ふつうの闇 3

 メイナは痛みと暗闇の中、静かな心持ちでいた。絶望も諦観もない。ただ、心の中に生まれた、ひとつの確信を抱いていた。


 メイナはスティラに反論する。


「あなたの魔法のことは、わかってるんだよ。――スティラ、あなたの魔法って、獣の魔法じゃないんだよ」

「だからなんだ?」

「恐怖の魔法だよね?」

「だからどうした。それを知ったからといって、どうにもならんわ。まさに、私の魔法は恐怖。そして私は、おまえの恐怖を。もっとも恐れるものを見切っている。それは……闇だ! 暗がりだ! それはこの深層の中で、とくと確かめ、確信している。心の中の恐怖に克つことなど、なんぴとたりとも、できはせん。ゆえにそのまま闇に、食われるがいい……」


 体を取り巻く影は更にきつくなり、ギリギリと締め付けてくる。骨が軋んで肺から空気が絞り出される。体の中に闇が入り込んでくる。すべてが飲み込まれつつある。理性や心でさえも。


 メイナはそれすら構わずに言った。


「闇なんて、ふつうなんだよ……」


 すると、心なしか影の戒めが弱まる感じがした。


「闇なんて、溢れているんだよ……」


 首に絡まる影が緩んだようだ。


「闇を、どうして怖がる必要があるの?」


 影がメイナから剥がれてゆく気配があった。影は縮こまり、ほどけた縄のように落ちた。


「どういうことだ⁉︎」とスティラの声が響く。


 メイナは両腕を上げて、額の前で手を交差させる。


「あたしは、闇をごまかしてきたよ。――今までは。でもさー、わかったんだ。闇をなくすことなんて、できない……。だって、世界は元々、闇の中なんだよね」


 メイナの脳裏に、薄暗がりで本を読むリティの姿が見えた。それに、担がれて攫われた、かつてのメイナ自身の姿も。母親や、父親。ローデンやライリ。あるいはアズナイの姿も。あらゆる者が闇の中にいた。


 ひとときの灯りに憩い、照らされ、導かれることはあっても、世界の大元には闇がある。ミュートは闇の中で世界を作り、闇の中で生命を包み込んでいる。――それが、メイナが確信した真実だった。


「みんな、闇の中にいるよ。――すべてがさ。だから。だからこそ、闇の中であたしは、灯りをともす。闇を拒むんじゃなくて。闇の中を進むために……。そうだ…………これがあたしなんだ。あたしの魔法なんだっ!」


 メイナは額に掲げた両手に意識を向ける。不思議な耳鳴りがする。体じゅうが暖かく震える。その温もりが両手に集まる。すると、これまでに見たことのないような、真っ白な光が手から放射されはじめた。


 地に落ちた影の塊は、烈日に炙られたミミズのようにのたうち、消えていった。


「ああ……うあーーっ! この光は…………」


 断末魔ともおぼしい、スティラの甲高い声が響き渡る。


 光はメイナの世界に溢れ、大地や森や空をどこまでも白く染め上げていった。洞穴の先にある真夏日のように、世界を明々と作り変えていった。


 メイナがふと目覚めたとき、暗闇の中にいた。――今度こそ紛うことのない、現実の石床の冷たさが頬の下にあるようだ。


 メイナはしばし、自分がどこにいるのかを考えた。暗闇と石床――そうだ、砦の地下の部屋にいるはずだ。リティと一緒に逃げ込んできた後、影に襲われて気を失ったはずだ。



「うーん、あーよく寝た……」


 うめき声まじりにそう言うと、リティの声が飛んできた。


「メイナ! 大丈夫っ? 目覚めたの?」


 メイナは闇の中で体を起こして中腰になると、右手に灯りをともした。


 リティはまだ、扉に体を押し付けていた。


「なんとか言ってよ、メイナ!」

「えっと、いま、どういう状況?」

「どうもこうも、さっきメイナが倒れてから、わかんないけど、1分くらいは経ったかなあ。それから、ずっと声をかけてたんだよ。部屋も真っ暗になっちゃって。気が気でなかったんだから」

「へー、1分くらい……。そんな短いの? あんなに長かったのに……」

「なに言ってるのよ。それより、さっき扉の向こうから、すごい叫び声がしたよ! スティラって人のだと思うけど」

「そっか。――やっぱり、繋がってたんだ」

「どういうこと?」

「とりあえず、話はあとだよっ!」


 メイナはそう言うなり立ち上がると、リティへと近づいた。


「扉を出よう。さっき、夢の中みたいなところで、戦ってたんだよ。ね、リティ、ちょっと、扉を開けて確かめたいの!」

「え……」


 戸惑うリティを半ば押し退けて、メイナは扉を開いた。


 通路に出て右手の灯りをかざすと、すぐそこに赤い塊が見えた。――赤いローブ姿のスティラが床にうずくまって、苦しそうに頭を押さえている。


「うう……。この私が……」


 メイナの気配に気づいたのか、スティラはフードに包まれた頭を上げた。フードの下にはくすんだ茶色の髪が乱れて、顔を覆っていた。痩せこけた頬に、目は炯々とした不気味な光を帯びていた。


