聖地にて 4
祭壇にかけた左手から流れ込んでくる黒い波は、体を通って右手へと抜けていった。その先にはアズナイの左肩があった。
甚大な力を介しているというのに、流れる先があることで、波は一定のリズムを持って流れていくようだった。
もちろん、頭痛もあった。
頭痛のことに捉われると、その都度、余計に痛みが増した。けれど、力を抜くと少し頭痛はおさまった。
『そうだ、ゆっくりでいいんだよ。リティ……』
右手の先から、そんな声が聞こえてくるようだ。まさしく右手の先には、アズナイがいた。
『自分の魔法に、怖がらなくていいんだよ。それは、リティの力なんだから。そうだろう? リティ……』
リティはアズナイの声を聞きながら、長い綱の上を歩くように、慎重に波を流していく。
波は性質というか、色を持っていた。人の色と、結晶の色は違う。波の色を操って送り込む。
――そんなとき、結晶たちの中からざわめく声が聞こえてくる気がした。
「どうした? なにが起きてる?」
「怖い。殺される……」
「やめてー! 結晶と一緒にばらばらにされる……」
気がつくとリティは、暗闇の中にいた。暗闇の向こうに、結晶の海が広がっていた。
次第に結晶の中から、黒い煙のようなものが立ち昇ってくる。それらはリティの近くへと漂ってくると、最後に獣の形をとった。
グルルルルゥ……
無数の黒い獣がうなり声を上げて、リティへと迫ってくる。
それでもリティは身動きひとつせず、灰の魔法に集中した。――いや、身動きなどはできない。すでに増幅された灰の魔法が結晶へ流れはじめている。ひとつ間違えば、人の生命に関わるのだ。
*
メイナは落ち着かない気持ちで、両手に汗を握ってリティが集中する様を見ていた。
そのとき、結晶の一部に白い筋が入るのを見た。
「リティ、続けて……! 灰の魔法が、届いてるよ!」
しかしリティの異変にも気づいた。リティの顔が苦しそうにゆがめられ、呼吸も浅くなりはじめた。
「どうしたの? なにかあったの?」
とはいえ、この状況で返事など返ってくるわけはない。それに、いたずらに話しかけても、リティの集中を乱し、危険なだけだ。
(どうしよう……。リティ、なにが起きてるの?)
リティの引きつった顔を見ていると、その表情の中に、底しれぬ恐怖があるようだった。
メイナは反射的にリティの近くに腰を下ろした。
どうすべきか迷っていたものの、半ば思いつきながら、リティの背中に右手を置いた。
途端に右手が重たくなる。
(うわっ、これが、リティが流している、魔法の重さ)
それでもその重さを受け入れて、メイナは目を閉じた。
――メイナは暗闇の中に、不思議な情景が広がっているのを見とめる。
辺り一面に青白く輝く結晶が並んでいる。その結晶の一部――およそ数十の結晶からは黒い煙のようなものが出ており、リティの目の前へと伸びていた。リティは煙の先にいる、黒い獣たちに囲まれていた。
(あれって、スティラさんに襲われたときの……。そうだ。あれは、リティの恐怖だ……。人々の恐怖とリティの恐怖が、共鳴してる……?)
黒い獣たちは低くうなり、駆け出した。
リティは黒い獣を見て、心底怯えたように震えている。
「リティー! 怖がっちゃだめ! 恐怖に飲まれたらだめなんだよ…………。リティ!」
どうしよう、とメイナは焦った。
(これじゃ、スティラさんみたいに。心が食べられちゃうよ……。そうしたら、結晶の中の人が……。どうすればいいの……?)
