ミュート神殿にて 2

 メイナは幽霊の口が動くのを見た。

「くるな……。こっちへ、くるな……」

 そうして幽霊は両手を広げ、奥の部屋への扉を遮った。――もっとも、無視して進むこともできたかもしれないが。

 メイナは思い切って、幽霊に尋ねた。

「ねえ、おじさん。――あたしたちを、奥の部屋に行かせたくないの?」

 幽霊は鋭いまなざしのままでうなずいた。メイナはそれを見て、後ろに退がった。

「わかったよ。それじゃ、奥には行かないよ。それでいい?」

 すると、幽霊の目から焦りや苛立ちが消えた。それでもまだ、目の底が暗い感じがした。

 メイナは尋ねた。

「おじさん。そのかっこうさー。この神殿の、司祭さまなの?」

 そこで背後からリティの声がした。

「も、もう止めなよ! お化けなんかと話さなくていいよ……! ほかを探そうよ……」

 メイナは振り向いて、

「ちょっとだけだからさー。なにか、気になるじゃん」

 するとリティは不満げに腕を組んで、メイナと幽霊を交互に見てから、「もう、最悪……」とつぶやいた。

 メイナはまた幽霊を見て言った。

「ねえ、司祭さまなんだよね?」

 幽霊はこくりとうなずいて、今度は穏やかな口調で言った。

「――いかにも。私は、当神殿をまかされている、司祭のエイハズという者だ」

 ざらついて掠れた声だったが、十分に聞き取れた。メイナは興奮して続けた。

「やっぱり! それで、なんでこんな……。その、お化けになってまで……」

 そこで幽霊――エイハズは自分の透き通った手足に視線を落とした。それから、女神ミュートの石像を見上げた。

「そうか。そうだったな……。世界は、氷の年によって、滅んだ。そして私はすでに。――おお、ときどき、それを忘れてしまうのだ」

「そっか。司祭さまは、全部見てきたんだね。氷の年のこと……。大変だっただろうね……」

「ああ。嘆くべき災害だった。しかしながら、すべては女神ミュートの思(おぼ)しめしなのだ。人は与えられた試練に身を委ね、おのれの道を歩むだけなのだ……」

「ふうん。それで、司祭さまの道は、どこに向かうの?」

 そう尋ねると、エイハズは困ったように口を結んだ。しかし、しばらくすると眉根を寄せて口を開いた。

「氷の年……。それは、女神ミュートの、厳粛かつ神聖なる浄化の意思だった……」

「浄化の意思? なんで? 人間や動物が、そんなに汚いの?」

「女神ミュートの深遠なる智慧(ちえ)と意図には、人間などが及ぶことはできん。人はミュートに与えられた領分で生き、そして死んでゆくのだよ」

「じゃあさ、王さまとかは? 神聖なる王家は? 王家も同じように、滅んだの?」

 そう尋ねるメイナの脳裏には、塔の屋上から見た、王城の光がまたたいていた。エイハズは言った。

「王家! 醜い獣の群れが……!」

 すると、エイハズの瞳に暗い色が広がった。その顔は憎々しげに歪んでいた。

 メイナは体をのけぞらせた。けれど、後ろには退がらなかった。まだ、話はできるはずだ。


 リティは腕を組みながら、目の前の信じられないやりとりを聞いていた。

 メイナがよくわからない幽霊と対話している。――幽霊。彼はどうやらエイハズという、この神殿の司祭らしい。

 なにやら雲行きが怪しくなったが、どうやらメイナは、このエイハズとまだ話をする気のようだ。とはいえ、エイハズは信用できなかった。

 ――しかし、白黒がつくまで、メイナも諦めないだろう。

(もう、いい加減にしなさいよね)

 そう思って、リティはメイナへと近づいていった。そして、エイハズの前に立った。メイナが少し驚いたように振り向いてきた。リティはエイハズへと言った。

「司祭さま。そのようなお姿になられ、なおこの神殿を護ろうとされる精神。まことにすばらしいと思います。――わたしは、魔法使いのリティと申します」

 そう言って、リティは右腕を胸に当てて、やや腰を曲げて会釈した。

 となりのメイナは「おお」とよくわからない声を上げた。それを無視して、リティは続けた。

「司祭さま。エイハズさま。――あなたは、このわたしの仲間の魔法使い、メイナの質問の、肝心なことに答えていらっしゃいません。なぜ、奇しくも世界を滅ぼした、あの氷の年を経て、なおこの神殿に縛られるのですか?」

 エイハズはぎょっとしたように目を広げた。すると突如ぐるりと振り返り、奥の扉のほうへ体を向けた。

 リティその姿を追いかけるように言った。

「やはり、奥の部屋になにかがあるのですね。司祭さま……。それは、なんなのですか?」

 すると、背中を向けたままのエイハズは、か細く震える声でこう言った。

「氷の年は、神聖なる女神ミュートのお導き……。おお……」


 エイハズはリティたちに背中を向けていた。そして、両手を突き出して奥の扉に向かい、低いうめき声を上げている。――自分自身の妄執(もうしゅう)の世界にこもってしまったかのようだ。

 リティは横にいるメイナを見て、ひそめた声で言った。

「困ったねえ。なにがしたいんだろ……。この人……」

「そうだね。でもさ、ここまできたら、あたしは絶対、なんとかしてあげたいよ。困ってるみたいだしさ。それに……」

「それに?」

「うん。この神殿に泊まりたいじゃん。ここなら安心して眠れそうだし。だからこの人と仲良くしないとさ。落ち着いて寝られないよ!」

「はあ。わかったよ。もうちょっと聞いてみるよ」


 エイハズはあいかわらず、木の扉と、その先にある奥の部屋のほうを向いて、不気味な声を上げている。そこへリティは恐る恐る近づいた。

「司祭さま。いま一度」

 すると、エイハズはぴたりと動きを止め、肩と首を捻って振り返った。石の置物みたいに重々しい動きだった。その顔は困惑に歪んでいた。

「なんだ。魔法使いたちよ。早く出ていけばよいものを……」

 リティはひるみそうになりながら、声を振り絞った。

「教えてください。司祭さま、あなたはなぜ、そんなに奥の部屋を気にされているのですか?」

「それを聞いてどうする?」

「わたしたちが、なにかお力になれるかもしれません」

「なんだと……?」と、エイハズの目がにわかに広がった。

「力に、なれる、だと?」

 リティはうなずいた。

「そうです。正直な事情を明かすと、わたしたちはこの滅んだ世界を旅しており、今夜の宿を探す身です。そこで、この神殿の片隅をお借りできないかと思っているのです」

「それで?」

「ええ。かといって、お困りの司祭さまを差し置いて、呑気に夜を明かすなどということはできません。ですから、どうかお聞かせください。司祭さまの胸の中に、なにがつかえていらっしゃるのかを」

 エイハズはリティを、それからメイナをぎょろりと見た。そして顔をねじり、ミュートの石像を見上げた。

「おお、慈悲深くも峻厳(しゅんげん)たる、氷の女神、ミュートよ……」

 そう言ってから、口の中でもごもごとなにかを祈った。やがて決心したかのように、エイハズは顔を上げた。

「銀髪の小さき魔法使いよ。おまえの力は?」

 リティは頭を下げながら、右手を胸前に添えて言った。

「わたしは灰の魔法を――。あらゆるものを灰に変える魔法を使います。となりのメイナは――」

 するとエイハズは、「見ればわかる」と言った。

「先ほどから、その魔法使いは、魔法の光を放っておる。女神ミュートが与える魔法の恵みは、一人に一つ。それくらいは、子どもでも知っておる」

「おっしゃるとおりです」

「なれば灰の魔法使いよ」

 エイハズはリティへと一歩近づいてくると、こう続けた。

「おまえの魔法で、木箱とその中身を滅ぼしてくれ。いや、燃やす方法でもよいのだが、とにかくこの不自由な姿では、いずれも無理な話だ。だからとにかく、奥の部屋の、あの木箱を……」

 思わずリティは顔を上げた。

「木箱を中身ごと滅ぼす……。つまり、その中に、あってはならないものが、あるということですね」

「多くは言えない。だが、この私の心残りがあるとすれば、そのことだ。それさえ果たせれば、この神殿を宿にしようが、奥の荷物をどう使おうがかまわん」

「わかりました。お引き受けします」

 リティのこめかみに、また根深い痛みが疼く感じがした。軽々しく魔法を使うつもりはないが、しかし火を起こして木箱やその中身を焼きつくすのも、苦労しそうだった。

 エイハズは付け加えるように言った。

「わかっていると思うが。木箱の中を見ることは許さん。仮にもしそうなれば、ただでは帰さんぞ」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る