琴の悩み

「琴、進路は決めたの?」


 学校からもらった進路調査票を出すと、母はそれを見て琴に問いかけた。


「まだ決めてない」

「そう。いい能力を持ってるんだし、役立てられる仕事に就きなさいね」


 進路調査票を琴に返し、母はキッチンに立った。

 母も、今は仕事でいない父も、琴の将来には口を出さない。言うとすれば、先程のように「能力を役立てられる仕事に就くこと」とだけ。琴は小さく「うん」と呟くと、進路調査票を手に二階の自室へと向かった。


(何も、わかってくれてない)


 自室に入ると扉を閉め、琴は背中を預けた。そのままずるずると滑るようにして、床に座り込む。

 成績は学年一位をキープし、全国模試の結果も一桁。それを両親は能力と言っている──わけではない。

 琴が持つ瞬間記憶能力のことを言っているのだ。

 成績や模試の結果がいいのは、教科書を、参考書を、すべて覚えているだけだ。勉強をしている友人達を見ていると、自分は卑怯な手を使っていると感じる。

 実際に、言われたこともあるのだ。琴は卑怯だと。

 幼い頃から記憶力が良かった。それが気になりだしたのは、勉強が本格的に始まりだした小学生の頃。一度見ただけの教科書の内容を一字一句間違えずに覚えていることなどから、両親が病院に相談し、この能力が発覚した。

 その後、またテストで満点を取ったため、仲の良かった友人に能力のことを打ち明けた次の日。

 クラス全員から、白い目で見られるようになった。テストで満点を取るたびに、こう言われた。


『全部覚えているなんて卑怯』

『カンニングじゃん』


 今でも思う。話さなければよかったと。

 両親に相談するも「持っている能力を有効活用しているだけ」とわかってはもらえなかった。


(何も知らないから、そんなことが言えるんだ)


 瞬間記憶能力で覚えたことは、忘れることができない。あの日のことを鮮明に思い出してしまう。昨日あった出来事のように。

 そのことがあってから、琴は自分の能力について誰にも話さないようにしてきた。両親に相談することもやめた。何も伝わらないのであれば、無意味なように思えたからだ。

 ゆえに、両親は知らない。琴が、こんな力などなければよかったのにと思っていることを。


「普通の人になりたい……」


 将来、何をしたいか。何がしたいか。どんな自分になりたいか。琴には、何も思い浮かばない。

 ただ、普通の人間になりたいとだけ。



 * * *



 ──翌朝。

 昨日と同じ時間に起きられるように目覚ましをセットしておいた。ピピピ、と電子音が静かな部屋に響き、琴は寝ぼけながらそれに手を伸ばす。

 本音を言えば、まだ眠い。寝ていたい。いつもの時間の電車に乗りたい。

 そんな考えを吹き飛ばすかのように、琴は自身の両頬を手で挟むようにして叩く。じんわりと痛みが走り、思考が少しだけクリアになった。


「ちゃんとお礼を言わなきゃ」


 いつものように制服に着替え、荷物を持って自室を出る。リビングに入る前に洗面所へ寄り、冷たい水で顔を洗った。

 リビングに行くと、母が朝食を用意してくれていた。それに手を合わせて食べ始めるも、うまく喉に通らない。

 緊張しているのだ。昨日と同じ電車に乗っているだろうか。男性に、会えるだろうか。

 もし、会えたら。どのように、話しかければいいのだろうか。

 何とか朝食を終わらせると、身支度を整える。いつもよりも時間をかけ、丁寧に。何度も何度も髪の毛を梳かし、鏡を見た。


「行ってきます」


 今日は昨日と違って灰色の雲が多く、青空も白い雲も見えない。何だか、嫌な感じがすると思いつつも、急ぎ足で駅に向かった。

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