聖地にて
聖地にて 1
白雪の情景の中に、大神殿は砦のようにそびえていた。
メイナは顔を上げ、口をぽかんと開けてその威容を眺める。
全体としては、二層からなる巨大な寺院とも呼べる佇まい。薄灰色の外壁に囲まれ、全体としては角ばった構造だ。
広大な下層は台座のように山へ腰を据えている。
上層は、いわば四角柱の塔のような構造で、天に向かって伸びていた。
塔の正面上部には、端正に彫り込まれた巨大な氷星が見える。――各地で見られる氷星の意匠は、歴史の中で装飾され、洗練されてきたものが多い。
一方で大神殿で見られる氷星は、世界のいずれの氷星よりも原初的な、簡素かつ武骨な意匠であった。――塔の正面を飾る氷星もその類に漏れず、女神ミュートそのものを彷彿とさせる、厳格で素朴な彫刻となっていた。
メイナは目を白黒させながら大神殿を眺め回し、やがて視線を下方に向けた。
大神殿の正面には両開きの縦長の扉があった。どんなゴーレムでも堂々と入れそうな大扉には、植物や氷の結晶をモチーフとした、細かな装飾が施されていた。そうした装飾は、ミュートの女性や母性を感じさせるものでもあった。
リティはずっと黙っていた。――ケープを氷雪で真っ白にしたまま、口を唖然と開いて固まっている。
「ついに、ここまで来たね」とはじめに声を上げたのは、メイナだった。「ねえリティ。ここまで、来たんだよ……」
リティはうなずいた。
「わかってる。――ついに、ね」
「どうする? 入る?」とメイナが尋ねると、
「うん。行こうよ」とリティは歩きはじめた。
扉の前までくると、リティはふいに振り返って、斜面から見下ろせる、遠大な大地に目を向けた。メイナも同じように、リティに並んで世界を見渡した。
あれほど吹き荒れていた吹雪は、やはり魔法の類の産物らしく、斜面の気候は穏やかだった。おかげでミルガの町を克明と見下ろせた。
ミルガの先には街道が伸び、森や町や砦、山地や湖。実にさまざまな地形や建造物が遥か彼方まで続いていた。
一番先にはメイナたちが暮らしていた、ラーニクの森らしき影がぼんやりと見える。
「ねえ、たぶんラーニクの森は、あっちだよね」メイナは夢見心地の気分で言った。
「きっとね……」
「あんなとこから、ここまできたなんてさー、信じられる?」
「ううん。信じられないよ。わたしたち二人で、こんなところまで……奇跡としか、思えない」
「あ、王都のお城や、塔も見えるよ!」
メイナは大きく手を振る。
「ローデンさーん! 生きてるかー!」
ローデンの返事の代わりに、こだまが返ってきた。メイナはそれを聞いて、肩を揺すって笑った。
「ひひひっ、よく響くよ。リティもなにかやってみなよ」
「わたしはいいよ。それより」
「ん、それより?」
「やっぱり、人の気配がさあ。ないんだなって」
「そっか。そうだね」
メイナは火の消えたような気持ちで世界を見た。これほど張り巡らされた街道には人がおらず、家々の煙突は一筋の煙も吐き出さない。
リティぐるりとふり仰ぎ、大神殿を見た。
「この聖地に。――大神殿に、なにがあるの? 氷の年の答えが、あるっていうの?」
「リティ……」
「アズナイさまは、本当にここに、来たのかなあ」
「わかんない。わかんないよ、あたしなんかにはさ」
「――ごめん。そうだよね」
「行こう。行ってみようよ」
メイナは自分の言葉を確かめるようにうなずくと、ついに大扉に向かって足を踏み出した。
大扉の中央には、鉄の輪がついていた。メイナは手袋のままの手を伸ばすと、右側の扉の輪を引いた。
「うぐー! 重いー! 開くの? これどうなの……」
「手伝うよ」とリティも並ぶ。
しばらく格闘していると、ぎぎ、とわずかに大扉が動いた気がした。
「いけるよ。このまま、開こう!」
メイナは足を踏ん張り、全力で扉を引く。――やがて、なんとか人が入れそうなくらいの隙間ができた。
メイナは濡れそぼった手袋を外し、手袋を大扉の脇に置いた。ふやけた右手を掲げると灯りをともして、扉の中へ足を踏み入れた。
「気をつけて」
とリティが心配そうに言った。
「わかってる。リティも、横とか後ろとか、気をつけといて」
メイナは内部に入ると、右手を持ち上げてさらに灯りを強くした。――とはいえ、明かり取りの窓から光が差し込んでいることもあり、思ったよりも明るかった。
そこにメイナのオレンジ色の光が加わり、神殿の内部は複雑な光彩と陰影が広がる空間となっていた。メイナは右手の灯りを消して、内部を見渡した。
「レガーダ……!」
思わずメイナはその名を呼ばずにいられなかった。
まずはじめに見えたのは神々の巨大な石像だ。中央にはミュート像。左手にはアルガーダ像。右手にはレガーダ像が屹立(きつりつ)していた。
