重ねて、このアズナイの身に余るお言葉です。陛下。まずはそのお気持ちを、謹んで、ありがたくいただきます。――そしてですが」

「うむ。申してくれ」

「そして、このたびの人々の救済を成し遂げたのは、二人の魔法使いなのです」

「ほう。話は聞いておる。アズナイ殿の、弟子だとか……」

「ええ、さようです。卒爾そつじながら、二人をここに呼んでも、宜しいでしょうか?」

「もちろんだ」

「それでは」


 するとアズナイは片膝をつけたまま振り返ると、「おいで、二人とも」と手で招いた。


 リティは驚いてメイナを見た。メイナは目を広げて「え」と声を上げたが、すぐに嬉しそうに歩き出した。


 リティは礼儀作法を思い出しながら、メイナの少し後ろについていった。


 メイナはアズナイの左に、リティはアズナイの右にひざまずいた。


「さ、陛下にご挨拶を」


 その声にリティは、床石を見ながら声を絞り出した。


「灰の魔法使いの、リティです」


 続いて左方からメイナの声がした。


「灯りの魔法使いの、メイナです」


 すると、王の優しい声が上から聞こえた。


「リティ、メイナ。頭を上げてくれぬか?」


 リティは顔を上げて王の顔を見た。皺に埋もれそうな顔をにこやかに綻ばせて、


「ありがとう、二人とも。私たちも含め、人々が救われたのは、二人があってこそだ。――そして、アズナイ殿の言う通り、なにもかも、これからだ。――二人とも、これからも王国に、力を貸してくれるか?」


 リティは戸惑いながら「はい、謹んで」。メイナも「はい!」と言った。


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