最終話
夏ももう終わるある日の正午、僕は列車に揺られていた。車窓から覗く風景は田園や生い茂る自然ばかりで、遠くの山の稜線が見えるほど建造物は見当たらなかった。澄んだ空色の色彩が目一杯視界に飛び込んでくる。絨毯のように敷かれた若緑色の夏畑とのコントラストが目に痛いほど綺麗に映った。
この列車が向かっているのは、いつの日かヒナと行った長閑な田舎町だった。五年前に二人で訪れてから夏の終わりになると毎年足を運んでいる。もう例年のことだが、思い出への道行に隣で話す楽しそうな声も花咲くような笑顔もないことが僕には淋しくて、大切なものが欠けている感覚があった。否が応でも彼女の不在を強く意識させられる。いつまでたってもこの欠落には慣れる気がしなかった。
規則的な振動を座席に感じながら、ふと五年という歳月の長さに呆れて視線を遥か遠くへと飛ばした。記憶の旅路をなぞるように、ここではないどこかへと思いを馳せた。何もしたくなかった。何も考えたくなかった。時間の流れに身を任せて、人生がどうにかなってしまうのを待っていた。
俯いたまま生きてきた人生の敗北者である僕は、ヒナを失くしたあの日から空を仰ぐことなんてしなかったから、窓の外の入道雲の遠さも、夏の空がこんなに高くて青かったことも忘れてしまっていた。ヒナがいなくなってからのたった五年が、僕にはどうしようもなく長いものだった。
この五年で色んなものが変わった。高校生になったばかりだった僕は大人になった。彼女がいない違和感に追い出されるように地元から逃げ出して、思い出にしがみついてなんとか生きている。当然ながら、僕と同い年だった人も、僕より年上だった人も僕より幼かった人も、五年分の年を取っている。みんな、変わっていく。変わってしまう。
ある夜、近所のスーパーで名前も覚えていない元同級生とばったり出くわしたことがあった。元同級生だったその男は僕に気づかないまま、安心しきったように眠る小さな子供を背負いながら隣の女性と笑いあっていた。僕は逃げるように店を後にするその瞬間まで、彼に見つかってしまわないか気が気じゃなかった。学生時代、彼は他人を貶めて笑いを取っている横柄な人間だった。僕は内心で彼を酷く毛嫌いしていたし、彼も僕のような鬱々とした人間のことを軽蔑して見下していただろう。そんな彼が幸せそうに笑っていた。何も買えなかった僕は手ぶらのままアパートまでの夜道を歩いた。理不尽な妬みや嫉みは抱かなかった。ただ劣等感と羞恥と後悔でどうにかなってしまいそうだった。
世界の時間がぐんぐんと進んでいく中で、僕だけが何も変わっていなかった。ヒナを失ったあの日から、何をしていても思考の片隅に思い出が滲んでくるんだ。夕暮れの中で横顔を見つめていた愛しさと、一つの約束さえ守れなかった後悔が同時に心を埋めて、ただ哀しくなる。今この人生を生きている意味が急速に曖昧になっていくような、そんな感覚にずっとつき纏われていた。
けれど、その自傷行為のような懐古に僕が救われていることもまた事実だった。情けないことに、今だってこうして思い出に縋りついて自分を慰めている。僕にとってあの夏の記憶とは、劇薬と鎮痛剤を一緒くたに混ぜて中毒性を極限まで高めたようなものだった。
息苦しさから逃れるように頭を振って窓の外の景色へ意識を戻す。体の中心まで青が浸透して透き通っていくような、そんな眩しい夏の気配がすぐそこにあった。思わず息を吞む。ずきりと心臓が疼く。
きっと人生なんて碌なものじゃない。目を見張るほどの青空も白い雲もどこまでも続く夏草も、僕の胸を痛くするだけなんだから。こんなに澄んだ景色を見たって、独りでいることがただ哀しいだけなんだから。
どんな綺麗な風景も、彼女がいたあの夏には敵わないんだ。決定的に何かが足りていなくて、どこか褪せて見える。この世界で息をするたび、目の前の景色に心を動かされるたび、五年前がより鮮やかに色づいていくだけだった。
もう戻らないものに焦がれてしまうだけなら心なんていらない。こんなに胸が詰まりそうなほど苦しいなら感傷なんていらないと、本心から思っている。それなのに、なんでもない夕焼けにさえ目を奪われて感情が揺さぶられてしまう。もう僕の隣にヒナはいないのに、それでも世界は美しいんだ。ふとした夕暮れにわけもなく泣きそうになるのも、道端でひっそりと咲いている名前も知らない花一つさえカメラに収めて大切に仕舞いたくなるのも、僕に心があるからだ。ヒナに出会う前の僕では考えられない感性が僕に根づいている。彼女のくれた心がずっと僕の中に残っているんだ。
なあ、僕はいつか読んだ童話のブリキさえ羨ましいよ。今すぐにでも心なんて消してしまいたい。後からどれだけ優しさや愛が欲しくなっても構わないから、どうか君のことを忘れる魔法を僕にかけてくれよ。もう君のことなんて見たくないんだ。
もうずっと、何をしても彼女が消えないから空想にすら縋ってしまう。忘れたいと願えば願うほど憧憬は強まっていくばかりだ。思い出の眩さに耐えられず目を閉じた。
夕暮れの中でさよならを言った彼女の笑顔は、今でも僕の胸に残り続けている。
◇◇◇◇◇
