第3話 厄災の力
「信じられん……妖が見せる幻影ではあるまいな?」
父が手で顔を覆いながら声を上げる。
雪の舞う音が風の唸りと混じり、不気味な低い音が山の空気を震わせる。
突然、黒雲の奥から鋭い閃光が走った。稲妻は一瞬のうちに山を照らし出し、次いで重低音のような雷鳴が轟く。その響きは地鳴りのように伝わり、三人の足元を震わせた。
「お父様! 早くここから逃げましょう!」
金切り声で叫びながら、玲華が必死に父の着物の袖を引いている。
「……だめだ! 禍ツ神が解き放たれたと世間に知れ渡れば家名に傷がつく。なんとしてでも奴を封印するしかない」
父は青い顔で首を横に振る。
「そんな……」
玲華は唇を震わせた後、真桜を睨みつけた。
「あんたが余計なことをするからよ!」
そう異母姉はがなり立てられ、真桜は項垂れることしかできなかった。
(だって、しろが苦しそうにしていたから……)
言葉は話せなくても、妖の中にも、人を思いやる優しい存在もいるのに。
けれど、自分の行動のせいで災いを呼び寄せるという神の封印を解いてしまった。
(私がなんとかしなくちゃ……)
立ちあがろうとした時、風がさらに強さを増し、また雪の上に尻もちをついてしまう。
カラスたちが一斉に鳴き声を上げ、枝葉の間をばさばさと飛び立っていった。その甲高い声はどこか不吉で、鋭く耳に刺さるようだ。
他の野鳥たちも怯えたように羽ばたき、雪の積もった枝から一斉に飛び去る。森の静寂は完全に打ち破られ、狂気じみた鳥たちの動きが周囲の緊張感をさらに高めた。
その雪の嵐の中心、祠があった場所に薄い煙のような影が揺らめき始める。
「まさか……あれが禍ツ神、か?」
父が目を細め、低い声で問いかけた。その声には、普段の威圧的な冷たさの裏にわずかな恐れが滲んでいる。
煙の影が徐々に形をなしていく。そこに現れたのは、神々しいまでの異彩を放つ人物だった。
陽の光を薄く溶かして銀に染めたような白みがかった金の髪は風になびき、はらりと背中を滑る。
纏う白い装束は、紫色の差し色を含み、夜明けの空が衣となったかのようだ。流れるような衣の裾が雪に触れ、その度に冷たい風が鋭さを増していく。
肩にかかる装束は重厚感がありながらも、柔らかな質感を持ち、刺繍には複雑な紋様が光を反射してかすかに浮かび上がる。幾重にも巻かれた白い玉の数珠は、彼の胸元に輝きを添え、その存在がただの人ではないことを物語っていた。
瞳は淡く光を放つ青灰色で、視線を向けられるだけで全身を射抜かれるような錯覚に陥る。そこには、この世のすべての理を見通す力が宿っているかのようだ。
唇には微かな笑みが浮かんでいるものの、その奥には深い憂いと怒りが隠されている。
その立ち姿には、もはや人間の手の届く存在ではない圧倒的な神性と禍々しさが滲み出ていた。
ただし、座り込んでいる真桜が見上げてすぐのところに顔があるほど背丈は低くて――。
「子ども……?」
真桜は目を丸くして、息を呑んだ。
人ならざる者は、七、八歳ほどの幼子にみえる。
「なんだ、たいしたことなさそうじゃない」
玲華はふっと口角を上げ、両手を広げ、軽やかに袖を翻して結びの力を紡いだ。
淡い朱の糸が頭上に広がった――が、少年がついとそれを一瞥しただけで、糸がすべてかき消えてしまう。
「見た目に騙されるな」
今度は父が険しい顔をして一歩前へ出ると、指先で宙に複雑な印を結んだ。瞬時に細やかに編まれた赤い糸が降ってくるが、少年がため息をつくと、それも音もなく霧散する。
「真桜! ぐずぐずしてないで、あんたもやりなさいよ!
玲華の切羽詰まった声に、真桜はようやく立ち上がった。
(この子が厄災の神……?)
