第7話 怨嗟と祈り

「人間とは実に浅はかなもの。口にした約定やくじょうさえおのが欲に従い容易に破り捨てる」

 その声と共に、結界が軋み、歪む。


「な、なんなのよ!」

 玲華が声を震わせ、真桜の襟元から手を外すと、じり、と後ずさった。


「真桜を傷つけておいて白々しい……その身をもって己の愚かさを知れ!」

 まなじりけっした暁翔の瞳が、薄い青から濃い紅に染まっていく。瞳孔は猫のように縦に鋭く細くなり、血のような色の虹彩に炎のような光が揺らめいた。


 ――俺が怒れば村一つ簡単に消し飛ぶ。

 真桜は暁翔の言葉を思い出し、ひゅっと喉を鳴らした。


「おやめください、暁翔様!」

 思わず彼の方へ駆け出す。


 結界を通り抜ける瞬間だけ、体中に糸が絡みつくような強い抵抗があった。しかし、それを振りほどいて真桜は勢いよく部屋に飛び込む。たたらを踏みながら暁翔のところへ辿り着いた彼女は、力いっぱいその小さな体を抱き締める。


 腕の中からびりびりと怒りの波動のようなものを感じたが、暁翔が小さく呻くのが聞こえた。


「お願いです! 私はなんでもありませんから! ここにいれば、大丈夫ですからっ」

 彼の怒りを鎮めようと抱きしめる腕に力を籠めた刹那、家の外から轟音が響き渡り、足元がぐらぐらと揺れだした。


 邸のあちこちで、人々の悲鳴や騒ぐ声が遠くから聞こえてくる。


 地鳴りのような音が足元から伝わり、真桜はバランスを崩しそうになりながらも、暁翔をしっかりと抱き続けていた。


「これ――地震!?」

 玲華が悲鳴を上げ、崩れる音に耐えきれずその場にへたり込んだ。


 真桜と暁翔の上にも天井から埃や木屑が降ってきて、彼女は必死で彼を守るように包み込んだ。


「暁翔様! 怒りをお鎮め――」


「怒っていない」

 胸元で暁翔がくぐもった声でぼそりと呟くのが聞こえた。


「え――?」

 真桜はハッとして、腕を緩めると暁翔が目を逸らしながら起き上がる。


「だから……勝手に俺の体に触れるなと……」

 彼の返答に、あっと口元に手をやって真桜は困ったように眉根を下げた。


「あ……あ、あの、またしてもご無礼を……申し訳ありません!」

 そういえば手を繋いだだけでも厄災を引き起こすのだった、この神は。


 その理屈はよくわからないけれど、どうやら最悪の事態は免れたらしい。


「玲華! 大丈夫か!?」

 揺れが収まってくると、どたどたと重い足音を響かせて父が駆け込んできた。


「山が一つ崩れたぞ……! これは絶対に禍ツ神の仕業だろう!」

 父の顔は蒼白だったが、声には威圧が籠っている。


「真桜が悪いの。生意気なことをするから、疫病神やくびょうがみが――」

 玲華が非難の声を上げるが、暁翔が柳眉りゅうび逆立さかだてると、それは尻つぼみに消えた。


「いいか、真桜。いくら神がおまえに従うとしてもいい気になるなよ。長生きしたければ白月家に尽くし続けるのだ。母親もそれを望んでいるぞ」

 父が急に口端をにっと吊り上げる。


「お母さんが……?」


「おまえには言っていなかったが、依頼をこなす度にあいつには謝礼を送っている。それが途絶えれば、あの女の生活はたちまち困窮するだろう」


 真桜はそれを聞いて胸の辺りをぎゅっと押さえ、唇を引き結んだ。


(苦労して私を育ててくれたお母さん……。私が我慢すれば、恩返しになる?)