他の乗客がいない静かな列車の中で、僕はいつの間にか浅い眠りについていたようだった。目的地への到着を告げる車内アナウンスで目を覚ますと、車両の先から車掌がこちらの様子を窺うように見ていた。僕一人のために待たせてしまった申し訳なさからそそくさと座席を後にした。小さな駅のホームには列車を待っている人も降りる人もおらず、無人の改札を通り抜けて自動販売機とベンチが二つ並ぶだけの屋内から外へ出る。
時刻は午後一時を過ぎた頃。列車の中から見た夏の青天井はいつの間にか雨模様になっていた。しとしとと降る夏雨が柔らかくアスファルトを濡らしていた。自然に囲まれているせいか、普段より濃く感じる雨の匂いを吸い込む。酷く懐かしい匂いがした。
ふとした瞬間にさえあの頃に戻りたがる思考を切り替え、最寄りのコンビニで傘を買った。安物のビニール傘を叩く控えめな雨音に聴き入りながら、僕は四方を緑に囲まれた蒸し暑い田舎町を歩き出した。自分の生活圏から出るのはかなり久しぶりだった。ここしばらく家とスーパーを必要最低限の頻度で往復するだけの、まるで人間であることを放棄したような生活を送っていたから、こうして見慣れない町を歩くのは少し新鮮だった。損なわれ続けていた人間性が少し回復していくような気がする。今更まともになったってどうしようもないんだけれども。
用水路に沿って歩いていた僕の側を、一台の軽トラックが排気ガスを撒き散らしながら走り去っていく。辺りは静かで、ただ絶え間なく耳朶を打つ雨音以外に雑音はない。普段は嫌でも耳に入る蝉の声も聞こえなかった。あまり夏を感じないで済んだので僕にはちょうど良かった。
歩みを進めて少しした頃、僕の思考は半ば癖のように五年前の日々を漁っていた。ヒナと一度だけ訪れたこの町は、僕に刻み込まれた傷跡を刺激するには十分すぎるほど思い出が染みついていた。
僕は、ヒナと過ごした日々なんて忘れてしまいたいと思っている。もちろん、あの時間が無価値だったというわけではない。むしろその真逆だ。大事だったんだ。僕に向けられた笑顔一つで、惨めでつまらない人生を諦めきれなくなるほど僕にとってヒナは全部だったんだ。僕がどれだけヒナのことを大切に想っていたかなんて、そこらの幸せに生きてるやつらになんてわかるわけがない。自分さえ価値を感じることのないどん底の人生で、目を灼くほどの眩しさに憧れを抱いた。あんなにもただ誰かの幸福を願ったことなんて初めてだったんだ。楽しげな横顔を盗み見るだけで僕はそれまでのゴミみたいな人生を全て許せるほど穏やかな気持ちになって、それで視線でも合った日には気苦労の多いヒナも僕と同じように安らげるといいなんて傲慢にも願って。時間を引き延ばすためにお互いくだらない話題を探している少しの空白が、語り尽きて同じ景色をただ眺めている沈黙さえ、心が満たされるほど楽しかったんだ。
本当に、本当に大切な時間だったんだ。
だからこそ、何物にも代え難いその瞬間がこの世から永遠に失われていて、もう二度とヒナに会えないことがたまらなくやるせないんだ。早く忘れてしまいたい。この苦しさから一刻も早く逃げ出したい。本当にそう思っているのに、なんで僕はまたこうして一度訪れただけの思い出の残骸にすら縋っているんだろうか。
何度も繰り返した問いを重ねる。そんなこと、答えは誰に訊くでもなく既にわかっていた。
雨の降る田舎町を巡り歩いた。いつか彼女と歩いた記憶の轍を、今度は一人で辿った。
用水路を跨ぐ石橋を渡った。石橋の下を覗き込む彼女を思い出した。その忙しなささえずっと見ていたかった。
田畑に囲まれた畦道を歩いた。青空の下が似合うと言ったら「田舎者と揶揄っているのか」と少し機嫌を損ねてしまったことを思い出した。罰としてヒナを褒め称えるのも、それはそれで楽しかった。
バス停横のベンチに座った。停留所で夏の凶悪な日射しを凌いだことを思い出した。「こうしてると一緒に学校へ行く途中みたいだね」と屈託なく笑いかける彼女に素っ気なく返したことを少し悔やんでいた。
錆の浮いた廃バスの側を通った。バスの上に彼女と座ったことを思い出した。時代に取り残されているバスに、うまく人間社会に適合できず取り残されたような僕たちが乗っていることがおかしくて二人で少し卑屈に笑っていた。寂しい僕たちで皮肉な世界を一緒に笑えたことが心底嬉しかった。
寂れたアーケード街を歩いた。人の目も憚らず次々と店先を冷やかしたことを思い出した。遠慮がちな彼女に「どうせこの町には一度しか来ないから」と言って変なサングラスをつけて戯けてみせた。吹き出すのを我慢しながら「ありがと」と絞り出す彼女に僕のほうが何倍も救われていた。
河川敷沿いの堤防路を歩いた。ま夕暮れの中を並んで歩いたことを思い出した。不自然なくらい遅い歩調に気づきながら、お互いそれには触れずに歩いた。
全部、全部鮮明に憶えている。些細な言葉に一喜一憂するままならなさも、青臭くて未熟すぎるくすぐったさも、ふとした瞬間に弱さが覗く彼女のいじらしさも、全部憶えている。あんなに鮮やかな記憶を忘れられるわけがなかった。
