ふつうの闇
ふつうの闇 1
「きみの部屋は、ここだよ」とアズナイが連れてきてくれたのは、家の中の一番奥まった部屋だった。
メイナは辺りを見回しながらも、その部屋の前に立った。日が傾きかけており薄暗かった。
部屋の大きなベッドには麻袋と麻布が置かれていた。机と棚もあり、棚にはオイルランプが置かれていた。武骨な板張りの内壁に、魔法の訓練の計画表みたいなものが、ピンで留めてあった。
メイナは思わず息を飲んだ。ベッドの上には銀色の髪の少女が座っており、ちょうど視線がぶつかったからだ。少女は細い体に不釣り合いな青い装丁の分厚い本を、伸ばした足の腿に載せて読んでいた。
本の表紙には、女神ミュートのシンボルである氷星が描かれていた。
「その子は、リティだよ。――さ、リティも。本を置いてさ。今日から、このメイナと一緒に、暮らすんだよ」
すると、リティと呼ばれた少女は読みさしの本に銀色の栞を挟んだ。俯いた銀色の頭は、斜陽によって仄かに赤みを帯びて光った。メイナは言った。
「よろしくね。あたし、メイナ。灯りの魔法使い……みたいなんだ。もっと、明るくしたほうが、いいよ。なんか、暗くない?」
「ふつうでしょ。これくらいの暗さなんて……」と、リティは答えた。
「え、でも、よくないよ」
メイナは右手を掲げて、灯りをともそうとした。はじめは小さな灯りが明滅するくらいだったが、もう一度深呼吸をすると、オレンジ色の光がふくらんだ。
光は斜陽に抗い、温かくにじむように部屋に広がった。リティはぴくりと肩を動かして、驚いたように目を広げた。リティの二つの瞳の中に、光が宿っているのが見えた。
「これが、あたしの魔法なんだ。ごめん……。びっくりしたかな? あたし、暗いのが苦手でさー。なんか、怖くって……」
*
メイナが目を覚ますと、森の木立の向こうに朝日が輝いていた。昨夜は森の一画で野営をして眠った。目の前には焚き火があり、火は底のほうに小さく見えるだけだ。枕にしていた麻袋から頭を上げて、立ち上がった。
「今朝ねー、懐かしい夢を見たよ」とメイナは言った。リティはすでにバックパックの荷物の整理をはじめていた。
「なに? どんな夢?」
「うん。リティが、本を読んでたんだ」
「そう。ふつうじゃん」
「そうなんだよ。ふつうだなんだよね」
「さて、そろそろ行こう」
そう言って、リティはバックパックの口を締めた。
メイナはリティと共に歩き出した。森の先には、聖地ファナスの山峰が間近に迫っているのが見えた。
「ここまでくるとさー、街道って言っても、たんなる山道だよね」
メイナはぼやきながら、道の先行きを見る。細い石畳が敷き詰められてはいるが、木の根に押し上げられ、ぼろぼろになっている。
そんな心許ない街道をゆくと、突然古びた砦が姿を現した。森の一画を陣取るようにそびえる、灰色の石造りの砦だった。メイナはリティへと振り向いて、
「砦を発見! ちょっと、漁ってみよっかー」
砦の中は苔と乾いた石の匂いがした。さほど大きな砦ではない。一階には台に飾られた鎧や、古びた剣があった。入って右手の階段を登ると、そのまま屋上になっており、そこからは森の風景を、多少高い場所から見渡せた。メイナはがっかりとして、
「残念ー。何もないじゃん」
「さっき、地下への階段もあったよ」
「地下?」
「そう」とリティは続ける。
「左手にあったよ」
「いいね。そっちに行ってみよう!」
こんどは地下へと続く階段を降りていく。メイナは右手を上げて、灯りをともした。石壁の継ぎ目の、黒い細かな影がいやにくっきりと見えた。
「なんだか、気味が悪いね」メイナがつぶやいた。
「そうねえ」
階段はそのまま通路に続き、左右に二つずつ部屋があった。
奥の部屋から見て行こうとしたとき、背中から女の声がした。
「きさまら、追っ手の者か」
メイナは驚いて振り返り、灯りを向けた。
「やはり、きさまら、魔法使いだな!」
声の主は血の色のような赤いフードをかむり、同じ色のローブをまとっていた。その手にはランプの光がともっていた。
「誰……?」
リティの問いかけは途中でさえぎられた。女が右手を突き出すと、黒い霧の塊が現れた。その塊が動き出すとともに、徐々にある形をなしていった。――それは、黒い獣のような姿だった。
「なに? この獣……。こっちにくる!」リティは声を上げた。
女は不敵な笑みを浮かべた。
「そうだ。私こそが獣の魔法使い。このスティラ、追っ手などに遅れはとらん」
メイナはふと、相手の魔女――スティラの瞳の中に異変を見た。その瞳の中には、まるで黒い影が炎のように蠢いているようだった。
「いけない、逃げようっ!」
リティはそう言うと、ぐるりと振り返って砦の奥へと駆け出した。ついでに、メイナの腕も引っ張られた。
「ほら、メイナも早く」
「うん!」
後ろから獣の足音が追いかけてくる。
リティに引っ張られながら、メイナは右手の灯りを揺らして駆けていった。
石造りの地下に、騒々しい足音が響く。その反響の中でも、床石を蹴る獣の硬質な足音が際立った。
「こっち! 急いで!」
リティは息を切らせて駆ける。やがて奥の左手の部屋に逃げ込んだ。メイナもすぐ後ろを追った。
リティは部屋に入るなり木の扉を閉めて、そこに体重を乗せるように寄りかかった。
「メイナ! なにか武器とかないか、探して!」
「わ、わかったよ」
メイナが部屋の中を照らすと、四つのベッドの木枠が並んでいた。元々は兵士たちの寝所だったのかもしれないが、今では奇妙な墓場のようだった。
古びた木棚が見えた。そこにノコギリなどの工具があった。そのほか、武器になりそうなものは見当たらない。
そのときメイナは、棚の上に黒い染みのようなものを見つけた。影の塊のようなそれは、身じろぎするように震えた。
「え? ――なにこれ?」
そのとき影の塊は、突如として膨れ上がった。どういうわけか、影は黒く細長い布のような形を取り、黒い帯のようになって飛び出してきた。
「やだっ……」言い終える間もなく、伸びる影はメイナの頭に巻きついてくる。
「ちょっと、どうしたの?」とリティの声。
「もうー、わかんないよ! なんなのこれ!」
メイナは暗闇に包まれた。右手には灯りを掲げているはずなのに、完全な闇しかなかった。頭に巻き付くものに手を伸ばすが、引き剥がせそうもない。意識が遠くなる。体が冷たい石床にぶつかる。――世界が暗くなってゆく。
*
リティは全身の力を込めて扉を押さえながら、背後のメイナに目を向けた。突然、メイナの体が揺らぎ、床に崩れ落ちる。
「大丈夫? どうしたの? メイナ!」
リティの声が部屋に響く。しかし、メイナからの返事はない。黒い塊がメイナの顔を覆い、まるで生き物のように彼女の中へと入り込んでいく。メイナの右手から放たれていた灯りが、ゆっくりと消えていく。
「メイナ! しっかりして!」
リティの叫びも虚しく、メイナは意識を失ったまま、ぴくりともしない。
*
「おい急げ、目隠しはできたか?」
「ああ。大丈夫だ」
「よし!」
暗闇の中で、知らない男たちの声がする。
――それは父親と近くの町に布の仕入れに来た日のことだった。メイナの家業は仕立て屋だった。父親が裏道の布の問屋に寄ったとき、退屈だから外で遊んでいたメイナは、突如暗闇に襲われた。
メイナははじめ、父親がふざけているのかと思った。「パパ、止めてよ! ははっ、へへへ……」などと、喉の奥で笑いながら喚いた。
「おい、黙らせろ」
と聞こえたとき、メイナはとたんに、暗い洞穴に押し込まれたような気分になった。違う。なにかが起きている。普通じゃないんだ。
「おい、そいつを担げ! ここを離れるぞ!」
世界が反転して目が回る。とにかく暗闇の世界がぐるぐると周り、わけがわからない。
(なに? どうなってるの? 暗い……。暗いよ…………)
やがて男の声が聞こえた。
「よし、町外れだ。ここまでくれば……」
そのとき、遠くのほうから別の声がした。
「あそこです! ……たぶんあれです! 私の娘です!
その声を聞いたとき、メイナは光に包まれた。まさしく父親の声だった。縛られた口の中で、「パパ! ここだよ!」と叫んだ。実際はもごもごと、唸っただけであったが。
「メイナ! すまない……」
やっと顔に巻き付けられた布が取り払われた。メイナは目に刺さるような陽光の中、父親の泣き出しそうな顔を見つけた。
父親は黒い布を忌々しく見て、地面に打ち捨てた。「こんなものっ!」
銀色に輝く甲冑姿の衛兵たちが、槍を使って二人の男を地面に押し付けている。
父親は両手を広げ、抱きしめてくる。
「本当に! メイナ、目を離してしまって、ごめんよ…………」
遠い記憶。遥かな記憶。忘れてしまった。
――いや、忘れてしまいたい、心の底に沈んだ記憶。
――メイナ。メイナ、大丈夫か? うなされていたよ。怖い夢でも見たんだね。黒い布? 男たち?
――はは。そんなことは、なかったよ。きっとさ、怖い夢を見たんだよ。ね? いい子だ。そんなことが、あるわけないよ。
――ママだって、きっと、いつも見守ってくれているんだよ。ね、メイナ。
とはいえ闇はどこにでもあった。
森の暗がりに、閉ざされた小屋の中に、かぶった寝具の中に。世界には闇が溢れていた。
(あれは夢なの? パパ? 本当に。怖かったんだよ。怖い。怖いよ。どうして世界は、こんなにも暗いの?)
――メイナ。その、手の中に……。光っているよ。灯りなのか? まさか。メイナ、魔法を、使っているのか。まさか……。
メイナはめくるめく、記憶の混濁の中にいた。
「……ねえ、起きなよ」
その夢想の最後に、思いがけない声がしたのだ。
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