立てば見下ろす形となる少年と視線が交わった。
「ごめんなさい」
そう謝ってから、真桜は結びの力を解放した。赤い糸が張り巡らされ、少年の体と周囲の木々を繋ぎ止める。
「どうして――」
結界を張り終えた真桜は、思わず呟いていた。
退魔師の霊力を注いだ赤い糸は妖たちには苦痛なはずだ。それを顔色一つ変えずに、されるままになっている理由がわからなかった。それとも、この神にはまったく効果がないのかもしれない。
「どうして、抵抗しないのですか?」
「……毎日祠を綺麗にしてくれた礼だ。おまえの言うことだけは聞いてやろう」
少年らしからぬ低く落ち着いた声だったが、心にすとんと響く澄んだ声色だ。
「これは傑作だ!」
驚きのあまり、言葉が出てこない真桜の代わりに父の目が輝く。その顔に貪欲な色が浮かんでいた。
「いいか真桜、その神に命じよ。山に雷を落とせとな!」
「そんなこと……!」
「できないのなら、おまえの母親がどうなるか、わかっているだろうな」
真桜の言葉に耳を貸さず、父はさらに冷酷な声で脅す。
母の優しい笑顔が脳裏に浮かび、真桜は震える唇を噛んだ。
「……山に雷を……落としていただけますか?」
真桜は眉根を寄せ、禍ツ神に向き直って声をかける。
「おまえが望むなら」
神は微かに目を細めたが、頷くと共に、空が閃光で走った。頭上で雷鳴が轟き、大木に落ちた光が太い幹を真っ二つに切り裂いた。
辺りに焦げた匂いが広がる中、父は高らかに笑った。
「ははは……これはいい! 使えるぞ!」
振り返った父は、真桜に歪んだ笑みを見せてきた。
「おまえはこれからもその神の機嫌を取り続けるのだ。そのために特別に部屋を用意してやる。ありがたく思え」
「お父様、それは……!」
玲華が不満そうに抗議するが、父は手を振って制した。
「一つ空いている部屋があるだろう。それを使えばいい」
その言葉に玲華はピンと来たらしい。
「あったわね、あの
振り返った玲華の顔には意地の悪い笑みが浮かんでいた。
嫌な予感を覚えたが、逆らえばまた母の命を引き合いに出されるに違いなく、先に山を下りていく父と異母姉についていくしか選択肢はない。
真桜は赤い糸でがんじがらめになったままの禍ツ神の方を見た。
(恐ろしい力を持っているようだけど、今のところそんな悪い神様には思えない……)
それは見た目が子どもということもあるだろう。一方的に敵とみなされ排除されようとする姿に自分を投影したからかもしれない。
「禍ツ神様、精いっぱいお仕えさせていただきますね」
真桜が微笑んで結びの力を解くと、隠れていた毛玉の妖たちがぴょんと飛んできて、神の懐に飛び込んだ。彼らの無事が確認できてホッとする。
「では、一緒に参りましょう」
この神と一緒ならば妖たちが傷つけられることはないだろうと、真桜は安心して彼の小さな手を握った。
その瞬間、再び天が揺れ動き、すぐ近くに雷が落ちた。雪が吹き上げられ、焦げた匂いと煙が辺りを漂い始める。人々のざわめきが遠くから聞こえ、真桜はハッと息を呑んだ。
「えっ!? あそこ、私の小屋……!」
彼から手を離し、階段の方へ駆けていくと、目に飛び込んできたのは真桜が寝起きしている小屋が燃え上がる光景だった。
「これが……厄災の力なの……?」
畏れを覚えた真桜は、思わず彼に向かって頭を下げた。
「き、許可なく触れてしまったことをお許しください!」
慌てて謝罪すると、禍ツ神は少し首をかしげ、ぼんやりとした口調で呟いた。
「……おまえと手を繋げたことが嬉しくて、力を制御できなかった」
「はい?」
真桜はぱちぱちと目を瞬く。
(手を繋いだだけで、家を燃やしてしまうなんて……何を考えていることがわからないわ! やっぱり、この神様、封印しておくべきだったのでは……!?)
困り果てた真桜の頬を、舞い飛んできた梅の紅い花弁がするりと撫でていった。
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