ふつうの闇 2
*
「ねえ。起きなよ。そんなとこで、寝てないでさあ」
メイナはうつ伏せで眠っていたようだった。顔だけ横向きになっており、目の前には幼い少女がいた。少女は青い大きな本を手にしていた。表紙には、銀色の糸で『氷星』の紋様が刺繍されていた。少女は言った。
「ねえ、どうしたの、メイナ……」
そこは、薄暗い森の中のようだ。空は
メイナは体を半分起こして、その少女に言った。
「うん。起きるって。でもさー、ここ、なんなの?」
そうして、戸惑いながらも付け加えた。
「リティ、なの?」
とはいえ、リティの姿はどうにも幼い。まるで出会った頃のように、顔も体も、伸ばしてねじった蜜パンみたいに細い。
「わたしは、待ってたんだよ。メイナがここに、帰ってくるのをさ……」
「待ってた?」
「そう。いつか、ここに戻ってくることは、わかってた……。でも、今は危険かも。あいつが、紛れ込んできたから。――ていうか、あいつに、引き込まれてきたみたいねえ」
そう言ってリティは両手で、青い本を抱き寄せた。
「なんかさー、暗いんだよね……」
メイナは不気味な森を見回しながら、右手を掲げた。いつものように灯りをともすために。――けれど暗いままだった。
「えっ。なんで灯りが出ないの?」
メイナは深呼吸をして、こんどこそ、と丁寧に右手へと意識を向けた。――それでも灯りが現れない。
「なんで? なんでなの?」
リティの声がした。
「たぶん、あいつが。影みたいなのが、なにかしてるんだと思うよ」
「あいつ?」
「そう。あいつが、この深層に、入ってくるのが見えたから。――もう、食べられはじめてるのかもねえ」
「食べられる? なにを?」
「メイナの心……」
「心?」
「うん。だから、魔法が使えないんだよ」
メイナは不思議に思って尋ねる。
「心が食べられると、魔法がなくなっちゃうの?」
「そう。心の中で、魔法の部分ってすごく脆いから。それに……」
「それに?」
「それだけじゃ、すまないと思う……。現実でも心や体を乗っ取られて。最後は…………」
その言葉が終わるや否や、少し先の地面で影が揺れた感じがした。
「え、なにか、いる……」
メイナが指をさすと、それに反応したかのように影は膨らみはじめ、やはり黒く長い布のような形となって伸びてきた。
「逃げなきゃ!」メイナはリティの肩に手を添えて走り出した。
地面を延々と蹴って、暗い森の中をどこまでも……。リティは本を抱えて懸命についてくる。
うんざりするほど走ると、やがて大きな岩を見つけた。メイナはそこに体を隠すと、
「ここまでくれば、いったん大丈夫かな……」
「そうねえ。まずは、引き離したみたい」
リティは森の木立へと振り返りながら、そうつぶやいた。
そこでメイナは思い出したように言った。
「そういえば、とにかくいま、大変なんだよ! なんでこんな所にいるのかわからないけど。スティラっていう魔女に襲われてさ! 獣の魔法使いみたいで……。そうしたら今度は、黒い布に襲われて! いろいろ夢みたいに……。あー、もう説明が無理!」
リティは小さな頭を傾けた。
「獣? 布? どっち?」
「え? 両方だよ! リティへは獣が襲ってきたんだけど。あたしには、布みたいなやつが!」
「へえ。そのスティラって魔女。なんの魔法使いなの?」
「だから、獣だよ。自分で言ってたもん。獣の魔法使いだ、って」
「ふうん。これから戦おうとする人が、そんなに正直なの? それにメイナは、黒い布に襲われたんじゃなくて?」
メイナは思わず「え……」と声を漏らした。リティは微笑して、
「魔法は、ひとり、ひとつだよ」
「わかってるよ。――敵は、二人いるのかな? でも、そんなことってある? わかんない。――あたしは、なにと戦ってるの?」
「もうわかっているでしょ。それは……」
リティは顔を上げて、暗い森を見渡しながら言った。
「恐怖だよ。メイナ。あなたの敵は、恐怖の魔法使い。――そうでしょ?」
メイナは口元を引きつらせて、思わず復唱するように、
「恐怖の、魔法使い……」
恐怖、という言葉を口にすると、それが確たるものとして心の中に巣食ってくる感じがした。
震える右手を見る。手を開いて灯りを出そうとするが、やはりなにも起きない。リティは言った。
「このままじゃ、灯りなんて出せないよ。そんなに怖がっていたら……」
メイナは思わず救いを求めるように、リティへと目を向けた。
青い本の表紙と、その中央に描かれた銀色の『氷星』が見える。銀刺繍はさながら、リティの髪を縫い付けたかのようだ。
氷星の高質な輝きが、暗い森でただひとつの明晰さのようにも思える。
氷星――中心で結合された氷の結晶たちが、八方に張り出すような図象。もっとも簡単に描くときは、十字の上に、四十五度ずらして、もうひとつ十字を描いてもいい。これほど単純な、それでいて完全な図象があっただろうか。
