まだ見ぬ未来へ 2

 マレナは切なげな表情で、兜を見下ろしていた。


「ええ、そうですね……。そうしましょう」


 マレナはふう、とため息をついてから、


「まずは、リティさんとメイナさん。

 お二人は本当に死力を尽くして、人々のためにことを成し遂げましたね。

 あなたがたのような、まだあどけなさを残す少女が。

 素晴らしいことでした。その勇気と信念に、この上ない畏敬の念を抱きます。

 ――そうですね。こうなれば、氷の年のことを、お話しせぬわけには、いかないでしょう。

 ――氷の年。それは、王妃セレミアの愚行の末路でした。

 セレミアはわずかながら魔法の素養があったにも関わらず、その力を磨くこともせず、貴族の家でぬくぬくと暮らしていました。

 それは、フォレイグと少しでも、一緒にいるためだったのです。

 フォレイグは、セレミアの幼なじみでした。

 たとえ貴族のパーティーで、どんな王子や騎士がセレミアを誘おうとも、彼女の瞳の中にはフォレイグしかいませんでした。

 ずっと年上の王の元に、捧げられるように嫁いだ後も……。

 セレミアは慣れない宮廷生活と、王家内のいびりに晒され、痩せていきました。それでも、両親たちの立場を危うくしないよう、小鳥でいることに務めたのです。

 日々の食べ物に苦労するような人々からすれば、なにを贅沢な、と思われるでしょう。けれどセレミアは、贅沢な生活も、孔雀の扇も要りませんでした。

 欲しいのは、ただひとつだったのです。

 ――ある嵐の日、セレミアはフォレイグに伝えました」


 そこでマレナは口ごもり、静かに首を振った。


「セレミアは、逃げて、と伝えました。私を連れて、逃げて、と」


 そこでリティは尋ねた。


「その話は。――氷の年とどう繋がるのですか?」


 セレミアはうなずいて、


「そうですね。そこからです。二人は馬を駆って、夜をついで逃げました。向かった先は、北の果てです。――北の聖地ファナスに行けば、すべてを変えられると思っていたのです。愛とは人を盲目にさせるものです。フォレイグは警備隊を騙し、潜り抜け、ついに大神殿へと、セレミアを連れてきたのです」


 そこでリティは、「待ってください」と話を遮った。


「いくらなんでも、騎士団長ともあろう人が、そんなに極端な行動に出るのですか? いくら愛だと言っても……」


 するとマレナは悲しそうな目をして、


「セレミアは、愛の魔法使いでした。幼い頃から愛に飢え、それゆえ愛を求めたのでしょう。フォレイグは、その魔力の虜になっていました。セレミアほど罪深い人間はいないでしょうね。

 ああ、セレミアは氷の祭壇の秘密を、宮廷で耳にしていました。王家の秘密の多くを……。

 セレミアは氷の祭壇に呪文を唱え、ミュートの力を解き放ちました。――魔法の力と、その呪文が合わさったとき、秘められた氷の魔力が天に昇り、世界を凍らせるのです。それはミュートが古代に、この王国を築くために使った力なのです」


 メイナはマレナに詰め寄って、大きな声を出した。


「氷の年は、王妃が起こしたの? そういうことなの?」


 マレナは目を閉じて顎を上げて、「はい」とつぶやいた。


「あれほどの。あんな大変な災害を。ひどいよ…………」

「そうです。――その通りなのです。

 はじめは、追っ手や王家に対する脅迫だったのです。大神殿からは人を追い出して、使者には手紙を持たせました。

 聖地で密かに二人で暮らすことができるなら、氷の魔力を止めると。

 そして、その答えがもたらされました。――いっときの罠だったとしても。

 もう王家は、セレミアたちに手出しはしないと。

 それからセレミアは、氷の祭壇に向かって、魔力を止める呪文を唱えました。

 たしかに、唱えたのです」


 そこでマレナは両手で顔を押さえて、うずくまった。震える涙声で、マレナは続けた。


「魔力は止まることなく、一層強くほとばしり、天を凍らせていきました。

 呪文が間違っていたのかもしれませんし、祭壇を制御するための魔力が、足りなかったのかもしれません。それはわからないのです。世界はいよいよ冷たくなっていきました。

 ――そんなある日の朝、フォレイグは神殿の外の雪の上で、凍った血の上で倒れていたのです。きっと、心が耐えられなくなったのでしょう。首には深い傷があり、手には短剣が握られていました。

