第14話 縁切り

 静かな室内には重い空気が流れていた。太陽が雲間に入ったのか障子越しに射し込んでくる光が、すうっと弱くなる。


「縁を切る――」

 その言葉を反芻し、真桜は戸惑いの色を浮かべた。


「恐れながら、私はそのようなことは今までにしたことがありません」

 己の力を過信することもなく、ただ素直にその事実を口にする。


「武雄殿は強い力を持つなら可能だと言っていた。つまり、それはあなたのことだろう?」

 颯吾の口調は冷静さを保とうとしていたが、どこか焦りが滲むように聞こえた。


「そう言われましても……」

 曖昧に答え、隣の暁翔に助けを求めるように視線を向ける。


「結びの力には、いろいろと使い方がある。縁切りもその一つだ。俺の神力を分けた今の真桜なら造作もないことだろう」

 暁翔は落ち着いた声で答えた。それは彼女に不安を与えないように努めてくれているようだった。


「そう……なんですか? ですが、お相手というのはどなたなのですか?」

 真桜は暁翔に困惑気味に首を捻ってから、正面に座る颯吾に視線を戻す。


「……我が家が使役している妖だ」

 颯吾は一瞬口ごもり、目を伏せた。その後、深く息を吐く。


「妖?」

 真桜は目を丸くし、暁翔と顔を見合わせた。暁翔も微かに眉を動かす。


「やはり、か。この家に来てから人ではない気配を感じていた」

 暁翔は目を細めて腕を組んだ。


「あなたには、感じ取れるか。さすがだ」

 颯吾は感心するように言いながらも、どこか沈んだ声を発する。


「百年以上前に、白月家の力を借りて、霧島家と縁を結ばせた黒狼の妖。我が家に忠誠を誓い、命令には必ず従うよう、その魂に契約を刻んでいる。その力は退魔において絶大で、この家を護る役目も果たしてきた」


「そんなに長く……」

 真桜が呟くと、彼は再び深いため息をついた。


「だが、近年になり、妖の様子がおかしくなってきた。命令には応じるが過剰なまでの残虐性を見せるようになり、制御が効かずに、味方にも牙を剥くこともしばしば……」

 その言葉が、室内に重く落ちる。


「今はやむなく護符を使い、この敷地内の蔵に封じている」


「危害を加えるような妖を一掃してきたのであろう? 同じように片付ければよい」

 暁翔は、淡々とした口調で提案した。顔には出さないが、言葉の端には皮肉の色が見える。


「その妖は……当主の命と繋がっている。強引に妖の命を絶てば、現在の契約主――つまり私の父の命まで断つことになるだろう」


 恐ろしい事実に真桜はもちろん、隣の母も小さく肩を震わせるのがわかった。


「もう一度、結びの力で契約をし直すことはできないのですか?」

 真桜の問いに颯吾の眉間のしわが深くなる。


「うまくいったとて、再び同じ事態が起こらないとも限らない。災いの芽は小さなうちに摘んでおくしかないのだ」

 颯吾はやや苛立ったような口調で答えた。


「白月は、協力してくれなかったのですか?」

 母がおずおずと尋ねると、颯吾は小さくかぶりを振る。


「父は意固地な人間で、白月家に頭は下げたくないと。だが、あちらの娘を娶ると言えば、普段から野心を見せる武雄殿は食いついてくる、こちらはその娘の力だけを利用すればいいというのが父の考えだった」


