第25話 結びゆく心模様(二)
やがて最後の一口をすくって口に運び、ホッと息をついた真桜は、ふと窓の外に目を向けた。小雪がちらつく中、店の前を行き交う人々の中に、一人の青年が立ち止まっているのが見える。
「あの方も甘いものに興味があるんでしょうか?」
真桜は微笑みながら、ぽつりと漏らした。
「……何度も店の前を行ったり来たりしている。不審な男だな」
綾斗は眉をひそめ、その青年の動きを目で追う。
「甘味が珍しいのではないか?」
暁翔は静かに言葉を返し、軽く窓から外を覗いた。
帽子を目深にかぶった青年は一歩引いては歩き出し、数歩進んでは振り返るような動きで、何度も店の前を行ったり来たりしている。
「妖しい気配は感じないが、念のため声をかけてみるか」
綾斗が目を眇め、伝票を持って立ちあがった。
会計を済ませて外に出てみると、青年は相変わらず店の前で立ち止まっては、また後ずさりし、振り返る動作を繰り返している。
「そこの君。この店に用があるのか?」
綾斗が声をかけると、青年は少し驚いたように顔を上げ、そして恐縮したように頭を下げた。
「あ、すみません……なんでもないんです」
「なんでもないようには見えないが。先ほどからずっと店の中を窺っているだろう。後ろ暗いところがあるなら警察を呼ぶぞ」
綾斗が言うと、青年は慌てたように首を横に振る。
「そ、それは困りますっ」
青年は店の方にちらりと視線をやってから、恥ずかしそうに目を伏せた。
「……実は、この店で働いている子に片思いをしているんです。今度、僕は
「留学?」
真桜がぽつりと青年の言葉を反芻すると、彼は頷いた。
「家業を継ぐために商業や貿易を学びに行くんです。それが何年かかるか、はっきりしていなくて。もし断られたら、留学先でずっと落ち込んで過ごさなきゃならないし、もし彼女が待ってくれると言ってくれても、何年も待たせるのは申し訳なくて……」
煮え切らない彼の態度に、綾斗が何か言おうとするのを暁翔が手で制する。
「それは、そなたが相手を心から大切に思っているからこその悩みだろう」
暁翔はそう言うと、少し微笑んで続けた。
「縁というものは、考えすぎて躊躇しているうちに消えてしまうこともある。だが、諦めなければ切れることはない。少しだけ力を貸そう」
暁翔はそう言って真桜に目を向ける。
「真桜。手を」
「は、はい」
真桜は小さく頷き、暁翔の側に立つと、差し出された掌に自分の手を重ねた。
「そなたの手も貸してくれ」
「え? あ、あ、はい……」
青年は少し迷った末、暁翔の手を取った。
暁翔は優しく青年の手を握りしめ、もう一度真桜の手を握った。
真桜は自身の体に温かいものが巡るのを感じた。それが、すうっと暁翔の手に流れていくのも。
青年はよくわからない顔をしていたが、真桜の目には暁翔の手を通じて淡く光る糸が彼の手首に結ばれ、消えていくのが見えた。
「これで、そなたの気持ちが通じやすくなった」
暁翔の声は穏やかで力強かった。
「まじないのようなものですか? ありがとうございます、こんな見ず知らずの人間の話を真剣に聞いてくれて」
青年は少しずつ表情を和らげると、ようやく決心が固まったように、暁翔の手を離した。
「勇気を出して伝えてみます。どんな結果になっても、後悔しないようにしたい」
そう言って青年は『浪漫亭』の中に入っていった。窓ガラス越しに彼が女給の一人を呼び止めているのが見える。
なんとなく気になって店の前で待っていると、しばらくして青年が再び三人の元に戻ってきた。その顔には笑顔が浮かび、喜びに満ちていた。
「ありがとうございました! ぼ、僕と同じ気持ちだったって……待っていてくれるって言ってくれました!」
青年は泣き笑いの顔になって、帽子を取ると暁翔に頭を下げる。
「よかったですね」
真桜も嬉しくなってホッと胸に手を当てた。
「迷ったら、伝えることを恐れるな。縁は、その先で結ばれていく」
暁翔の言葉に、青年は一層明るく頷いた。
「はい! あなたのおかげで少し強くなれました。本当にありがとうございました。ああ、こうしちゃいられない、両親を説得しなくちゃ。では!」