 そして。――そしてセレミアはフォレイグを埋葬すると、崖から身を投げたのです」


 マレナはそこまで語ると、顔を上げてリティとメイナの顔を交互に見た。


「セレミアは、北の果てで永遠に呪われながら、世界の行く末を眺めることでしょう。自らの罪と、後悔の中で…………」


 そのとき、神殿のほうからある気配が近づいてきた。――どうやら、結晶から蘇生した一人のようだ。その中年の男はアズナイを見て、声を上げた。


「あの、お取り込み中に、申し訳もありませんだ。用意ができたみたいで……」


 アズナイは彼に近づきながら、


「ありがとうございます。――そうですね、こちらもそろそろ、切り上げなければ」


 リティが再びマレナを見ると、マレナは墓石の上にある兜に向かって屈み込んで、その兜に両手で触れていた。そして、愛おしむような声で言った。


「あなたの魂は、きっと、慈悲深きミュートの傍で、安らいでいることでしょう。そして私は、ずっとこの聖地で、さまよっているのです。――罪の行く末を、欲望の行く末を、永遠に、見守るのです。それだけが、私の…………」


 声はやがて、雪を撫でる風のように細くなっていった。マレナの姿も薄くなり、粉雪へと溶け込むように消えた。


 最後にリティの耳には、こう聞こえた気がした。



『いつか、あなたがたも、愛を知るでしょう。――愛は狂おしく、悲しいもの。そして、切なくも、温かいもの。魔法使いたちよ。その多くの愛を。可能性を。繋げるのです。運ぶのです。さあ』



 雪道を戻っていくと、アズナイは通用口ではなく、大神殿の正面へと向かった。


 リティはメイナと並んで、アズナイへとついていった。


 大神殿の大扉は開け放たれており、大扉の周囲には人々が集っていた。


「アズナイさま!」


 と両手を広げて職人風の青年が大声を出した。


「ミュートの恵みをー!」


 と今度は別の老婆が満面の笑顔で右手を挙げた。アズナイは人々を見渡して、


「お待たせしました。集まりましょう。いまこそ広間へ!」


 そう言うとアズナイは大股で、雪の上をずんずん進んでいった。


「え、待ってよー、アズナイさま!」


 とメイナも追いかけてゆく。大神殿の広間にはやはり、大きな三神の像がある。等間隔に配置された燭台には油が満たされ、炎が立ち昇っている。


 広場には人々がぎゅうぎゅうに詰めかけ、手に食べ物やコップを持って、大騒ぎをしている。


「偉大なるミュート!」

「祝福を!」


 そこらじゅうから神々を讃える声が聞こえてくる。


 誰しもがアズナイに声をかけ、水や食べ物を勧めてくる。


 奥のほうには兵士たちに囲まれた、王家の者や貴族たちもいる。


 どこから引っ張り出したのか、ワインの匂いまでする。誰かが大声でアルガーダを讃える歌をうたいだすと、周りもそれに合わせて手拍子をし、足を踏み鳴らした。


 メイナも小踊りしながら笑っている。


「ねえリティ! ラーニクの春のお祭りみたいだよ! いやっ、そのもっともっと、凄いやつ!」


 レガーダ像の下では、半裸の男たちが力比べをしている。頭や体を真っ赤にして、両手を組み合っている。


 野太い声援がこだまする。


「レ、ガーダ! レ、ガーダ! レ、ガーダ!」


 メイナは嬌声とともにその一団に駆け寄ると、同じように掛け声を上げはじめた。


「レ、ガーダ! レ、ガーダ! レ、ガーダ!」



 世界中の祭典を集めて、かき混ぜたような狂騒の中で、たしかに人々は生きていた。


 リティは彼らの旅について思う。


 凍えゆく薄暗い世界を、アズナイを信じて。ミュートの厳しさと優しさを信じて。長い旅をしてきたのだろう。――それは答えのない、賭けのようなものだったはずだ。それでも人は、歩き続けた。幾重もの困難を乗り越えて、その果てで今日という日にたどり着いたのだ。


 リティはそんな人々を導いた、アズナイの背中を見る。


 誰しもがこの、輝く白髪と青いマントを追いかけて、未知へと旅を続けてきたのだろう。


(わたしは、こんな魔法使いには、なれないんだろうなあ)



 すると、アズナイがくるりと振り向いてきた。リティの近くまできて、こう言った。


「リティ。これからの話を、よく聞いていてくれ。――それから、メイナ。おーい、メイナ」


 すると、メイナが男たちの壁の中から顔をのぞかせた。


「え? なに? いいところなんだよ!」


「今から話をするから、よく聞いているんだよ。いいね?」

「はーい。わかったよ……」


 と、メイナはしぶしぶといった様子で、リティへと近づいてきた。


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