第17話

 八月二十九日、月曜日。今日を除けば夏休みもあと二日で終わる。今更思い出を作ろうとあちこちを巡ることもせず、僕たちはいつもの神社で穏やかな時間を過ごしていた。石段の頂上に座ってゆっくりと取り留めのない話をして、僕が暑さに耐えられなくなったら木陰へと避難してサイダーを飲んで、真正面の大きな入道雲を見て気紛れに散歩をしたりして、そうして夏の日を謳歌していた。僕はもう、どこかへ行かなくてもいいのかと尋ねることもしなかった。彼女と何もしないでただ隣にいる時間の価値を思い知ったこともあるし、昨夜の花火が何よりも綺麗な思い出になることを知っていたから、ただ流れる時間に身を任せていた。


 何かに集中していたわけでもないのに、気がつけばあっという間に夕方になっていた。僕がヒナとの時間を好いている証左とはいえ、一日が急速に終わっていくことを少し恨めしく思っていた。ヒナといる時間がつまらなければもっと時間は長く感じるのだろうけれど、その場合はそもそも時間の短さを惜しんですらいないと思うと、ままならなさは呑み込むしかなかった。


 初夏に比べると日が落ちるのも随分と早くなっていて、最近は『夕焼け小焼け』が流れたと思ったら瞬く間に夜が来る。僕たちは相も変わらず日没とともに神社を後にして別れていた。今日もきっともう幾許かの時間が経てば十八時のチャイムが鳴って完全に日が沈む。あと少ししかない貴重な時間が躊躇なく擦り減っていく。燃える夕陽がずっとそこで浮かんでいたらいいのに、とあり得ない空想にすら縋ってしまいそうだった。


 夕焼けを眺める僕の頭の中では、ずっと昨日の花火大会の記憶が反芻していた。初めて綺麗だと思った景色と、酷く胸を打つ彼女の笑顔。それらをまだ僕は見ていたかった。そんな儚い願望を諦めきれなかった僕は、ヒナに伝えるべきか一日中迷っていた言葉を口にしてしまった。


「ヒナ。……話があるんだ」


「何?」


 重苦しい表情を作る僕とは対照的に、ヒナは穏やかな笑みを浮かべていた。何気ない瞳で彼女が僕を見る。僕が言おうとしている言葉は少なからず彼女の心を搔き乱してしまうもので、なんと切り出せばいいかわからなかった。黙っている僕の様子に気づいた彼女が心配そうに首を傾げる。その綺麗な瞳に見つめられる分だけ、自分が伝えようとしていることに自信がなくなっていく。だから、はっきりと言葉にできるよう無理矢理自分を奮い立たせた。その結果、もしかしたらヒナは僕がこう言い出すことを待っていたのではないか、なんて愚かしい勘違いをしてしまった。


「成仏するの、さ。……やめにしよう」


 笑みを浮かべればいいのか悲しめばいいのかわからなくて、僕はただヒナを見てそう呟いた。彼女がこんな言葉を望んでいないことはわかっていたのに、それでも、少しくらいは僕たちの終わりを先延ばしにできると思ってしまった。


 え、と絶句したようにヒナは微かな声を漏らす。それだけで僕の淡い期待はすぐさま打ち砕かれた。それが取り返しのつかないくらい彼女の心を抉る言葉だったことは、その表情を見れば痛いほど理解できた。


 重苦しい間が空いた後、俯いた彼女が普段からは想像できないほど低く震える声で弱々しく呟く。


「……なんで今になってそんなこと言うの?」


「気づくのが遅すぎたんだ。何もかも、遅かったんだ」


 そんなことしか、僕は返すことができない。


「私が、何日もかけて覚悟してたのに。せめて夏が終わるまで、ってそう言い聞かせて。それでやっと決心がついたのに、どうして今になってそんなこと言うの?」


 苦しみに悶えるように顔を歪めながら、哀願するように、啜り泣くようにヒナが言う。僕はそれ以上何も言葉を返すことができなかった。ただ、後悔ばかりが募っていく。


「これ以上、私の心に入ってこないでよ」


 それは、この世に存在するどんな罵倒よりも深く僕の心に爪を立てた。彼女は僕を拒絶するように身をすくめていた。その仕草が僕の心の弱い部分を鋭く刺した。


「……じゃあ、ヒナはすぐにでも成仏したいの?」


 僕はただ、もっとヒナと一緒にいたいだけだった。まるでそんな心からの本音を根底から彼女に否定されたようで、僕の考えを理解してほしいという傲慢が独り善がりな言葉を零した。


「そんなわけ、ないじゃん」


 一文字ごとに体中の神経に激痛でも走るかのように、途切れがちにヒナが絞り出した。わかってるんだ。こんなことが言いたいわけじゃないんだ。そんな顔をさせたいわけじゃ、ないんだ。


「……私だって、柊汰ともっと一緒にいたいよ」


「だったら、成仏しなくても」


「でも、駄目だよ。駄目なんだよ」


 僕が口にしようとした希望のその先を彼女が閉ざす。


「……別に、絶対に成仏しなきゃいけない理由もないだろ」


 どんな言い方をしても彼女を追い詰めてしまうと知った僕は、最後に愚痴でも言うかのようにそう呟いた。ヒナに成仏してほしくないのは誤魔化し難い事実だが、だからといってこれ以上悲しそうな顔をさせたいわけでもなかった。俯く僕に、彼女は言った。


「……柊汰が風邪を引いたとき、憶えてる? あのときもそう。祭りで笑われてるときもそう。柊汰が私のために傷ついても、私は何もしてあげられない。私といればいるほど柊汰が無理するってわかってるのに、成仏しないなんて言えるわけないじゃん。夏だけならって、そう思って甘えてたのに。ずっと一緒に居たいなんて、言っていいわけないじゃん」