そもそも、本当に忘れたいなら、仕事に達成感を見つけるなり、時間を忘れてしまうような趣味を見つけるでもいい。新たな交友を築くでもいいから、雑念が入り込む余地など微塵もないほど何かに没頭したらいいだけだ。たった数か月の関係にその後の人生全部を費やすなんて馬鹿げた話だ。安定した将来も、生活の余裕も、こんな僕を案じていた家族の情も何もかも投げ打った。客観的に見ても主観的に見てもどうかしている。自分がおかしいことくらいわかってるんだ。そんなこと、わかっている。
僕はきっと、これからの人生に意味や希望なんてものを幻視して、錯覚で無理矢理自分を納得させて生きるべきだったのだろう。折り合いをつけて、妥協を吞み込んで生きるべきだったのだろう。早いうちにヒナのことなんて過去にしてしまえばよかった。やりきれない違和感に蓋をして、「そんなこともあったな」なんていつの日か大人ぶって振り返りながら時折胸を温めるべきだった。日向のように優しいヒナが祈った僕の幸福とはたぶんそういうもののはずだ。
けれども、その綺麗で素直で安穏な生き方は、僕にとってはどこか嘘くさく感じてしまう類のものだった。だってそうじゃないか。たった一つの本物を忘れるなんて、思い出の喪失を受け入れる人生なんて、そんなものはどこまでいっても欺瞞と同義だ。ヒナを忘れて得る安らぎなんていらない。僕は、胸が張り裂けるほどどうしようもなく痛い人生が欲しい。
彼女のいない人生なんて徹頭徹尾ゴミみたいなものだったんだ。仕事にやり甲斐なんてなかったし、夢中になれる趣味なんてできなかった。人間関係なんて論外だ。他人の全部が偽物に見えて仕方がないんだ。僕にとっては思い出の中のヒナだけが本当だったから。思い出なんて、何度忘れる努力をしたかわからないくらいだ。そのどれも、実を結ぶことはなかったけれども。
結局のところ、僕はヒナを忘れるのが怖かった。あの日々が褪せてしまうことが、僕の中でヒナが少しでも薄れることがたまらなく怖かった。
彼女の声を思い出すとき、「本当にこんな声だったか」とほんの一瞬だけ疑念を抱いた夜があった。これから先の人生について少し考えてしまった夜だった。あまりの心細さから生まれた隙間に、疑問が芽生えた。自分の心の中で少しでも美化していないか不安だった。頭に響くヒナの声があの日と変わらないままだと、はっきりと言える自信が僕にはなかった。彼女の鼻歌を忘れたくなかったのに、あの少しズレたメロディがわからなくなってしまいそうだった。
夕陽の中で取り留めのない話を飽きるほどした。それなのに、一年、また一年と過ぎるほど、思い返せる会話が減ったように思えるんだ。僕たちはもっとなんでもない話で笑いながら一緒の景色を眺めていたはずなんだ。笑みを零す彼女に僕もいつの間にか頬を緩ませていたはずだ。いつか彼女の笑顔すらもぼやけてしまうかもしれないと、そう思った。
何を忘れてしまうかわからない恐怖が、忘れたことさえ忘れてしまう恐怖が僕を駆り立てた。嫌な予感に背を押されて、記憶に縋るように歩き出してしまった。
憶えていることが苦しくてたまらないのに、忘れることもできないまま僕は生きている。忘れたいのも本当で、忘れたくないのも本当なんだ。どちらも僕の紛れもない本心なんだ。ずっと、心に爆弾のような強い衝動を抱えて生きている。矛盾した感情が胸の中で暴れ狂っている。
いっそのこと、こんな意味のない人生もヒナのいない世界も、他人も青春も僕自身も全部吹き飛ばしてしまいたかった。僕が感じる胸の痛みを世界中に拡散して、みんな巻き込んでやりたかった。僕より幸せそうに生きている人間にも、僕と同じくらい空虚に息をしている人間にも、消えない傷を残してやりたい。無責任にこの世の全部を傷つけたかった。僕が抱える感情をとにかく発散できればそれでよかった。
僕とヒナは、未来を語ることにお互いどこか臆病だった。幽霊と生身の人間という存在としての決定的な隔たりがある限り僕たちの間に永遠はなかったから、傷つくことにも傷つけることにも慣れていない僕たちは二人揃ってその事実を直視しないようにしていた。けれど、そんな不器用で怯懦な僕たちの間にもたった一つだけ約束があった。悲しいほど綺麗な顔で笑う彼女に「君の名前を呼ぶよ」なんて柄にもないことを言った。安堵しきったような笑顔に見惚れながら立てた誓いは、守られることはなかったけれど。最後の瞬間まで、僕は彼女に何もできないままだった。
今でも夕焼けを見ると、不器用に涙を流す彼女の泣き顔と安心したような笑顔が蘇る。最後の会話がフラッシュバックする。
『柊汰は、私のこと好き?』
そう尋ねる彼女は、いつもよりずっと普通の女の子に見えた。だから僕はすぐ答えればよかった。質問の答えなんてわかりきっていたんだから。
けれど、僕は何も言えなかった。言ったら、そこで終わると思った。そして、言葉だけじゃきっと僕は心を伝えられないと思った。
僕がヒナに抱いていた感情の全部を『好き』なんて二文字で言い表すなんて、到底無理な話だった。それは二人でいた時間に対して、あの夕焼けに対して不誠実だ。彼女の健気な生き方にも、その心根に抱いた憧憬にも、あまりに冒涜的だ。恋よりももっと綺麗で濁っていて、愛よりももっと純粋で不純で、好悪よりももっと単純で複雑な、そんな気持ちをどうやって伝えればよかっただろう。
彼女がいるだけで、変哲のない景色でさえ胸を満たすほど鮮やかに見えたんだ。くだらない冗談に笑いあう時間さえ大切にしたいと思ったのは初めてだったんだ。冬休みの朝に、寝惚けまなこで覗いた窓の外の雪をとても眩しく感じるような、世界が綺麗に見えたあの感動をどうしたらわかってもらえただろうか。
