第12話 母の行方
暁翔はひとまず視線を巡らせると、真桜に目を留め、その表情を和らげた。
「暁翔さまー、おかえりなさい」
小さな妖たちが嬉しそうに彼に駆け寄り、その足元をくるくると回る。
「ああ。おまえたちもよく働いてくれているようだな」
暁翔は彼らを転ばせないように、そっと頭を撫でながらするりと間を縫って歩いてくると、真桜のそばに腰を落ち着けた。
「お疲れ様でした。特に異変はございませんでしたか?」
真桜がそう尋ねると暁翔は頷く。
「大きな異変はなかったな。俺がいなくとも幽世の理が崩れることはないらしい」
暁翔は一瞬言葉を選ぶようにしてから、微笑を浮かべた。
「まだ真桜のことをとやかく言う者はいたが、気にするな。いつか、おまえのことを理解してくれると信じているし、何があっても俺が真桜を守る」
その言葉に、真桜の胸がじんと熱くなった。けれど同時に、彼女は自分の存在がこの地で波紋を呼んでいることに申し訳なさを感じる。
「ご迷惑をおかけしないように気をつけます」
真桜は膝の上で手を握りしめた。
「おまえは俺にとって必要だからこそ、ここにいるのだ。何も気負う必要はない」
暁翔の声は静かで、けれどどこか温かい響きを帯びていた。
「真桜様。暁翔様にとって、あなたは『半身』となった存在。それは、とても特別なことなのでございますよ」
水琴が微笑みを浮かべながら付け加える。
「あ、そういえば……そのことを聞きたかったんです。『半身』とは一体どういう意味なのでしょう?」
真桜が首をかしげると、黒髪がしっとりと肩に流れた。
「おまえと俺の間に結ばれた縁は、ただの絆ではない。真桜の『結びの力』が俺を浄化し、同時に俺の神力の一部がおまえの中に宿った。これによっておまえの結びの力は以前よりも強くなり、俺は穢れを浄化することで本来の力が戻りつつある」
暁翔は少し考え込むように視線を落とし、それから穏やかな口調で答えた。
「これを……見てほしい」
そう言うと、彼は袖から手を出し、手甲のように見える透かし彫りが施された純白の絹の装身具を外した。
「それ……どうされたんですか?」
真桜が目を見開く。
露わになった暁翔の手の甲には、黒と赤の絡み合う複雑な紋様が刻まれていた。しれは一目でよくないものだと感じ取れるほど負の気を放っていた。
「これが禍ツ神の刻印であり、穢れでもある」
暁翔は視線を落とし、その紋様を見つめながら話し始めた。
「これでも、結びの儀のおかげでだいぶ薄くなった方だ」
「これでも……?」
真桜はその刻印に目を凝らしながら問いかけた。
何かに強くぶつけてしまった時にできる痣に似ていたが、それよりも色は濃いように見える。うっすらと二の腕の方にも伸びている痕があったから、たしかにこれでもいくらかましになったのかもしれない。
「暁翔様が禍ツ神になったのは、私たち人間のせいなんですよね?」
複雑な紋様はそこに刻まれた怨嗟が簡単には解けないであろうことを想像させた。
「暁翔様はかつて、縁結びの神でいらっしゃいました。ですが……そのお力で多くの人々の願いを叶えた結果、『満願成就の神』と呼ばれるようになり、人々の欲望が増幅し、次第にその力が誤解や憎しみを呼び、暁翔様に降りかかるようになったのです」
そう教えてくれたのは、水琴だった。
(縁結びの神様――?)
