第2話 少女も歩けば少年に当たる

「遅刻だあああああ!」


 あああやらかした、もう最悪だ、マズった、やばい。様々な感想がとめどなく脳内を駆け巡る。満開の桜並木を眺める余裕なんて当然あるわけがなく、少女──かえではポニーテールにした黒髪をなびかせながら走っていた。まさかの入学式遅刻、そんなことは絶対にあってはならない。


 起きたばかりの時に見た時刻は午前九時四十分だった。そして、入学式開始は午前九時五十分。学生寮を出たのは四十五分を確認した後だから……、いくら学校近くの寮だといっても間に合わない気しかしない。


「わああああ!」


 叫んでも状況がよくなるわけではないけれど、叫んでもいないと焦燥感に潰れてしまいそうだった。何としてでも間に合わせる。決意を固めていざスピードを上げようとした矢先、楓の身体は浮遊感に包まれた。ふわり、という優しい感覚ではなく、顔面が地面に叩きつけられる予感に満ち満ちた落下の感覚。つまるところ、楓は思いっきりすっころんだ。


「わぶっ!?」


 目をつぶって硬い衝撃に備える。けれど、返ってきたのは想像とは全く異なるものだった。温かい布地の感触に、楓は恐る恐る目を開く。楓の下敷きになって倒れていたのは、黒髪の少年だった。整った顔立ちにすっとした鼻筋、そして彼が瞼を開けば切れ長の双眸が楓を覗く。青みがかった黒の瞳に楓は思わず呼吸を忘れた。交錯する視線に時が止まる。さら、と少年の前髪がこぼれた。


「……いい加減に降りろ。重い」


 しかめ面で言い放たれた言葉に楓はばね仕掛けの人形のように飛び上がった。少年も新品の制服から土を払いつつ立ち上がる。


「お、重いとはなんだ! 失礼だろっ! あ、じゃなくて、その……潰してごめん」


 ふん、と鼻を鳴らして少年は楓に背を向けた。興味なんて一ミリもないとばかりの態度になんだかとても腹が立つ。少しでも顔きれーだななどと思った自分を恨んだ。


「なんなんだよ、あいつ。口も態度も最悪だろ」


 溜息を吐いて、楓は視線を上げた。目に入ったのは時計で、指し示された時刻は午前九時二十五分。あろうことか、間違っていたのは自室の時計の方だった。もう一度、今度は特大の溜息を吐く。


「この先大丈夫かな……」


 それは神のみぞ知る、というやつだ。


 遅刻ではないと判明して落ち着いた楓は人の流れの中に紛れた。途中で入学式会場のある講堂の位置をパネルで再確認して、正しい人の流れの中にいることを確かめる。それからクラス分けの張られた掲示板でクラスと出席番号の確認。


「ボクは……、一年A組二番、A組の二番」


 うっかり忘れてしまわないように呟きながら足を進めた。桜並木は講堂までほぼ一直線に連なっているようで、満開の桃色の花がそこらじゅうで舞っている。花の名前は知っていたけれど、こうも綺麗に咲く花だとは知らなかった。本当に吹雪にたとえられるくらいに花びらが舞い乱れるなんて。青い空を含めた景色すべてが楓には物珍しくて仕方がなかった。どうやら夢は続いているらしい。


 講堂に入る前に、制服に土がついていないかだけをもう一度確かめる。せっかくのイベントなのだから、汚れていくのはごめんだ。最後にぱしんと頬を叩いて白い建物へ足を踏み入れた。


「うわあ……」


 広がる視界に声を上げる。遠くに見えるのは舞台だろうか、一段高い木張りの床は飴色に輝いている。臙脂色のカーテンをとめている黄金のロープも眩しい。講堂にある椅子はざっと四百人ほど座れそうだ。たしか一学年百名ほどだったから、一年生から三年生の三学年で三百人とちょっと。ちょうどぴったりの規模感だ。一年生は前の方で、左から順にAからEの並びになっていると案内に記載されていたことを思い出す。


「えっと、ボクはどこだろ」


 下を向きながら席番を数えていく。


「あった!」


 席を見つけた喜びに勢いよく顔を上げると、ごっ、と鈍い音が響いた。ぶつけた額をさすりさすり上を見ると、同じように額を押さえて憎々しげに楓を見てくる少年が。黒髪に切れ長の目に端正な顔。はて、どこかで見た顔だ……。