そんなこと、言葉なんかで言い足りるわけがなかった。そんな感情を余すことなく正確に伝えられるような人生なんて送ってこなかった。たった一言くらいは、と割りきることすら僕はできなかった。いつかヒナが僕に向けた言葉を、少しでも裏切りたくなかったんだ。彼女が好きだと言ってくれた僕で在りたかった。だから、口を噤んだまま、言葉が胸に閊えたまま、心一つさえ伝えられなかった。不意に悲しみが溢れたように、彼女は泣いていた。
約束一つさえ守ることができず、言葉一つも返せないまま、ヒナはいなくなってしまった。
だからきっと、いつまで経っても褪せない思い出はそんな僕に与えられた罰なのだろう。たぶん、愚かな僕には懺悔する資格すらない。今にも破裂しそうな思い出を抱えて生きていくしかないのだろう。
ふと、眩しい光が傘を通して視界に飛び込んできて、足が動くままに進めていた歩みを止める。空を仰ぎ見ると、立ち込めていた分厚い入道雲の隙間から夏の晴れ間が覗いていた。いつの間にか町を包んでいた夕立は収まっていて、重なった色違いの厚紙を破いたように曇天の向こうから澄んだ青空が顔を出していた。
セピア色の空に、夏の光が射していた。それはなんだか凝り固まった心の外側を緩やかに溶かしていくように温かい色をしていて、体から力が抜けていくような感覚がした。弛緩した右手から傘を取り落としたことも気に留めず、一心に空を見ていた。息が漏れる。色褪せたフィルムのように淡く染め上げられた空は、ただただ綺麗だった。まるで、思い出の中にいるようだった。体中から芽生えた涙のような感覚が喉のすぐ奥までせぐり上げる。いつかの雨上がりの日の彼女の言葉を想起する。
『私、柊汰の言葉に誠実なとこ、結構好きだよ』
僕は言葉に誠実でなければいけない。彼女の期待だけは裏切ってはいけない。そう強く誓ったはずだ。僕に嘘なんて許されない。
そうだ。所詮さっきまでの言葉なんて全部嘘だ。詭弁だ。言い訳だ。他人を傷つけるとか、あの夏を忘れたいとか、忘れるのが怖いとか罪とか罰とか。どうだっていいことばかりだ。本当はそんなことどうでもいいんだ。執着とか後悔とか、未練も逃避も心に棲む爆破欲求さえも、そんな汚れた想いは全部情けない自分への言い訳でしかない。僕の心臓のずっと奥にある、彼女に貰ったただ一つの綺麗な心でずっと祈っているだけだ。
たった一言、伝えたいことがあるんだ。あの日言えなかったことを一言だけでいいから。
だからもう一度。もう一度だけ会えたら、なんて。
◇◇◇◇◇
浅葱色のペンキが塗られたドアを開けると、胸がすくような香りと植物の青臭さが一緒くたになって僕の鼻腔をくすぐった。棚の上にある一際目を引くような鮮やかな花から、テーブルの下にある雑草のような花、壁に掛けられた花束など、店内には所狭しと様々な花が陳列されていた。
僕が入ったのはフラワーショップだった。時代に追いつけないまま廃れようとしているアーケード街の入り口に位置しているこの店は、まるで周囲の雰囲気に馴染んでいなかった。というより、周囲の店とは率先して差別化を図っているような雰囲気すらある。店先にはより色鮮やかさを重視した花が置かれ、真新しい真白の外壁に若々しいウォールグリーンが掛けられていた。他の店とは時代からしてかけ離れているように見えるこの店舗の外観全体から、こんな田舎町から飛び出したいとでも発しているような場違い感があった。まるで寂れた商店街の色の大半を吸い取ってしまったようなこの花屋は、去年僕がこの町を訪れた際には見かけなかった。ちょうどこの後の用事に花があってもいいだろうと思い、少しの興味もあって寄ることにしたのだ。
「……いらっしゃいませ」
僕が次から次へと名前もわからない綺麗な花や青々しい葉物へと視線を移らせていると、商品棚の向こうから不愛想な声が聞こえた。カウンターの奥に座っていた声の主は、二十後半ほどの妙齢の女性だった。明るく脱色した髪にウェーブをかけ、胸の下あたりまで伸ばしている。不機嫌そうな声と同じくどこかむすっとした表情をしており、この女性もまた店舗と同じく自分が田舎町にいることへの不満を全身で体現していた。
「すみません、花を一本見繕っていただけますか」
僕がカウンターへ行きそう声をかけると、女性は一瞬品定めするように僕を見て、やっぱり不愛想なまま話し始めた。
「はあ、見繕うのは大丈夫なんですけど。……誰かへのプレゼントですか? それとも部屋に飾るやつですか?」
こんな奴が花なんて買うのか、と明らかに僕のことを訝っている様子だった。
「プレゼントというか、供え物です。もう亡くなってるんですけど、どんな花を供えたらいいかわからなくて」
言葉にした途端ずきりと痛む胸を無視してなるべく暗くならないよう平静を装った。悲運を嘆いているような素振りを見せれば同情でもされるかもしれなかったから、努めて軽く言った。
「……あなたにとってその人はどんな人だったんですか」
僕の言葉を受けた女性店員は、眉根を寄せながら言葉を選んでいるように口を開閉して、棘のない口調でそう言った。僕の口は考えるまでもなく自然に動いた。
