第18話
八月三十一日。夏休みの最終日。それまでの日常が全部幻だったかのように空虚な一日を送っていた。ヒナがいなくなった。たったそれだけで、僕の人生は急に意味をなくしてしまった。どうにも気力が湧かなかった。明日からまた学校が始まることはわかっていたけど課題には手をつけなかったし、映画や小説も楽しめる気分ではなかった。エアコンを点けることも億劫で、生温い部屋でただ横になっていた。
昨日、僕は自転車に乗って一日中街を奔走し続けた。下校中に一度だけ試してみた近道や回り道にすら縋るように、少しでも心当たりのある場所を総当たりで訪れて虱潰しに彼女を探して回った。けれど、一向にヒナの姿は見当たらなかった。結局僕は丸一日使って、彼女が身を隠そうとしたときの果てしなさと彼女の意志の強さを思い知っただけだった。僕にできることはほとんど残されていなかった。
元々の予定では、次の土曜日に彼女が暮らしていた町へ行って生前の名前を探り、僕がその名前を呼ぶはずだった。それで、終わるはずだった。だから、夏の終わりである今日が二人でゆっくりと過ごせる最後の日だった。けれど、彼女はどこにもいなかった。
もしかしたら彼女はもう僕の前に姿を見せないのかもしれない、とも思った。出会った当初とは違ってヒナはもう記憶を取り戻しているのだ。僕のような霊感のある人間が居なくても、なんらかの方法で成仏することは可能だろう。そうでなければこの世は幽霊で溢れてしまう。畢竟、彼女がこれ以上僕との関わりを要する絶対的な理由というのはどこにもなかった。
それがわかっていても、僕はあまり焦っていなかった。今後の展望は不透明なままで、確かに僕は彼女がどれだけ本気で成仏しようとしているのか理解してしまったけれど、それと同時に彼女の無類の優しさや弱さも知っているのだ。律儀で誠実で、決して強くはない彼女に会うチャンスはまだ残されている。僕はじっと、壁に掛かった時計を見る。時刻は午後四時を指していた。もう少しでいつも僕たちが夕陽を眺めている時間だ。制服に着替えた僕は、心を落ち着かせるように、いつもよりものんびりとした足取りで家を出た。
◇◇◇◇◇
果たして長い石段を登った先には、セーラー服を纏った少女が夕焼けを見つめるように座っていた。石段を登って彼女に近づくたび、淀んでいた心が梳いていくようだった。自分の部屋にいる間は言いたいことも訊きたいことも飽和するくらい浮かんでいたのに、それが段々と溶けていく。彼女の面持ちが見える距離まで来ると、僕の心は限られた時間で感情を余すことなく伝えられるよう最適化されていった。今更彼女に明日以降のことを尋ねるのは野暮だった。それほどまでに彼女は透徹した表情をしていて、僕はこの夕焼けが僕たちの最後であることを悟った。
頂上に着いた僕はいつもの定位置、彼女の左隣に無言で腰を下ろした。たった一日会っていなかっただけなのにそれだけで安堵が募った。ポケットに手を入れたときのような、収まるべき所に収まった感覚があった。正面の夕陽はいつもどおりの鮮やかな茜色をしていた。そのいつもどおりが、花火の夜から僕にはずっと綺麗に見えた。今になって思い返せば、僕は何度も景色を綺麗だと思っていたのかもしれない。僕にその感覚を教えてくれたのは紛れもなく彼女だった。
僕たちは、黙って夕暮れの中で同じ景色を見ていた。燃える夕陽を見ている時間の分だけ、僕たちの時間もなくなっていくことをわかっていながら、鮮やかな斜陽から目が離せなかった。
どれくらいそうしていたのか、しばらくするとヒナがぽそりと呟くように言った。
「夕陽、綺麗だね」
「……うん」
僕はそれに短く返した。それからまた少し間を空けて彼女が言う。
「今まで、楽しかったね」
思い出を振り返るように、彼女は明るく微笑む。僕にはそれが、死期を迎えた病人の安らいだ微笑みのように見えた。これから先はないと、彼女の瞳が物語っていた。
