聖地にて 2

 暖炉に火が入ると部屋の中が暖かくなった。メイナは暖炉に手をかざしながら、


「まさか、聖地でまた魔法石の火に当たれるなんて。思ってもみなかったよ!」

「たしかに、生き返るよ。手もかじかんで……。もう、凍えそうだったから」


 と、リティは手袋やケープを暖炉の前に吊るした。靴は暖炉の前に置いた。


 メイナも同じようにしながら、


「足がもうさー、感覚がなかったんだよ。――あの吹雪! もうあたしは、あんな思いするの、嫌だね!」

「本当にそうだよ。わたしもそう思うよ」



 ひと息ついた後、マレナは神殿の地下室を案内してくれた。そこは食糧庫みたいな、ひんやりと涼しい部屋だった。


 天井からは干し肉と干し芋が吊るされ、奥の棚には布に包まれた、大きな乾燥チーズが置かれていた。壺にはマクアの粒が並々と詰まっていた。隣の壺には黒麦の粒が入っていた。


「こ、これは、夢かもしれない……」


 メイナは目まいすら覚えながら、それらの光景を見回した。そこにマレナの声がした。


「神殿では、兵士や神職の者が多く働いていましたので、相応の食料があるのです。けれどいまや、こんな状況ですから。――お好きなようにお使いください」



 メイナは暖炉の前のテーブルで、木のコップの黒麦茶をすすった。かちかちの干し芋をかじり、ゆっくりとその甘さを味わった。


 リティも上機嫌な様子で、干し芋にかじりついていた。



 そんな中で、頃合いを見計らったかのようにマレナは言った。


「さて、落ち着かれましたか? ――もっとも本来なら、ひと眠りでもして、休んでいただきたい所ですが」


 メイナは口元を袖で拭うと、


「ありがとう! 本当にありがとう、マレナさん。もう、十分だよ。それに、あたしたちにも、聞きたいことがあるし」



 マレナはゆらりと動いて、テーブルを挟んでメイナとリティの前にやってくると、話しはじめた。


「メイナさん。リティさん。実のところ、あるものを見ていただきたいのです」

「あるもの?」とメイナは尋ねた。

「ええ……。あれを見せずに、語るべき手立てもありませんから」

「そ、そうなの? なにか見るものがあるなら、見てみるよ。それでさー、あたしたちも、知りたいことがあって」


 マレナは深くうなずくと、含みのある様子で言った。


「おそらく、それらの答えも得られるでしょう。さて、行きましょうか。――慌ただしく、申し訳のない」



 こうしてマレナはまた、透明な服の裾をたなびかせ、床の上を滑るように進んでいった。メイナたちもその後ろをついていった。


「お二人とも。どうか。……どうか、驚かないでください」とマレナは移動しながら続ける。

「実のところ私は、あの光景をお見せするのが、怖いのです」

「なんなの? その光景って……」とメイナが尋ねた。

「すみません。――これはもう、見ていただくほか、ないのです。形容しようのない、あまりに入り組んだことなのです。ですからどうか、しかと心を落ち着かせて…………」



 神像の広間に戻ると、マレナはミュート像の背後の、壁付近へと進んでいった。


 その壁には古びた黒い金属質の扉があった。


「すみませんが、開けていただけませんか? 私はすり抜けられるのですが……」


 マレナの言葉を聞いて、メイナは鉄の金具を引いた。さほど重たい扉ではなかった。――その先にはトンネルのような通路が続いていた。


 そこまでくるとさすがに暗くなり、メイナの灯りなしには歩けなかった。


 次第に、通路の先にほのかな光が見えてきたようだ。青白い不思議な光だった。マレナは言った。


「間もなくです。そこが、祭壇の間です」



 リティはメイナに続いて通路を出た。


 その先には、青白い光に覆われた広大な空間があった。マレナは『祭壇の間』と呼んでいたが、聞いたこともなかった。どんな本にも書かれていなかったはずだ。広間の天井や壁には、荒々しい氷が敷き詰められていた。


(まさか……。原初の氷? 女神ミュートが産まれたとされる。――いや、わからない)


 そのとき前方から、メイナの声が聞こえた。


「え? なにこれ…………。なんなの?」


 リティはその声に驚いて足早に進んでメイナの横に並ぶと、その光景を目の当たりにした。


 はじめに見えたのは、辺り一面の結晶の海だ。広間の入り口から奥にかけて、結晶の塊が岩盤のようにひしめいて床を覆っていた。


 それに、最奥には石櫃せきひつのような、四角い物体が置かれていた。


「あれは、氷の祭壇です」とマレナは言った。


 氷の天井と壁に囲まれた広大な空間に、このような結晶の海と謎の祭壇があることなど、リティには理解できなかった。それにマレナは『氷の祭壇』だと言った。そんなものも聞いたことがない。