真桜は目を丸くした。
暁翔が静かに頷き、水琴の言葉を引き取る。
「人間たちは武器を取り、互いの領地や利益を求めて争うようになっていた。浄化が追いつかないほど毎日嫉妬や憎悪、そして願いを叶えられなかった者たちの怨嗟がこの身を蝕んでいった。そしてついに俺自身が厄災を招く存在として恐れられるようになった」
それを聞いた真桜の胸に、痛みが走るような感覚が広がった。
暁翔の静かな語りの裏に隠された孤独と苦悩が、まるで自分にも伝わってくるようだった。
「このままでは現世の秩序を乱してしまうと危惧した俺は結びの力を汲む者に協力を仰ぎ、自ら封印される道を選んだ」
「それが白月家のご先祖様……?」
「そうなのだろうな。この刻印は、穢れが完全に浄化されれば消える。その時が来れば、私は厄災を招くこともなくなるだろう」
暁翔はそう言いながら真桜を見つめた。
「その……浄化というのは、どうすれば……?」
真桜が恐る恐る尋ねる。
「簡単なことではない。だが、おまえの結びの力が私を支えてくれている。私が半身を持ったことで、互いの力が混ざり合い、私の穢れも少しずつ薄れているはずだ」
「半身……」
真桜は静かにその言葉を繰り返した。
自分と暁翔が、想像以上に深く繋がっているらしい。そしてそれが、これからどのような未来を導くのか、漠然とした不安と希望が入り混じった感情が胸に広がる。
「刻印が消えし時、おまえときちんとした祝言を挙げたい」
暁翔の低く優しい声が、真桜の心に深く響いた。
灰青色の瞳に見つめられ、ことんと鼓動が大きく跳ねる。
「は、はい……」
真桜は淡く頬を染め、小さく頷いた。それ以上の言葉は見つからない。
「おまえが安心して俺に嫁げるように、まずは母親の行方を捜しに行くか。ずいぶん顔色もよくなったようだしな」
「滋養によいものを揃えましたから」
水琴がゆったりと微笑む。
「これからもよろしく頼むぞ」
暁翔は水琴に礼を言い、再び真桜の方を向いた。
「真桜が望むなら、今すぐにでも現世へ戻るが、どうする?」
「行きます! 母がどうしているか、この目で確かめたいです!」
真桜は彼の言葉に頷く。
「では、お支度をいたしませんとね。暁翔様の今の服装では、現世では目立ってしまいますので」
水琴の言葉でまじまじと暁翔の格好を眺めたが、たしかに一般の人々とはかけ離れている。月の色を溶かしたような髪色と、飛びぬけた美貌は隠しようがないが、服装を変えるだけでも印象は変わるだろう。
というわけで、水琴に頼んで暁翔は落ち着いた濃紺の和装に着替えた。
長い髪があまり人目を引かないように、真桜が組み紐で結んであげると、庭にあった柿の木から実がぼたぼたと一斉に地面に落ちた。
「暁翔さま、喜んでるの~」
しろたちが、ニコニコしながら柿を拾いに行ってしまう。
彼らを目の端に捉えながら、真桜は暁翔とともに鏡池のほとりに立っていた。
その水面には淡い光が揺らめき、まるで月の光が降り注ぐようだ。庭木が鏡のように水面に映り込み、もう一つの世界がそこにあるような錯覚に陥る。
「行くぞ」
暁翔が一歩水面に足を踏み入れると、光が彼を包み込んだ。一瞬ためらった真桜の手を彼が握り、そのまま両腕で抱きしめられ、池に飛び込む形になる。
「ひゃ……っ」
ドボンという音がしたように思ったが、不思議と水の流れは感じなかったし、息ができないこともなかった。体が深い穴に落ちていくような浮遊感に身がすくむだけだ。ただ、同時に彼の力強い抱擁に鼓動が早鐘を打ち、背中から汗が噴き出す。
ぎゅっと目をつぶり、彼にしがみついていると、ふいに足が池の底に着いた――いや、耳に遠くから人々の生活音が入ってくる。水の中ではなく、ここは――現世だ。
「ここは……お母さんの……」
真桜は顔を上げて周囲を見回す。
かつて母と二人で暮らしていた長屋の一角だ。なんだか古びた感じはあったが年数が経っているのだから当然かもしれない。
長屋の前に立った真桜は、懐かしさと共に胸を締めつける不安を覚えた。建物は少し古びていたものの、変わらぬ佇まいだった。
「たしか、ここが……」
真桜が焦るように歩を進め、見覚えのある扉の前に立ち、とんとんと叩いてみる。だがなんの反応もなかった。
「誰も……いない?」
いや、もしかしたら働きに出ているだけかもしれない。まだ日は高いのだから。
不安そうに辺りを見回していると、隣の部屋から馴染みのある声が聞こえた。
「もしかして……真桜ちゃん?」
現れたのはかつての隣人だった。縁結びの御利益を受け、真桜に感謝していた女性だ。
「お、お久しぶりです! あのっ、母がどこにいるかご存じありませんか⁉」
真桜はわずかな望みに縋りつくように必死な声を上げていた。
「ああ、昨日、立派な身なりの方が訪ねてきてね。一緒に行ったきり、戻っていないようだねえ」
その言葉に、真桜の顔が青ざめる。
「まさか……遅かった……?」
くらりと眩暈がして、よろめいた身を暁翔が支えてくれる。
「お母さんを訪ねてきた人が、もし真桜ちゃんが来たら、これを開けてほしいって置いていったのよ。何年も会っていないから来ないんじゃないと言ったんだけどねえ、本当に来るなんて、びっくりしたよ」
女性は困惑したように眉を寄せ、一通の手紙を取り出した。
途端に隣家の中から赤ん坊の泣き声が聞こえてきて、女性は「またあとでね」と言って急いで中に入っていってしまった。
「お母さん……っ」
真桜が震える手でその封を切ると、中から一枚の人型がするりと意思がある人形のように抜け出し、空へ飛んでいった。
「あれはなんですか?」
真桜はハッとして暁翔に尋ねる。
「あれは『式』だな。おそらく、主を呼びにでもいったのだろう」
「主?」
真桜は慌てて封書のを裏返した。
そこには達筆な字で『霧島颯吾』と書かれていた。
「どうして、あの人が――?」
そう呟いた瞬間、真桜の胸には新たな不安が広がっていった。
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