シェイテの慈悲

シェイテの慈悲 1

 メイナは街道を分断するように流れる、大きな川の前で立ち尽くしていた。川の水はごうごうと音をたててとめどなく、見ていると目まいがしてきそうだ。


 リティもとなりにやってきて、「うわ、すごい……」と声を漏らした。


 川には木の橋がかかっていた痕跡があったが、台風が何かで壊れてしまったのだろう。支柱と、橋の残骸しか残されていない。


 左側を見ると森があり、その奥から川が続いてきているようだ。


 あらためてメイナは川に顔を向けると、


「これは、どうしようもないねー。橋が壊れちゃってるよ。なんとか渡る方法を考えないと……」


 そんな風にぼやいていると、鼻に冷たい雫が落ちてきた。メイナは鼻に触れてから空を見る。


「うわー、雨だよ!」


 こんどはリティが、


「あー、これは続きそうだねえ……。確かに雲が低かったから、くるかなって気はしてたけど」

「そうなの? 早く教えてよ! 荷物、濡れちゃうよー」

「え、だって、そんなこと言ったって、降るまで進もう、ってなるだけでしょ」

「心の準備ってものがあるじゃん」


 メイナはきょろきょろと辺りを見回した。


「どこかでさー、雨宿りができるといいんだけど」


 すると、しばらく先に石造りの建物が見えた。どうやら民家のようだった。


「レガーダ! あそこまで行こう。中に入れたらいいけど」


 メイナは前方を指さして、足早に進みはじめた。



 その家は茶色いレンガで組まれた小ぶりの家だった。


 ますます強くなる雨から逃げるように、メイナは家の扉を引いた。歪んでいたり腐っていたりして、うまく開かない場合も多いのだが、不思議なことに扉は難なく開いた。


「やった、中に入るよ」


 とメイナは家に飛び込んだ。家の中央には大きな木のテーブルがあり、戸棚やベッドもあった。


 メイナは戸棚の二段目に置かれたナイフや短剣に気がついた。特に短剣には長めの柄に、湾曲した片刃がついていた。また、刃の根本に近い部分には三日月のような刻印があった。


 木の床にはごみなどがなく、きれいな状態が保たれていた。


「え? どういうこと」とメイナは続ける。

「誰か、住んでる? きれいすぎるよ……」

 となりのリティが答えた。


「ほんとねえ。まさか……」


 そんなとき、家に向かってくる足音がした。


「誰かくるよ、どうしよ!」


 メイナはリティを連れて家の奥側へ逃げるように進んだ。


 強まる雨音の中、足音がびしゃびしゃと向かってきていたのだが、やがて家の前で足音が止まった。


 メイナが息を飲んで戸口を見つめていると、突如として青年が現れた。


 青年は麻の服に毛皮のマントを羽織っていた。黒髪が額や頬に垂れ、顔にはうっすらと無精髭が生えていた。細身ですばしっこそうな印象がある。慎重そうに細められた目に、藍色の瞳が鋭い輝きを放っていた。


 とりわけメイナを驚かせたのは、青年の右手にある斧だった。


(侵入者めー! とか言って、やられちゃうの? レガーダ! なんとかしてよ……)