 気づけば彼女は頭を下げていた。


「これからは気をつけます。暁翔様にもきちんとお話します。だから……母だけは、助けてください」


「ふん、わかればよい。いくぞ、玲華」


 父がそう言って踵を返すと、玲華は唇を尖らせ「はい」とおもしろくなさそうに答え、牢の引き戸を力いっぱい閉めた。その足音が遠ざかっていく。


「はあ……」

 肺に溜まっていた重苦しい息をすべて吐き出すと、真桜はふらついて奥の壁に凭れかかり、ずるずると腰を落とした。


 もう着物が汚れてもかまわない。そもそも雪の中を歩いてきた足袋は冷たく濡れて、指先の感覚すらない。


「真桜」

 名前を呼ばれて顔を上げると、目の前に暁翔が立っていて、小さな手を伸ばしてきた。


 反射的にそれを避けようとしたが、間に合わず――。


「俺から触れる分には何も起こらない……はずだから、安心しろ」

 そう言って暁翔は彼女の左頬にそっと触れてきた。


 ぴりっとした痛みを感じて、彼女は玲華にひっぱたかれたことを思い出す。しかし彼の指先の温もりがじんわりと心地よく肌に沁み込んできて、すっと痛みが引いていった。


「これでもう大丈夫だ」


 静かに彼の手が離れていき、真桜は自分の手でおそるおそる頬に触れてみる。ちっとも痛くなかった。


 これも神の力によるものなのだろう。だが厄災を引き起こす神が他人のために怒り、他人の傷を癒す――ということがあるのだろうか。


「ありがとうございます、暁翔様。あの……人の想いで神が実体をもつとおっしゃっていましたよね?」


「ああ」


「それなら、私は暁翔様がいい神様だと信じます。あなたは禍ツ神などではありません」

 きっぱりと言うと、牢の中には静寂が訪れた。


 ――何も起こらない。


「私一人の想いではどうにもならないのかもしれませんね」

 真桜は苦く笑ったが、暁翔もつられるようにわずかに微笑む。


「でも、ずっと祈り続けますから。暁翔様はお優しい方です。誰からも愛されるような、敬われるような神様に、私が少しずつあなたの素晴らしさを他の方にもお伝えします」


 正真正銘の布教である。


「優しいのは真桜、おまえの方だ。祠を掃除している姿、結界を張る時の舞の美しさ、すべてに意識が奪われていた」

 まっすぐに目を覗き込まれ、真桜の心臓が大きく跳ねた。


「ここを出ようとは思わないのか? おまえが望むなら、共に参るぞ」


 暁翔の提案に、温まった心がすっと諦めたように熱が引く。


「母のためにも、私はここで頑張らないといけないんです」

 そうして真桜は、女手一つで自分を育ててくれた母がいかに苦労してきたかをぽつぽつと彼に語ってきかせた。


 母に報いることが自分の幸せなのだと――。


「……だから、私、は、ずっとここに……」

 しゃべりながら、真桜は瞼が重くなってくるのを感じていた。


 そういえば今夜は霊力を使い過ぎた。体が思うようにならない。


 ぐらりと横に倒れた真桜の体の下に、暁翔の懐から飛び出した真っ白な毛玉がぐわっととせんべいのように大きく平たく伸び、彼女の体を包み込んで、そっと横たえた。


 柔らかな心地に、真桜はそのまま意識を手放す。

 斑の毛玉も飛び出してきて、今度は彼女の体を覆う毛布のようにふわりとその体を広げた。


「おまえは無我夢中だったのだろうが、自力で結界を越えたのだぞ。鳥籠の鍵など、はなからかかっていないも同然なのに、ここに留まると言うか」

 暁翔は、眠りに落ちた真桜に静かに語りかけるが、返事はない。


 山崩れの騒ぎで誰も気に留めていなかったが、真桜はさきほど無意識に自身を結びの力で守りながら、古い呪の結界を跳ね返してここへやってきたのだ。普通の人間ならば弾き飛ばされているところだ。


「気がかりは母親か……さて、あの男の言葉には偽りの匂いしか感じなかったが、どうしたものか」

 暁翔はしばし思案顔になる。


 ――あなたは禍ツ神などではありません。

 凛とした真桜の表情、声が鮮やかによみがえった瞬間、漆黒の毛玉に頬をくすぐられ、暁翔はふっと我に返った。


 毛玉は何を言いたげに、暁翔の目の前をふわふわと跳ねるように飛びまわる。


「俺は――冷静だ」

 憮然として答えると、毛玉がくるりと身を捻った。なんだか信じていないようだ。


 毛玉から目を逸らし、暁翔は真桜の寝顔を見つめ、静かに息を吐く。


 穏やかな顔に、ほんのりと照らす月光が優しく落ち、無防備に薄く開いた口は微かな寝息を伝えてきた。


「おまえは白月家の他の人間とは違う。ここに留まる必要はないのだ」

 そう呟いて、変化へんげした毛玉の毛布を肩の辺りまで引き上げてやる。


 すると真桜が身じろぎし、唇をわずかに動かした。


 何かを言っているように聞こえ、屈んで唇に耳を寄せると「暁翔様……」とすがるような声が彼の耳の奥を震わせた。 


 その夜、季節外れの突風が吹き荒れて海の方は大荒れだった――という話を、真桜が聞くことになるのはもう少し先のこと――。



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