結晶からのめざめ 2

 リティの膝の上には、仰向けになったメイナの頭が載っていた。メイナの胸には、灯りを放つ右手が置かれていた。メイナの呼吸にあわせて光が動き、周囲の世界の陰影がゆれた。


 リティはしばらく、メイナの顔をのぞきこんでいた。すると、すこしずつ、メイナの瞳が現実を受け入れてゆくのがわかった。


「リティ、ねえ、アズナイさまは?」


 というのが、メイナが正気づいてから、はじめて言った言葉だった。リティは答えた。


「わからない。見てないよ」

「そっかー。やっぱり、氷の年で……」

「だから、わからないの」

「ふうん。じゃあさー、町のひとは?」

「行ってないから、わかんないって」


 メイナはまだ腑に落ちない様子で、


「だったら、逆にさー、なにがわかるの?」


 リティはしばし考えて、答えた。


「わたしたちが、生きてる、ってことかなあ」



 リティは、メイナとともに森のはざまの道を歩いていた。ひとまず、森の先にあるラーニクの町を見にいくことにしたのだ。町の外れに、アズナイと暮らした家もある。


 メイナは右手の先に明かりを灯し、それを掲げていた。メイナが進んでゆくと、木立や草むらの影が、光をいとうように動いた。


 森には倒木が目立ち、獣や鳥はどこにもいない。


 やがて森を抜けて、ラーニクの町の市場通りへとたどりついた。メイナは通りや建物を見まわしながら、


「なにかさー、やっぱりちがうよね」


 それに対してリティは、


「そうねえ。なんだろ。道が、草だらけだし」

「そうそう。建物の扉も、壊れてる? 灯りも、ぜんぜんないよ……」


 最後のほうは、暗澹あんたんとした声だった。


「やっぱり、世界は……」


 メイナはそう言って、右手をさらに高く上げた。右手の灯りが強まり、周囲を照らした。そこには真っ暗な、朽ちかけた町並みが続いていた。




「ふたりとも、ちょっと、いいかな?」


 アズナイの声がして、メイナは本から顔を上げた。眠たくて仕方がなかったから、好都合だった。


 家の窓から入ってくる日の光は、アズナイの白い髪と、端正な顔を輝かせた。結晶の魔法を使う、すぐれた魔法使いであるアズナイは、町の守り神であり、人々の教師みたいな存在だった。


 メイナのとなりにはリティもいた。リティは真剣に本を読んでいたらしく、ややあってから、顔を上げた。リティが読んでいたのは、魔法と神話に関するものだった。


 暖炉には火がくべられていた。夏だというのに、ここのところどんどん寒くなっている。


 アズナイは、ふたりの注意が集まったことを確認したように、うなずいた。


「まえにも言ったけれど。このままでは、もうじき、大変なことが起こると思っているんだ」


 そこでリティは言った。


「世界が、氷に覆われる、という、あの話ですか?」


 アズナイは寂しそうに、やさしい笑顔を見せた。


「ああ。そうだよ、リティ。そのとおりだ」


 それからアズナイは窓から外に目を向けて、


「この、世界を包む冷気は、はるか北の聖地――ファナスから広がってきている。それは、まえに言ったとおりだ」


 そこでメイナは、


「女神ミュートが、人間たちに怒って……。それに、このままいくと、もっと、もっと寒くなるって……」

「そうだ。世界は、もっと寒くなる。すべてが、氷に包まれてしまうほどに。そして人々は、救いを求める」


 そのとき、リティは言った。


「静寂なる女神ミュートが、世界をふたたび凍らせるとき、最北にて人々は救われるだろう」


 アズナイはうなずいた。


「そうだ。『王家の伝承 第四章十二節』のとおりだね」


 メイナは信じられない気持ちでリティを見た。


「よくそんなの、暗記してるね……」


 リティは当然、といった表情で、


「なんども読んでるじゃない」

「うーん、そうだけどさー」


 そこでアズナイは割り込むように、


「とにかく、この伝承を信じる人々の中には、北への移動をはじめた人たちもいるくらいだ。伝承にしたがって、北に行けば救われるのか……。それは、私にはわからない。けれど、世界に異変が起きているのはわかる。北から、これまでにない、冷気が押し寄せてきている。それも、急激に……。明日にでも世界が凍りついてしまうかもしれない。そんな予感ばかりが、私の心にあるんだ」