 この期に及んで、彼女自身のどうしようもない本心を抑え込んでまで、ヒナは僕のことを案じていた。噛み合わない歯車を健気に回そうとするみたいに、ただ互いの幸福を願う感情ばかりが空回りしていく。互いを想う言葉がいたずらに心を切り裂いていく。


「僕はそんなこと気にしてない。むしろそれだけでヒナとずっと一緒にいられるなら安いくらいだ。本当に、辛くもなんともない。わざわざヒナがいなくなる必要なんてどこにもないんだ」


「じゃあ、一生そうして生きていくの? 人に笑われて、柊汰だけが苦労して、そうやっていつか死んでもいいの?」


「別に僕はそうやって死んでもいい。それに、それはヒナが決めることじゃない。僕が決めることだ」


「……柊太に傷ついてほしくないって思っちゃ駄目なの? 私のいない柊汰の幸せを願うことが、そんなにいけないことなの? ……わかってよ。私より、私の未練なんかより、柊汰の幸せのほうがずっと大切なんだよ」


「違う。違うんだ。違うんだよ。本当に、ヒナとずっと一緒にいられることが僕にとっての幸せなんだ」


 彼女にはもっと自分を優先してほしかった。どんな我が儘でも受け止めるから、一度くらい頼りきってほしかった。それがお互いに自分より相手の幸福を願っているが故の水掛け論だということに気づかないまま、僕は許容を示すようにヒナを見る。そんな僕に彼女はゆるゆると首を振った。


「ずっと一緒になんていられないよ。……だって私、幽霊なんだよ?」


 そう言って彼女は立ち上がった。階段の頂上から降りるように一歩を踏み出し、そしてその足が地面に着くことはなかった。なんの動作もなく滑るように目の前の空間へと移動して、ヒナは振り返った。セーラーのスカートが僅かに翻る。その仕草だけは至って普通の女の子にしか見えないから、それ以外の部分がいやに目に入った。


 気紛れに吹く風が、少し伸びた僕の前髪を嘲笑うように揺らしていく。出会ったときから長さの変わらない彼女の黒髪は少しだって靡かなかった。僕たちの決定的な違いを思い知らせるように、彼女は宙に浮かんでいた。


「誰にも触れないし、誰からも見えない。柊汰以外の人からしたら、私はこの世にいないのと同じなんだよ」


 そんな事実に打ちのめされたまま、僕は彼女の言葉を否定する材料を探していたのだけれど、自虐的に微笑む彼女へかける言葉は終ぞ見つからなかった。彼女の手の温度を知っていても、手のひらの柔らかさを覚えていても、依然として彼女が幽霊であることに変わりはなかった。


 現実の直視を避けるように俯く僕の靴の先に、ポツリと水滴が空から落ちてきた。顔を上げると、茜色の空はいつの間にか僕の心模様と同じ色をした曇天になっていた。昼間二人で見ていた入道雲が夕立を振らせていく。それが一点の染みを作ったかと思えば、次から次へと水滴は絶え間なく注がれて石段の乾いた灰色を暗く湿らせていく。それはまるで、僕たちの間にじわじわと広がり始めている不和のようだった。肌を伝う雨滴の感触がただただ不快で仕方なかった。


「ほら、今だって柊汰だけが雨に濡れてく。私は、一緒に濡れてあげることもできないんだよ」


 ヒナの声が頭上から届く。彼女が今どんな顔で普段どおりの声音を繕っているのか、顔を見なくても僕には痛いほどわかった。いつだったか。こんな雨の夕方に、傘を差さないことくらいはできると彼女に伝えたことがあった。これくらいの些細なことならできると、僕はそう言った。その言葉が今の僕たちにはどこまでも傲慢だった。守ることも、導くことも、一緒に傷つくこともできないのなら一体何ができるというのだろうか。ヒナを見上げる。彼女は嘆きながらそんな答えをどこかに求めているような顔をしていて、それを少しでも隠そうと笑みを形作ろうとしていた。僕には、彼女が静かに慟哭しているように見えた。


「ね。こんな幽霊と、ずっと一緒にはいられないでしょ」


 雨に打たれる僕の隣に、いつもどおりのヒナが腰掛ける。その肌も、髪も、制服も、少しだって濡れることはなかった。その瞳の奥にある泣き濡れた心以外の全ては、夕立の影響をこれっぽっちも受けていなかった。


 最後に彼女が呟いた言葉を僕は認めたくなかったのだけれど、その言葉を否定するには僕は些か悲観的な人生を歩みすぎていた。どうしたってちらつく現実的な将来像を振り払えるほど幼くはなかったし、かといって人生で初めて抱いた憧憬を簡単に諦められるほど大人でもなかった。ただ、嫌なものは全部見ないふりをするように、雨の中で蹲って濡れるままにしていた。ヒナはそんな僕に声をかけるでもなく静かに隣で座っていた。こうして並んで座っていて、彼女がどんな顔をしているのか知りたくないと思ったのは初めてだった。


 どれくらいそうしていたのか、やがて彼女は優しく言った。


「……風邪引くよ。今日はもう帰ろう?」


 その優しさを大切にできなかった自分が、どこまでも情けなかった。彼女の言葉に促されるまま明日の待ち合わせをして、僕たちは日没より早く別れた。帰り道がいつもよりやけに長かった。


 そうして訪れた八月三十日。ヒナが僕の家を尋ねてくることはなかった。神社にも、児童公園にも、今まで行った場所のどこにも、彼女の姿は見当たらなかった。

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