冬の向こう 2
夜になった。リティは椅子に腰掛け、テーブルに載せた両腕を枕にして、メイナを見ていた。
メイナはときおり体をよじって咳き込んだ。額に汗の粒を浮かべ、顔は真っ赤になっていた。
暖炉の火がかさかさと枝や木材を食み、揺れる光は屋内の影を攪拌する。
外からはか細い虫の声がした。それに風の音――生命を拒むように、こうこうと高くうなる。
思ったよりも寒い。リティはあまった藁袋や、布切れを体に引き寄せて、暖炉に近づく。
『心を凍えさせてはならない』
なぜだかそんな、アズナイの言葉が頭の中に浮かんだ。リティは考えはじめた。
(わざわざ、凍えさせてはならない、なんてわたしたちに伝えるなんて。きっとそれは、心が凍えやすいものだからだ。でもメイナがいれば、きっと道を照らしてくれる。火だってうまく熾せる)
『だったら、リティ。きみは、メイナがいなくなったら、どうするんだい?』
その言葉に、リティは心の中で答える。
(わたしには、わかりません。アズナイさま。けれど、今ならまだ、戻れると思います。あのラーニクの町に。結晶の中で眠っていた森に。そう、ずっとあそこで眠っているんです。そのうち、ある日にアズナイさまは、町に戻ってくるんです)
いつしかアズナイは森の中に、リティの正面に立っていた。
『ふたりとも、力をあわせて、生きるんだ。そして、また会えるだろう。長い冬のはてで』
(わかっています。けれどほんとうに、あなたに逢えるんですか? 旅の向こう側で。冬のはてで。アズナイさま……)
そのとき、乾いた咳の音がリティ鼓膜に刺さった。目を覚ますと、メイナが咳き込んでいた。
リティは立ち上がって、薬草の煎じ茶が入ったコップを取った。メイナの顔の横に屈むと、
「大丈夫? ほら、熱くないから。ちょっと飲んでおきなよ。喉にもいいから」
すると、メイナは目を閉じたままで答えた。
「い、いいよ。ありがと……。落ち着いたから」
「ほんと?」
「うん……」
「よかった。喉が渇いたら教えてね。とにかく、早くよくなって。がんばってね。メイナ」
リティはしばらく、メイナの胸元が呼吸とともに上下するのを見ていた。
間があってから、メイナの口元が動いた。ちろりと、唇が開く音がした。そうして辛そうな、辿々しい口調で、
「大変だよね。いまの旅って。あたしも、こんなに苦しくて、咳ばっかり出てさ。でも、生きようとしてる。――なんだか生きるのって、旅に似てるのかなって。そう思ってさ」
「メイナ……」
「大変だけどさ。でも、歩いていけば、変わっていけると思うよ。あたしたちは……」
メイナの視線はいつしか暖炉に向けられていた。暖炉の赤い火を映して、メイナの瞳はちらちらと輝いていた。
そこでメイナはまた咳き込んだ。体を折ってなんども咳をした。リティは声を掛けて、こんどこそコップの煎じ茶を飲ませた。
リティは床に座り、メイナの頭の近くの壁に寄りかかっていた。
(メイナはああ言うけど。本当に、どうなることやら。それに、北への旅を続ける意味なんて、あるのかなあ。アズナイさまに逢えるかも、わからないし)
ため息とともに視線を落とすと、傍(かたわ)らには火打石が見えた。あれほど苦手だった火熾しが、今夜はうまくいった。
ラーニクを出てから――いや、生まれてから、火熾しができたのは何度目だったろうか。
二度か三度か。いずれも奇跡みたいなものだ。――今夜に限ってなぜうまくいったのかは、わからない。
ただ、メイナを救うために一生懸命だった。なにも考えてはいなかった。
『考えても仕方ないよ! 歩いていかなきゃ、わかんないよ!』
ふと思い出されるメイナの言葉に、リティはくすりと笑う。
(歩いていけば、火熾しがもっと得意になるのかもねえ。それにアズナイさまも、褒めてくれるかな。きっと、冬の向こう側で)
リティはふいに、眠っているメイナの横顔に近づいた。そして、聞いているかどうかもわからないメイナに向かって、ささやくように言った。
「ねえ、わたしは北へ行くよ。そこに何があっても。どんな結末があっても。メイナ……。前を見て、進んでいたい……。だからメイナも、負けないで……!」
そのとき、メイナのまぶたが薄く開いた。その瞳には赤い暖炉の火が映っていた。小さな苦しげな笑顔を浮かべると、一瞬だけ白い前歯をのぞかせて、またメイナは目を閉じた。
翌朝、リティが夢うつつでいるときに、突如メイナの声がした。
「おはよー! いい朝だね!」
リティは床に座り、メイナのベッドに突っ伏していたのだが、声がしたのは背後からだ。リティが体を起こして振り返ると、メイナは家の玄関口に立っていた。
「え、もうよくなったの?」
とリティが尋ねると、メイナは照れくさそうに、
「うん。そうみたい。あの薬草が、効いたんだね!」
「ふうん。わたしはまだ眠いよ。ねえ、だったらさあ、井戸を探しておいてよ。水がなくなっちゃったからさあ」
「はいはいー。わかったよ。もうさ、人使いが荒いよね」
面倒そうにメイナが家を出ていくと、リティはふと床を見た。そこには火打石が落ちていた。
火打石は朝日を浴びて、ほんのりと光っていた。
――忘れないように、しまっておかなきゃ。
リティは座ったまま、火打石に手を伸ばす。ちょっと届かない。だから、ぐいと身を乗り出して。
冬の向こう おわり
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