禍ツ神の恋結綺譚~花縁はことほぎに包まれて~

宮永レン

第一章 緋の鳥籠

第1話 結びの力

 夜の名残なごりまとう群青ぐんじょうの空に、薄紅うすべにいろの光が東の方から溶け込んでくる。


 昨夜降った雪が辺り一面を白銀の世界に変えていた。雪原せつげんの大地を滑るように陽光が差し、こぼれた涙のように輝きを放つ。


 重みでしなった梅の木の枝がざっと雪を振り落とすと、あざやかなくれないの花が顔を見せた。


「ああ、なんてきよらかな香り……こんな寒さにも負けないなんて、私も見習わなくちゃ」

 はらはらと舞い落ちた紅梅こうばいの花弁を優しく拾い上げた真桜まおは、目を細め、白く染められた森へ続く階段をのぼり始める。


 払暁ふつぎょうの空気は凛と澄み渡り、冷たい風がはかない吐息をさらっていった。


 古ぼけた綿入れの羽織はおりに身を包み、そこからのぞせた腕で胸元をぎゅっと押さえる。


 一つにくくった濡れ羽色の長い髪が背中で揺れた。長い睫毛まつげに小さな水滴がつき、雪の光を反射してかすかに煌めく。彼女の頬は寒さでほんのりと赤らみ、その様子は春の訪れを待つ桜のつぼみのようでもあった。


 足下あしもとが新雪で覆われていても階段を踏み外すことがないのは、毎日ここへ通っているからだ。


 この小高い山の上には戦乱の時代に「まががみ」と呼ばれる、厄災やくさいを呼び込む神を封印したとされる祠が鎮座していた。代々封印の役目を担ってきたのが、真桜の先祖で退魔師の家系である白月家だ。


 その時代において一番の霊力を持つ白月の者が「結びの力」で役目につくのが習わしで、今はそれが真桜に託されている。


 なぜ自分なのか――それは九歳で母親と離されてから十六歳の今に至るまで、ずっと考えてきたことだが、答えは見つからなかった。


 背の高い針葉樹が密集し、昼間でも陽光がほとんど差し込まない。風が吹くたびに枝葉がざわめき、不気味な音が辺りに響く。ゆえにここへ近づく者はほとんどいなかった。


 だが、真桜にとってこの場所は違った。冷たく静謐な空気の中に、他にはない安らぎを感じていた。ここには彼女を罵倒する者も卑下する者もいないから。


 指先も、耳の端もじんと痛い。どんなに天気が悪くても、否、空が荒れている時こそ真桜はここへ来なければならないのだ、厄災を鎮めるために。


 山頂までやってくると、真桜は奥の少し開けた場所を目指した。ざくざくと霜柱しもばしらが崩れる音が雪の中から響く。ここにはかつてやしろもあったのだろうが、今は土台すら見当たらない。


 彼女は古い祠の前まで来ると、冷たい雪に膝をつき、積もった雪を片手で丁寧に払い落としはじめた。


 小さな石造りの苔むした屋根が年月を語り、施された細かな彫刻の文字はよく読めない。その両脇には、低く苔に埋もれた石灯籠が静かに見守るように立っている。


「おはようございます、禍ツ神様」

 そう声をかけてから、真桜は左手で包んでいた紅梅の花弁を祠の前に置いた。


「梅が満開です。もうすぐ春がきますよ」

 返事をする者は誰一人としていない。だが、ふいに頭の上が温かくなった。


 手を伸ばすと、ふわふわの柔らかな毛並みに触れる。


「おはよう……今朝は『しろ』、でしょう?」

 そう言うと、目の前に真っ白な毛の塊が姿を現した。


 まるでケサランパサランのように宙に浮くそれは、あやかしたぐいだ。


 真桜がここへ通うようになってしばらくすると姿を見せ、懐いてきた。言葉は話せないようだが、彼女の身の回りの人間たちより、無害で優しい。


 他にも真っ黒な毛玉とまだら模様の毛玉がいた。それぞれ「くろ」と「まる」と真桜は名付けている。


 本当は常にそばにいてくれたら心強いのだが、あいにく世間では妖と仲良くするという考えがとうの昔に廃れてしまったらしい。見つかったら、あっという間に滅されてしまうだろう。


