第23話 今は小さな祈りだとしても

 その空は、日が昇るように明るくなったかと思えば、すぐに夕暮れの色へと移ろい、幽世の独特な時の流れが感じられた。


 山肌に並ぶ桜は満開で、その周囲には梅や紅葉も同時に咲き誇っている。そこかしこから雪解け水の音が響き、四季が混ざり合った異界の景色は現世では到底考えられないほど美しい。


 綾斗の告白を聞いた後、真桜は暁翔の力を借り、綾斗を連れて幽世へやってきていた。


「ここが……幽世」

 綾斗は唖然とした様子で周囲を見渡す。


「とても綺麗な所ですよね。ここでは妖さんたちが自由に暮らしているんですよ」

 真桜が穏やかに微笑みながら答えた。


「実在していたとは……」


「昔は人も妖もお互いに行き来していたそうです。もう一度そんな風になれたら素敵なのに……」

 そう話す真桜の目の前を桜吹雪が駆け抜ける。


 そして三人はまっすぐに暁翔の屋敷へと向かった。


 恭しく迎え入れてくれる水琴と、はしゃぐしろたちに再会し、真桜はホッとする。

「水琴さん、お願いがあるのですが」

 真桜は少し遠慮がちに言葉を切り出した。


「なんでしょう?」

 水琴は優雅に一礼し、穏やかな声で応じる。


「綾斗様と甘味処に行きたいのですが、着物をお借りすることはできますか? 水琴さんなら何か見繕っていただけるのではないかと思って……こちらの綾斗様にも同じように用意していただきたいのです」


「お任せください。ちょうどお二人に似合うものを用意しております」

 水琴の目が柔らかく笑みを帯びると、自信に満ちた声で答えた。


 座敷で待っていると、水琴はしろたちと共に、二人分の衣装を持ってきて並べてみせた。


「着物に……袴ですか?」

 真桜は薄桜色の上品な小袖と袴を手に取りながら首を傾げた。


「これは、ハイカラ……! なぜ妖が人間の文化に精通しているのだ?」

 綾斗は淡い紫色に金糸で細かな波紋が施された着物と袴を見て、目を輝かせている。


「私は綺麗な衣服が好きなので、時々現世にお邪魔して研究させていただいております。帝都の最近の流行ですよね」

 水琴は口元を押さえてくすくすと笑った。


「一度着てみたかったのだ……」

 綾斗は袖を手に取り、ため息のように感嘆の声を漏らす。その細かな刺繍と色彩の美しさに目を奪われている様子だ。


 しかし、彼はふと自分の短い髪に手をやり、ためらいがちに口を開いた。


「だが、この髪型では……似合わないだろうな」


「そんなことはないと思いますが……」

 真桜はすぐさま首を振り、真剣な目で答えた。


 それでも綾斗が渋る様子を見かねて、傍らにいたくろがおずおずとやってくる。


「僕が手伝ってあげようか?」


「どうやって?」

 真桜が首をかしげると、くろは自身の羽を一枚抜いて、綾斗の髪に挿した。


 すると、そこからさらりと濡れ羽色の髪が背中まで伸びる。


「な、なんだ、これは……」

 綾斗は胸の前に垂れた髪の毛を手で掬って驚いている。


「変化の術を羽にかけたんだ。まだ僕の力が弱いから一日しか効果は持たないけどね」

 くろは申し訳なさそうに眉根を下げる。


「いや……ありがとう! こんなふうに伸ばしてみたかったのだ!」

 綾斗はくろの手を取って瞳を潤ませている。礼を言われたくろは恥ずかしそうに顔を赤くした。


「本当は普段からこれくらい伸ばせればいいのだが……髪の長い男など……」


「こちらにいらっしゃるじゃないですか。暁翔様の御髪おぐしは長いですが、とても美しいですよ」

 真桜は傍らにいた暁翔の腕にそっと触れる。


 その途端に、部屋がすっと暗くなった。たった今まで快晴だった空に暗雲が立ち込め、まるで夜が訪れたかのようだ。直後、激しい雷鳴と鋭い稲妻が空を裂き、落ちた雷が大地を揺るがした。


「あ、あ、申し訳ありません……またやってしまいました!」

 真桜は慌てて暁翔から離れて、畳に額がつくほど謝る。


「おまえのせいではない」

 暁翔が憮然とした表情で答えると、徐々に空は晴れ、再び太陽が顔を覗かせた。


「……禍ツ神というのは本当だったのだな」

 綾斗がやや警戒するような視線を暁翔に送る。


「ち、違うんです。私が触れたり、何か気に障ることを言ったりするのがいけないんです。気をつけているのですが、無意識に……うぅ」


「だから、おまえのせいではない……」

 再び暁翔が口にすると、真桜は「暁翔様はお優しいです」とほろりと微笑む。


 それがきっかけで再び空が荒れると、綾斗は何か納得したような面持ちになって「これは……ある意味で穢れのせいなのか」とぽつりと呟いた。


「早く支度しないと、夜になってしまうぞ」

 そう言って暁翔が座敷を後にしたので、真桜は水琴に手伝ってもらいながら、新しい装いに身を包んだ。


 袴は着物よりも裾がさばきやすく、合わせて用意してもらった編み上げ長靴ブーツも足にぴったりと合っていて歩きやすい。


 三人が庭の水鏡池の前に立と、くろ、しろ、まるがやってきて袴の裾を引っ張る。


「わたしたちも行きたい!」

「ねえ、いいでしょ?」

 しろとまるが小さな声で主張し、真桜は笑顔を浮かべながら暁翔に同意を求める。


「あちらでは毛玉姿になるがいいのか?」

 と、暁翔が確認する。


「うん! わたしたち、真桜さまと一緒にいたいの」


「ぼくは、この人間についていきたい。もしどこかで術が解けたら困るだろ」

 くろはそう言って綾斗の足元に身を寄せた。


「あ、ありがとう……」

 綾斗は少し恥ずかしそうに口元に笑みを浮かべる。


「まだ、自分で髪を伸ばす勇気はないから、必要な時に力を貸してもらえると、助かる」


「任せてよ」

 くろは胸を張って笑った。


「では、現世に戻るか――」

 暁翔がそう言った時、遠くから小さな声が聞こえた。


 そちらを向くと、しろのように頭に三角形の耳を生やし、ふさふさのしっぽを生やした狐子がふたり、走ってくるところだった。


「暁翔様! どうか助けてくださいっ」


「どうした?」

 暁翔がかがみ込み、優しく声をかけると、その狐の子たちは耳を伏せながら答える。


「雪柳の奥にある祠が壊れてしまい、住処に戻れないのです……」


「祠か……修復してやりたいが、今は俺の体に穢れが残っていて、神聖な社に触れれば逆に壊してしまいそうだ」

 暁翔は少し困ったような顔をする。


「私が……やってみようか」

 話を聞いた綾斗が一歩前に進み、袴の裾を軽く払った。


「祠まで案内してくれ」

 綾斗がそう言うと、ふたりは駆け足で元来た道を引き返していく。やがて、そこに辿り着くと、雪柳が揺れる向こうに崩れた祠があった。


「わたしたちはここから現世に行って、人間を眺めているの。でも、できなくなっちゃった」

 狐の子はべそをかきながら話す。


「待っていろ。ここには霊気が満ちている。普段よりも強い力が扱えそうだ」

 そう言って綾斗は目を閉じる。


大天冥府だいてんめいふ、大地の誓いを、精霊の力に託して。水の精、火の精、風の精、土の精、万象を整えよ……」

 綾斗が呪文を唱えると、彼の周囲に薄い霧が立ち込め、空気が一変した。風が静かに吹き抜け、木々が微かに揺れる音を立てる。


「今ここに、穢れを祓い、清らかな力を蘇らせよ。古の神々の声よ、響け、そしてその力を借りて、朽ちし者を復元せよ」

 その中で彼の声が響き渡り、祠の周囲に何かが変わり始めた。


「蘇れ、守りの場よ!」

 綾斗が目を開き、呪文を唱え終えると、目の前の祠が淡い光に包まれ、次第にその破損が癒されるかのように元の姿を取り戻していった。


 木の柱が元通りに立ち、ひび割れた瓦が静かに戻る。


「これで大丈夫だろう」

 綾斗は息をつき、顔に安堵の色を浮かべた。


「こんなに優しい人間がいるなんて……!」

 いつの間にか狐の子だけではなく、他の妖たちも集まってきて、祠が完全に修復された瞬間に歓声を上げた。


「ありがとうございます、美しいひと!」

 狐の子は感動したように飛び跳ねた後、綾斗に深々と頭を下げた。


「本当に……なんて凛とした素敵な方……」

「人間にもあのような優しい者がいるのか」

「暁翔様の花縁はなよめ様がお連れになったらしいよ」

「前よりも暁翔様の穢れが薄くなったように感じないか?」

 妖たちは遠慮のない声を上げるが、前回こちらへ来たような非難の言葉は聞かれなかった。


 真桜はその光景を見ながら、小さく微笑みを浮かべた。幽世の住人たちが少しずつ綾斗や自分に心を開き始めていることを感じ、安堵の思いが胸をよぎる。


 そして綾斗もまた、祠を見つめながら小さく息を吐き出した。


「妖は……私たちと変わらない心がある……?」

 

「はい。できれば、もうお互いに傷つけ合ったりしない時代になるといいのですが……」

 その言葉に、真桜は彼に向かって小さく頷く。


 たとえ今はそれが小さな祈りだとしても、いつか大きな縁に繋がりますようにと真桜は胸の中で願った。

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