第6話 「やあ、アヤ、綺麗だね、相変わらず」
一色彩は卵料理を突っつき、ワインを啜った。
再び顔を上げると老監督はいかにも仕事熱心な様子の若い女性とテーブルに着いたところだった。きっと若いインタビュアーが昔の思い出を監督に訊ね、監督は取って置きのエピソードを色々と披露するのだろう、そうに違いない、と彼女は思った。
でも、私も彼も死の床まで胸底に秘め続けるに相違ないエピソードが一つだけ在るのだわ・・・。
あのテーブルに行って挨拶をすべきだろうか、と彼女はワインを啜りながら思った。けれども、彼にはこのわたしの姿がもう見えないのではないか、と心配になった。良い方の視力も衰えつつあり、盲目に近い、と言う噂は本当なのだろうか?それに、たとえ見えたとしても、私だということが解らないかも知れないではないか、わたしはもう、あの黄色いオープン・スポーツカーに乗っていた若い女優ではないのだから・・・。
彼女はまたテーブルに視線を戻してゆっくりと料理を味わい、ワインを飲み干して、コーヒーと勘定を頼んだ。ウエイターは又、直ぐに遠ざかって行った。
ちらっと老監督の方を見遣ると、彼は相手をしている女性インタビュアーににこやかに笑いかけていた。
コーヒーと勘定書が同時に届いて、一色彩は小銭を取り出そうと財布をまさぐった。
ふと気付いて顔を上げると、老監督が彼女のテーブルの傍らに立っていた。
「やあ、アヤ」
低い声が彼女の耳を打った。
立ち上がろうとした彼女の両肩を彼の手が軽く抱いた。
「綺麗だね、相変わらず」
声も無く彼の胸に顔を押し付け乍ら彼女は考えていた。
これから二人で車を駆って海際に出かけ、ロブスターを食べ、軽くダンスをし、それから、そう、共に一夜を過ごすことが出来ないものだろうか・・・と。
エンタメ短編「老女優」 木村 瞭 @ryokimuko
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