 ――そればかりではない。


 本当に恐ろしいのは、床一面にはびこる結晶の中身だった。


 リティは膝を震わせて、「まさか……。どうしてこんな!」と声を荒げて崩れ落ちた。


 正味、結晶の海の中には人間が閉じ込められていた。


 それも、十や二十ではない。数え切れない、おそらく数百もの人々が、祭壇に向かって座り込んだまま、固まっていたのだ。


 メイナは振り返り、涙ながらに言った。


「リティ。なんなのこれは! 教えてよ。ねえ……」

「わからない。こんなの、わかるわけないでしょ!」


 すると、傍にいたマレナがすうと近づいてきて、


「魔法使いたちよ。まだです。まだ、見なければならないものが、あるのです……」


 リティは顔を上げてマレナを見た。


「まだ……って?」

「ええ」とマレナはうなずいた。

「まだ、あなたがたは、見ていないのです」

「だから、なにをですか? ――こんな、悪夢みたいな光景のほかに、なにがあるって言うんですか?」

「祭壇を。――氷の祭壇を見てください。ああ……」


 そのときリティは、別のことを考えてもいた。結晶の海を見ながら、心の奥から湧き上がってくる疑問を口にした。


「メイナ。――これって結晶だよね」

「う、うん。氷じゃないみたい」

「たぶん、アズナイさまが、関係しているかも……」


 メイナは眉を寄せて、うなずいた。


「たしかに、魔法の結晶だよ……。あたしたちを、守ってくれたみたいな……」


 そのときまた、マレナの声がした。


「魔法使いたちよ。旅の果てに、なにがあるか、今こそ見るのです。祭壇の許に、なにがあるか。いえ、誰がいるのかを……」



 リティはメイナとともに、結晶の海を避けて回り込んで、祭壇のほうへと歩んだ。結晶の中には、実に様々な人々がいた。


 甲冑を着た兵士。町娘。貴族。老人。大工や職人めいた人々。ありとあらゆる人種が座り、互いに前方の人の肩に手を置いていた。その呪わしい、恐るべき連座の頂点には祭壇があった。


 そして、祭壇に最も近い結晶の中には、一人の人物がいた。


 彼は祭壇に両手を置いて座り込んでいた。彼の肩に二人の男が手を置き、そこから延々たる人々の連環がはじまっていた。


 まるで、彼が祭壇の力を使い、人々を結晶で覆っているかのようにも見えた。


 リティは震える足取りで、彼の前方へ回り込んでいった。


 短く刈られたつややかな白髪に、青いマントをはおっている。そんな後ろ姿を持った人物など、リティは一人しか知らなかった。


 リティは駆け出して、祭壇の前の彼に近づいていった。


「アズナイ……さま。――アズナイさま!」


 メイナも同じように駆けてくる。


「アズナイさまなの? 本当に……。そうだ、これは……。アズナイさま! ――――アズナイさまーっ!」


 リティはかがみ込んで、結晶の中のアズナイを見た。


 アズナイは右膝を立てて座り、目を閉じていた。眉が少し厳しく歪められている。その相貌はどう見てもアズナイその人のものだ。神がかった職人であっても、このような、生々しい人形を作ることはできないだろう。


 リティははたと振り返って、マレナを見上げた。


「マレナさん……。なにがあったか、話してもらえますね?」

「ええ、もちろんです」とマレナはうなずいて、

「アズナイ殿は、各地を巡り、人々を導いてきたのです。この大神殿に来られた際には、見ての通り、三百人を超える数になっていました」

「三百人……!」とはメイナだ。

「そうです。それらの人を引き連れて、アズナイ殿はこうおっしゃいました。『女神ミュートの救済を求めに来ました』と」


 リティはそこで尋ねた。


「救済とは、この光景なんですか?」

「それはわかりません。それでも私はアズナイ殿へ、知り得ることをすべてお話しました。この神殿のこと。食糧庫について。氷の祭壇について」

「氷の祭壇……」


 マレナはアズナイの前にある祭壇を見た。祭壇とは呼ばれているが、実際にはまるで、石の棺のようでもあった。横と上には大きな氷星が刻まれていた。祭壇自体の大きさは、ちょうど人間が入れそうなくらいだった。リティは心の片隅で、


(まさかこの中に、女神ミュートがいるなんてことは、ないでしょうね……)