 メイナは不安な気持ちでアズナイを見ていた。これほど切実で、真剣な顔を見たことはない。


「アズナイさま。あたしたちも、北に行くの?」

「いや。そうじゃない……」



 それから二日後のことだった。

 リティはメイナとともに、アズナイの背中を追って市場通りを歩いていた。


 空には夏だというのに灰色の雲が立ちこめ、人々は厚いコートやローブを着こんでいた。それに、人通りは少なくなっていた。


 人々は、『氷の年がくる』と口々に伝えあい、その言葉は恐怖とともに疫病のように広まっていた。そのとき、ひとりの老婆が、アズナイへとすがるように近づいて、話しかけた。


「ア、アズナイさま! わたしらは、どうなるんですかねえ? ミュートさまは人間や生き物を、みんな氷漬けにするつもりなんですかねえ?」


 アズナイは目を細めて、


「すみませんが、わかりません。いまは、女神ミュートの慈悲と、太陽神アルガーダの恵みを、願いましょう……」


 すると、老婆は失望したように手を引いて、なにごとかをつぶやいて去っていった。


(アズナイさまは、本気で言ってるんだろうか)


 そんな思いを抱きながら、リティはアズナイを追って歩いた。


 荷造りをして、遠い北の旅に出ようとする一団がいた。そのほか、帆船の帆を運ぶ者たちもいた。おそらく南へと出港するのだろう。


 ついにリティは森の深くまでやってきた。


 鳥の甲高い声がひびき、ときおり獣の声がした。木々の間から、冷たい風が絶えず流れてきた。


 リティはメイナと並び、アズナイを見上げていた。アズナイはふたりの頭に手を置いてから、腰を落として、


「仮に北に救済があるとしても。きみたちは、その旅に耐えられないだろう。だから、こうすることにした」

「アズナイさまは、どうするの?」


 と、メイナが尋ねた。


「私は、人々を連れて、北を目指そうと思う」


 こんどはリティが、


「でも、あんなにおぼろげな、伝承なんかを信じて……」


 するとアズナイは、薄く笑った。


「心を凍えさせてはならない」


 リティは聞き返した。


「心を……?」

「そうだ。人々は、北に住まう女神ミュートの怒りを。それから、その慈悲を信じている。北のはての救済を。いくばくかの、希望を持っている」

「でも、アズナイさまには、町のひとたちを守るべき義務は、ありませんよ」


 アズナイは苦笑して、


「みんなに、結晶の守りを与えることはできない。本当に守れるのは、きみたちだけだろう。ひどい守り神だな。せめて、その埋めあわせをしなけりゃならない」


 そのとき、メイナは涙声で言った。


「あたしは、アズナイさまと行くよ!」


 すると、アズナイは厳しい目つきで、


「ダメだ。それは。――いいかい、メイナ。きみの魔法は、リティと、きみ自身にとって、大切な導きになるだろう。忘れないでくれ。心を凍えさせてはならない。きみは。きみたちは、その灯りを携えて、生きのびろ」


 そこでアズナイはリティを見て、


「リティ、きみも、メイナを守るんだよ。きみの力は、繊細だけれど、新しい世界で、きっと必要になるはずだから。――世界は氷の静寂から産まれたとされているね?」


 リティはこくりとうなずいた。


「はい……、アズナイさま」

「いい子だ。きみの力は、静寂をもたらす。女神ミュートに祝福された、すばらしい才能なんだよ。リティ」


 リティは目をつむり、アズナイの言葉を聞いた。すべての言葉と、抑揚を聞き漏らすまいと。絶対に忘れることがないようにと。


「ふたりとも、力をあわせて、生きるんだ。そして、また会えるだろう。長い冬のはてで」


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