第四章 黒の兄弟

第13話 取引

 長屋の前でしばらく待っていると、霧島家の使いだという男がやってきた。


「何があっても真桜だけは守る」

 暁翔がそう言ってくれたので、真桜は迷いながらもその男についていくことに決めた。


 少し離れた大通りに自動車が停まっている。先日も妖退治に呼ばれた時に乗ったものだが、物珍しいのか、人だかりができていた。そこを従者に先導されて乗り込む。


「馬も人の支えもなしにどうやって動いている?」

 車が走り出し、周囲の風景がどんどん後ろに流れていった。その様子を見て、暁翔がひどく真面目な顔で尋ねてくる。


「これは『自動車』というのだそうです。原理は私にもよくわかりません。ただ、とても貴重なもので偉い人しか所有できないのだと、前に玲華様に教えていただいたことがあります」

 真桜は首をすくめながら慌てて答えた。窓がついていないので、冷風が見事に吹きつけてくるのだ。


 三百年も経てば暁翔の知らないものがたくさんあるだろう。だが同じように真桜も長屋のそばを離れたことはなかったし、白月家に引き取られてからも帝都の中心部へ来たことはなかったので、教えてあげられることはあまりないかもしれない。


 通りには、二月の風に震える裸木と、肩を丸めて急ぎ足で行き交う人々の姿がちらほらと見えた。


「真桜。これを」

 ふいに暁翔が羽織を脱ぎ、真桜の肩にかけてくれた。ふわりと感じた温かさは立派な生地のおかげもあるが、たった今まで身に着けていた彼の体温が残っているからだ。


 また胸が切なく疼いて、雪のように白かった頬に朱が差す。


「あ、暁翔様がお風邪を召してしまいます……」

 真桜は羽織が風ではためかないように、きゅっと胸元で押さえながら隣へ視線を向けた。


「俺は寒さを感じない。安心しろ」

 暁翔が澄まし顔で答える。


 そうでした、と真桜は恥ずかしそうに頷いて、彼の優しさをありがたく受け取ることにした。


「ところで、おまえは霧島颯吾という男を知っているのか?」

 賑やかな通りを抜けて、閑静な道に入った時に暁翔にそう聞かれる。


「帝都には退魔を生業なりわいとする御三家がいるというお話はしましたよね? 霧島家はそのうちの一つで、颯吾様は跡目でいらっしゃいます。先日、湊野みなの村で狒狒の妖が出た時に、初めてお会いしました。そういえば私と暁翔様が白月家を出る時も、いらしていたような……」


 後日礼に行くとは聞いていたが、ずいぶん早い訪問だったと思う。

 もしかしたら、正式に縁談の申し込みをしに来ていたのかもしれない。


 そんな会話をしていると、車が速度を落とした。左側には瓦屋根の乗った白壁と黒い腰板で統一された高く長い塀が続いているのが見える。


 塀越しに垣間見える庭の木々が、景観を引き締めていた。


「どうぞ、お降りください」

 御者に促されて二人は地面に降り立ち、重厚な薬医門やくいもんを見上げる。


 黒漆喰と白壁の対比が美しい門は、柱や梁に飾られた細やかな彫刻と木目の美しさが際立っていた。


「さすが御三家と言われるだけありますね」

 真桜は小さく息を呑んだ。


(ここが妖の魔の手から帝都を守護してきた、武家の流れを汲む由緒ある霧島家……)

 扉がゆっくりと開かれ、中から案内役と思われる使用人が姿を現した。


 門の奥には、庭園が広がり、ここでも梅の木々がまだ早い春を迎えているようだ。


「ようこそいらっしゃいました。こちらへどうぞ」

 建物の中に通され、渡り廊下を進むと、二人は客間へと通された。


 客人をもてなすための部屋は、南側に面していて、障子越しに光が柔らかく差し込んでいる。真新しい畳の香りが漂っていた。


「ただいま颯悟様がいらっしゃいます。こちらでお待ちくださいませ」

 使用人が頭を下げ、障子を閉める。残された真桜と暁翔は、無言のまま室内を見回した。


「これは……」

 ぽつりと呟いた暁翔の顔に翳りが見えた気がしたが、それも一瞬ですぐに真桜に微笑を向ける。


 彼の表情の理由を尋ねようと思ったが、真桜はそれよりも気になっていることがあった。


「母は本当にここにいるのでしょうか……」

 もし、母の身に何かあったらどうしたらいいのだろう。


「俺たちが幽世へ渡った時点で、向こうも何かを考えて動いたのだろう」

 暁翔がそう答えた時、静かな足音が聞こえてきて障子の向こうに二人分の人影が映った。


「失礼する」

 先に現れたのは霧島颯悟だった。


 深い藍色の着物に、薄墨色の羽織を軽く羽織っている。その襟元には、目を凝らさなければ見えないほど小さく家紋が控えめに刺繍されていた。短い黒髪が陽光で濡れたように艶めいている。