「……また、おまえか」


「えっと、ボク、ですか?」


 呆れか軽蔑か、どちらともつかない表情で少年は髪をぐしゃぐしゃと掻いた。平々凡々な容姿の楓とは大違いで何をしても絵になるのに、額の赤い痕は楓とお揃いだ。


「忘れたのか? さっき道で突っ込んできたのはおまえだったろ。なんで、二度も、同じ人間にぶつかるんだ!」


「いやー、それをボクに訊かれてもなあ。ボクだって、好き好んでおまえにぶつかったわけじゃないし」


「ふざけるな!」


「ふざけてない!」


「知ってる? そういうのを運命っていうのよ」


 頭を突き合わせてにらみ合う二人の間に、鈴を転がしたような声が割って入った。楓と少年は同時に声の方に顔を動かす。


「そんな運命あってたまるか!」


 これが楓。


「そんな運命なんて願い下げだ!」


 そしてこっちが少年の方。


 少女の笑い声が響く。白い陶磁器のような肌に釣り目がちな黒い瞳。日本人形のような浮世離れした美しさを持った少女だった。それは同性の楓すらも虜にしてしまうくらい。腰のあたりまである濡れ羽色の髪を揺らして少女は悪戯っぽい笑みを花顔に浮かべた。


「ほら、息もぴったり」


 そう言って少女はひたすらに笑い続ける。なんだかむっとするけれど、それよりも驚きの方がまさった。


「なんで木葉このは、ここにいるんだ?」


 少女──木葉はまばたきをしてからにやりと笑ってみせる。楓が昨日出会った少女は、新品の制服を強調するために胸を張って、胸の青リボンに手を当てた。


「なぜって? 見ての通りこの学校、青波せいは学園に入学するからよ!」


 木葉の自信満々の発言に咳き込んだのは少年の方だった。切れ長の目を細め、山に登るクジラを見るような顔をする。


「……おまえ、そんな歳じゃないだろ」


 速攻で木葉に足を踏まれている少年。顔をしかめる姿に楓はこらえきれずに噴き出した。少年の仏頂面がひどくなる。


「ところで、おまえらは知り合いなのか?」


「ええ、そして、光希みつき。あんたは、が高いわ」


 木葉の声に霜が降りた。冷たい言葉に光希と呼ばれた少年が眉を動かす。何も分からずにきょとんとしている楓を置き去りにして、木葉は低い声で話を続けた。


「楓、あなたの名前をこの愚鈍な下僕に教えてやりなさい」


「なんかすっごくディスってるんだけど、いいのか……?」


「構わないわ。続けて」


 にこりと凄みの笑みを浮かべられては逆らえない。覚悟を決めて楓は口を開く。


「ボクの名前は、天宮あまみやかえで。よろしく」


 光希が肩を揺らして大きく目を見開く。動揺に染まりきった表情は楓の目には不吉なものに映った。楓から距離を取ろうとする光希の肩に木葉は触れる。光希の動きが止まり、木葉は微笑む。凄まじい力で光希の動作が封じ込められているのだと楓にはなんとなく分かった。


「……あり、えない。次代の天宮はひとりだけのはずだ」


「いいえ、もうひとりいたのよ。もう分かったでしょう? 相川あいかわであるあんたとは身分が違うのよ」


 天宮、相川。名字であることは分かる。けれど、それが何を意味するのか、理解するには楓はあまりにもこの世界について知らない。


「あの、天宮、とか、相川、とかどういうこと? いや、あの、天宮がなんかすごい家なのは知ってるけどさ」


 そんなことも知らないのかという光希の視線が痛い。楓は目を伏せて唇を引き結んだ。その通りでしかないから、楓には言い返す言葉を持たなかった。


「そうね、まだ説明してなかったわね……。ごめんなさい」


 木葉が眉を下げる。別に気を遣って欲しかったわけではなかった。そもそも気遣われたことなんて今まで一度もなかったので、身体中が熱くてむず痒い。気遣われるような価値も資格もきっと楓にはないから。


「十五年前、あやかしの棲まう常世とこよと私たちの棲まう現世うつしよの境界が消えた。世界は夜に包まれ、正しく陽は巡らなくなったわ。けれど、唯一まだ正しく空が巡る場所がある、それが五芒星で編まれた結界の内側、いわゆる五星結界ごせいけっかい、その内部。五星結界に包まれた日のもとの国を統べるのが、天宮という家よ。天宮は霊力を持つ家の頂点であり支配者、私たちのようなただの霊能力者には仰ぎ見ることしかできないいただきよ。そして、天宮に使える家が十本家じゅうほんけ。相川はその内の一つなの」


「で、でも、同じ名字の人くらいいるんじゃないのか? ボクがそんな御大層な家の人間とは思えないんだ」


「いいえ、その名は特別。天宮の血を引く人間にのみ許されたものだから」


 真剣な木葉の瞳が嘘をついているようにはとても思えない。楓は俯いて肩を強張らせた。顔を上げることもこの場に立っていることも、怖い。どうしたの、と問いかける声が遠く聞こえる。心臓だけがばくばくと鳴り響いてうるさい。


「……そんな、わけ、ないんだ」


 だって。


 ──ボクは無能なんだから。


 光希が驚愕に言葉を失くしている様子が手に取るように分かった。大丈夫、この反応には慣れている。今更傷つく心は持っていない。自分に言い聞かせてから楓は笑って顔を上げた。


