第16話 新たな絆
蔵の方を見ると、いつの間にか扉が閉じられていた。暁翔が言うには「妖はいったん退かせたが、護符がほとんど焼き切られ、長くはもたない」とのことだった。
「私……、くろがねさんの記憶を見てきました……」
立ちあがった真桜は颯吾の方を向いて、見てきたことすべてを伝えた。
「でも、あの傷ついた心に寄り添うことができたら……くろがねさんを呪いの渦から救い出せるのではないでしょうか」
――私が、暁翔様と縁を結んだ時のように。
真桜はそっと自身の左手の薬指を反対の手で撫でる。
「くろがねは、私のことが嫌いになったのだと思っていた。次の主人にはふさわしくないと思っているのかと……それが、父の命じたことだったとは……」
颯吾は悔しそうに拳を作って、固く握りしめる。
「縁を切りたくないのですよね?」
「だが、今の状態では……」
その時、みしみしと蔵の壁にひびが走りはじめた。
「颯吾よ。あの妖と離れたいのか、離れたくないのか、どちらだ?」
暁翔が静かに口を開いた。
一瞬、何か言いかけた颯吾は、しかしすぐにかぶりを振り、挑むような目つきで暁翔を見た。
「離れたくないに決まっている。生まれた時からそばにいて、兄弟のように思ってきたのに……!」
颯吾の声は震えながらも、心からの叫びだった。
途端に、蔵の扉が壁ごと倒れ、土煙の中から漆黒の巨躯が覗く。
妖の発する異様な波動に真桜は思わず身震いした。蔵に再び押し込められたことで、さらに凶暴化しているようだ。
しかし暁翔が真桜の前に進み出て、袖口を軽く払うと、そこだけ空気が澄んだように揺らぎが消える。
彼の長い髪は風に
「何も話せないのでは不便だろう」
彼の声は柔らかい響きをもちながらも、空間全体を支配する力を帯びている。
暁翔が右手を掲げると、黒狼にまとわりついていた赤黒い靄が少し晴れた。同時に体に巻き付く茨のような痛々しい糸がはっきりと見えた。
「……主人以外は敵……すべてを
黒狼は濁った眼で天を仰ぐと、鋭い牙を剥き出しにして呻くように同じ言葉を繰り返す。
「くろがね!」
颯吾が声を張り上げると、黒狼がこちらを向いた。その目に果たして何か映っただろうか。
「私は、おまえがそんなに苦しんでいたことを知らなかった。気づいてやれなくてすまなかった!」
颯吾の言葉に耳を傾けているのか、黒狼の動きが緩慢になった。
「もう苦しまなくていい……」
颯吾はゆっくりと黒狼に向かって足を進める。その先にはがっしりとした前脚と鋭い爪が見えるが、彼の堂々とした姿勢は揺るがない。
「霧島家との縁を切ればおまえは自由になれる。長い間おまえを縛りつけていた霧島家の人間に復讐したかったら、まずは、この私から手にかけてくれ」
その言葉を聞いた黒狼が、ぴくりと大きな耳をそよがせた。
「ただ……もし、少しでも私と過ごした日々を大切に思っていてくれたなら……」
彼は言葉を詰まらせ、懐から一枚の布を取り出す。それはずいぶんと色褪せていたが、真桜が黒狼の記憶の中で見た布だとすぐにわかった。
「これ、覚えているか? 子どもの頃に、おまえの名前を書いて渡したものだ。兄弟の証に。できればこれからも、持っていてくれると嬉しい」
それを見た黒狼の瞳から少しずつ濁りが消え、揺れる光彩が、布にくぎ付けになる。
「真桜さん――縁を切ってくれ」
颯吾は振り返らずに、静かに告げた。
「私に、できるかどうか……」
「安心しろ、真桜。俺がついている」
彼女の前に立っていた暁翔が、こちらを向いて悠然と微笑んだ。
「縁を切った後にどうするかは、その者たち次第だ」
その言葉は静かで、けれど不思議と力強い。
暁翔の視線が颯吾に向けられる。その瞳に宿る鋭さが、逃げ場を与えないように突き刺さった。
颯吾は押し黙ったまま、肩を震わせている。
「では、霧島家とくろがねさんの縁を切ります」
真桜は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。そして右手を天に掲げて、一歩前に踏み出すと、すっと瞼を上げた。
(どうしてかしら。縁の切り方なんて知らないのに、覚悟を決めたら体が動く――)
真桜の足取りは軽やかで、一歩一歩がまるで川のせせらぎのように穏やかだ。袖を翻しながら、指先で空に見えない線を描く。その先から青白い光が糸のように伸び、空に紡がれていった。
「あなたが背負っていた苦しみ……私が断ち切ります!」
真桜の声は、祈りそのものだった。
眩い糸が宙を覆い、そこに射し込む陽光が虹色に変化する。両手を交差させ、優雅に振り下ろすと、その光る糸が黒狼の体を包み込んだ。その体に巻き付いていた赤黒い糸が、ふつふつと脆く切れていく。
やがて最後の一本が切れると、黒狼がひと際大きな咆哮を上げ、冷えた空気を裂く。
「くろがね! もうおまえを縛るものはない。好きなように生きていいんだ」
颯吾がそう告げると、黒狼の体が徐々にしぼんで小さくなっていった。
「ソウゴ……」
庭の木々の葉がそよ風に揺れ、穏やかな日差しが戻ってくる。
黒狼の赤い瞳は鋭さを失い、虚無の色を宿していた。
真桜と暁翔が静かに見守る中、颯悟は一歩、また一歩と近づいていく。その手にはかつて黒狼に巻いた鮮やかな布が握られていた。
「くろがね……おまえは、私にとって、かけがえのない家族だ」
颯吾はそう言って、その布を黒狼の首に優しく巻いて結ぶ。
黒狼は言葉を失ったように、ただじっとその布を見つめていた。
「……今までそばにいてくれてありがとう」
巻いた布が陽光を受けて輝き始め、風に乗ってふわりと揺れる。
黒狼は微かに目を細め、低く唸る声が次第に穏やかな音へと変わっていった。
「……なんだ、それは。根性の別れのつもりか?」
黒狼がに皮肉めいた声で鼻を鳴らす。
「もう、好きなことをしていいんだ。どこへなりとも行くがいい」
「では、我が居場所は、ここしかない」
黒狼は、颯吾の顔を見上げ、ふさふさの尻尾を大きく振った。
「くろがね……っ!」
颯吾が地面に膝をつき、黒狼に抱きつく。その声には涙が滲んでいた。
「これは契約ではない、互いの心が見えない絆で縁を結び直したのだ」
暁翔の言葉に真桜も涙ぐみながら頷いた。
「妖と人は……一緒に生きていけますよね……」
すべての妖と分かり合えるのは難しいかもしれないけれど、傷つけ合わずに済む方法がきっとどこかにあるはずだ。
ホッとした途端、目の前がぼやけてきて、真桜はくらりと眩暈を覚え、そのまま意識を手放した。
倒れる瞬間、清涼な香りに包まれたから、きっとこの温かさは暁翔の腕の中――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます