第15話 記憶の中で

 暗闇の中、真桜は宙に浮かぶような感覚に囚われていた。心の奥底を何か冷たいものが擦り抜けるようで、胸がざわつく。手を動かしても何も掴めず、足元には重みもない。ただ、どこまでも深い虚空が続いているだけだ。


「暁翔様……!」

 出せる限りの声を張って、神の名を呼ぶ。


 ――するとその時、不意に近くから声が聞こえた。


「落ち着け、真桜」

 それは暁翔の声だった。低く落ち着いたその響きが、暗闇を裂いて届く。真桜は反射的に耳を澄ませた。


「暁翔様? どちらにいらっしゃるのですか⁉」

 左右を見渡してみても、彼の姿は見えない。


「そこは妖の記憶の中。おそらく結びの糸が繋がり、真桜の心が取り込まれてしまったのだ。俺はそこには行けないが、おまえから離れることはないから安心しろ」


 彼の声は聞こえるのに、それはあちこちから聞こえてくるような気がして、真桜は震える唇を引き結んだ。


 暁翔が安心しろというのだから、彼を信じよう。


「自分の左手の薬指が見えるか? そこに赤い糸があるはずだ」


 赤い糸――。その言葉に、手の存在を確かめるように自分の左手を凝視する。


 やがて、薄暗い空間にぼんやりとした光が浮かび上がり、彼の言葉通り、赤い糸が指先から続いているのが見えた。暗闇の中で唯一の救いのように、赤い糸がかすかな暖かさを放っている。


「俺はそれで繋がっている。おまえは一人ではない」


「暁翔様……わかりました。どうすればここから出られますか?」

 真桜は深呼吸し、赤い糸をつまんだ。その瞬間、指先から伝わる穏やかな温もりに、心が少しずつ落ち着きを取り戻していく。暁翔がその先にいる――そう思うと震えていた脚もしゃんと力が入った。


「妖が何かを伝えたい意思が残っているのだろう。それを聞くことができれば出られるかもしれない」

 暁翔の言葉に共鳴するように、闇がふっと消え去り、周囲が明るさを取り戻していく。


 次第に見えてきたのは、さきほどの霧島家の庭――だが、どこか様子が違う。


「誰もいない……?」

 戻れたわけではないらしい。


「くろがね!」

 真桜が呟いた時、背後から幼い声が響き、驚いて振り返る。


 そこには黒髪の少年と黒狼が庭を駆け回っていた。まるで真桜が見えていないようだ。


(これは妖の記憶だと暁翔様がおっしゃっていた。では、あの男の子は……颯吾様?)


 黒狼は少年時代の颯悟の隣を並走し、彼が笑い声を上げるたびに、しっぽを大きく振っている。


「もっと速く走れるだろう! くろがね、ほら追いついてみろ!」

 颯悟は無邪気な笑顔を浮かべ、黒狼を挑発するように手を叩いてみせた。すると、黒狼がわざと大げさに前足を地面に叩きつけ、颯悟を追い越す仕草をする。それを見て颯悟がまた声を上げて笑う。


 その光景に、真桜の胸がじんと暖かくなる。


「小さい頃は仲良しだったのね……」

 この頃の颯悟は、きっと黒狼を「使役する妖」とは見ていなかったのだろう。


「また妖と遊んでいるわ」

「命令には逆らえないようになっているから傷つけたりはしないさ」

「ああ、こうして見ていると、まるで兄弟みたいじゃないですか」

 霧島家の使用人たちが遠巻きに彼らがはしゃぐ様子を見て、思い思いに頷いている。


(それなのに、どうして……?)

 真桜は顔を曇らせた。


 すると景色が歪んで別の場面に移る。


 さきほどよりも少し背が伸びた颯悟が木陰でこっそり何かを広げている。近づいていって覗き込むと、それは鮮やかに彩られた布切れだった。彼は手にした筆で器用に文字を書き込むと、黒狼の首に布を結びつけた。


「よし、これでおまえも私と同じだ。くろがねは私の弟だぞ!」

 何を言っているのかわからないとでも言いたげに、黒狼は首を傾げ、巻かれた布を少し気にしている。


 だが颯悟の笑顔に応えるように鼻を鳴らし、すっと姿勢を正した。その様子に、颯悟が大喜びして漆黒の毛並みを撫で回している。


 だが、幸せそうな光景は突如として掻き消えた。颯悟の父が厳しい口調で命じる声が響き渡る。


「妖は遊び相手ではない! 勝手に名前などつけおって……剣術の稽古を怠るな!」

 颯悟の父が厳しく叱りつける中、黒狼はただ静かに立ち尽くし、少年を見つめていた。颯悟も、遊びたい気持ちを押し殺すように目を伏せ、剣を手に取る。


(子どもの頃から厳しく……颯吾様のお気持ち、わかる気がするわ)

