第6話 裂ける静寂

 霧島家の使いの者とともに自動車で向かった先は、帝都の北に位置する湊野みなの村という所だった。


 夜風が吹き抜ける平原は固い雪に覆われていたが、すでに妖と交戦したのか足場は乱れ、土がめくれあがっている所もあった。


「白月の姫君、寒いところを呼び出してすまない」

 雪を踏み鳴らしながらやってきたのは、狩衣に袴という装いで、背には長刀を背負い、腰には霊符が入った小袋を下げた青年だった。


 長身で端正な顔立ち、漆黒の髪を短く切り揃えた姿はどこか冷徹でありながらも穏やかな品格を持つ。


「霧島様! まさかあなた様までいらっしゃるとは思っておりませんでしたわ」

 玲華が浮ついた声を上げ、草履ぞうりが雪に埋もれるのもかまわずに急ぎ足で彼の下へ向かっていった。


 あの男が玲華の許婚になる予定なのかと、ゆっくりと車から降りた真桜は思った。


(たしかに、いつもは霧島の者といっても部下の人にしか会ったことがないわ)

 おそらく、霧島家の嫡男――颯吾そうごがいれば普段は援護を必要とせずに退魔の仕事をこなしているだろう。その彼が助力を求めるくらいなのだから、気を引き締めねばならない。


「そちらの女性は?」

 颯吾がこちらに視線を投げてよこす。


「あれは、親戚の子ですの。力も弱いのですけれど、どうしても勉強のために私の術を見たいと言ってきかなくて……本当は止めたのですけど、我儘な子で……」

 玲華はするすると嘘を並べると、うるりと上目づかいで颯吾を見つめた。


「生半可な気持ちでは命がいくつあっても足りないぞ。離れていろよ」

 颯吾が鋭い目で睨んできたので、真桜は頷く。


(はなからそのつもりですので)

 真桜は心の中で諦めたように笑った。


「では行くぞ。今は森の中になりを潜めている。援護を頼む」


「はいっ!」

 跳ねる調子で答えた玲華が嬉しそうに颯吾についていく。


 真桜は自動車のそばに立ったまま、彼らが他の部下たちと妖退治に向かうのを見ていた。


 月光が照らす中、前方には漆黒の森が闇を湛えている。冷たい空気が肺に染み込み、風で舞い飛んできた雪がほのかに耳を打った。


 やがて深い闇の中から獣のようなうなり声が上がり、真桜の右手の人差し指――正確には指輪を嵌めている部分が痛みだした。これは玲華が結びの力を使い、真桜の霊力を引き込んでいるからだ。


(霧島様がおられるなら、そんなに時間はかからないかも……)

 ずきずきと抉られるような指の疼きに耐えながら、真桜は彼らの無事を祈る。


 だが、その焼けつく痛みは増すばかりで、真桜はめまいを覚えた。


(いけない……霊力が……これ以上は……)

 玲華の霊力が乱れているのを感じる。よほど焦っているのか、集中を切らしているようだ。それを補うために過剰に霊力を放出――つまり真桜の力を搾り取っているのだ。


 頭から血の気が引いて、全身から力が抜けていく。


「だめ……」

 雪にへたり込んだ真桜は震える手で指輪を外した。そうでなければ、意識が持たないと思ったからだ。


 その瞬間、森の中から一つの黒い影が跳躍し、雪原に姿を見せた。


(狒狒の妖――目が、合っ……っ)