 メイナが灯りを向けると、スティラの両目に黒い炎がうねっているように見えた。


 スティラはぜいぜいと肩で息をしており、顔は汗まみれだ。


「私の魔法が……。私の恐怖が。貴様のような、小娘に。こんな追っ手に……。追っ手などすべて、葬ってきたのに。どうしてこんな……。くそっ…………」


 リティの声が後ろから聞こえた。


「どうなってるの? っていうか、どうするの?」


 メイナはスティラを見ながら、リティへ答えた。


「わかんない。――けど、この人も。食べられそうになっていたのかも」

「食べられる?」

「うん。心が、もしかしたら、自分自身の魔法に……」

「なるほどねえ。魔法に心が食べられる、か。聞いたことがあるよ。よく知ってるね……」

「リティが教えてくれたんだよ」

「えっ? そうなの?」

「そうだよ」


 メイナはスティラへと近づいていく。スティラはびくりと体を震わせて、右手を持ち上げる。魔法を放とうというのか。


「く、くるな……」


 しかしスティラの手は力なく震えるだけで、なにも起こりはしなかった。うめき声を上げて、後ろに体を引き摺っていく。メイナは穏やかな声で言った。


「あたしは、追っ手なんかじゃないよ。偶然、ここに立ち寄っただけなんだよ」


 スティラの表情から、敵意が薄まったように見えた。メイナはさらに近づいて、スティラの目を見た。


 瞳の中の黒目に重なって、黒い炎のような影がうねって蠢いている。


 そこでメイナは、灯りを放つ右手を持ち上げると、スティラの眼前へ、ほぼ触れるくらいまで近づけた。


(さっき、夢の中で闇を乗り越えたように。スティラさんを救えるかもしれない。――もしかしたら!)


 メイナは右手に意識を集中させ、スティラへと光の波を送り込む。それは、暗闇から逃げるための灯りではない。


 アルガーダがあまねく生命のために輝くように。レガーダがその雄叫びで旅人を励ますように。メイナはスティラのために、ひとつの灯火ともしびになろうとしていた。


「スティラさん。どうか、元に戻って……!」


 メイナはひときわ強い灯りを注ぐ。スティラの悲鳴が砦の地下に響いた。




 メイナたちは砦の屋上に出た。森を見渡すと、西の空がほんのりと赤らみはじていた。


 スティラは石壁のへりに腰掛けていた。風にはためく赤いローブの背後に、森と空が見える。ローブのふちには、金色の細かな刺繍が施されていた。


 フードを跳ね上げたスティラの長髪は、くすんだ茶色をしていた。髪が風にあおられて、目元があらわになる。その瞳には、澄んだ黒曜石のような黒目が輝いていた。


「私は国に追われる身でね」スティラは遠い森を見下ろしながら続けた。

「王家に反抗的な連中の仕事を請けたのが、いけなかった」

「仕事?」とメイナは尋ねた。

「そうだ。私は金ずくで仕事を請ける、便利屋みたいなことをしていたんだ。――しまいに、国から追っ手がかかるようになってね。私は逃げながら、この恐怖の魔法で戦い続けた。――恐怖の魔法ってのは、やはり、魔法使い自身を蝕むものさ。それは、わかっていたよ」

「スティラさん……」


 メイナは思わずスティラへと近づいた。けれど、触れることはなかった。


「思えばそのときにはもう、食われかけてたんだろうね。森に隠れ住んで、追っ手どもと戦う日々……。私は正味、強かった。本当だよ、お嬢ちゃん。あんたには負けたけどさ」


 メイナは複雑な表情でうなずいた。


「それで、気がつけばどんどん寒くなって。そういや、追っ手の誰ぞも言っていたよ。氷の年がくるのに、いつまでも、こんな生きかたをしている場合か、って。――長い冬が来てからは、この砦の地下で、残った油だのを細々と使って、生き延びたのさ。そして地下の生活の中で、私はやがて自分の恐怖に食われた。――どうだい、因業な話だろう?」

「そんなことが。――スティラさんが、そんな思いをしてきたなんて……。悲しいよ……」

「ふっ、よしてくれよ。私は、あんたたちを殺そうとしたんだよ」


 メイナは首を振って、


「違うよ。スティラさんの中の、恐怖の魔法が暴走しちゃったんだよ。そうだよね?」

「やれやれ。とんだ甘ちゃんだね。あんたたちは、どこの師についた?」

「アズナイさま、だよ」

「へえ、結晶のアズナイが、弟子を取ったというのは、本当だったのか」


 スティラはしばらく、感心したようにじろじろと見てきた。


「なるほど、それなら私の恐怖を下した理由が、腹に落ちるってもんだ。やつの弟子なら、仕方ない。そういうことにしよう」


 するとスティラは石壁のへりから降りて、ローブの裾の埃を払った。


「さて、日も落ちてきたな。――今夜は、我が砦を宿とするがいいさ。ついておいで、アズナイの魔女たちよ。――いくばくかは、食べ物もある」



 スティラは屋上からの階段を降りていった。


 メイナがリティを見ると、あっけに取られた表情をしていた。


「わたしだけ、まだ全部わかってないみたい。説明してくれると、嬉しいんだけどさあ」

「わかってるよ。それより、なにか、食べ物をくれるみたいだよ!」

「……もう、なによそれ」


 メイナはスティラを追って、下り階段に足をかけた。日が傾いて階段が暗かった。


 そこで右手に灯りをともすと、ぐるりと振り返り、リティに声をかけた。


「ほら、足元、気をつけてね。暗くなってきたからさー」


 リティの瞳の中には、小さな灯りが映っていた。



 ふつうの闇 おわり


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