シェイテの慈悲 2
メイナがふとリティを見ると、まだ緊張した面持ちで戸棚に目を向けていた。そこには、短剣を包んだ布の膨らみがあった。
「どうしたの? さっきからさー。気になるの? あの短剣……」
「そうねえ。さっき、刃の部分にさ、三日月の刻印があったんだ。メイナには見えた?」
「え? う、うん。たしかにあったね」
「三日月の刻印。――それがなんなのか、わかるでしょ? ふつうならそれは、シェイテの象徴よ」
「そっか、たしかにシェイテの刻印だね。……って、思いっきり、名前を呼んじゃったよ」
メイナは舌を出してから続ける。
「夜風の女神、だね。名前を呼んじゃ、だめなやつ……」
「らしいね。そのシェイテの三日月が、どうしてこの短剣に……って、わたしは考えていた」
メイナは辺りをきょろきょろと見回して、人差し指を立てて口に当てた。
「だ、だめだよ。そんなにはっきり名指したらさー」
「わかったよ。で、その夜風の女神は、墓守だとか、盗賊だとか、一部の狩人とか。そんな人たちに信仰されてるみたいねえ」
「そうだよね。だから、ライリさんも……」
すると、リティは鋭い目をして首を振った。
「違う。あの人は、狩人じゃないよ。だって、狩人はふつう、あんな使いにくそうな短剣を使わないよ。見たことあるでしょ? ラーニクにもいたし。もっと、刃物にしても、枝とか草を払いやすそうな、鉈とかを使うから」
「そ、そうかな? そっか。――たしかに」
「そうよ。あえて言うなら、ああいう短剣って……」
戸口の向こうに、騒々しい音が響いたのは、そのときだった。ガタガタと音がして、扉が開いた。
そこに現れたのはもちろんライリなのだが、足元には中くらいの樽が転がっていた。それに、脇には布の塊が挟まれていた。
「お待たせ。これが、とっておきさ! 見なよ! この樽はワイン。それで、こいつが……」
ライリは左手で包みを手にすると、布を開いた。中からは肉のかけらが現れた。
「夜風にかけて、これは、干し肉さ!」
メイナは小さく飛び跳ねて、「レガーダ!」と叫んだ。
「すごい! え? 干し肉なんて、旅に出てからはじめて見たよ!」
ライリは自慢げに、
「ふふっ。驚くだろう。これが、僕がこの家を選んだ理由さ。なんと裏にある地下室に、干し肉とワインが残っていたんだよ!」
「ね? ね? 食べていいってこと?」
メイナは目で噛みつきそうなほど、干し肉に顔を近づけていた。
「もちろん。切り分けて、みんなで食べよう。塩が効いていて、味も締まってるよ」
ライリは樽を室内に運び込むと、樽の両脇に木片を当てがって固定した。
木のコップを近づけて樽の栓を抜くと、赤い液体が流れ出てきた。コップの中に並々とワインが満ちると、再び栓を差し込んだ。
「いい香りだね! でも、きみたちには、早いかな」
ライリのその声に、メイナは笑顔で頷いた。
「わかってるよ。でもさー、ほんとに、ぶどうのいい匂い! ワインなんてラーニクの町にはなかったよ。果実酒とかはあったけど。王都とかで、飲んでる人は見たかな……」
「だろうね。僕だってワインなんて、年に一度の収穫祭くらいにしか飲めなかったよ。この家の人は、ぶどう農家だったのかもしれない。ともかく、前の住人さんに、感謝だね」
そう言ってから、ライリは鍋を暖炉の火にかけはじめた。
湯が沸くと黒麦を入れ、メイナとリティのコップに茶のおかわりを注いだ。
「さて、きみたちのワインだよ」
いつの間にか、窓の外には夜がきていた。雨音は小さくなっていたが、まだ雨が続いているようだった。メイナは茶をすすっては、干し肉をかじった。干し肉はなめし革のように硬く、塩っぱい。噛むほどに味が出てくる。
リティを見ると、干し肉には手を付けず、黒麦茶を飲んでいた。
ライリは頬を赤らめながらも、また一口ワインを口に含んだ。
「こんな日がくるなんて、生き延びてよかったよ。家族ができたみたいだよ! おかげで、きみたちみたいな、生き残った人にも出会えた」
「へへっ。あたしも、楽しいよ。生きてる人っていうと、ローデンさんも、いい人だったよ」
「ローデンさん?」
「うん。王都の、塔にいた人でさー。頑固だけど、仕事熱心!」
「そうか、あの塔守のおじいさんか。たしかに! そうそう、仕事熱心っていうと、騎士団長のフォレイグも、王都では有名だったものさ」