そのとき、暗闇の向こうでなにかが、きらりと光った気がした。それは遥か遠くの都市にそびえる、天を突くような塔だった。塔の頂から、その光が見えたのだ。
『おまえさんは、運んでいくんだ…………わしらの灯りを。王都の火を。運んでいけ。おまえさんは、灯りの魔法使いなんだろう?』
ローデンさん、アルガーダ。とメイナはつぶやく。
(そっか。あたしは、灯りの魔法使いだったね。それにさー。あのとき、リティが教えてくれたんだよね)
メイナの眼下の闇の中で、黒い獣に取り囲まれたリティが、縮こまって震えている。
メイナはそんなリティに向かってつぶやいた。
「闇なんて、ふつうなんだよ。――ね、リティ?」
メイナは両手を顔の前に重ねた。そして心の中に氷星を描いて、灯りを放ちはじめた。
*
リティは遠くに浮かぶ結晶を見据えながらも、眼前にひしめく無数の獣たちに圧倒されていた。
獣たちは乱杭歯を光らせ、赤黒い歯茎を剥き出して、赤く血走った目で迫ってくる。油で濡れたようなじっとりとした黒い毛皮。鼠の住処のような腐った臭い。そんな瘴気を漂わせて、獣たちが取り囲んできていた。
(結晶へと灰の魔法が流れているんだから! 心を落ち着けないと。乱したらだめだ!)
そう自分に言い聞かせながら、リティはあまりの恐怖に背中を丸めて後ずさりする。
そのとき、一番先頭の獣が飛びかかってきた。リティは獣にのしかかられ、体勢を崩した。
すると闇の向こうで、結晶に大きなひびが入り、誰かの叫び声がした。
「うわー! 痛い……。体が……痛いー! バラバラにされるーっ!」
リティの心臓の鼓動がどんどん早くなってくる。
(だめ……! 魔法の均衡が崩れる。壊れてしまう。――殺してしまう! これじゃ……)
獣たちは調子づき、さらに間合いを詰めてきた。
ハッ、ハッ、ハッ、ハッ…………
獣たちは舌を出し、短く荒々しい呼吸をしている。興奮し、いっそ血に飢えている。
獣がもう一匹飛びかかってきて、リティの腕を噛んだ。リティは腕を振ってなんとか獣を払う。
腕を見ると噛まれた箇所が白くなり、皮膚が灰となって下に落ちていった。
(なんで、私の体が灰になるの?)
――魔法に心が食べられる。
その言葉がふいに、リティの頭の中に浮かんだ。
(そうか……。心が自分の魔法に食べられるって。こういうことなんだ……)
そのときのことだ。リティの頭上に甲高い音が響いた。見上げると、角ばった青い、不思議な紋様が闇に浮かんでいた。
それは巨大な氷星のシンボルだった。
氷星からは白い光が溢れてきた。
リティは目を細めて、氷星の光が辺りに満ちてゆくのを見た。
光は獣たちを照らし、無数の結晶を照らした。するとなんと、獣たちは尻込みをしはじめた。
やがて獣たちは正気を取り戻したように大人しくなり、尻尾を丸めると、煙のようになって、結晶の中へ吸い込まれていった。
最後にリティは、目の前に小さな、黒い犬が佇んでいるのを見つけた。その犬は怯える瞳でリティを見上げてきた。
その犬のことは覚えている。幼い頃に、突如襲いかかってきた黒い犬だろう。
(ああ、私はこの子を。――この子の頭を、灰にしてしまった……)
リティはびくびくとしながらも、右手を差し伸べて、ゆっくりとその犬に近づいていった。
「ごめんね。痛かったろうねえ。わたしは、あのとき、びっくりしちゃってさあ。ごめんね……」
すると犬は、くう、と小さな鳴き声を上げて、まばゆい光とともに消えた。
気がつくと、リティの周囲には静かな暗闇が広がっていた。その先には、青白く光る結晶の海が広がっていた。
リティの心の中に、ある閃きがあった。
その言葉。――それはもしかしたら、古い本で読んだ言葉だったかもしれない。あるいは、メイナと歩いてきた、旅路の端々に落ちていた言葉だったかもしれない。
リティはただ、心の中に訪れた言葉を口にした。
「――すべては闇より生まれ、長い旅の果てにまた、闇へと戻るなら。――わたしはそれを運ぶものになろう。命はやがて、
顎を上げて右手を前に差し伸べる。
「わたしは運ぼう。この灰の魔法を……」
リティの右手から、黒い波が幾重もの螺旋を描き、爆発的な奔流となって飛び出した。
奔流はますます広がり、数百もの結晶たちのすべてを包み込んだ。硬質な音が立て続けに響く。――幾千もの氷霊がキリキリと同時に鳴れば、同じような音の空間を作り上げるかもしれない。
繊細に調律されたリティの波は、結晶のみを破壊する振動とともに放たれたのだ。
人々を覆い隠す結晶は、ことごとく砕けていった。
闇の中に鮮烈な光を放ちながら、結晶たちは舞い上がる青白い灰となった。
リティは薄れゆく意識の中で、それらの光の乱舞を見てつぶやいた。
「これって、賭けに勝ったのかなあ? メイナ……アズナイさま……。ねえ……」
海の匂いがする。細波の音。
リティの目の前には、白く小さなミラナクが咲いている。――花の匂いと土の匂い。
「リティ、ここにいたのかい。風邪を引いちゃうよ。起きないと……」
顔を上げると、父親の茶色いズボンが見えた。リティは腕を張って、地面を押してゆっくりと立ち上がる。
空には白い雲と太陽が浮かんでいた。
父親の背後には丘からの眺望が広がり、海原が続いている。
「どうした、リティ。寝ぼけているのかい?」
父親は柔らかい笑顔を見せた。
「さあ、引き返さないと。道を戻りなさい」
そう言って父親は、リティの背後の、丘をくだってゆく道を指さした。
「まだおまえは、ここへきてはいけないよ」
「お父さん。わたしは……。いえ、アズナイさまや、みんなは、どうなったの? それに、お父さんは……」
「私のことは、なんでもないんだよ。元気にやっていくよ。気にすることなんて、ないんだ」
「どうして? なにがあったの?」
すると、父親はふと眉を寄せて切なそうな表情をした。
「リティ。私は、だめな父親だったな」
「――どうして?」
「すまない。リティ。おまえが、あんなに苦しんでいたのに。才能のことで。――リティ、私は、簡単なことが、できなかったな」
「お父さん……」
「本当に、すまなかったよ。おまえに、謝れないまま……なんて。嫌だったんだ。簡単なことだった……」
すると、父親は両手を広げて、リティの体を包み込んできた。
「私は、こうすることが、できなかったんだよ。リティ、怖くって。おまえの悲しみを、抱きしめるのが…………。リティ……!」
父親は洟をすすり、震えていた。リティの頭に息がかかってきた。
リティは腕を伸ばして、父親の体へしがみついた。
「わたしだって。怖かったよ。お父さんに、拒まれるんじゃないかって。それがっ。怖かったんだよ。お父さん…………」
波の音が寄せては返し、風が丘を吹き抜けていく。一羽の鳥が横切っていった。
やがてリティは開放された。
「リティよ。もう行かないといけないよ」
「どうして?」
「おまえは、もっと人の、役に立てるんだから。あのアズナイ殿に、約束しただろう?」
「――うん。わかってる」
父親は強くうなずくと、真剣な表情で言った。
「おまえが、あの才能を授かったのは、おまえや、みんなにとって、必要なことだったんだ。それが、いまならわかるよ。――リティ」
「お父さん。わたしは…………」
「リティ、偉大なる灰の魔法使いよ。私の誇りよ! ――さあ、新しい世界へ!」
父親はいよいよ、力強く右手を掲げて、リティの背後を指さした。
リティが振り向くと、そこには雪山の斜面が見えた。
その斜面を、さまざまな取り合わせの人々が降りてゆく。兵士や町人、農民や職人、子どもや貴族たちの大行列だ。
ミルガの町には人々が詰めかけ、街道には旅人が往来する。
その先には王都が見える。
吟遊詩人は長い冬の歌を奏で、兵士や人々は喧騒の中を歩く。
森のふもとのラーニクの町では祭りの準備がはじまり、白い髪の魔法使いがそれを見ている。
町外れの家の扉の先には、読みさしの本がまだ、開かれる刻を待っているのだ。
聖地にて おわり
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