「大切な人です。本当に、大切にしたかった人です」
口にするたび感じる息苦しささえも、大事にしたかった。
「……そうですか」と返したきり、女性店員は考えこむように黙っていた。
「あの……?」と僕が戸惑いの声を出した矢先、いくらか険しさが治まった表情で女性店員が口を開いた。
「大事な人なら、ご自分で選ぶべきですよ」
突然の見放すような対応に少し面食らう。
「でも、贈ったら縁起の悪い花とか、花言葉とか、あるじゃないですか。僕は詳しくないですし」
「そんなの関係ないです」
ピシャリと言い放つ彼女のそれは叱るような調子だったけれども、どこか諭すようでもあった。
「あんまり花屋の店員としてこういうこと言うべきじゃないですけど、花の持つ意味なんて関係ないです。どこかの誰かが決めた花言葉なんて、全部無視しちゃっていいんです」
口元は不愛想なまま目だけを優しげに細めるという器用な表情で女性店員が続ける。
「あなたが心の底から綺麗だと思った花を一緒に見てもらいたいなら、綺麗だと思った花を選べばいいんです。その人に似合う花を贈りたいなら、その人に似合うと思った花を選べばいいんです。その人に喜んでもらいたいなら、その人が好きな花を、あなたが選べばいいんです。……仮に縁起の悪い花を贈ってしまったとしてその人は怒ったりする人ですか?」
「……怒らないと思います」
むしろ彼女なら、そんな花を贈って意気消沈している僕を見て笑いながら揶揄うだろう。そうして僕のちっぽけな悩みなんて吹き飛ばした後、僕に見られない場所でこっそりとその花を愛でるような気がする。ヒナはそんな優しくて普通の女の子だった。
「でも、僕がそうやって選んで、本当にいいんですかね」
未だに恋々とする僕に「いいんですよ」と女性店員は言った。
「花ってそういうものなんです。意味とか伝統とか、そんな形式ばったものじゃなくて。……もっと素朴で純粋というか、子供みたいに飾らない心で楽しむものなんです。それでいいんです」
女性店員の言葉には説得力があった。ヒナもきっと、似たようなことを言うのだろうなと思った。
「そう、ですね。……選んでみます」
そう言って僕は店内の花を順に見て回った。かなり長い間様々な花を吟味する僕を、女性店員は黙って見守っていた。
「この花にします」
僕が選んだのは、淡い紫色の花びらをした花だった。豪華絢爛に咲き誇るというより、隣でこっそりと咲いていてくれるような、そんな印象を受ける花だった。ヒナの隣で咲いている情景を思い浮かべた際に、一番彼女に合うだろうなと感じる花を選んだ。たぶんその花が僕にとって一番綺麗な花になるだろうから。
「紫苑という花ですね。いいと思います」
「……一応訊いておきますけど、縁起の悪い花じゃありませんか?」
「大丈夫ですよ。……さっきはああ言いましたけど、むしろぴったりだと思います」
「え?」
言葉の意味がよくわからず疑問を返すも、女性店員は薄く笑みを形作るばかりで何も言わなかった。
そうして僕は紫苑を一本だけ買って店を出た。駅から出たときに空を覆っていた曇天はすでに跡形もなくなっていて、遠くの山の向こうまで青空が広がっていた。僕はまだ湿った音のする地面を歩き出した。
◇◇◇◇◇
背中に夏の日射しを背負いながら歩いているうちに、濡れていたアスファルトはいつの間にか乾ききっていた。どうせもう雨なんて降らないだろうと高を括って、傘は道中のコンビニに置いてきてしまった。暦の上では夏もそろそろ終わろうとしているのに、雨が止んで響きだした蝉の声もこの炎天も、そんなことお構いなしに地を這う僕へ真夏を浴びせていた。流れる汗が首筋を伝っていく。目的地まではもう少しだった。
道のりの途中、ぽつんと佇んでいた自動販売機でサイダーを買った。別に、こんな猛暑の日までサイダーが飲みたかったわけではない。もっと飲みやすくて清涼感のあるものを買うつもりだった。自動販売機でサイダーを見つけるとつい無意識に買ってしまうのは半ば僕に染みついた癖のようなものだった。炭酸がぱちぱちと喉の中で弾ける痛みも無視してペットボトルの半分ほどを一息に口の中へ放り込んだ。灼かれた喉は正常に液体を飲み込みきれず、気管支へと紛れ込んだサイダーが咳反射を起こした。何度か激しくむせる。
少しして咳が落ち着いた僕は、自分の情けなさに呆れて空を仰いだ。夏空の青さに全部が馬鹿馬鹿しかった。残りのサイダーを打ち水のように灼熱のアスファルトにばら撒いて、少しでも気温が下がってくれたらいい、と叶うはずもないのに淡く願った。夏なんて早く終わってしまえばいい。
それからさらに数分歩いて、ようやく目的地へと辿り着いた。そこは、この田舎町でもかなりの外れにある鄙びた場所であり、辺りには建造物どころか一軒の民家すら見当たらなかった。膝の下ほどまで雑草が茂る畦道を踏み分けて進む。少し先へ行くと、古ぼけた石柱がいくつも目に入った。かなりの年月を風雨に曝されていたのだろう。どれもくすんでシミができている。周囲に建つそれらを視界に捉えながらさらに奥へと足を運ぶ。
お目当てのものはすぐに見つかった。僕の目の前に、まだ艶の残る真新しい石柱が建っている。それを理解した瞬間、風が止んで夏の暑さが一斉に引いていく錯覚に陥った。僕の心は凪いだ水面のように穏やかで静かだった。
