第17話 兆し

 目が覚めると、真桜は柔らかな布団に包まれていた。見覚えのない漆喰で仕上げられた天井が、ぼんやりと視界に入る。


「真桜、気がついたのね」

 穏やかな声の方を向くと、傍らに母が座っていて、微かに潤んだ瞳がこちらを見つめている。その表情には、安堵と喜びが入り混じっていた。


「……お母さん」

 かすれた声で呼びかけると、母の瞳が一層優しく細められる。そして、そっと頭を撫でてくれた。


「無事でよかった」

 温かい手の心地よさに、真桜は胸の奥がじんと熱くなるのを感じる。


「縁切りという慣れない力を使い、体に負担がかかったのだろう。俺の神力を分けているとはいえ、半身は人だ。無理をさせたな」

 母の隣に座っていた暁翔が、心配そうにこちらを覗き込んでくる。


「あなた、丸一日眠っていたのよ」


「えっ!?」

 母の言葉に真桜は目を丸くする。


「昨日、気を失ったあなたを、暁翔様がここまで運んでくださったの」

 そう教えられて、真桜は再び暁翔の顔を見た。彼は申し訳なさそうに眉根を下げる。


「この方から、すべて伺ったわ。あなたたちが縁を結んで夫婦めおとになったこと」

 その響きに、真桜の頬が少し熱くなる。


 母の表情には複雑なものが浮かんでいた。眉を僅かに寄せつつも、唇は柔らかく曲線を描いている。


「正直まだ信じられないけれど……でも、いい人、というか、いい神様(?)みたいね」

 どう表現していいのかわからないのか、母は曖昧に疑問符をつけて口元に笑みを浮かべた。


 その言葉に暁翔は、少し肩をすくめたものの、何も言わずに微笑を浮かべたままだ。


「ありがとう、お母さん。なんだか巻き込んでしまってごめんね」

 真桜が表情を曇らせると、母は優しく首を横に振る。


「謝るのは私の方よ。真桜の才を必要とした白月家に引き取られた方が、ひもじい生活をしなくて済むと思って、あなたの手を離してしまったことを何度悔やんだことか……」

 目元に細かく刻まれたしわ、かすかにやつれた頬が母の過去の苦労を物語っているようだった。


「互いが想い合っていれば、どれだけ離れていても簡単に縁は切れないものだ」

 縁結びの神様が言うと説得力がある。


 真桜は母と見つめあって、春の日差しのような眩しい笑みを浮かべた。


「その縁に関することだが……」

 そう言って、暁翔はするりと手に嵌めていた装身具を外す。そこには幽世でも見た穢れによる痣がある。


 真桜は目を細めて、それをじっと見た。なんとなく薄れたように見えるのは、障子越しに射し込んでくる光のせいだけではなさそうだ。


「それって……」


「今回の件で、颯吾から感謝された。その後、少し腕が軽くなった気がして確かめてみると、わずかだが痣が一部薄くなったようだ」


「……新しい縁を結んだから?」

 そう尋ねると、暁翔は真剣な顔で頷いた。


「かもしれぬ」

 答えながら、暁翔は再び装身具を身に着ける。


 人々の怨嗟や恐怖、嫌悪の感情をぶつけられて黒く染まり、禍ツ神になってしまった暁翔。逆に言えば、感謝や信仰といった本来向けられるべき想いを受ければ元の状態に戻れるのではないだろうか。