「うん。……楽しかったよ、本当に」
僕はそう返す。会話を発展させたくなかった。言葉を交わさないまま、夕暮れがずっと続くという錯覚に浸っていたかった。また少し経ってから、隣で彼女が口を開こうと軽く息を吸う。続く言葉を聞きたくなくて、耳を塞いでしまいたかった。
「今日でもう、お終いだね」
ヒナが凪いだ口調でそう呟く。その事実を頭では理解していたのに、どうしても頷くことができなかった。否定も肯定もできないまま、僕はただ彼女の目を見た。
「……最後なんだから、返事くらいしてよ」
僕と視線が合って、冗談でも言うかのように彼女が薄く笑う。それが虚勢であることは僕にもわかっていた。冗談でも言っていないと、今にも心が決壊しそうだったんだ。
少し沈黙が流れてから、彼女は首を傾げてはにかみながら僕に尋ねた。
「……ねえ、柊汰。柊汰は私のこと、好き?」
ただの年頃の女の子が精一杯の恋愛をするかのように、彼女は恥じらいながらも純朴に笑った。その普通の笑顔に酷く心が揺れる。危うく感情をそのまま答えてしまいそうになる瀬戸際で、僕は言葉を選んで返す。
「……好きだって言ったら、君はもういなくなるんだろ」
「うん。たぶんね」
成仏することをずっと不安に思っていたはずなのに、ヒナは事も無げに答えて見せる。こんな状況になってもそうやって彼女に強がらせてしまう自分に腹が立った。
「じゃあ、言えるわけないだろ」
「……そっか」
残念そうにそう口にすると、彼女は地面に置かれた僕の手を握った。確かめ合うような夜祭りのときとは違って、弱々しく僕の手に自分の手を添えるように握った。
「私ね、柊汰のこと好きだよ」
僕の目を見つめるヒナが揺れる瞳でそう言った。その熱を持った眼差しに、頭がくらくらしそうになる。今すぐ彼女を抱きしめられればどれだけ最高かわからなかった。
「生きてるときは柊汰のこと知らなかったけど。もう死んでるくせに何言ってるんだ、って思われるかもしれないけど」
自身の感情を否定する理由をいくつも持ってきて、それでも自分の心を信じるかのように、折れない花のような強かさで彼女は僕を見る。
「……本当に、好きだよ」
そう告げるヒナは、悲しいほど綺麗な顔をしていた。その瞳にどれだけ彼女の思いの丈が詰まっているかは僕にも計り知れないだろうし、彼女の言葉に僕が受けた衝撃もきっと彼女にはわからないだろう。今後の人生全部を左右するほどの、そんな感情の熱が伝わってくる。
「大好きだよ」
彼女はもう一度、今度は消え入るような弱々しさでそう繰り返した。虚勢が剥がれていくように徐々に俯いて、その頭を僕の胸に預けた。僕の肩にそれぞれの手でしがみついて、心臓の辺りに頭を押しつける。
「……消えたくないよ」
本当に小さな声でそう呟いてから、ヒナは嗚咽を堪えるように泣き始めた。彼女が頑として見せようとしない泣き顔を見てしまうわけにもいかず、僕はただ、彼女の髪を優しく何度も撫でつけていた。泣いてしまう彼女さえ、僕はどうしようもなく愛しかった。
しばらくして泣き止むと、彼女は先程と同じ問いを口にした。
「柊汰は、私のこと……好き?」
「僕は……」
僕は何も言うことができなかった。自分の胸中にある感情の正体なんてとっくにわかりきっていた。それでも、言葉にするのはどうしても躊躇われた。好きと言ってしまえば彼女はいなくなる。全部伝えてしまえば、彼女は満足してしまうかもしれない。辛うじて彼女を繋ぎ止めている未練という糸が途切れてしまうかもしれないのだ。好きという彼女の心に、同じ心を返せたらどれだけよかったか。こんな悲しそうな彼女に、僕は言葉の一つも言えないのか。
「僕、は」