「へえー、そうなんだ」
「ああ。強くて、統率力があって、優しくて、みんなから慕われていたよ」
ライリは遠くを見つめて、
「でもさ、フォレイグは国を裏切ったんだ」
「え? どういうこと?」メイナが身を乗り出す。
ライリはため息をついてから、ワインのコップをかたむけた。ふいに立ち上がると、樽から次の一杯を注いだ。席に戻るとまた一口ワインを飲んだ。目がとろんとしてきたようだ。
「こう楽しいと、ワインがどうも進むね。はは。……そうか。フォレイグの話だったね。フォレイグは、あろうことか王妃と駆け落ちをして、北方に逃げていったんだ。宮廷は騒然となったものさ。事実を隠して、秘密裏に解決しようとした。そして、暗殺者が差し向けられた」
ライリの声が低くなる。
「それに、その暗殺者は、フォレイグに育ててもらった、彼の息子同然の人物だった。皮肉なものさ」
ライリは眠そうな眼で赤い頬をたわませ、苦笑いを浮かべた。
「でも、その暗殺者は任務を果たせなかった。いやになって、逃げ出したんだ。その暗殺者は。――散々に手を汚してきたくせに、いざ養父たるフォレイグを、というときになると、尻込みした。血に濡れた卑怯者だよ……。暗殺者は、絶望していた。養父の裏切りに。自身の弱さに。――夜風の女神の残酷さに。それから暗殺者は、呪われた自身の運命を清算したいと願いはじめた。滅びた世界の片隅で、ずっと孤独に…………」
暖炉で木が爆ぜた。小さな灰が舞い、火がまたたいた。小雨の音が続く。ライリは「ふふ」と小さく笑い、コップのワインをまた飲んだ。
「ライリさん。もう、ワインは止めなよ……」
メイナは小さな声で言った。ライリはもはやメイナの声を聞いていない様子で立ち上がると、戸棚のほうにふらふらと近寄った。そして、布の包みを取った。リティが肩をぴくりと動かした。
布の中からは、例の短剣が現れた。濡れたように光る刃は、遠い暖炉の火を映して輝いた。
ライリは刃を手に席に戻ると、うろんな目でじっと、その刃を見つめた。
「夜風にかけて……。どうして人は、裏切るんだろう。美しく生きられないんだろう」
「ライリさん……」
「美しいのは、この三日月だけだ」
ライリは腰かけたまま、立てた短剣を胸の前に持ってきて、さらに刃の上に左手を添えた。――ちょうど、切先が自身の喉元に迫っていた。
普段の祈りの姿勢なのかもしれないが、メイナはびくりとして、立ち上がりそうになった。
メイナは高鳴ってくる胸の鼓動をこらえ、冷や汗をかきながら、なにも言えずにライリを見ていた。
ライリは目を閉じて背を伸ばすと、こもった声で言った。
「慈悲深き夜風と死の女神、シェイテよ。三日月の刃を忍ばせ、黒衣をまとう闇の導き手よ。――願わくばいつか、我が最後の仕事を完成させたまえ。呪われし迷い人を、無辺(むへん)なる夜へと導きたまえ……」
ライリの目の端から涙の筋が流れてきた。
「ライリさん……」
メイナは呟いたが、後の言葉が続かなかった。そのとき、リティが椅子をずず、と引いて立ち上がった。ゆっくりと歩むと、リティは座っているライリの横にきて、
「なぜ、氷の年は、すべてを滅ぼさなかったんでしょうか」
ライリの目蓋がぴくりと動き、薄く開かれた。少し短剣が下がった。リティは続けた。
「ローデンさんや、わたしたちは、生かされた。およそ、なにかに、呪われていると言ってもいい。そんな人間たちが……」
ライリは口を開き、「リティ……」と言った。リティは目を細めた。
「わたしも、迷っていました。……いえ、いまも。いまも自分の力や、世界の残酷さに、迷っています。だけど、ミュートは……」
そこでリティは目を見開き、ライリに近づいた。
「わたしは、思うんです。女神ミュートは、あるいは夜風の女神は、わたしたちに、生まれ変われ、って言っているのかもしれません。終わりじゃないんだ、って。――だって、世界は、こんなにも荒廃してしまったけれど。――まだあるんです。続いているじゃないですか……。わたしたちも…………」
リティの目から一筋の涙が流れてきた。涙は暖炉の光を反射した。
ライリは目を閉じ俯いていた。
そこで銀の髪の束を揺らし、リティは右手を伸ばした。右手の先は刃の根本にたどり着いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます