第22話 追憶は甘くほろ苦く

 竹林を通り抜ける冷たい風が、冬の鋭さをほんの少し残したまま、柔らかく庭先を撫でていった。


 真昼の日差しは明るくても、二月の光はどこか薄く頼りない。竹の葉がきらりと淡い光を反射し、枝葉の隙間から漏れた日差しが地面にまだら模様を描いている。その影は静かに揺れ、まるで竹林自体が息をしているかのようだった。


 冷たさと暖かさが入り混じる不思議な空気の中、真桜は綾斗に腕を引かれていた。彼の手は強く、少しだけ冷たい。その歩みには迷いのない強さがあるが、その肩には見えない重みがのしかかっているようにも見えた。


 やがて二人は庭の奥深く、竹林が密集する静かな場所へと辿り着く。ここは人目が届かず、風の音さえも遠く感じられる、まるで別世界のような場所だった。


 綾斗は足を止め、振り返った。


「白月真桜……」


 低く押し殺したようなその声に、真桜は小さく頷いた。


「は、はい」

 こわばった声で返事をすると、綾斗の瞳が僅かに揺れた。


 けれど、その表情には微かな緊張が浮かんでいる。しばらく黙り込んだ後、彼は深く息を吸い、視線を真桜に向けたまま切り出した。


「あれは本質を映す鏡だろう?」


 その問いに、真桜は思わず息を呑んだ。けれど、ここで嘘をついてはいけないとすぐに思い直し、素直に頷く。


「そうです……」


 そう答えると、綾斗は一瞬目を伏せた後、再び顔を上げた。


「……そこに映った私の姿を見て、どう思った?」

 彼の声は低く、少しだけ震えていた。そして、その目には真桜を試すような、けれどどこか怯えたような光が宿っている。


「……気持ち悪いと思っただろう?」

 最後の言葉は、冷たい風に紛れるような小さな声だった。その問いには、自嘲と深い傷の色が滲んでいる。


「そんなこと思いません!」

 真桜は思わず声を強めた。


 それに驚いた綾斗が目を見開く。


「確かに、びっくりしました。でも、それ以上にお綺麗で……正直、羨ましいとさえ思いました」


「……羨ましい?」 

 綾斗は戸惑い、眉間に皺を寄せる。その表情に、自分でもその言葉を信じていいのかわからないという迷いが浮かんでいる。


「本当です」

 真桜は静かに、しかし力を込めて続けた。


「私は嘘をつくのが苦手です。あなたの姿は美しく、だからこそ、羨ましいと感じたのです」


 綾斗はその言葉を受け止めようとしているようだった。けれど、その瞳には未だ疑念の影が残っている。


「誰にも、言っていないだろうな?」

 綾斗の声には鋭い緊張が宿り、真桜はすぐに首を振った。


「言っていません。絶対に言いません」


 その答えに、彼の肩がほんの少し震えた。怒りが来るのではないかと身構えたが、次に彼の口から漏れたのは、懇願するような弱々しい声だった。


「どうか、誰にも話さないでくれ。私は東雲家の嫡男だ。このようなことが知られれば、家の名に傷がつく。軽蔑され、笑われるだろう。いや、それ以上に――」


 彼は言葉を切り、唇を噛んだ。拳がさらに力を込められる。


「……家族に知られれば、私は追い出されるかもしれない。私の居場所など、なくなる」

 その低く押し殺された声に、深い孤独が滲んでいた。


 真桜は、彼が抱える重荷を想像しようと努めたが、簡単にたどり着けるものではないと理解した。


「誰にも話すつもりはありませんし、私自身が軽蔑する理由もありません」

 真桜は一歩綾斗に近づき、その視線を正面から受け止めた。


「それに、綾斗様がどう生きたいか、それを笑う権利なんて誰にもありません。私は、そう思います」


 綾斗の肩が微かに動き、彼は真桜の目をじっと見つめた。


「……だが、それが世間だ。人は自分と違うものを許さない」

 彼の声は冷たく現実を突きつけるものだったが、どこか虚しさも混じっていた。


「もしそうだとしても、少しくらいは希望を持ってもいいのではないでしょうか?」

 真桜の言葉は、ただまっすぐだった。その揺るぎない表情に、綾斗は小さく息を吐き、目をそらした。


「お前は……変わっている」

 彼は微かに自嘲の笑みを浮かべたが、その笑みには、少しだけ救われたような色があった。


 彼はしばらく竹林の隙間から空を見上げた後、再び口を開く。


「昔、私には双子の妹がいた。妹……みやびだけが、そんなふうに私を否定しなかった。私が……本当の自分を隠さずにいられた唯一の相手だった」


 その言葉に、真桜はそっと耳を傾ける。


「子どもの頃、雅と服を入れ替えて遊んだことがある。私は雅の着物を、雅は私の袴を。それが楽しくて、笑い合った記憶がある……」


 綾斗の声はどこか遠い記憶を掘り起こすようで、懐かしさと悲しみが入り混じっていた。


「甘い物が好きで甘味処にも通った。妹は甘い物が苦手だったのに、私のために付き合ってくれた」

 綾斗の目は竹林の向こうを見つめ、まるで今にも消え去りそうな淡い追憶を辿っているかのようだった。


「そんな妹が、私の好きな小豆餡の味を覚えようと、一口食べては顔をしかめていたのを今でも覚えている」

 彼の表情に、一瞬だけ懐かしさと微かな笑みが浮かぶ。しかし、次の瞬間にはその影は消え、深い陰りだけが残った。



「だが、雅を失ってからは、誰にも本当の自分を見せられなくなった。見せたところで、理解されるわけがないからな」

 彼の声には深い諦めが滲んでいる。


 真桜はその孤独を受け止めたいと心から思った。


「だから、昨夜はおまえたちに苛立ってしまった……」

 彼は言葉を選ぶようにしながら、続ける。


「おまえが、綺麗な着物を着ていること。自分が選んだ相手と夫婦になって、幸せそうに見えること……それが、どうしても我慢ならなかった」


「……綾斗様」


「私にはそんな自由はない。いい人がいても、想いを伝えることさえできない。男から好かれるなどいい気はしないだろう。私の望む幸せはこの先の人生でどこにもない。そう思うと……どうしても、苛立ちが抑えられなかったんだ。すまない」

 その言葉に込められた苦しみと自責に、真桜は胸が締め付けられる思いだった。


「……それでも、綾斗様が諦める必要はないと思います」


「諦めなる必要はない?」


「ええ、ご自身の幸せを諦める必要なんてありません。私でよければ、お手伝いできることがあるかもしれません」


 真桜の真剣な言葉に、綾斗は戸惑いながらも僅かに目を見開いた。


「……お手伝い?」


「一緒に甘いものを食べに行くくらいなら、私にもできます。お着物も似合うと思いますよ」


 その提案に、綾斗はほんの少し目を丸くし、そして苦笑した。


「母が、思い出すのがつらいと、雅の持ち物はほとんど処分してしまった……」


 その言葉を聞くや否や、真桜は一瞬考え込んだ後、明るく微笑み、自分の着物の袖を持ち上げてみせた。


「それなら、いい考えがあります。暁翔様に協力していただかないといけませんが」


 明るく輝く彼女の笑顔に、綾斗は戸惑っている。しかしその瞳にはわずかに希望の光が灯ったような気がした。

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