第4話 困った教え子
ヴィオラを尋ねてきたのは、ランドル男爵家の令息オリヴァーだ。彼はヴィオラの教え子で、年齢は二つ下の二十歳。
「ああ、君か……」
ヴィオラは内心「またか」と思いながら彼の方に体を向けた。
准教授以上の教員は、授業を受け持つ義務がある。そのため、週に何度かは学生に向けて講義を行うのだが、彼はヴィオラの講義に毎回顔を出しては、質問があるからとこうしてわざわざ研究室まで足を運んでくるのだ。
学生としては非常に殊勝で素晴らしいことなのだが、ヴィオラが「またか」と思うのには理由があった。絶対に内容を理解しているのに、わざと質問をしに来ているようなときがあるからだ。
彼の意図はわからない。からかいに来ているのか、ただの暇つぶしか。
ヴィオラは小さく溜息をつくと、扉の前で佇む彼に声をかけた。
「入っていいよ。今日も質問が?」
「ありがとうございます」
彼は低く響く声でそう言って、ヴィオラが座っているデスクの近くに寄ってきた。
相変わらず、無駄に良い声である。そして、嫌味なくらいに整った顔立ちだ。身長はスラリと高く、アッシュグレーの髪はきれいに整えられ、金色に輝く瞳は彼の凛々しさを印象付けている。
「今日はどこがわからなかった?」
そう尋ねると、オリヴァーは教科書をデスクに広げ、ある箇所を指差す。
「ここです。ここはどうしてこの術式を使うんですか? アロイスの術式のほうが適切かと思ったんですが」
「ああ、そこか。確かに一見そのほうがスマートに思えるが、それだと魔力効率が悪いんだ。結果的にこちらの術式を使うほうが、魔力の消費量が少なくて済む」
ヴィオラは真剣に解説していたので全く気づかなかったのだが、オリヴァーはヴィオラの斜め後ろから覆い被さるように教科書を覗き込んでいたので、二人の距離は大層近くなっていた。
しばらく議論を交わした後、ヴィオラはふと視線に気づき、くるりと振り返る。すると、グレイス夫人がニコニコしながらこちらの様子を眺めていたので、ヴィオラは怪訝そうに尋ねた。
「……なんです? そのなんとも温かい目は」
「いえいえ。何でもございませんので、どうぞ続けてください。邪魔者は退散しますね」
グレイス夫人はふふっと笑い、書類を持ってどこかへ行ってしまった。ヴィオラが不思議そうな顔で彼女の後ろ姿を見送っていると、オリヴァーが声をかけてくる。
「先生。論文の執筆、お忙しそうですね」
彼の視線はデスクの上に乱雑に置かれた紙束に向けられていた。
「ああ、もうすぐ佳境だよ」
「そうですか。では、質問に来るのはしばらく控えます」
「気を遣わせてすまないね。もしわからないところがあれば、他の先生に聞きに行きなさい」
ヴィオラはそう言ったが、オリヴァーはにこりと笑っただけで「はい」とは返さなかった。その代わり、こんなことを申し出てくる。
「もし僕に手伝えることがあったら言ってください。魔力量はそれなり多いので、実験の協力くらいなら出来ますよ」
オリヴァーは学生の中でも飛び抜けて魔力量の多い人物だった。研究員ではなく、魔術師のほうが向いていると思うほどだ。
彼からの思いがけない申し出に少し驚きつつ、ヴィオラは彼の親切心に素直に感謝の意を伝える。
「ありがとう。だが大丈夫だ。実験自体はもう終わってる」
「そうですか。では次の機会にでも使ってください」
彼はそう言うと、丁寧に挨拶をして研究室を去っていった。
グレイス夫人もオリヴァーもいなくなり、しんと静まり返った研究室の中で、ヴィオラは思う。
(今日も絶対わざと質問しに来たな……あまりにも理解が良すぎた)
普通、熟知している内容をわからないフリして質問しに来る生徒がいれば、「そんな暇あったら研究しろ」と叱るところだ。しかし、ヴィオラがそんなオリヴァーに付き合っているのは、彼との議論がそれなりに楽しいものだからだ。彼は非常に頭が良く、ヴィオラの議論について来られる珍しい人物だった。
数日後、ヴィオラはいよいよ論文の執筆に追い込まれていた。提出期限があるわけではないのだが、研究とは
「では、先生。私はこれで失礼いたしますね。あまりご無理なさらぬよう」
遠慮気味に声をかけてきたグレイス夫人は、心配そうにこちらの顔を覗いている。ヴィオラは連日夜遅くまで論文執筆に精を出していたので、目の下にくっきりとクマが出来てしまっていた。
倒れるのではないかと心配してくれている夫人に、ヴィオラはにこりと微笑んでみせる。
「今日で終わらせるつもりなので、ご安心を。お疲れ様でした」
グレイス夫人が帰った後、ヴィオラは一度伸びをしてからコーヒーをグイッと飲み干した。窓の外はもう日が沈みかけている。
「よし、朝までには仕上げよう」
徹夜する気満々のヴィオラが自らに気合を入れたところで、聞き慣れた低い声が聞こえてきた。
「先生、今少しお時間をいただけませんか?」
顔だけで振り返ると、やはり想像通りの人物がそこにいた。オリヴァーだ。
「私の論文執筆が終わるまでは来ないんじゃなかったのか?」
ヴィオラはオリヴァーを半ば睨みつけながらそう言った。そして、彼が返事をする前に畳み掛けるように言葉で拒絶する。
「今は無理だ。忙しい。今度にしてくれ」
「いえ、すぐ終わるお話ですので」
「聞こえなかったか? 回れ右だ。さあ、すぐさま帰れ」
シッシッと追い払う手振りをするも、オリヴァーは意外にもしつこく食い下がってくる。
「今日は質問に伺ったのではなく」
「だったら何だ?!」
時間が惜しく、ヴィオラは思わず声を荒立てた。しかし、オリヴァーは全く怯むことなく真剣な表情で告げてくる。
「先生に結婚を申し込みに来ました」
「ああそうか、結こ……」
いつもは恐ろしく早く回るヴィオラの頭が、この時に限っては急停止した。ヴィオラは寝不足がたたりとうとう幻聴が聞こえ始めたのかと思い、すぐさま彼に聞き返す。
「なんだって?」
「ですから、先生に結婚を申し込みに来ました、とそう言いました」
「…………」
聞き間違いではなかったらしい。意味がわからず、ヴィオラは数秒の間、唖然として口をぽかんと開けていた。しかし、ハッと正気に戻ると、またオリヴァーを睨みつけて厳しい言葉を投げかける。
「君の冗談に付き合ってる暇はない。即刻帰れ」
「冗談ではありません。先生にとっても、利のある話かと」
「…………」
ヴィオラはこの困った生徒をどうしようかと悩んだ。しかし、オリヴァーの表情があまりにも真剣だったので、これは一度話を聞かないと意地でも帰らないだろうと思い一旦折れることにした。
ひとつ溜息をつき、仕方ないという表情を彼に向ける。
「……五分だ。五分だけ時間をやる」
すると、オリヴァーの形の良い眉がピクリと動いた。そして彼は、その嫌味なほど整った顔に微笑を浮かべる。
「充分です。ありがとうございます」
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妹に婚約者を取られたので独り身を謳歌していたら、年下の教え子に溺愛されて困っています 雨野 雫 @shizuku_ameno
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