第2話 祠壊し

 真桜は下女としても働かなければならなかった。白月家で血の繋がりがあるのは顔も知らなかった父のみ。その父も、欲しかったのは真桜の持つ「結びの力」だけだった。家族と呼べる者は、ここにはいない。


(お母さん、元気でいるかしら……)

 真桜を産んでから体調を崩しがちだったという母は、花街で働くのを諦め、仕立屋に勤めながら女手一つで育ててくれた。


 白月家から迎えが来た時、本当は母と離れたくなかった。けれど、真桜がいるから母親は生活が苦しいのだと白月家の使者に言われ、母のためになるならとここへ来ることを承知した。


 だが待っていたのは――異母姉弟やその母、父からの侮蔑、雑言、嫌悪という残酷な現実。


 真桜は小さくかぶりを振り、滲む涙と当時の記憶を振り切る。


 手早く割烹着を羽織り、手を洗って朝餉の支度に取り掛かった。


 野菜を切り、囲炉裏で温められた大鍋に入れる。刻み込まれた大根と人参は湯気の中で柔らかく揺れ、火が通ったのを確認してから仕上げに白味噌を溶かし入れた。別の釜では、湯気を立てる白米がしっかりと炊き上がっている。他にも焼き魚や漬物が用意され、器に盛りつけられていった。


 それらを中座敷まで運び、そこで待っている白月家の人々の前に膳を並べる。


「寒いわね。まったく」

 不満そうに真桜を見やったのは異母姉の玲華だ。


 部屋の中は朱塗りの火鉢が据えられ、暖かい空気に包まれている。屋敷の外にある物置小屋で寝起きしている真桜からすれば、格別の温かさだ。


「こんなに寒いのは、祠の結界がきちんと張られていないせいなんじゃないの?」

 玲華は深紅の生地に金糸で縫い取られた桜と藤の模様が施された着物の袖を振った。派手さと気品を兼ね備えたその着物は、彼女がいかに家の寵愛を受けているかを象徴している。


「そんなことは……」

 茶の用意をしていた手を止めて真桜が反論しかけた瞬間、玲華が鋭い目で睨んできた。


「誰の許しを得て口を開いているの?」

 玲華の凍えるような声が真桜の胸に突き刺さる。


「申し訳ありません」

 真桜は畳に額を擦りつけ、謝罪した。


「災いが起きればにされるんだからね。しっかりやりなさいよ」

 世間には、玲華が「結びの力」で結界を張っていると伝えてあるのだ。


「はい……」

 真桜は唇をかみしめ、それ以上何も言えなくなった。


 その様子を見た玲華の母も異母弟も何も言わずに、涼しい顔で食事を進めている。


「そうだわ、お父様。この半端者が本当に真面目に結界を張っているのか、見せてもらいましょうよ」

 玲華の突然の提案に、父は重々しい声で「いいだろう」と答えた。


 真桜に拒否権はない――。


 朝餉とその後片付けが終わると、真桜は父と玲華と共に雪に覆われた階段を上っていた。二人は分厚い羽織や毛皮で身を包んでいたが、玲華の方は足元が汚れるとぶつぶつと文句を言いながらついてきた。


「久しぶりに来たけど、相変わらず、みすぼらしい祠よね。本当に厄災の神なんているのかしら」

 山頂までやってくると、玲華が訝しそうに祠に目をやる。


「禍ツ神が封じられたのはおよそ三百年前だと言われている。妖にも命の果てはあるのだ、神なぞとっくに消えているやもしれんな」

 父も馬鹿にしたように片眉を吊り上げて笑った。


「だが、禍ツ神を封じているという役目を負うことで、我が家は御三家から目をかけてもらっている。神が実在するかどうかは問題ではないのだ」


 それならば、わざわざ真桜が結界を張る必要はないのではないか。

 そう問いたくなって父の方を見やるが、彼はこちらを睨んできただけだった。


「さっさと結界を張れ。お前の母がどうなってもいいのか?」

 父の言葉に、ぎゅっと胸が痛む。逆らう素振りを見せるといつもこうだ。ただの脅しならばいいが、母の無事を確かめるすべもないので、結局は屈するしかない。


 真桜は深く息を吐くと無言で祠の前に跪き、手を合わせる。


「結びの糸よ、この地を守りたまえ――」

 指先から赤い糸が紡ぎ出され、空中に広がっていく。編み込まれた糸が縦横無尽に張り巡らせる様子を、玲華はおもしろくなさそうな様子で眺めていた。しかし、視線が松の根元に止まる。


「兎? いえ……違うわね、何かしら?」

 玲華が手を伸ばすと、その指先からうっすらと赤い糸が伸び、ふわふわの毛玉を捕えた。


「いやだ! 妖じゃない!」

 自分の手元にそれを手繰り寄せた玲華は毛玉を見て、嫌悪の表情を浮かべた。


 真桜はそれに気がつき、体の動きを止める。途端に赤い糸がかき消えた。


「こんな汚らわしいもの、私が退治してやるわ」

 玲華は自身の指先から出ている赤い糸をぐるぐると毛玉に巻きつけていき、締め上げていく。


「あはは、お話にならないわね。こんな雑魚――」


「やめてください!」

 真桜は叫び、玲華のもとへ駆けていくと、その腕に掴みかかった。


「何するのよ! 汚い手で触らないで!」

 玲華がキッと眉を吊り上げ、力いっぱい突き飛ばしてくる。


「あっ……」

 受け身を取れないまま、真桜は後ろによろめいて倒れる。背中に硬いものが当たり、あまりの痛みに悲鳴すら上げられなかった。


 雪の上に倒れ込んだ彼女のすぐそばに、どすんと重い音が響く。


「祠を壊したな!」

 父の鋭い声が飛んできたが、一瞬何のことだかわからなかった。


「私じゃないわよ。この子が悪いんだから!」

 毛玉の妖を放り投げ、玲華は父の下へ駆け寄る。


(祠を壊した……?)

 背中の痛みに耐えながら、真桜はゆっくりと起き上がるが、すぐ立ち上がることはできない。


 だが、そばで祠が倒れ、石片が雪に散らばっているのは、はっきりと見て取れた。


「でも、もう神なんか、いな――」

 玲華が言いかけた途端、足元が小さく揺れ始めた。


「地震……?」

 父が眉をひそめた次の瞬間、冷たい風が吹き上がり、祠を中心に雪が渦を描いて舞い始める。


「きゃぁぁっ!」

 玲華がきんと耳に響くような声で叫んだ。


 今朝積もったばかりの新雪が巻き上げられ、白い嵐のようになって空へと消えていく。そうかと思えば山の上空にたちまち黒雲が湧き上がり、濃い墨を垂らしたように空を覆っていった。

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