その石柱には『百瀬家之墓』と、そう刻んであった。
今日は、八月三十一日。ヒナが僕の前からいなくなったのはちょうど五年前の今日だ。生前の彼女がいつ亡くなったのか当時はわからなかったし、それは生前の彼女について知ろうと思えば可能な今でも変わらなかった。僕は、幽霊になる前の、普通の女の子として存在していた彼女の情報を意図的に閉ざしていた。本当の彼女を知ると、夕焼けの中のヒナが塗り替えられていくような気がしたから。今でも、僕は彼女の本当の名前を知らない。その状態が、歪な関わり方をしていた僕と彼女にぴったりだと思ったのだ。僕が夕暮れの神社でともに語らって寂しい時間を過ごした彼女は、百瀬という下の名前も知らない女の子ではなく、ヒナという笑顔のかわいい幽霊なのだ。僕にとっては、あの花火の夜にどちらからともなく繋いだ手の温度が本当の彼女だった。だから、今日が彼女の命日だった。
「……ヒナ」
この場所に来るまで、言いたいことはとめどなく溢れるばかりだった。忘れたいこと。忘れたくないこと。僕が幸せな人生を送れていないこと。僕が幸せになるためにはヒナがいないとだめだったこと。愛しさも恋しさも哀しさも淋しさも、感情の全部を余すことなく言葉にしたかった。五年前とは違って、考える時間はそれこそ倦むほど飽和していたから。それでも、いざ彼女の墓石を前にすると言葉なんて何一つ浮かばなかった。ただ濡れたように重い胸が詰まるだけだった。
僕は彼女の正統な関係者ではなかった。彼女の死後から関わり始めた、なんて他人が言っていたら僕でさえその人の正気を疑う。それに僕は、最後の瞬間まで彼女を泣かせてしまうような最低な人間だ。約束も彼女の気持ちも無下にしてしまった僕には、彼女を悼んで安寧を祈る権利なんてあるわけなかった。彼女はそんなこと気にも留めないだろうが、僕は自分がいかにも傷心といった面持ちで正常に彼女を偲ぶことを許せなかった。彼女の終わりを迎えるために関わり始めた歪んだ僕には、歪んだ悔やみ方があると思った。そうでなければきっと不誠実だ。
ろうそくも線香も持ってきていなかったから、僕にできることは花を供えることくらいだった。少し屈んで、花屋で買った紫苑を墓前に置いた。
「……この花、紫苑っていうんだってさ」
僕は死後の世界なんて信じていない。
「たくさん花があったんだけど、一番ヒナに似合うと思ったのがこれでさ。……一番綺麗だと思ったのもこの花だったんだ。他にも綺麗な花がいっぱいあってさ。選ぶのにかなり時間がかかったよ」
幽霊なんて非科学的な存在と一緒にいたけど、それでも僕は死者があの世から僕たちを見守っているなんて思わない。死んだら人は灰になるだけだ。無になるだけだ。死人に気持ちを伝えるなんて、どれだけ綺麗な言葉で誤魔化してみても結局は独り善がりな自己満足にすぎない。今更何を言ってもヒナには届かない。届くわけないんだ。そんなことは知っている。
「本当に……花が綺麗でさ」
それでも、願うくらいは許されてもいいじゃないか。
「……君と一緒に、見たかったな」
普通の生活も、人並みの幸福もどうでもいいから、ただ二人でいたかった。
「今更だけどさ。夕暮れも、綺麗に見えるようになったんだ」
夕陽を綺麗だという君にわからないと返してばかりだった。残念そうに君が笑うたび、乾いた感性しか持てない自分のことを不甲斐なく思っていた。やっと本当の意味で一緒の景色を見ることができるようになったんだ。同じ景色を眺めて、同じ感動に浸って、二人でゆっくりと話していたかった。一瞬見つめ合って、二人して笑みを零して並んでいたかった。そんな小さな幸福を、手のひらで包み込むみたいに大層大事にできたら僕はそれだけでよかった。ヒナがいてくれたらそれでよかった。
「僕はもっと、君と一緒にいたかったんだよ、ヒナ」
本当に、それだけなんだ。
僕の声が風に靡く夏草へと吸い込まれていく。紫苑の花びらが柔らかく風に揺れていた。
誰も僕に応えてはくれない。何も僕を気にかけることすらしない。僕がどんなことを呟いたとしても、世界はこれっぽっちも変わらなかった。夏は暑いし、空は青いし、白い雲は遠いままだ。人生の全部は息苦しくて仕方がないし、呼吸をすることすら億劫だ。何も変わらない。時間は遡らないし、ヒナがいないことは覆らない。
それがわかっていても、唯一美しかった時間を忘れたくなくて僕は思い出に触れている。他人から見たら煤けた思い出を、それでも色鮮やかだと信じて抱え込んでいる。僕の人生の全部はヒナだ。うまく言葉にできなくてもどかしいけれどきっとそうなんだ。
五年前の今日から、一度も涙は流れなかった。僕には人並みにヒナの不在を悲しむことなんて許されないと、心のどこかにある罪の意識がそう声高に叫んでいた。泣けない代わりに、この痛みをどこかへやりたくて空を見上げた。けれど、夏の空はやっぱり他人事のようにどこまでも高いままで、僕の心はどこへも行けないようだった。
僕は独り、夏の中にずっと取り残されたままだった。
◇◇◇◇◇