 そんな風に慌てるメイナだったが、青年は思いがけず落ち着いていた。


 青年はじろりと室内を見渡すと、「ふう」とため息をついて斧を降ろし、目元をほころばせた。


「夜風にかけて! きみたちが、生身の人間だとしたら、こりゃ奇跡的な日だよ。氷の年の生き残りがいるなんて!」


 メイナは壁に背を当てて、いまだ硬直していた。青年は続けた。


「驚かせちゃったね。ごめんよ、扉が開いていたから、びっくりして……。まあわかるよ。ふつうは空き家だから、さしずめ、雨宿りと家探しを兼ねて、飛び込んだんだろ」


 メイナはおそるおそる、


「おじさん、ここに住んでるの?」


 すると青年は斧を壁に立てかけると、右手でぱさりと前髪を掻き上げ、両手を広げた。


「ああ。氷の年を地下で凌いで、しばらくさまよってさ。ここが一番よさそうだったからね。ライリだ」


 最後の名乗りを聞き漏らしかけたメイナは、少し慌てて言った。


「おじさん、ライリっていうの?」

「そうだよ。ライリ」

「あたしはメイナ。で、こっちがリティ」


 とリティを見ると、リティは緩く腕を組んで、ライリを観察するように眺めていた。ライリは言った。


「とりあえず、情報交換でもしようじゃないか。きみたち、南のほうからきたんだろ? お茶でも淹れよう。あとさ、ひとつ提案があるんだけど……」


「え、なに、おじさん」とメイナは聞き返した。

「うん、それだよ。おじさん、っていうのを止めてくれると、さらにいい関係を築けると思うんだ……」



 メイナは椅子に座り足をぶらつかせ、ライリが暖炉で湯を沸かすのを見た。


 ライリは手際よく火を熾すと、水を入れた鍋を台に置く。鍋の水には気泡が立ち始めている。


 となりに座るリティは黙ったまま、まだライリへの警戒を解いていない様子だ。


 メイナはふと、アズナイがいた日々のことを思った。アズナイもたまに、薬草の煎じ茶を淹れてくれた。


『さあ、薬だと思って飲むんだ。体を温めて、病を払ってくれるんだ』


 そんな風に供された、アズナイの煎じ茶は苦かった。そのぶん、においは格別に香ばしかった。――メイナはその味を舌の上に思い出す。


 ふとリティを見ると、なぜか目を細めて、テーブルに視線を落としていた。メイナは心の中でつぶやく。


(きっと、同じことを思ってるんだね、リティ……)


 ライリは布に黒麦を包むと、それを鍋の湯に浸した。しばらくすると黒ずんだ包みを引き上げ、三つの木のコップに茶を注いだ。深く香ばしい匂いが漂ってきた。


「お待たせ。熱いから気をつけて」


 ライリはそう言うと、テーブルにコップを並べた。



 メイナは音をたてながら少しずつ茶を吸い込んだ。


 一方でリティは戸棚に視線を向けていた。その視線の先には、小ぶりのナイフと、反り刃の短剣があった。ライリは微笑しながら、


「ああ、物騒で悪かったね……。今朝方、刃物を研いで、そこで乾かしてたんだよ。まさか、こんな茶会が催されるとは思ってもみなかったからさ」


 するとライリは立ち上がって、戸棚の前に移動すると、「さて、片付けるとしよう」と呟いた。そこで、ずっと黙っていたリティが口を開いた。


「変わった短剣ですね」


 メイナはあらためて短剣を見た。たしかに反った片刃の短剣はなかなか見ない気がした。それに、刃の根本の三日月の刻印も特徴的だ。


 ライリはにっこりと笑って、その短刀を布にくるんで棚の隅に置いた。ついで横のナイフをとって、暖炉の横の小棚の上に移した。――きっと、そこが本来の置き場所なのだろう。


 リティはライリの行動をずっと目で追っていた。ライリは席に戻ると、コップを手にして口につけた。茶を飲み下すと、


「僕は昔から、狩人をしていてね。もっとも、氷の年のあとは、獲物なんていないけどさ。獲物を処理したり、枝を払ったり、あの短剣にはお世話になったよ。森に入るときは、いまでもたまに持っていくよ」

「そっかー。狩りなら得意そうだね。すばしっこそうだよね!」

「逃げ足だけは誰にも負けないよ。ふふっ」


 そうしてライリはコップの茶を飲むと、さて、と続けた。


「きみたちは、北に向かっているのかい?」


 メイナはうなずいて、


「そうだよ。人を探してね」

「なるほど。それにしたって、氷の年をよく、生き抜いたものだよ。雪ネズミだって凍えるあの年を」

「あー、それね。師匠に、守ってもらったんだ。結晶のアズナイって、知ってる?」

「おお、夜風にかけて! 聞いたことがあるよ。王都じゃ、仕事の仲間も一目置いていたよ」


 メイナは少しいい気分になって、にやけながら茶の残りを飲んだ。沈んでいた麦の粒が口に入ってきて、それを指でとった。


「つまり、こういうことかい。きみたちは、お師匠のアズナイ殿を探して、北に向かっていると」


 メイナは顔を上げて、


「まあね。ライリさんは、氷の年の前にアズナイさまを見た? ここら辺も、通ったかもしれなくて……」


 ライリは申し訳なさそうに首を振った。


「いいや、あいにくだね。氷の年の前は、この辺りにいなかったから」



 やがて旅についての話がはじまると、メイナは言った。


「そうそう。早く北に行きたいんだけどさー。橋があんな具合だから……」

「なるほどね、それで行き詰まった、ってわけか」


 ライリは腕を組むと、


「橋を修理するっていうのも、骨が折れるな。船なんて、もっと無理だ。――とすると、筏か。ふうむ……。それにしたって、相応の木を切って、加工しないとな……」

「やっぱり、なかなか大変かー」

「そうだね。一応さ、考えがないことも、ないけど……」

「え?」とメイナは顔を輝かせる。

「いや、かなり条件も限られるからさ。――今日はもう日が傾いてきたから、明日にでも取りかかろう。森に入らなきゃいけない」

「なんなの? 『考え』って!」

「ははっ! まあ大したことじゃないよ。森を見てからだよ。――さて、そうとなれば、とっておきがあるんだ。ちょっと、待っていてくれないかい?」


 そう言ってライリは立ち上がると、戸口の扉を開けて、小雨の降る薄暗い屋外に出ていった。


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