 そんな空恐ろしいことを考えて、体を震わせるのだ。マレナは続けた。


「この氷の祭壇こそが、この聖地の中心でもあるのです。元々は、氷の魔力の源だと伝わっていました」

「氷の魔力?」

「そうです。王家の、秘められた伝承だったのです。この祭壇は、ミュートの力を秘めた、魔力の根源。――それを私は、アズナイ殿にお伝えしました。そのときにはすでに、この祭壇から氷の魔力が天に放たれたあとでした。そのせいで、ますます世界は寒くなっていたのです」


 リティはその言葉を聞いて、食い入るように尋ねた。


「ちょっと待ってください! もしかして、それは……」

「世間では、氷の年、と呼ばれました。この祭壇の暴走のことを」

「なんですって? 氷の年? 氷の年は、この祭壇によって起こされたんですか?」


 マレナは後ろに下がり、うつむいた。リティは詰め寄る。


「なにか言ってください。――世界を氷漬けにして、滅ぼした。――あの災厄は、やはりこの聖地から訪れたのですね? それは、女神ミュートの意思なのですか? ――マレナさん!」


 マレナは押し黙っていたが、やがて顔を上げた。


「あまりに、衝撃的なことだろうと思います。――しかしさほど、時間も残されていないのです。残念なことに。いまは、救える者を、救うべきときだと思うのです」

「え……時間? どういうことですか?」

「結晶に閉じ込められた人々の、顔を見てください。日に日に衰えているのです」


 リティはアズナイの顔を覗き込んだ。たしかに以前よりも頬がこけ、唇が青くなっていた。


「アズナイ殿は、気づいたのです。氷の祭壇には、あらゆる魔法を増幅させる力があることに」

「増幅、ですか?」

「そうです。そこでアズナイ殿はご自身の結晶の魔法を、人々に放ちました。見てのとおり、連なった人々へ……。しかしおそらく、その力が強すぎたのです。そのため、氷の年が終わったというのに、いまだに結晶には、ひびひとつ入りません。場合によってはもう、今の時点ですでに、蘇生が難しいかたもいる可能性があります。――――たしかに、結晶がなければ、氷の年を乗り切れなかったでしょう。しかし、まさかこんなことになるとは……」


 リティは振り返って、人々を見回した。怖気に襲われながらもマレナへ尋ねた。


「いったい、このままだと、どうなるんですか?」

「それは、魔法使いであられる、あなたがたが詳しいとは思いますが。このままでは、というよりも、もうすでに、体が腐りはじめている方もいます。――日に日に、なのです」


 そのとき、メイナの声がした。「ちょっと、これ……」


 メイナは少し先のほうで、結晶の中の人物を指さしていた。そこには、ひとりの少女が眠るように座っていた。


 リティは身を乗り出してよく見た。――少女の顔は異常なほど青ざめていた。口元は歪み、肌は土色だ。たしかに生きているのかも、定かではない。


 マレナもそれを見て、口元に手を当てた。


「生命力の弱い者から……。ああっ……。なんてこと…………」


 そこでリティは言った。


「まさか。アズナイさまの守りの結晶が、いまは人を閉じ込める、牢獄になってしまっているなんて……」



 リティはうろたえながらも、再び結晶の海を見渡した。


「この人たちが、このまま亡くなってしまうの……? まさか。そんなこと……!」


 そのとき、結晶を見渡すリティの心に電撃のようなものが走った。


 なにか、驚くべきものを見た、という直感があった。


 やや遠目ではあるが、リティは結晶の一点に目を向けた。



 ――そこには、リティの母親がいた。


 母親は簡素な緑色のチュニックを着て、前の人の肩に手を載せて、祈るように目を閉じていた。


「お母さん……。お母さん!」


 そう言ってリティは身を乗り出すが、人々を包む結晶を乗り越えていくわけにも行かず、離れたところから声をかけ続けた。


 それにどうやら、母親の周辺にはリティの故郷の何人かもいるようだった。


「どうしたの?」とメイナが近づいてくる。

「あそこに、お母さんがいるの!」

「え? 本当? ……そうなんだ。よかった、のかな? ――そっか、リティのママは、アズナイさまについてきたんだ……」

「――うん。そうみたい」

「でもさー、あれ? リティのパパは?」


 リティははっとして、母親の周囲を見渡した。しかし、父親の姿は見えなかった。リティは首を振った。メイナは言った。


「そっか……。仕方ないよ。大変な災害だったし。きっと、どこかで生きているよ」


 リティはがっかりと肩を落とした。そこで同時にリティは、自分の独りよがりさを後悔した。


「ごめんね、メイナ。――あなたは、お母さんだって亡くなっているし。お父さんだって、どうなっているのかわからないよね。なのにわたし、自分のことばっかり言ってたね……」

「ううん。それより、あたしも探してみようかな。パパ、いるかも知れないや」


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