「あはは、変だろ。期待に応えられなくてごめん。でも、この学校って霊力を持つ人を育成する学校なんだよな? ボク、どうしたらいいんだろ。退学願いとか出せるかな?」


「無理でしょうね。まあ、あなたが無能なんていうのは私たちにとっては些細な問題よ。それよりも自己紹介でもしましょ、私たちクラス一緒なんだから」


 何か言われるかと身体をがちがちにさせていたものだから、些細な問題だと言い放たれて楓は肩透かしを食らう。光希の方を窺ってみても、彼が楓が無能であることを気に掛ける様子はなかった。あるとすれば、木葉のクラス一緒発言に顔をひきつらせたくらいだ。木葉めちゃくちゃ嫌われてるじゃん、と思えばなんとなくおかしくて、楓は笑みをこぼした。


「ボクはもう名乗ったからさ、次は木葉が自己紹介してよ。ボク、まだ木葉の名字とか知らないし」


「いいわよ、私は下田しもだ木葉このは。ぶっちゃけて言えば、楓のお目付け役ってところかしら?」


 きれいなウインクが飛んでくる。


「はあ? なんでだ?」


「いやね、そんな細かいことは気にしないの! じゃあ次は光希よね?」


 密かに逃げようとしていた光希の襟首を木葉が掴む。ブレザーの襟で首絞まってる気がするけども。最悪だ、と言わんばかりに顔をしかめて光希は渋々自己紹介を始めた。


「おれは相川あいかわ光希みつきだ」


 沈黙。


「それだけ? 他にもあるでしょ、学年首席だーとか」


 木葉が光希の沈黙を許すわけがなく、口を挟んだ。さらっと出てきたびっくり事実に楓は目を輝かせる。


「相川、首席なのか!? すごいな!」


「別に。涼もいるし」


 楓の視線から光希が逃げる。


「でもでも、すごいじゃないか! 相川はすごいんだな! 雲の上の人じゃん!」


 ぐしゃり、と光希は頭に手を当てる。切れ長の目が楓を睨んでいた。


「……いい加減にしろ。俺はおまえみたいな馬鹿と関わるつもりはない。もちろん木葉、おまえもだ」


 言い捨てて、光希は仏頂面で自分の席に腰を下ろす。その上、目を閉じてしまったのだから、完璧な無視の決め込みようだ。カチンと来て、楓は息を吸い込んで当てつけのように大きな声で叫ぶ。


「はぁああああ!? 何だよ、おまえ! 馬鹿とはなんだ、馬鹿とは! 意味わからん! ボクだっておまえみたいな不愛想野郎とかと関わるつもりなんてないからな! ふん!」


 当然といえば当然だが、楓の全力抗議に対する光希からの返答はなかった。ふてくされた楓は自分の席に乱暴に腰掛ける。……とはいえ、色々と残念なことに楓と光希の出席番号は連番で、要するに隣の席だった。


 ぶすくれたまま楓は入学式が始まるのを待つ。ぽかぽかとした陽気が心地よい。叫んだ手前、隣の光希を見ることはできなくて、ぼんやりと人のいない舞台を眺める。情報量の嵐に眩暈がしていた。五星の外で育った楓には昼という概念もまだ新しくて、ましてや霊能力者についてなんて全くと言っていいくらい分からない。


 けれどそんな楓にも分かることがひとつだけある。


 この世は決して平等でないということ。


 五星結界の端には壁がある。かつては存在しなかったという壁が隔てるもの、それは常世とこよ跋扈ばっこする夜徒やとという化け物ではない。その役割なら既に結界が担っている。


 その壁が隔てるのは、人間。


 人間を無差別に襲う夜徒やとにただの人では太刀打ちできない。だから、いつしか人は人という種そのものをさらに分けるようになった。言い換えるのなら、差別をした。


 夜徒やとを倒す力のないものに生きる価値などないとでもいうように、霊能力者たちは無能力者たちを壁の外に追いやった。そうして、壁の外に住む人間は常に夜徒やとに怯えながら貧しい生活を強いられるようになったわけだ。


 青い空を知らない世界から楓は突然木葉に連れ出され、五星の内側に連れてこられたのが昨晩の話。で、ほいほいと学生寮に連れ込まれて翌朝は入学式に出ろ、と。


「……大混乱するのも当たり前だよなあ」


 呟く。春のうららかな温度に温められた柔らかい椅子は楓には贅沢に思えた。周囲は新入生たちの浮足立ったざわつきが漂う。ひりついた空気とは縁遠い空間に楓の瞼は重くなる。最後に聞いたのは、たぶん入学式の始まる挨拶だった。





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神なき世界の異端姫 斑鳩睡蓮 @meilin

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