第六章 紫の恋情

第26話 春はまだ遠く

 冷たい冬の空気が、まだ重く庭を覆っていた。八坂家の客間の障子を開け、真桜の目に飛び込んできたのは、満開の梅の花々だ。紅白に彩られたその姿は、凛とした冬を耐え抜き、静かに訪れる春を告げているようだった。


 けれど、真桜の胸の中は、庭の穏やかさとは裏腹に、ざわざわと波立っている。


 ――あなた自身がどう暁翔殿を想い、感じているか。

 数日前に、幽世でかけられた綾斗の問いが、頭から離れない。あれからずっと自分に問いているけれど、もやもやと霧がかかっているようで答えを掴めない。


(私と暁翔様は、夫婦で……)

 真桜の瞳がわずかに揺れる。それではいけないのだろうか。


 夫婦――確かにことほぎの儀を経て、そうなった。だがそれは、よく考えたらあの時、互いに結んだ縁だ。


 白月家から逃れるため、暁翔が力を貸してくれたに過ぎない。


(暁翔様は優しいから、目の前で困っていたのが私でなくても、きっと同じことをした……)

 胸がきゅっと切なく疼く、不安でたまらなくなる。その理由わけが――わからない。


 暁翔の隣にいるだけの自分が、はたして本当に彼の妻と呼べる存在なのか、自信が持てなくなってきた。自分のせいで暁翔の穢れを完全に祓えていないのだとしたら、責任を感じてしまう。


 たしかあの時、暁翔はことほぎの儀を結んでも完全に穢れは祓えないと言っていた。それは、真桜の力不足をわかっていたから、あとで御三家の人間から指摘されても気に病むことはないという、彼の優しさだったのではないか。そう考えると、申し訳なさでいっぱいになる。


「祠を壊したのが私じゃなかったら……ことほぎの儀を結んだのが別の人とだったら……」

 相手が違っていたら、万事うまくいっていたのだろうか。ことほぎの儀を失敗させてしまった自分が、暁翔の隣に立っていていいのだろうか。


 ふと、庭の静けさを破るように、足音が近づいてくるのが聞こえた。振り返る間もなく、背後でふすまが開く音がして、畳の上を静かにやってくる気配がする。


「ここは日差しがあって温かいな」

 静かな声。それだけで誰なのかわかる、暁翔だ。


「……そう、ですね」

 なんとなくまっすぐに彼の方を見られず、真桜は庭の梅を見つめたまま答えた。


 それきり沈黙が落ちて、何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。


(暁翔様は、私と夫婦になってよかったですか?)

 そんなこと、聞けるわけがない。


「結びの力を使い過ぎて疲れていないか?」

 きゅっと手を握り込んで俯くと、ふいに暁翔が尋ねてきた。


 真桜は、八坂たちと共に穢れを祓う方法を探したり、結びの力で神具を強化する研究に協力したりしていた。もっとも、古い文献などはさっぱり字が読めないので、主な手伝いは、小さな結界を張ってみせ、それを神具に宿すための術を試行していた。


 これがなかなか加減が難しく、いまだに成功には至っていない。八坂も礼司も「最初からうまくいく人はいませんよ」と励ましてくれるのはありがたい。


「だ、大丈夫です。それよりも早く暁翔様の穢れを浄化しないと」

 返事は、自分でもわかるくらい上ずっていた。視線を合わせるのが辛く、そっと頬を押さえる。


「焦る必要はない」

 暁翔の言葉は穏やかで、とても温かい。


「先日の甘味処での縁結びで、また少し痣が薄くなっていた。ありがとう、真桜」


 その言葉に、胸がじんと熱くなった。暁翔の気遣いが嬉しい。けれど、同時に胸の奥が苦しくなる。


 あの時は暁翔の提案がなければ縁結びはできなかった。ことほぎの儀で完全に穢れを祓えていたら真桜の力は力は必要なかっただろう――そう考えると、自分の中の何かが冷たく硬くなっていくのを感じた。


 暁翔が完全に力を取り戻したら、自分はそばにいなくてもよいのではないか。

 そんな考えが頭をよぎり、また息が詰まりそうになる。


「少し外を歩いてみるか」 

 暁翔の提案に、真桜は一瞬躊躇した。


 だが、断る理由もない。小さく頷き、彼の後に続いた。


 庭に出ると、冷たい風が頬を撫でる。日差しがあっても、やはりまだ春は遠いということをはっきりと感じさせるものだった。彼の隣を歩きながら、真桜はそっと自分の胸に手を当てた。


(暁翔様のことをどう想っているか……)

 その答えを探すために、歩みを進めているような気がする。


 暁翔はやがて紅梅の下で足を止め、その花を静かに見上げた。


「この花も、寒さを乗り越えて咲いている」

 彼の視線の先には、凛とした紅梅の花々が揺れている。


「ええ……本当に強いですよね」

 真桜も同じように見上げながら、ぽつりと答えた。


「おまえも同じだと思う」

 暁翔は一瞬花を見つめ続けた後、静かに真桜を振り返る。


「え?」

 その言葉に、真桜の胸が高鳴った。


「おまえも厳しい状況に耐えながらここまで来た。お前が気づいていなくても、その強さは尊いものだ」


 その優しい声と視線に、真桜は動揺を隠せなかった。


「暁翔様……」

 その言葉をどう受け止めればいいのかわからない。感謝とも違う、胸の中に渦巻く気持ち。

 真桜はそれを言葉にできず、小さく頷くしかなかった。


 だが、隣に立つ彼の存在が、これほどまでに自分を揺さぶる理由を考えるたび、心が千切れるようだった。


「私は……」

 声を出そうとしても、続かなかった。彼が自分を見ていることに気づくと、余計に言葉が詰まる。


 ――このまま暁翔様と一緒にいたい。

 きっと彼ならその願いを叶えてくれる、神様だから。今までも数え切れないほどの人々の願いを、縁を、結んできたはずだ。けれど、彼が誰かの願いを叶えた一方で誰かに恨まれる、そんな悲しいことを繰り返してはいけない。


 むやみやたらと、暁翔に願いを口にするのはやめよう。迷惑はかけたくない。


「あ、あの、やっぱり私、少し疲れたかもしれません。屋敷に戻ります」

 自分でも驚くほど早口でそう告げると、真桜は小走りでその場を離れた。


 冷たい風が後ろから吹き抜ける中、ただ自分の胸の鼓動を鎮めようと必死で――。

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