しばらくの間、ただ思い出に浸っていた。拙くて、弱くて、温かくて幸せな記憶を脳裏に思い描いていた。あの夏の眩しさを、かけがえのなさを感じていた。出会った五月を思い出して、六月の雨と閉塞を思い出して、七月に感じた夏の匂いを思い出して、綺麗だった八月の日々を思い出して、そして。
目を開ける。硬い墓石と柔らかな花がそこにあって、ただ切なくなった。こういうときに限って風は優しく首元を通り過ぎていって、その呆気ないくらいの寂しさが現実なんだぞと思い知らせてくる。世界がもっと残酷で汚れていたら、僕はもっと悲劇的に自分を憐れんで都合よく思い出に酔えたのかもしれない。
いくらそんなことを考えても仕方がなかったから、僕は帰ることにした。今後何十年祈り続けてもヒナが戻ってくることなんてないのだから、早くあの夏の気配から離れて何もしない生活に戻ってしまいたかった。それが一番苦しくなくて済むから。
僕が一人の老女とすれ違ったのはそんなときだった。歩く姿を見るだけでわかるくらい所作が丁寧な女性だった。髪は白く染まっていて、なんとなく苦労人なのだろうなという印象を持った。バケツや柄杓を持っているので親族の墓を掃除しに来たのだろう。あまり墓石同士の感覚が空いておらず道が狭かったから、軽く会釈をしながら側を通り抜けようとした。僕が体を寄せて道を開けると老女は和やかに微笑んだ。目に皺を寄せてくしゃりと笑っていて、穏やかな年の取り方をしたのだと思った。
ふと、似ていると思った。あるいは、僕がそう思いたかっただけなのかもしれないけれども。
「あの、すみません」
声をかけると、老女はゆっくりとした動作でこちらへ振りいて疑問を浮かべる。老女が掃除をしようとしているその墓石は、先程まで僕が花を手向けていたものだった。そしてやはり、どことなく顔立ちが彼女に似ている気がした。
「もしかして……百瀬さんの、お祖母さんですか?」
逸る気持ちから、自己紹介もしないままそんなことを訊いてしまう。百瀬さん、と彼女を不慣れな呼び方しかできないことに心が軋んだ。
「ええ、そうですが……あなたは?」
果たして、老女は僕の予想どおりヒナの祖母に当たる人物のようだった。心当たりがない、といった表情で僕を見ている。
「いきなりすみません。百瀬さんの知り合いの、高倉といいます」
「あの子の……」
ヒナの祖母は僅かに目を丸くしてから、思うところがあるようにそう呟いた。含みのあるその様子に思わず疑問の眼差しを向けてしまう。
「いえ、すみません。つい、ほっとしたんです。あの子にも、ちゃんと会いに来てくれる人がいることに」
ヒナの祖母は弁明するようにそうつけ加えてから、懐かしむように目を細めた。その眼差しだけで、彼女がヒナのことを大切に思っているのが痛いほど伝わってくる。
「あなたも知っているかもしれませんが、あの子の人生は……とても厳しかったから。自分を思ってくれる存在は、あなたが思うより大きかったと思います。……私からもお礼を言わせてください。改めて、ありがとうございます」
そう言ってヒナの祖母は深々と頭を下げた。彼女の生前どころか死後にすら悲しませてしまった僕なんかに、どこまでも真摯に感謝していた。あなたが頭を下げる必要はないのだと、そう伝えても頑なに顔を上げようとしない愚直さが彼女と似通っていた。なんとか言葉を重ねてようやく頭を上げてもらうと、ヒナの祖母はまるで贖罪をするように、感慨に耽りながら呟いた。
「こうして今更保護者面をしても、あの子は何もしてあげらあれなかった私のことを憎く思っているかもしれませんが」
「憎んでいるだなんて、そんなことはありませんよ。心配をかけたくないと、そう言っていました。……彼女は底抜けに優しいですから」
「……そう、ですね。そうだと思います。……ありがとうございます」
僕の言葉に感じ入るようにゆっくり頷いて、ヒナの祖母は嫋やかに微笑んだ。そんな仕草もやっぱりどこか彼女と似ていた。
「では、あまりお墓の前で話し込むのも申し訳ないので、僕は失礼します」
掃除の邪魔にならないよう、僕はそう言った。
「はい。……あなたのような人に大切に思ってもらえて、あの子はきっと幸せだったと思います」
立ち去ろうとする僕に、そんな言葉が投げかけられる。本当に、僕は彼女を幸せにできていたんだろうか。もっと最善の別れもあったはずなのに、あの終わり方は本当に幸せだったのだろうか。内心でそう思いながらも、後悔ばかりの日々を誤魔化すように適当な笑みを返した。
「……そうだといいですね」
そうして振り向いた僕の背に、老女は餞別のように言った。
「あの子を、
その言葉を聞いた瞬間、僕は息を吞んだ。なんの脈絡もないまま、心の一番柔らかい場所を抉られたような感覚がした。ヒナ、という意味を持った音が他人から聞こえたのは初めてだった。
「今、なんて……」
聞き間違いかもしれないと、そう思った。幽霊である彼女につけた仮の名前を知っている人間が、この世にいるはずないのだ。にわかに早鐘を打つ心臓と信じられない気持ちを抑えて尋ねる。
「ですから、
目の前の女性は、確かにヒナと口にした。話題に上がっていた彼女の名前を、
「
恐る恐る確認すると、老女はどこか戸惑いながらも「ええ」と肯定した。
「すみません、ずっと名字しか知らなかったもので」