 らんらんと赤い目を光らせた妖は、雪を蹴立ててこちらへ向かってくる。


「待て!」

 続いて後から颯吾が俊敏な動きで駆けてきて、長刀を振りかざした。

 刃は月光を受けてきらめき、彼の気合とともに鋭い霊気が辺りに放たれる。


「結界を張れ!」


 颯吾が声を上げたが、森の入り口にようやく姿を見せた玲華は顔を歪ませた。

 真桜が指輪を外してしまったので、霊力が足りないのだろう。


「危ない!」

 颯吾が叫ぶのと妖が真桜に飛びかかってくるのは同時だった。


 ――ここで終われば、もう苦しまなくてもいいのかも。


 避けられない運命というものはあると思う。どういても絡まった糸はほどけない。それならその鋭いかぎ爪で、しがらみすべてを断ち切ってくれたなら。


――『必ず戻って参りますから』


 だが、先刻交わした暁翔への言葉が頭をよぎった。そして、おぼつかないような、近寄りがたいような不思議な雰囲気を持つ暁翔の姿を思い出す。

 彼を一人にはしておけない。


「ごめんなさい!」

 真桜は咄嗟に両掌を妖にかざした。そこから深紅の糸がパッと伸びて妖に絡みつく。


 妖の動きが宙に浮いたまま止まった。


「覚悟!」

 厳しい声と共に、颯吾が空中で刃を一閃。長刀を逆手に構え、振り下ろすと、妖の首元に深く刃が食い込み、妖の頭と胴体が泣きわかれになる。


 断末魔の叫びとともに、妖は黒い霧と化して消えていった。


「怪我はないか?」

 颯吾は真桜のそばに跪き、彼女に手を差し伸べる。その声には冷静さを保ちながらも、わずかな温もりが感じられた。


「も、申し訳ありません……」

 真桜はかすかに震える手で颯吾の手を取る。


 彼の掌は冷たい夜気にもかかわらず、驚くほど温かかった。立ち上がる際、颯吾の瞳が真桜をじっと見つめてくる。その視線は彼女の髪や肌、首筋にかかる影を一瞬だけ追い、何かを確かめるような鋭さを持っていた。


「妖とは違う気配がするような……」

 颯吾がぽつりと呟く。


「き、気のせいではありませんか?」

 ぎくりとした真桜は彼からパッと手を離して、落ちていた銀の指輪を気づかれないようにこっそりと拾い上げる。


「それにしても、さきほどの力、一瞬だったが玲華さんに匹敵、いや、それ以上では……?」


「ですから、気のせい――」


「霧島様! お見事でしたわ!」

 真桜が弁明する間もなく、玲華が勢いよくやってきて、息を切らしながらも颯吾に笑顔を見せる。


「わ、私が結界を張ってあげたのです。真桜にできるわけありませんわ。余計な混乱を招いて申し訳ありません」

 玲華は、おほほと上品に笑おうとした。


「いや。こちらこそ本日は助かった。後日改めてお礼に伺う……別件も兼ねて」

 剣を収め、颯吾は含みを持たせたような物言いをする。


「は、はい! 喜んでお待ちしておりますわ」

 玲華は目をきらきらと輝かせる。縁談のことを期待しているのは明白だった。


「我々は事後処理があるので、姫君方はお帰りになられ、体を休まれよ。では失礼」

 恭しく礼をとった颯吾は、きびきびとした様子で部下を従え、村の方へ歩いていった。他に被害がないか、妖除けの護符を要所に張るなどしに行くのだろう。


 真桜たちは再び自動車に乗せられて家路についた。


 家族に迎えられた玲華はにこやかに対応していたが、座敷牢まで真桜を連れて来た途端に表情が一変した。


「よくもやってくれたわね!」

 不意にばちんと左頬を叩かれ、真桜はよろめいて壁に肩を打ちつける。


「私だって、まだ霧島様に指一本も触れられていないのに、か弱いふりして――」

 今度は着物の襟もとを掴まれ、玲華に鬼のような形相で睨まれた。


「そ、んなつもりは――」


「男に色目を使うなんて、さすが花街育ちの母親を持つと違うわね」

 玲華は侮蔑ぶべつの色を含んだ目を光らせる。


 何か言い返さなければと真桜は口をパクパクさせるが、目に涙が溜まるだけ。


「おか……さん、を、悪……言わ……いで……」

 しゃくり上げる喉は引き攣れ、はっきりと言葉が紡げない。


けがらわしい下賤げせんな女! どうしてあんたなんかが結びの力を――」


 玲華が罵倒ばとうしかけたところで、ばきりと柱にひびが入るような家鳴りがした。


 座敷牢に張り巡らされた赤い糸が、不規則に明滅し始める。


「ああ……怒りとは、こういう感情だった、な」

 静かに牢の中に立ち浮かぶ白い人影――暁翔がすっと目を細めた。

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