 それを聞いた暁翔が「時代が変わっても権力しか目にない人間はどこにでもいるのだな」と鼻で笑った。


 颯吾の話はわかった。けれど、家の立場とか、力を利用するとか、まるで相手の気持ちを考えていない話に共感するのは難しい。


「……その妖と縁をお切りになった後は、どうなさるのですか?」

 真桜は座卓の上に目線を落として、独り言のように呟いた。


「父の体から切り離した後は、滅するしかない。こちらに襲い掛かってきたり、外に逃げられたりしたら面倒だ……」

 その先を言い切ることなく、颯吾は言葉を飲み込み、目を伏せた。


「封じる護符の枚数も増えているが、同時に影響を受けてしまう父は臥せり、受け答えもままならない状況で、我が家には一刻の猶予もない」

 颯吾はそう言っておもむろに立ち上がった。


「蔵に案内する。母上殿は危険なので、ここで待て」


「は、はい……」

 母は慌てて返事をし、それから真桜の方を向く。


「危ないことはしないでちょうだいね」


「だいじょう――」

「真桜のことは俺が守るから安心してほしい」

 最後まで言い終えないうちに、暁翔がきっぱりとした声色で言葉を重ねてきた。


「あ、あの、あなたは……」

 そういえば、母には何も説明していなかった。話せば長くなる。とにかく心配をかけないように――。


「縁結びの神様よ」

「禍ツ神だ」

「人の世でいうところのだ」

 真桜と颯吾と暁翔の口から同時に言葉が出た。


「え……?」

 母がぽかんとしてしまったのは言うまでもない。


 あとできちんと話すからと言い残して、真桜は颯吾を急き立てるようにして客間を後にした。


(伴侶、だなんて……ううん、その通りなんだけど、あんなに堂々と人前で言われると……)

 どうしようもなく気恥ずかしい感情が渦巻いて、頬が熱くなる。


 廊下を急ぎ足で進みながら、頭の中では必死に冷静さを取り戻そうと深呼吸をした。


(今は妖と縁を切ることだけ、考えるの)

 とくとくと逸る鼓動はなかなか落ち着かなかった。



 だが、颯吾に続いて庭に下り、奥まった場所にある蔵の前で立ち止まった時、言い知れない重い気配に肌がピリピリと逆立つような感覚に見舞われ、否が応でも心は地に着いた。


「ここだ」

 颯吾がびっしりと護符の張られた扉に手をかける。


 念のため、いつでも結界を張れる心構えをしながら、扉が開くのを待っていると、軋む音と共に、内側から濃い瘴気が漏れ出してきた。それは霊力のある人間にしか見えないものだ。


「下がっていろ」

 怯える真桜の前に暁翔が立ち、手を翳して瘴気をさっと振り払う。


 蔵の中は真っ暗で何も見えない――いや、暗闇の中にぎらりと緋色の光が見えた。それがゆっくりと外に出ようとしている。


 低い唸り声を上げる口元は大きく裂け、紅い舌が覗いていた。だらだらと涎を垂らしながら、漆黒の毛並みを揺らしながら前へ出てくる。その巨大な体躯は並みの犬や狼の比ではない。


「なるほど、契約によって言葉を封じられているらしい」

 暁翔が言うと、颯吾がハッとしたように肩を震わせた。


「この妖は人語を話せるのか?」


「ああ、本来であればな」

 暁翔がそう答えるや否や、黒狼が大きく跳躍しこちらに飛びかかってきた。


(どうしよう!? 縁を切る? どうやって――)

 真桜は咄嗟に両掌を黒い塊に向けて掲げる。すると指先が急に冷たくなって、いつもの赤い糸ではない青白い光を纏った糸が紡ぎ出された。


「これが――縁切りのための……」

 普段よりも体に流れる霊力が強い気がする。


 暁翔が動じることなく向かってきた黒狼の頭を掴んだ。妖は巨大な口を開けるが、そのまま動きを止める。


 縁を切るなら、今しかない。だが、本当に切ることが正解なのだろうか。

 迷いながらも、糸を延ばした瞬間――。


「くろがね!」

 突如、張り詰めた空気を切り裂くように颯吾が抑えていた声を爆発させた。


 その一喝は、鋭い刃のように辺りに響き渡り、真桜はびくりと肩を震わせる。


「そ、颯吾様……?」

 彼の方を見れば、蒼白な顔がこわばっていた。


(どうなさったのかしら?)

 真桜の胸がざわつき、意識が黒狼から離れた刹那、暁翔が「真桜!」と叫ぶ声が耳に届く。


「え?」

 暁翔の方を向いたつもりだったのに、そこにはどこまでも広がる闇しかなかった。


「暁翔様? 颯吾様?」

 一筋の光もない。それなのに、自分の体だけはなぜか見える。


 自分が今、真っ直ぐに立っているのか、どこか天なのか地なのかさえわからず、ぐるぐると眩暈を感じた。


「ここは……どこ?」

 呟く自分の声が虚しくこだまする――。


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