言い訳をするようにそんなことを言って、僕はヒナの祖母に軽く挨拶をしてからその場を離れた。覚束ない足取りで小さな駅のホームまでの長い道のりを歩く。自分の感情すらわからないほど心が乱れていて、ただ機械的に足を動かしているといつの間にか帰りの列車に乗っていた。
ヒナの祖母が僕に嘘をつく理由もないし、生前の彼女の名前が
帰りの列車の中、僕はずっと食い入るように窓の外を流れていく景色を見ていた。現実をちゃんと認識してしまうと夢のような今が醒めてしまいそうだったから、ここではないどこかの、遠くの空だけを眺めていた。
そうしてぼんやりとしていたからだろうか。気づけば、僕が降りるはずの駅はとっくに通り過ぎていた。車内アナウンスが流れる。世界は、やはり意地が悪いのだと思った。どんな運命なのか、次にこの車両が停車するのは、たった一度だけ彼女と夏を過ごしたあの街だった。僕が逃げ出した、思い出の街だった。
生前のヒナの名前を知って、懐かしさにやられていたのかもしれない。心のどこかで、味気ない部屋に一人暮らすことを心細く思っていたのかもしれない。正直、自分でも心を言語化するのが難しかった。ただ僕は、誘われるようにその駅で電車を降りてしまった。
既に時刻は午後五時を過ぎていて、八月の日没まではもう一時間も残っていなかった。駅前の喧騒から逃げるように離れて、迷子の子供のように当てもなく歩く。地元を出て三年が経っていたが、夕陽を受ける街並みは驚くほど代わり映えがなかった。
踏切の音を聞くのも久しぶりだな、と住宅街の生活感を感じながら踏切の前で列車の通過を待った。ほどなくして電車が通過し、遮断機が上がる。その向こうに、二人分の人影があった。
踏切の向こう側から歩いてきたのは、制服を着た二人の学生だった。一人はこの辺りでは珍しいセーラー服を着た少女で、一人は夏服を着た少年だった。少女が揶揄うように数歩先を歩いて、溜め息をつきながらもどこか楽しげに少年がその後を追う。僕に見向きもせずすれ違うその二人は、こんな寂しい夕暮れの街で青春というものをささやかに謳歌していた。
ふと、言いようのない喪失感とともに、先を行く彼女の背を追っていた懐かしい感覚が蘇る。その二人の少年少女に、いつかの思い出を幻視する。それはまるで。その光景は、まるで、いつかの。
つい、そんなことを考えてしまった。自分の感情に耐えられなくなって、僕は走り出した。懐かしい街並みに感じる郷愁も、ぶつかった誰かが背後から文句を言ってくるのも全部無視した。どうしようもなく、何かから逃げ出したくなってしまった。運動不足や不摂生が祟ってすぐに肺が痛くなった。息を吸うたびに張り裂けるような痛みを感じて、脇腹の筋肉も抉れてしまいそうだった。それでも、僕は走った。いつかの児童公園、並んで歩いた住宅街、人通りの少ない坂道。その全部があの夏を想起させる。それらを振り払うように僕は走り続けた。思い出から逃げるように、思い出が失われた今から逃げるように。
そして、何回も彼女と往復した石段を登りきって、遂に見慣れた神社の頂上へと辿り着いた。
その場所からの景色を望んだ瞬間、僕はなんだか泣きそうになってしまった。五年の月日が経っていても、僕らの秘密基地のようだったこの場所は何も変わっていなかった。酷く喉が渇いていたからサイダーを買った。足が今にも攣りそうだったし、肩で息をしていたけど、妙に頭が冴えていた。夕風が熱を持った首筋を冷ましていく。夕焼けが目の前にあった。あの日と同じような、綺麗な夕焼けが。思い出すのはいつかの観覧車で交わした指切りだった。
名前を呼ぶという、一つの約束があった。僕はそれを守れなかったと思っていたけど、仮に生前の彼女が『
言葉一つも言えないで、約束すら守れなかった最低な僕には、今更あの頃の後悔を晴らす資格がないのだと思っていた。悔やんで、偲び続けることが僕への罰だと思っていた。けれど、もし、約束が果たされていたことになるのなら。それで一つだけ罪が消えるのなら。君が、それを許してくれるなら。最低な僕も、一つくらいは言ってもいいのだろうか。
「なあ、ヒナ」
あの日からずっと、言いたかったことがあるんだ。もし、心をそのまま言葉にしてもいいのなら、本当にずっと言いたかった。
「僕は」
鼻歌を歌う君も、雨の中で笑う君も、勉強につきあってくれる君も、カメラの中の君も。
「ずっと」
嬉しそうに小指を結んだ君も、夜の公園で拗ねていた君も、笑ってさよならを言った君も。
全部、憶えている。
「ずっと」
五年も経ってから言うなんて遅すぎるし、君に届くわけでもないけど、それでも言いたかった。いつも君と過ごしていた夕焼けの中で、あの夏の記憶が蘇っていく。どうしようもないほど、失くしてしまった時間を思い出してしまう。思い出が、溢れていく。
許されない罪を口にするように、過去を悔やむように、思い出を愛おしむように、僕は言った。
そうだ。僕は、ずっと。僕も、ずっと。
「君のことが好きだったんだ」
世界の片隅、夕暮れの神社。誰にも届くはずがないけれど、それでも。
夏の終わり、僕は君に告白をする。
夏の終わり、僕は君に告白をする @huhuhu-888
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