好きなんかじゃ足りないんだ。好きとか嫌いとか、そんな簡単な話じゃない。世界の創生よりも壮大で、日々の夕食の献立よりも身近に、僕はずっとヒナを求めている。きっとどれだけ言葉を交わしても言い足りないし、どれだけ一緒にいても伝え足りない。ずっと僕の側にいてほしいし、彼女が幸せなら僕と離れていてもいい。興味のなかった景色がいつの間にか大切な場所になっている感覚をわかってもらいたい。本当に、生まれて初めて誰かの幸せを願ったんだ。ヒナが笑ってくれるだけで、虚しいだけだった自分の人生が案外捨てたものじゃないなと思えたんだ。ヒナに僕を愛してほしいし、ヒナが僕のことを愛さなくてもいい。僕が抱えるそんな矛盾も、余すことなく伝えたかった。
君が、全部なんだ。今の僕の人生は全部ヒナのものだ。そんな感情を、僕の世界を、どうしたらわかってもらえるだろうか。言葉が邪魔だった。体が邪魔だった。時間が邪魔だった。他には全部要らないから、ただ心をまるごと彼女に渡したかった。そうして初めて、彼女に伝えることができるだろうから。
どれだけそう願ったところで、僕は一言も伝えることができなかった。どんな言葉をかけたらいいのか、わからなかったんだ。とりあえずで選んだ言葉を口にするのはきっと誠実じゃないから。僕の心が全部伝わる、奇跡のような言葉を探していた。
「……ごめんね、変なこと訊いちゃって」
ずっと黙っている僕に、ヒナがそう微笑む。大粒の涙が彼女の瞳から零れて頬を伝った。
「……あれ? おかしいな。私、なんで泣いて……」
自分でも泣いている理由がわからないのか、困惑したような顔のまま彼女は次々と溢れる涙を忙しなく拭う。それでも、とめどなく涙は流れていく。焦ったように涙を止めようとしていた彼女は、やがて心が体に追いついたかのように、押し殺すように嗚咽し始めた。
ヒナの泣き方はとても不器用だった。泣くこと自体が許されていないかのように、必死に声を抑え込もうとして何度も鼻を啜っていた。不規則に息継ぎをして、誰の気分も害さないように泣いていた。僕は、彼女の悲嘆を受け入れたかった。一緒に悲しんで、一緒にまた笑い合う、そんな存在になりたかった。
どんな高価な宝石を扱うよりも丁重に、彼女の頬に手を伸ばす。触れると、ヒナは怯えるように一瞬身じろぎをしてからその目を閉ざした。慈しむように、親指の腹で頬を伝う涙を優しく拭う。ゆっくりと瞳を開けた彼女の目を見て言った。
「僕はヒナに、笑っていてほしいよ」
それは紛れもない本心からの祈りだった。泣いている彼女にそれだけしか言えないことが心苦しかった。好きと言えない代わりに、ありったけの感情を込めて呟いた。本当に、傷つく彼女の弱さにそれも含めて全部が好きだと言えたら、どれほどいいかわからない。ただ、心を伝えられないことが痛かった。心が痛くて、泣きそうになってしまった。
そんな僕の言葉を呑み込むみたいに目蓋を閉じていた彼女は、少しの間を空けてから不器用に笑った。
「そう言う柊汰こそ、泣きそうな顔してるよ」
そう言って僕を見る優しいその両目から、もう涙は流れてこなかった。
それから、またいつものように夕焼けを眺めた。並んで、座って、夏を過ごした街を見ていた。僕は今この満ち足りた瞬間を少しでも憶えていられるように、澄んだ夕陽を目に焼きつけていた。そんなとき、隣で同じようにしていたヒナが前触れもなく言った。
「私ね、誰かに大切に想われたかったの」
唐突な独白に追いつけない僕の視線も気にしないで、彼女は続ける。
「誰かに愛してるって言われたかったのもあるけど」
嫌な予感がする。
「柊汰が私のことを想ってあんなに痛そうな顔をしてくれるだけで、私は十分嬉しいんだよ」
ヒナは、締め括るみたいにそう言って朗らかに笑った。何を締め括ったのかはわからない。ただ、きっと今彼女の中では何かにけじめがついたのだと、それだけはわかった。その綺麗な笑みに僕は不安を募らせていく。
「……ヒナ」