感謝の気持ちを伝えながら、彼は軽い足取りで去っていった。
「人は、時には言葉にしなければわからないことがある」
青年の背中が見えなくなると、暁翔は深く息を吐きながら振り返る。
「暁翔様はやっぱり縁結びの神様ですね」
真桜は嬉しそうに笑った。
「言葉にしなければわからないこと、か……」
綾斗は二人の様子を見守りながら独り言ちた。
「私も、少しずつ、伝えていければいいな……」
くろが変化した黒髪をひと房取ると、綾斗は不安そうな顔で呟く。
その後、三人は銀座の町を歩き、夕暮れ時に幽世へ戻った。
橙色に染まる幽世の庭には燃えるような紅葉が、穏やかな音を立てながら風に舞っている。
暁翔の屋敷の縁側に腰を下ろした真桜は、ぼんやりとその庭を眺めていた。
その隣には、着替えを終えた綾斗が、静かに座っている。現世の華やかな女性の装いから一変したその姿は、彼の本来の凛とした姿を際立たせていた。
暁翔は、真桜達が着替える間に子狐たちの社が問題ないかどうか、くろやしろとまると一緒に見に行くと言ってまだ戻っていない。
「今日はいろいろと世話になったな」
「いえ……こちらこそ、とても楽しかったです」
丁寧に頭を下げる綾斗に、真桜は慌てて首を横に振った。
「貴重な結びの力も見せてもらった。東雲家としても、暁翔殿の穢れを祓う手伝いを惜しまないことを約束する」
「……っ」
真桜が返事をする前に、綾斗がふと空を仰ぎ、続ける。
「……だが、一つ気になることがある」
「何ですか?」
真桜が首をかしげると、綾斗の表情が少し硬くなった。
「ことほぎの儀は、神と人が半身として力を結ぶ神聖な儀式だと伝えられている。だが、儀式を行っても暁翔殿の穢れが完全に消えなかった」
その言葉に真桜は息を呑んだ。ことほぎの儀を行った後も、暁翔がまだその身に穢れを宿していることは、そういうものなのかと思っていた。
「……どうして、そんなことが?」
「これは可能性としての話だが」
綾斗はそう前置きをして、真桜をまっすぐ見つめる。
「結びの力が何らかの理由で不完全だった――これは、儀式が失敗したというわけではなく、神と人の絆が完全に深まっていないから……なのかもしれない」
「絆……?」
真桜の胸が少しざわめく。
綾斗は言葉を選ぶように少し間を置き、続けた。
「暁翔殿のような神が現世で実体を持つのは非常に珍しいことだ。神は人の想い――祈りや願いによって形作られる存在。暁翔殿が縁結びの神として顕現している以上、あなたとの結びつきが力の要といっていいのかもしれない」
綾斗の声は静かだが、その意味は真桜の心に深く響いた。
「私と、暁翔様の……結びつき……」
「ああ。それはあなた自身がどう暁翔殿を想い、感じているかにも関係しているのだとしたら……」
それを聞いて、真桜は言葉を失った。
自分が暁翔にどんな想いを抱いているのか――考えたことがなかったわけではない。けれど、それを明確にするのがどこか畏れ多くて目を逸らしてきた。
「単に私の考えすぎかもしれない。それに、ことほぎの儀以外にも穢れを祓う術があるようだし、東雲家としても、できることは全力で取り組ませてもらう」
綾斗は最後に柔らかな笑みを浮かべる。
「ありがとうございます……」
真桜は視線を落とし、手元を見つめたまま、ぽつりと答えた。
その時、背後で足音が響く。振り向けば、暁翔が戻ってきたところだった。
「何を話していた?」
暁翔が自然な調子で問いかけると、綾斗は軽く肩をすくめる。
「いや、大したことではない」
言葉を濁す綾斗に、暁翔は深くは問わなかった。
真桜はそんな暁翔の姿を見つめながら、胸の中で静かに問いかける。
――私は……暁翔様のことをどう思っているのだろう。
暁翔は、神であり、半身であり、夫であり……命の恩人。けれど、それだけではない気持ちが胸にあるような気がする。
その問いは胸の奥に小さな灯火のように揺らめいたが、答えはすぐに出てきそうになかった。
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