 これは希望の兆しだ。


 さまざまな縁を通して、人々に暁翔の本来の性である『縁結びの神』を周知してもらえれば、完全に痣が消える日も遠くないかもしれない。

 だが、暁翔のいた社はなくなってしまったし、彼の存在を広める手段がない。


 そんなことを考えていると、廊下の方から静かな足音が聞こえ、部屋の間で止まった。


「私だ。真桜さんが目覚めた気配がするとくろがねが教えてくれたのだが、加減はいかがだろうか?」

 そう声をかけてきたのは颯吾だった。


「あ、はい! 申し訳ありません。一日中寝ていたみたいで……今はずいぶんといいです」

 真桜は布団から起き上がって答える。


「そうか。もし可能であれば父と会ってやってくれないだろうか。直接礼を述べたいと言っている。もちろん、暁翔殿と一緒に」


「わ、わかりました」

 真桜はそう返答し、母に身支度を手伝ってもらうと、暁翔と共に部屋を出て颯吾のあとについた。


「あの、くろがねさんもお元気ですか?」

 真桜がそう尋ねると、颯吾の足元に伸びる影が一瞬盛り上がり、中から漆黒の毛並みが覗いた。


「普段は私の影の中にいる。元来は臆病で優しいやつなのだ」

 影を見下ろす颯吾の眼差しは柔らかく、とても嬉しそうだ。


「よかったです」

 ホッとして微笑み返すと、くろがねは再び影に同化した。


 屋敷の奥の間へ入ると、鋭い目つきの壮年の男性と目が合う。整った黒髪にはわずかに白いものが混じっているが、その顔立ちは颯吾にどこか似ていた。くろがねの記憶の中の男性――つまり颯吾の父でまちがいなさそうだ。


 こくりと小さく息を呑んだ真桜は、彼の前に静かに座る。


「この度は、命を繋いでいただいたことに礼を申し上げる」

 霧島はそう言って深々と頭を下げてきた。


「いえ、そんな……」

 真桜は慌てて身を縮め、軽く頭を下げる。


「これまで私は妖という存在を忌避してきた。人の前に姿を見せれば害獣だとして。だが、それは我々人間の驕りだったのかもしれない」

 彼は自嘲気味に笑った。


「それにしても白月家の当代一の結びの力を持つ娘が後継ではないとは、皮肉な話よな」


 それには、苦く笑って応えるしかない。自分だって好きでこの力を受け継いだわけではない。


「ところで、その男は……お前が結びの力で使役している妖の類か? 妙な気配を感じるが」

 霧島は真桜の隣に座っている暁翔の方を向いた。


「え? あの、颯吾様、お話されていないのですか?」

 真桜はハッとして颯吾に問いかける。


「ああ、そういえば話していなかったな。くろがねの世話で忘れていて」

 その瞬間、颯悟の影が揺れ、彼は頭だけを見せたくろがねの毛並みを慈しむように撫でる。


「それには、必要時以外は姿を現すなと命じてくれ!」

 霧島は威厳ある表情を崩さなかったが、その声色は震えていた。


「父上、もう命令などしませんよ。くろがねは家族になったのです」


「か、家族だと?」

 彼は苦虫をつぶしたような複雑な顔になる。


「そして、そちらの青年に見える彼は、白月家が代々封じてきた禍ツ神です」

 颯吾は微笑を浮かべたまま、友人を紹介するような軽い口調で紹介した。


「なるほど、禍ツ神か……禍ツ神!?」

 すんなり頷きかけた首が途中で止まり、すぐに彼は驚愕した顔を上げる。


「その辺りの妖など比べ物にならないほど危険な存在ではないか! なぜだ! いったい誰が封印を解いたのだ!?」

 颯吾の父はわなわなと握った拳を震わせた。眉間に青筋が浮かび上がる。


「わ、私、です……」

 肩をすぼめて真桜が答えると、颯吾の父はあんぐりと口を開け、少しの間、石のように固まってしまった。


「ですが、これには事情がありまして……っ、今はまだ穢れが残っていますが、暁翔様は、本来縁結びの神様なんです」

 なんとかわかってほしくて声を絞り出すと、ようやく金縛りが解けたみたいに霧島がこちらを睨んでくる。


「伝承によれば、禍ツ神は世に災いを為す存在。決して起こしてはならぬと言われている。天災、疫病、不和、不幸の元凶であると」


「その認識は間違っていない。だから俺は自身に宿った悪意ある力が潰えるまで封じを受け入れてきた」


 暁翔の口調は穏やかだが、自然と背筋が伸びるような響きがあり、霧島がごくりとつばを飲み込んで居住まいを正す。


「であれば、今後もこの泰平の世に干渉をせずにおとなしくしていてもらいたい」

 霧島は、険しい表情をさらに深めた。


「待ってください! 暁翔様の穢れを浄化する方法があるんです!」

 真桜は彼の痣のことと縁結びの関係について、霧島と颯吾に話して聞かせた。


「そういうことであれば、まずは東雲しののめ殿どのに伺いを立てるべきであろう」

 固く結んだ口元から、霧島は毅然とした調子で言葉を紡いだ。

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