第3話 四面楚歌

「……で、かえ……で、起きなさい。入学式終わったわよ、楓!」


「すっ、すみませんっ!」


 即座に意識が覚醒し、背筋が冷える。いつもならこんな風に眠りに落ちることはない。常にいつでも動けるように、ほとんど目を閉じているだけの浅い眠りをしているはずなのに。とんでもない失態だと身体を縮こまらせて反射的に謝罪する。……が、そこにいたのは木葉だった。


「あ、れ、ボク、は」


 まだ心なしかぼうっとしている頭を押さえる。ぴかぴかの舞台と整然と並ぶ椅子、談笑する生徒たち、それから木葉。今まで生きてきた場所ではないのだと、ゆっくりとぼうっとした頭で理解していく。


「まだ寝ぼけているのかしら? でも、そろそろ動かないとホームルームの時間に間に合わなくなるわよ」


 悪い、と笑って楓は立ち上がった。背筋に残る冷たさを誤魔化すために伸びをする。ここでなら、変われるかもしれないから。だから、この感情には蓋をして胸の奥底へと沈めてしまおう。それから先を行く木葉の背中を追いかけた。


「ほんと、入学式まるまる寝るなんて流石だわ」


「あはは、照れるな」


「褒めてないわよ、私」





 軽口の応酬をしていればすぐに教室に辿り着いた。出席番号順の席なので、楓の席は必然的にあの不愛想少年の真後ろだった。光希は既に着席しており、なんなら女子に囲まれて迷惑そうな顔をしている。楓に言わせれば顔だけはいいので、女子人気を容姿だけでかっさらった模様だ。ちょっと羨ましいなんていう気持ちは封印して、楓はひっそりと光希の後ろに座った。


「光希、久しぶり」


 誰とも関わりたくありませんオーラを剣呑に漂わせ、しきりに話しかけてこようとする女子たちを封殺していた光希に、臆面もせず話しかける男子生徒がいた。色の白い肌に明るい髪色の少年は光希に向かって微笑む。そんな彼も光希と同じように整った顔立ちをしていた。


「同じクラスになれて嬉しいよ。夏美なつみもいることだし、幼馴染が一クラスに全員揃ってるなんて」


 光希は無視を決め込もうとして失敗した。楓の後ろの席に座っていた女子生徒が立ち上がって二人に近づいたからだ。小柄な身体にふんわりとしたボブに切り揃えられた髪、くりくりとした丸い瞳の可愛らしい少女。夏美という名前の彼女は頬を紅色に染めて光希を見つめる。


「そうだね、私、すごく嬉しい。また同じクラスになれるなんて運命かも」


「……クラス編成は実力順だ。おれたちが同じクラスになるのは当たり前のことだろ。それに、幼馴染だからといってりょうも夏美もおれに関わる必要はない」


 涼と呼ばれた少年は眉を下げて笑った。


「もう……何言ってんだか。光希は相変わらずだね」


「光希のことを私たちが放っておくわけないってこと、そろそろ学習してくれてもいいと思うな」


 あの不愛想野郎にも友達がいるらしいことを見せつけられて、楓はほんの少し気持ちが落ち込むのを感じた。誰も知らない、何も分からない、おまけに霊力もないなんて。ナイナイ尽くしで情けなさすぎる。


「楓、あの人たちを参考にするのはやめなさい。あの人たちは特例中の特例、なんならとびきり有名人、これまで踏んできた場数も桁違いよ」


 不意打ちの囁きに楓は危うく机をひっくり返すところだった。冷や汗たらたらで横に顔を向ければ、つり目がちの美しい少女が悪戯っぽく微笑んでいる。明らかに楓の反応を楽しんでいる顔だ。


「……驚かせるなよ、木葉。意地が悪いぞ」


「あら、ごめんなさい」


「ぜんっぜん反省の色が見えないんだけど……。ところで、あの三人が有名人ってどゆこと?」


「そうね、知っておくと便利かもだから教えておくわ。あの三人はそれぞれ天宮に仕える十本家の一族よ。相川家の跡継ぎである光希、神林家の次男である涼、そして安良城あらき家現当主である夏美。当主である夏美が大物なのは分かると思うけれど、光希と涼はその戦闘能力が群を抜いていることで知られている」


 夜徒やとへの有効な対抗手段、つまりは戦闘能力が高ければ当然社会的な地位も高くなる。基本的に霊能力の強さや得意な術式は遺伝するものなので、家門と血筋は絶対的なものとして認識されていた。もちろん、覚醒遺伝や突然変異などで無能力者の家系から霊能力者が生まれることもあるが、それは稀だ。黄昏──五星結界の外に住む霊力を持たない人々は、そんな奇跡にすがることはしない。


「本当にすごいんだな。ボクなんか地面をうろうろするアリみたいに踏んづけられちゃうじゃん」


「あなたねぇ、卑屈すぎないかしら。今からそんなんじゃ、この先メンタルべきべきになっちゃうわよ。霊力ないんだから」


「ぐはっ」


 木葉の鋭い舌鋒に楓は胸を押さえて呻く。どう考えても木葉の発言の方が殺傷力が高い。恨みがましい目を向けてみたけれど、木葉にはそよ風だったようだ。


「でもね、大丈夫よ。あなたは特別。我らが守るべきお方なのだから」


「え……?」


 どういうことか追及しようとした矢先、鳴り響くチャイムの音で楓の口は縫い留められた。木葉は艶やかな長い黒髪をなびかせて席に戻っていく。ついでに、何人かの男子生徒の視線も連れて。


「はーい、みっなさん、おはようございます!」


 ガラリと開いた教室前方の扉。やけに高いテンションで現れたのは長身の若い男だった。入学式で浮ついていた生徒たちでさえ、呆気に取られて沈黙する。眩しい笑顔は太陽でも見ているかのようで、サングラスを用意したいくらいだ。


「初めまして、私は一年A組の担任、佐藤さとう和宏かずひろです。これからよろしくお願いしますねー! はてさて、みなさんはもう知っていることばかりかもしれませんが、ざっくりとこの青波せいは学園について説明しますね。青波せいは学園、紅月こうづき学園、燈黄とうおう学園、白蓮はくれん学園、黒羽くろば学園の五つの学校は、霊能力者を育成する教育機関として設立されました」


 天宮のもりを中心にして、青波、紅月、燈黄、白蓮、黒羽の五つの学園は五芒星を描くように位置している。それは五星結界を司っているがゆえの配置であると言われているが、本当のところを知る者はいない。


「常に結界の外では夜徒やとがうろうろしているわけなので、夜徒やとに対抗する戦力を持つことは重要な課題です。よって、ここではみなさんに術式の扱い方から戦闘技術までを学んでいただきます。もちろん実力によって必要な授業のレベルは異なるので、クラス編成は入学試験時の実技成績で行われています」


 佐藤は言葉を切り、全二十名のクラスを見渡す。視線が一瞬、楓の上で止まった。それからほんの微かに微笑んだような気がして、楓は息を呑んだ。


「つまり、ここに集ったみなさんは学年上位二十番以内、というわけです」


 上位二十番以内。


 すうっと楓の顔から血の気が引けていく。無能で、入学試験すら受けていない楓が学年上位層。戸惑いに混乱、けれどそれ以上に大きいのは……。楓は視線を机に落とし、その下で制服のスカートを握りしめた。


 こわい。また繰り返すのか。囁かれる幻聴に身体が震える。けれど、たとえ小さな小さな可能性だとしても、自信のない自分を棄てて変わりたい。だから、楓は俯くのはまだやめておこうと思って顔を上げた。


「──ではでは、自己紹介とでもいきましょうか!」


 担任の底抜けの明るい声に、せっかく固めた決意が砂山みたいに崩れそうになった。まだだ、と口の中で呟く。自己紹介くらい乗り切ってみせなければ始まらないのだ。

「出席一番の相川君からよろしくお願いしますねー」


 楓の前で光希の背中が動いた。真後ろとなれば、クラスの方を光希が向いても顔を見るのはいささか厳しい。光希の顔を見るために首を一生懸命動かすのは癪だったから、楓は光希の纏うブレザーのポケット付近を睨みつけることにした。


「相川光希です。よろしくお願いします」


 不愛想な挨拶。光希が立ち上がった時間はわずか十秒にも満たなかった。しかし、光希が有名人だというのは本当のことらしく、クラスがざわついている。この空気感と光希の挨拶の短さなら楓もしれっと挨拶をすることができるかもしれない。光希のあとに続いて楓は立ち上がった。ポニーテールを揺らして、クラスの方へ身体を向ける。


「天宮楓です。これからよろしくお願いします」


 ぺこりと頭を下げて着席する。けれど、ざわついた空気は跡形もなく消えてしまっていた。痛いくらいの沈黙が楓の肌を刺す。沈黙の波が過ぎ去れば、天宮の名がさざ波のように楓の元まで聞こえてきた。それくらいに、天宮という名前は特別なのだ。楓の心臓は早鐘を打つ。どんな色の視線であれ、すべて楓には身を切る刃に等しかった。


「次は私ですね」


 居心地の悪い空気を可愛らしい声が断ち切った。思わず振り返ると、先ほど光希に話しかけていた少女がにこりと微笑んだ。


「私は安良城あらき夏美なつみです。よろしくお願いします。気軽に話しかけてくれると嬉しいです」


 明るく笑った夏美が眩しくて楓はまばたきをした。夏美が楓を助けたのは自明だ。強張っていた楓の顔も少しだけ緩む。着席しながら微笑みかけてくれた彼女に微笑み返せたくらいには。





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