彼女は立ち上がって、階段に座っている僕を置いていくように境内へと歩いていく。まだ日没には少し早い。焦りから彼女の名前を呼ぶ。部屋にあった花からつけた、仮の名前。最後までそんな名前しか呼べない僕に、彼女は振り返って笑った。思わず僕も立ってその手を握る。彼女の手の感触は何も変わらないのに、どんどん存在が希薄になっているように感じてならない。
「待て。……待って、待ってくれよ」
押し寄せる悪い予感から駄々を捏ねる子供のようにそう繰り返す僕の手を取って、彼女は指の一本一本を丁寧に解いていく。夕陽に照らされる彼女は、まるで今が人生で一番幸福な時間かのように、穏やかに笑っていた。
「まだ何も、言えてない。言いたいことは山ほどあるんだ。……それに、約束だってある」
今にも彼女は消えてしまうのだと、僕は悟った。彼女は一歩も動いていないのに、なぜだか段々と遠ざかっていくような気がする。遊園地で交わした約束すら彼女を引き留めることはできなかった。
「君の名前を呼ぶ約束だって……守れて、ないのに」
ヒナを見る。変わらず、とても綺麗に笑っていた。
「……そんな顔で笑わないでくれよ」
その笑顔が愛おしくて仕方がないんだ。僕なんかに仮の名前を呼ばれたくらいで、そんなに満たされた顔をしないでくれよ。僕なんかが理由で未練を失くさないでくれ。もっと一緒にいてくれよ。まだずっと、僕に笑いかけてくれ。
そんな祈りが溢れて、彼女には届かないまま夕暮れに溶けていく。
「私のこと、忘れないでね」
僕の頬に手を伸ばした彼女がそんなことを言う。そして、僕の目を見て満足気に頬を緩めた。
「……さよなら」
そう言って、彼女は優しく笑った。今までで一番綺麗だったかもしれない。それが眩しかったからか、涙が零れてしまいそうになったからか、思わず僕は瞬きを一つした。瞬きをしてしまった。それが、最後だった。
「……ヒナ?」
たったそれだけの間に、ヒナはいつの間にかいなくなっていた。ただ変わらない夕焼けがそこにあった。
◇◇◇◇◇
そうしてヒナはいなくなった。何か神々しい光に包まれるでもなく、段々と体が透明になっていくわけでもなく、瞬きをする間に呆気なく消えてしまった。なんの痕跡も残すことはなく、僕を置き去りにしていなくなった。不思議と、僕の心に悲しさはなかった。現実味がなかったのだ。きっと何かの間違いで、夕焼けの中で待っているといつか彼女が戻ってくると思っていた。いつまで経っても、悲しみが心に追いついてくることはなかった。その日僕は、日が沈むまでじっと夕焼けを眺めて、日没の後家まで帰った。
翌日から学校が始まった。課題を提出しなかった僕は新学期早々慌ただしい日々を送ることになった。学校が終わればいつもの神社へ行って、日が沈みきるまで石段の頂上に座っていた。ヒナがいつ現れてもいいように、喉を潤すサイダーも毎回買っていた。僕が神社でサイダーを口にすることはもう二度となかったけれども。
そうして日々は過ぎた。確か、九月が終わる頃だっただろうか。ある日の下校中、夕暮れの中を歩いているとき、僕はふと蝉が鳴かなくなっていることに気がついた。他にも、散歩して汗ばむことがなくなったし、僕が着ている制服もいつの間にか夏服から移行していた。そんな周囲の変化に遅まきながら気づいたのだ。そういった情報の断片で、僕はようやく夏が終わったことを知った。心のどこかで夏が終わらないものだと思っていたけれど、夏の死骸のような情報群に、夏の終わりを認めるしかなかった。
そうすると、まるでぼやけていたレンズのピントが合うように現実感が日常に追いついてきた。そして僕は、もうこの世にヒナがいないことを理解した。最後まで涙が流れることはなかった。
これが、今から五年前にあった僕とヒナの話だ。全部はもう、思い出の中にしかない。
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