「本が、気になるの?」とリティは言った。
「ん、まあね……。本ていうか、氷星が、きれいだなって。銀色でさー」
リティは自身の本を左手で支え、表紙を重そうに開いた。一枚の白紙。そして目次。ついで、数ページをめくった。そこでリティは読み上げる。
「創世録。第二節。――原初の氷は無辺の暗闇より生じた。氷よりミュートは産まれた。ミュートは静寂とともにあった……」
リティは顔を上げて、「暗闇と氷と、どちらが先にあったのかなあ?」
「え?」メイナは顎に手を当てて、少し考えてから言った。「暗闇、かな?」
リティはなにも言わずに、今度はがばりと真ん中を開いた。それから、数ページをめくるとまた、読み上げた。
「氷霊異伝。第十六節。――ミュートは双子たるシェイテを、その息から作ったのだ。そして言った。シェイテよ、汝は夜風とともに、生き物の夜と死を導かねばならない……」
リティの声は心地よかった。繊細で透明な楽器の奏でる音楽のように響いてきたからだ。音楽は続く。ページをめくる音とリティの声が入り乱れて。
「氷霊異伝。第九節。レガーダよ、汝、斧もて
メイナは眉をぴくりと動かし、そこだけ少し憶えていたこともあって、口ごもりながら暗唱した。
「レガーダのとこは、憶えてるんだねえ」
リティはくすりと笑ってから、続ける。
「氷霊異伝。第四節。――星々の灯りを集め、呼びかけたのだ。アルガーダよ、我が弟にして、奇しき恵みをもたらす者……」
そこで「ん? 奇しき恵み……?」とメイナは首を傾げる。
突然リティが叫ぶ。「気をつけて!」
メイナが顔を上げると、岩場に迫ってきた影が見えた。影はまるで黒い油のように岩へ広がり、メイナの顔の横へと近づいてきていた。
「なんでっ? いやっ……」
再び影は、黒い布のように膨張し、襲いかかってきた。メイナの顔や頭を覆ってくる。
メイナは悲鳴を上げ、手を伸ばして影を必死に引きちぎろうとするが、剥がすことができない。
「やめて! 離して!」
黒い布は容赦なく頭を締め付けてくる。喉に絡んでくる。息ができない。苦しい。粘質なべっとりとした感触。泥のように冷たく重たい。
「恐れないで」リティの声がする。「世界を見て! 世界は……!」
メイナは暗闇の中で、意識や体の感覚が薄れてゆくのを感じていた。
(このまま、眠ってしまったら、どうなるの? ああ……それもいいのかな……。あたし、もう、灯りの魔法も使えないし。ねえリティ……。こんなに暗いのに、灯りが……)
メイナは影にまとわりつかれ、得体のしれない重さと痛みのため、意識も朦朧となりつつあった。
そんなとき、不思議なことに木の扉の映像が脳裏に浮かび上がってきた。はじめはおぼろげな幻想のようだったが、次第に扉の輪郭がはっきりとしてきた。
開いた扉の先には、銀髪の少女がベッドに座っていた。少女は本から顔を上げてこう言った。
「ふつうでしょ。これくらいの暗さなんて……」
メイナは薄れゆく意識の中でつぶやく。「ふつう……暗さ……」
なにかが引っかかる。なにかが繋がろうとしている。
ついで聞こえてきたのは、リティが朗読した一節だ。
『おまえはアルガーダ。我が弟にして、奇しき恵みをもたらす者』
(奇しき恵み、か。変なの。アルガーダ――太陽の恵みが、奇しきものなんて)
すると、どこからともなく女の声が聞こえてきた。
「灯りの魔法使いよ……」
メイナは驚いて、「誰?」と尋ねた。
「苦しいか。苦しいだろう。過去の闇は。クククク……」
「その声は、まさか……。スティラ……?」
「ああ……。私の魔法がいま、おまえをしかと捉えているぞ。こうなればもはや、抗っても仕方ない」
どこか狂気をはらんだその声は、たしかにスティラのもののようだ。現実世界から夢幻の世界に、魔法を通じて繋がってきているのだろう。
「あきらめろ……。これ以上抗っても、辛い思いをするだけだ。こうなれば、闇に身をまかせることが、幸せというもの……」
「闇に……身をまかせる? そっか……」
すると、リティの声が聞こえた。「ダメよ! メイナ!」
メイナは両腕をだらりと脇に降ろした。
「そうだ、それでいい。さあ、魔法使いよ。これから、おまえの心を余さず食べてやろう。それは存外と、おまえにとっても、気持ちのよいことなのだ…………」
メイナの顔や首には影が重くまとわりついている。いっそ影は大きくなり、頭全体や肩をも包み込んでくる。メイナはもはや抗うこともない。
スティラの声がした。
「いい子だ。それでいいぞ。すればすぐに、楽にしてやる。クククク……」
「メイナ! しっかりして!」リティの声が聞こえた気がした。けれど、メイナはぴくりとも動かない。
「メイナーッ! お願い……」
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