「私のせいでどこにも行けないのかしら。今日こそ、ここを離れていってもいいのよ」

 三匹の毛玉に声をかけるが、彼らは祠の屋根の上にちょこんと乗り、じっと動かない。


 真桜は仕方がなさそうに苦笑いを浮かべ、ため息をついて立ち上がった。


「では、今日も始めるわね」

 綿入れを脱いで、ふうと息を整え、背筋をピンと伸ばす。


 長い前髪が風に揺れ、白い吐息が空へと溶けていく。祠を見つめる彼女の瞳には、一瞬にして力が籠る。


 両手を合わせて短い祈りを捧げた後、真桜はそっと右腕を掲げた。


 指先を伸ばし、左足を一歩後ろへ引く。すると細い指先から、赤い糸のようなものがふわりと抜け出した。それを確かめてから彼女はゆっくりと体を捻り、舞うように手足を動かしていく。


 十本の指から吐き出された赤い糸はどんどんと伸びていき、彼女の周囲を漂いながら、風に乗るようにして森の中に張り巡らされていく。


「結びの糸よ、この地を守りたまえ――」

 真桜が静かに呟くと、赤い糸はまるで生きているかのように動きを速め、祠を中心に四方八方に陣を形成していった。


 彼女の身体が滑らかに動くたび、糸はさらに複雑な模様を描き、空間を満たしていく。


 袖がひらりと舞い、彼女の足元で雪がわずかに舞い上がる。軽やかな動きの中にあるのは、何年も繰り返してきた慣れと正確さ故だ。


 赤い糸の輝きが次第に強まっていき、最後の一振りで、真桜は静かに足を止めた。


「これで――」

 祠を囲む結界が完成した瞬間、赤い糸は目に見えないほど薄れていき、光の膜となって森を包み込む。


 小さく息をつき、真桜は一度深く頭を垂れた。


「どうか、災いが起きませんように」

 再び祈りを捧げた後、妖たちに別れを告げ、彼女は綿入れを拾い上げると山を下りていった。


 本邸の炊事場から湯気が出ているのが見える。もう朝餉の準備が始まっているのだ。


「急がなくちゃ」

 軽やかな足取りで雪を蹴った真桜は、息を切らしながら裏口から炊事場の扉に手をかけた。


玲華れいかお嬢様に縁談があったらしいね、しかも御三家の一つというじゃないか」


 突然、中から他の下女たちの話し声が聞こえてきて、真桜はびっくりして手を止める。


 玲華は真桜の異母姉であり、白月家の正当な血を引いている人間だ。


霧島きりしま家だろう? あそこは家柄も資産の一流だ。お嬢様が嫁いでくだされば白月家も安泰だね」


 退魔師にも序列というものがある。帝都の中心部には御三家と呼ばれる強力な術を使える家柄が存在していた。彼らは帝からの信頼も厚く、爵位を賜り、政治に精通している人間も輩出している。そことの繋がりは、家の存続に大いに関わってくるのだ。


「そうしたら、真桜はどうなるんだろうね」


 自分の名前が出て、彼女は余計に中に入りづらくなってしまった。


「ああ……あの愛人の子かい。表には出せないだろうし、一生ここで生きていくしかないだろうよ」


「結婚もさせてもらえないなんて哀れだねえ」


「旦那様に無理やり迫って孕んだ花街の女の娘じゃないか。同情は禁物さ」


「そうだよ。あまり無駄口を聞いていると奥様の耳に入ってしまう。さっさと手を動かしな」

 くすくすと笑う声が散り散りになり、中からは食器を出す音や朝餉を煮炊きする音が聞こえてきた。


 かじかむ指先を戸口にかけて、真桜は静かに炊事場に顔を出す。走ってきたはずなのに、その頬に色はなかった。


「おはようございます……」

 彼女に返事をする者は、誰一人としていなかった。

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