ミルガの小神殿も似た様相だったが、迫力と神威がまるで違った。
ミュート像の前には演台があり、左手奥に巨大なオルガンが見えた。
一方で、普通の神殿にあるような、人々が腰掛ける座席はなかった。異様に広大とも呼べる石床のホールに、ただただ巨大な石像が立ちはだかっているのだ。
「すごいよ。レガーダ……レガーダ!」
メイナは興奮して、神々の像を食い入るように見た。
女神ミュートはローブをまとい、慈悲深くも厳しい表情をしている。広げた右手は世界の創造を現し、胸前で握った左手は、原初の氷の冷たさを現している。
太陽神アルガーダは豊かな頭髪に穏やかな表情を浮かべ、背中に光輪を背負っている。下方にかざした右手は、生命への恵みを現し、掲げた左手には炎を持っている。
「おおレガーダ……! 完璧すぎる…………」
最後にメイナはそう言って、レガーダ像に歩み寄り、目をつむって手を組んで、ひざまずいた。
「斧もて
メイナはじっと瞑目していた。
やがて祈りが十分にレガーダへ届いたと思える頃合いに顔を上げて、あらためてレガーダ像を見た。
レガーダの見開かれた目は、明々と世界を見つめている。右手には厳かに装飾された斧。左手には綱を持っていた。――これは、獅子を従える手綱でもあり、旅人を助ける命綱でもあった。鋼の肉体はさらに堅牢な鎧が守っていた。
リティの咳払いが聞こえてきた。
「もう、気は済んだ?」
メイナは振り返ると、「……まだ、これからだよ」
そこで別の、ある女性の声がした。
「珍しいことがあるものです。この北の果てにお客さまとは」
メイナの耳に飛び込んできたのは、そんな女性の声だった。――声はゆったりと落ち着いていながら、どこか悲しみを帯びていた。
「え? なに? リティ、なんか言った?」
「違うよ」とリティは首を振る。
「これは、驚かせてしまい、申し訳もありません」
メイナはその声のほうを見た。するとそこに、神殿の奥の通路の影から、ひとりの女性が歩んできた。
「え、ちょっと。なんだかあの人……」
とメイナはうろたえながら目を広げる。なぜなら、その女性の体が透き通っていたからだ。背後にある神殿の柱や壁が透けて見える。
女性の服装はと言えば、白地のチュニックの上に、水色の袖なしのサーコートを着ていた。神殿の使用人のようでもあるし、貴族の娘のようでもあった。
メイナはリティと顔を見合わせた。リティは引きつった表情で、「え、またお化け……」とつぶやいた。
女性は石畳の上を、滑るように近づいてくる。
「どうか、驚かないでください。私はマレナという者です」
「マレナ、さん?」とメイナは聞き返す。
「はい。それにしても、あなたがた……。このような世界を生き延び、聖地までやってこられるとは……。もしや、魔法使いのかたでしょうか」
「え? うん。魔法使い、です。あたしはメイナ。で、こっちはリティ」
「そうですか……。よかったら、お話をさせていただけませんか? そのご様子だと、吹雪のせいでひどくお疲れのようですので……。まずは温まり、休息されたほうがよいでしょう。お茶と、いささかの食べ物もありますので」
メイナたちはマレナについていった。
マレナは広間を横切り、奥の部屋に入っていった。そこは神殿の使用人が使うような、暖炉のある部屋だった。
棚とベッドがあり、暖炉の脇には小さな木箱が置かれていた。
「そちらの、箱を開けてみてください」とマレナは言った。
「え? なに? なんだろ……」
メイナはおそるおそる木箱を開けた。――すると、中には整った形の平石が十個ばかり入っていた。また、石にはアルガーダを示す円輪が描かれていた。
「え、これってもしかして!」
「おや、ご存知ですか? 魔法石です。なにぶん、木などの燃えしろを入手しづらいため、神殿の者は魔法石の火を使っているのです。もっとも私には不要なものですけれど」
「魔法石を普段から使うの? それは贅沢だね!」
そう言いながらもメイナは暖炉に魔法石を置くと、右手をその上に突き出した。
灯りを出して魔法石に重ねると、早くも火の筋が立ち昇りはじめた。
「本来は、そこの小皿に載せることで、火をつけるのですが……。まさか、魔法石を直接燃やせるなんて……」
マレナは戸惑いながら、暖炉の横の銀色の小皿を指さしていた。きっとその小皿に魔法石を載せると、火がつくのだろう。
メイナは困ったように頭を掻いた。
「そっか、当たり前になっちゃってたよ……。灯りの魔法が魔法石に共鳴して、火を熾せるみたいなんだ」
「そうですか……。そんなことがあるものなのですね。――まこと、ミュートの恵みには、人の知り得ぬ深さがあるようです……」
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