 だがそれよりも真桜の目は、彼の背後に立っている一人の女性に釘付けになっていた。


「……お母、さん?」

 真桜の声が震える。


 記憶の中の母よりも少し痩せ、髪には白いものが混じっている様子に胸がぎゅっとなった。苦労してきたのは母も同じだったのかもしれない。


「真桜……」

 そろそろと部屋に入ってきた母の声は掠れていたが、優しさと懐かしさに満ちている。


 真桜は弾かれるように母に抱きついた。


「お母さん……お母さんっ!」

 七年分の想いが膨れ上がり、一瞬にして溢れ出した。長い間離れていても忘れることのなかった柔らかな匂いを吸い込んで、真桜の目から大粒の涙が堰をきったように零れる。


 母はそんな我が子をそっと抱きしめ、肩を震わせた。


「大きくなったね……こんなに立派になって……」

 同じく涙を零す母の手が、真桜の髪を優しく撫でる。真桜は嗚咽を抑えることができず、幼子のようにわんわんと泣いた。


「ごめん、なさい……ずっと、会いたかった……お母さん、無事で本当に良かった……!」

 何度も掌で顔を覆い、涙を拭おうとするが追いつかない。


「お母さんも……真桜に会いたかったわ」

 母にゆっくりゆっくり背中をさすってもらうと、ようやく気持ちが落ち着いてきた。


「白月家の当主があなたの母上を探そうとしていたので、先手を打たせてもらった」

 深い声色を発したのは颯吾だ。


「先手……」

 真桜は母から渡された手巾ハンカチで目元を押さえる。


「まずは座って、私の話を聞いてくれ」

 彼が軽く手を広げて勧めると、真桜は母の手を取ったまま、座布団に腰を下ろす。暁翔もそれに倣い、真桜の隣に座った。


「白月家の当主――武雄殿の激高ぶりは目に余るほどだった。せっかく手に入れた道具だったのに、と聞き捨てならぬことを言うものだから、事実を確認させてもらった」

 颯吾はそこで薄く笑う。


 父があっさりと本当のことを漏らすのが信じられなかったが、颯吾の気迫がよほどの勢いだったのだろうと真桜はごくりと小さく唾を飲んだ。


「当代一の『結びの力』を持っているのは真桜さん……あなただった、と」

 咎めるような口調ではなかったが、嘘をついていたのは確かだ。


「申し訳ありません……」

 真桜は深く頭を下げる。


「いや、隠すように命じられていたのだろう? おかげで無益な婚姻をせずに済んだのだ、むしろ礼を言わなければ」

 颯吾は軽く肩をすくめた。


(無益な婚姻――それって、玲華さんとのお話を破談にしたということ?)

 父の怒る顔はもちろん、異母姉の般若のように怒り狂う様子が頭に浮かぶようで、真桜はぞっとする。


「武雄殿は、今度こそ真桜さんの母上を人質にし、禍ツ神の力を引き出してもらうと息巻いていたよ。それで部下に命じ、我が家で内々に保護させてもらった」

 それを一日もかけずにやってのける行動力に、いささか度肝を抜かれる。


「なぜ、母を助けてくれたのですか?」

 真桜が恐る恐る尋ねると、颯悟は一瞬、軽く目を伏せた。


「助けた……というのは、少し違う」

 颯悟の言葉には、どこか自嘲めいた響きがあった。


「あなたの母上を保護したのは、私と取引してほしいからだ。白月家が諦めない限り、母上を危険に晒し続けることになる。それはあなたの望まないことだと思うが?」

 颯悟は真桜の母に一瞥を向けると、静かに続ける。


「私の頼みを聞いてもらいたい。その代わり母上の身の上は保障する、どうだ?」


 どうだと聞かれても、即答ができない。


「真桜。私のことはいいのよ。白月の家でひどい扱いを受けていたと、この方からお聞きしたわ。何も知らずにごめんなさい。もう、あなたの好きに生きていいのよ」

 隣に座る母が真桜の手をぎゅっと握ってきた。


「わ、私のせいでお母さんが危ない目に遭うのはいや」

 真桜は大きくかぶりを振る。


 幽世に一緒に行けたら、悪意のある手から逃れられるかもしれない。けれど今までの生活すべてを捨てて妖しかいない世界に移り住むことを母は望むだろうか。

 しばらく安全な場所に置いてもらえるというなら、それがいいのかもしれない。


「取引とは、なんですか? 私にできることなのですか?」

 真桜はまっすぐに彼の目を見返して尋ねる。


「……あなたにしかできない。縁を切ってほしい相手がいる」

 颯吾の瞳が、そこで微かに揺らいだ――。


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