 真桜は自身の父の叱責を思い出して胸をぎゅっと押さえた。


 さらに記憶が移り変わる。颯悟と黒狼が退魔の場に駆り出されるらしい。妖たちが黒狼を蔑むような視線を投げつけ、言葉が鋭く突き刺さる。


「裏切り者! 人間の犬に成り下がりおって!」

「ああ、情けない!」

 その声が真桜の胸にも痛みを伴う。黒狼が何も言い返さずにただ耐え続け、妖たちを引き裂いていくその瞳は、ひどく悲しげだった。


 やがて次の記憶が映し出される。


「もう颯吾に近づくな。主人はこの私だぞ」

 颯吾の父が黒狼の首元に手を伸ばし、巻いていた布を引きちぎる。それはかつて颯吾が結んでくれた兄弟の証だった。


 うなり声を上げると、突如体に赤黒い糸が浮き出し、その体躯を万力のように締めつける。


「逆らうなと言っただろう。主人以外は敵だ」

 そう言って霧島家の当主が去っていく。


 次に見えたのは颯悟が黒狼に手を伸ばそうとしているところだった。黒狼は牙を剥き、彼の腕を傷つける。


「所詮は契約がなければ他の妖どもと変わらないというわけか」

 指先から垂れる血が地面に紅く沁みていく。痛みに顔を歪めるでもなく、颯吾の瞳はただただ昏くなり、黒狼に背を向けて戻らなかった。


 その後ろ姿を見つめる黒狼の瞳には、どす黒い苦しみと葛藤が滲んでいた。


『苦しい……苦しい……主人以外は、敵……』

 それは黒狼の心の声だった。


『ソウゴは、もう……名を呼んでくれない……』

 徐々に辺りが暗くなってきて、空気が重くなってくる。


「これは……怨嗟?」

 真桜は震える声で呟いた。


「それだけではない。自分で自分を呪っているのだろう――」

 暁翔の声が静かに響く。


「そんな……この子は悪くないのに……」

 縁を切れば、命令に従わなくてもよくなるから、苦しみを少しでも軽くできるのではないだろうか。


 そう思って暁翔に尋ねると「それは難しいだろう。どこまで精神が保っているのか不明だ」と返ってきた。


「では、やはり縁を切って、退治するしかないのですか……?」

 真桜がつぶやくように問いかけた瞬間、暗闇の中に深紅の光が二つ現れ、激しく揺れた。どこからか低い唸り声が響き、空気が歪んでいく。


『切る……? おまえが……?』

 冷たい声が真桜の心を突き刺した。黒狼の姿は闇に沈み、その闇が波のように押し寄せてくる。


「もしかして、私の言葉が聞こえるのですか⁉」

 真桜は咄嗟に叫んだが、妖までは言葉が届かない。


『出ていけ!』

 鼓膜を破らんばかりの咆哮と共に足元が崩れ落ち、重力に引き込まれるように闇が全身を包み込んだ。


「きゃあっ」

 次の瞬間、激しい衝撃とともに意識が弾き飛ばされる。視界が白く明滅し、風を切る音が耳元を掠める――そしてふっと全てが静かになった。


 目を開けたとき、真桜は誰かの腕に抱えられていた。暖かさがじんわりと全身に広がる。見上げると、暁翔が心配そうに自分を覗き込んでいた。


「気づいたか」

 その声は柔らかく温かかった。薬指に繋がっていた赤い糸のように。


 真桜は何が起こったのかを思い出しながら、微かに頷いた。


「たぶん、私が『縁を切る』なんて言ったから……怒って……」

 暁翔の腕の中で体を起こしながら、真桜は途切れ途切れに言葉を紡いだ。


 それからハッとする。

 そうだ、確かに黒狼は怒っていた。

 縁を切るという言葉を聞いて。


「本当は、そばにいたいのではないでしょうか」


「暴走しているあいつを止めるには、縁を切って命を絶つしかないだろう!」

 なかば投げやりに言ったのは、真桜の言葉を聞いていた颯吾だ。


 ――ああ、この人も本心では縁を切りたくないのだ。

 やるせない感情が渦巻いて、複雑に絡み合う。このもつれた糸をいったいどうすればいいのだろう。



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