再び、彼と出会う

 今、琴は全速力で走っていた。土砂降りの雨が急に降ってきたのだ。

 全身を濡らしながら駅に着くと、溜息を吐いた。ICカードを使い、ホームへ向かう。心の中は、帰りたい気持ちでいっぱいだった。

 ホームへ着くと、鞄の中を見た。取り出したのは、小さなハンドタオル。気休めにもならないだろうが、服や身体を拭き始める。

 ちらりと時計を見た。あと数分で男性が乗っているかもしれない電車が来るが、もう乗る気はない。こんな姿で会いたくなかったからだ。

 やがて、電車がホームに到着した。降りてきた乗客は、濡れている琴に同情の目を向けていく。せめて、男性がこの電車に乗っているかどうかだけでも確かめたかったが、恥ずかしさから顔は俯けたまま。

 電車は乗客を乗せ、次の駅へと走り出す。せっかく来たのに、と落ち込んだときだった。

 白いタオルが視界に入ってきた。誰だろうと顔を上げると、そこには──。


「やっぱり、昨日の子だった。これ使って」


 あの男性が立っていた。


「あ、ありがとうございます。お借りします」


 震える手でタオルを受け取る。何とか手を動かして拭くも、頭の中は混乱していた。

 まさか、こんな形で会うことになるとは。

 今、礼を言ってもいいのか。そんなことを考えていると、タオルがなくなった。落としてしまったかと下を向くと頭にタオルが被せられ、優しく動かされる。


「他も拭こうね」

「す、すみません」


 見かねて代わりに拭いてくれるほど、同じところを拭いていたようだ。


「僕は、雪野ゆきの悠斗はると。君も降りる駅から二十分程歩いたところにある芸大に通ってるよ」

「わたしは、初音はつね琴です。あの駅から十分程歩いたところにある女子校に通っています。昨日も今日も、ありがとうございました」

「お礼なんていいよ。それより、あの女子校って進学校だよね。すごいなあ」


 瞬間記憶能力があるからだとは言えず、口を噤んだ。


「……昨日も思ったけど、綺麗な黒色の髪だよね」


 髪の毛を拭く手が止まる。


「僕、人が持つ色を見る癖があって。君は純黒。これ以上の黒はない、完全な黒色だ」

「黒って、いろんな黒がありますよね」


 しまった、と右手で口元を隠す。

 色の種類はわからずとも、違いはわかる。同じ黒でもその濃淡や別の色が混ざっているなど、記憶と見比べることができてしまうためだ。


「へえ、色の違いがわかるんだ」

「そ、それは」

「次の電車まで時間があるし、座って話そうよ」


 拭いたとはいえ、まだ濡れている。座ると席を濡らすことになると思っていると、頭にかけられていたタオルが取られ、悠斗はそれを椅子に敷いた。


「これで大丈夫」

「あ、ありがとうございます」


 そのあと、悠斗は自販機へと向かった。琴はタオルが敷かれた椅子に腰掛け、時計を見る。

 次の電車が来るまであと十分ほど。思いがけず悠斗と話せることになったが、言ってもいいのだろうか。

 悠斗の、色のことを。


「ごめん。冷たい飲み物ばかりだった」

「すみません、気を遣っていただいて」


 自販機から戻ってきた悠斗が、琴の隣の椅子に腰掛ける。


「琴ちゃんって呼んでいい?」

「はい」

「琴ちゃんは、僕の色について何も言ってこないね。気にならない?」


 自らこの話を振ってくるとは思っていなかった。では訊いても、いや、伝えたいことがある。


「悠斗さんの色、とても綺麗です」


 え、と短く声を発すると、悠斗は目を丸くして驚いた。


「美しい雪景色のような白色に、青空のように澄んだ青色。目が離せませんでした。それに……」


 そこで言葉を止めた。顔を俯け、濡れたスカートを両手で握り締める。

 琴は周りとは違うことを気にしてしまい、胸を張ることができない。けれど、悠斗は。


「ありがとう。そんな風に言われたのは初めてだよ」


 顔を上げると、悠斗は背中を丸めて両膝にそれぞれ肘を置き、手を組んだ。


「僕はアルビノなんだ」


 しっかりと調べたことはないが、テレビなどで耳にすることがある。メラニン色素の合成が減少、または欠損している、先天性の遺伝子疾患だと。


「色素は薄いし、紫外線に弱いから基本的には長袖だし、外に出るときはサングラスも必須」


 今日は曇っていてよかった、と笑いながら、悠斗はサングラスを取り出してかける。レンズの色はかなり濃い。


「悠斗さんは、怖くないですか」


 サングラスを外し、悠斗が琴を見る。


「わたしは怖いです。普通の人と違うと知られるのが。ですが、悠斗さんは堂々とされていて」


 琴がアルビノであれば。帽子を被ったり、マスクをしたり。人とは違うことを隠して生きていただろう。

 今と同じように。


「僕は僕だからね」


 でも、と悠斗は顔を前に向けた。


「悩むことばかりだよ。どうしても、周りの人とは違うから」


 踏切が鳴る音が聞こえてきた。ホームには駅員のアナウンスが響き渡る。時計を見ると、琴が普段乗っている電車が来る時間になっていた。

 琴と同じ、周りの人とは違う悠斗だからだろうか。このまま別れるのが名残惜しい。もっと話がしたい、話を聞いてほしい。


「……連絡先を、交換したいです」

「いいよ」


 お互いのコードを読み取り、連絡先が登録される。


「悠斗さんは電車に乗られますか?」

「僕、座れそうな電車で行くよ」


 電車がやってくる。立ち上がり、椅子に置いていたタオルを洗って返そうと手に持つも、それはすぐに悠斗が琴から取ってしまった。


「気にしないで。あと、傘」

「でも、悠斗さんが」

「折りたたみ傘もあるから」


 悠斗が持っていた傘を手渡され、琴は電車へと向かう。後ろを振り向くと、彼は笑みを浮かべながら手を振っていた。ぎこちなく振り返し、乗車する。

 いつもの時間はやはり乗客が多い。とはいえ、扉の近くに立てたのは奇跡だ。これならすんなりと出られる。そのとき、鞄の中に入れたスマホが震えた。取り出して通知を見ると、悠斗からメッセージが来ていた。


『今日は転けないようにね』


 追加で可愛くもどこかシュールなクマのキャラクターのスタンプが送られてきた。こういうのが好きなのだろうか、つい口元が綻ぶ。

 少しして、電車が動き始めた。手を振る悠斗に、琴も手を振る。姿が見えなくなったあと、返信するために文字を打ち始めた。あの日以来、誰にも打ち明けなかった琴の秘密。


『わたしは、瞬間記憶能力を持っています』


 深呼吸を一つしてから、送信ボタンを押した。

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