碧に浮かぶ一葉の艇
丹路槇
碧に浮かぶ一葉の艇
遠くで山羊の鳴き声がする。目の奥に映るカーテンの景色を透かした色が綺麗だ。体がぽかぽかとあたたかい。ゆっくりと肺に呼気を取り込むと、鼻先に当たる寝具から朝の匂いを感じて青年は目を覚ました。
彼はかつて訪れた、地球のアイゼナハという小さな都市を思い出していた。緩やかな坂に煉瓦を敷き詰めて作られた街並みが広がる。小路の繋がる先には広場があり、古い教会がひとつ建っていた。ヨハン・ゼバスティアン・バッハが洗礼を受けた教会は、白銀の立派なパイプオルガンが佇んでいた。仰ぎ見た時に、偶然なのか、天井に赤い風船がぽつんと浮かんでいたのをよく憶えている。
オーボエ奏者である青年キリマンジャロは、そこで僅かではあるが地球本来の音楽の構成と楽器の音色を学んできた。今は生地である人工天体、メディカシステマに戻り、自治区で唯一の交響楽団であるシンフォニーエで首席を務めている。
すっかり冴えた双眸は木枠の窓の外にある実際の風景を見ていた。四角にくり抜かれた空は、正しく言うならばテントリウムというスクリーンでできた擬似天球だ。コすらと諳んじることができた。しかし旧家の子息であるキリマンジャロは、すっかり体に沁み込んでいるはずの古い習わしをこの頃よく忘れてしまった。共寝のひとと居られることに浮かれすぎているみたいで、彼はそのたびに深く恥じ入っている。
今も膝を折ってやり直しを懇願しようとするのを、ビーと呼ばれた男が制止した。かの人は青年よりも遥かに成熟した、シンフォニーエのヴァイオリン弾きだった。ブルーマウンテン家の長子は長く楽団のコンサートマスターであり、深い畏敬と親しみをこめ操舵者(クベルナ)と呼ばれている。普段は四弦を巧みに操る褐色の手がキリマンジャロの頬に触れ、耳の後ろを丁寧に撫でた。これも挨拶のひとつで年長の者が相手を受け入れる時に交わされるもの、クベルナはこうして若きオーボエ吹きを優しく宥めている。
「急に布団を抜けると冷える、未だ動きたくない、空はこちらから見ろ」
持ち上げられた布団に青年がいそいそと戻る時、再び山羊の鳴き声が聞こえた。丘の上にあるクベルナの邸では山羊と数羽の鶏が草地に放たれ、気ままに暮らしている。山相から陽が出てしまう前に朝の乳搾りをお忘れなく、とでも言いたいらしい。今ではすっかり彼女の友人としてその役を担うキリマンジャロは、気怠そうに眉を顰め自分の背に腕を回すブルーマウンテンの背を抱き返した。
「次に起きる時には僕が粗相をしないように、また寝たふりをしてくれるのかい。優しいね、ビー。僕の大切なひと」
ふたりの頬に降り注ぐ朝陽は、プログラムされた二十四の節と七十二の候で調光された作り物の空から穏やかに放出されている。雨量や気温の高低、気圧と風は総て天体機構により自動管理の下で運行していた。はじめに地球から方舟のようにここへ渡ったミグラタスによって建造された時から、管制にヒトの手が及ばないようにコロニーには自発運行と学習機能が備わっている。メディカシステマは無生物であるにもかかわらず、そのものに意思があるようにヒトや生物を培養保護し続けていた。
コロニーを出て地球を訪ねたことのあるキリマンジャロから、この疑似天体は飛行艇というよりもミツバチの卵のような形をしている、と聞かされたことがある。ブルーマウンテンは特別保護種であるその不思議な虫を資料としてしか見たことがない。都市中央のリーヴリにアクセスして取りロニー内の気候から季節の変遷まで総て完全な機構によって管理されている。今朝のテントリウムは薄紅を重ね、調光された朝日が静かに昇っていた。キリマンジャロは横に広げた腕に預けられた頭をそっと撫でる。
「ビー、起きて。綺麗な空だよ。いつの間に春が始まったのだろう」
声の下では細かにうねった黒髪を散らして男がひとり眠っていた。仄かに昂揚した青年の呼びかけに、用心深く片目だけを開ける。
「キリ」
磨かれたように光る黒色の瞳を向けられ、青年は慌ててベッドから起き上がった。
「いけない、僕はまた貴方に失礼を……」
地球からのミグラタスが興した自治区の文化は、慇懃で複雑な儀礼に満ちていた。離れの農耕地にある別の独特な慣習を除けば、市民は目覚めとともにその家長の寝床へ向かい、傍で跪き、手を合わせこうべを垂れて挨拶を始める。ひと夜を越え、再び出会えたことを喜ぶ言葉の綴りは、スコレーに行く前の幼子でもすら
寄せた卵のビジュアルは薄い膜で覆われた白っぽく脆いもので、とうてい盤石な自治区の姿からは想像もつかないような幼い形をしていた。もっと純粋で、触れてはいけないもののような。
*
交響楽団は市中での定期公演や自治区の公営放送による中継のほか、楽典の研究機関を担っている。新参の楽団員であるキリマンジャロは、研究活動としての分業・団員の階級についてまったくの無知であったにもかかわらず、ある時クベルナに古楽のゼミナールへ入会することを申し出たのだが、それはシンフォニーエでもっとも歴史と格式のある精鋭集団だった。それをリハーサル前の練習場で皆の前で言い放ったので、彼の友人であるフルート吹きのモカはその時声を出さないように慌てて手で口を覆っている。どうか生熟れのオーボエ青年への罰が少なく済みますように、とその晩必死に祈りを捧げたのはいうまでもない。ただ、モカが頬を膨らませて親友に悪態するほど拍子抜けに、キリマンジャロはひとりの反対も無く古楽ゼミナールの末席を許された。
ゼミナールでは文献翻訳から解釈の議論を行うだけでなく、実際に研究発表という形で演奏活動もある。全体の定期公演の合間に市街中央の教会で、地球とは切り離された希薄でルーツの曖昧な信仰観の中、彼らは毎月のようにミサを実践していた。
メンバーはヴァイオリン、ヴィオラ、チェロにコントラバス、フルート、オーボエとファゴット、トランペット、ホルン、そして十名の聖歌隊。指揮者はなく中央のチェンバロ奏者がその役を担う。かつては作曲者自らがチェンバロを弾き、新譜を披露していたと考えられている。不評のものは王前で二度と演奏されなかったと聞いた時、トランペットのブルボン・サントスは半ば疑いの目でメンバーの高説に頬杖をついた。
「バッハはジェルマニアの人間だろう、なんでもそこの古城では歌の決闘をして敗者を殺す伝説が残ってるって聞いたぜ。地球にムジカシステマが生まれなかったことを心から哀れに思うよ。音楽で人が命を落すような歴史があるとは」
「西暦紀ではドイツと呼ばれていたって。きみの言う歌会の広場はヴァルトブルク城にあったよ。実は現存していて、それが当時の権威誇示と統治に繋がっていたと、現地での文献には……」
「ゼミナールは談話室ではありませんよ。また貴方ですか、キリマンジャロ」
お喋りを咎めたのはエチオピア・シダモ、古参のヴィオラ首席奏者であり、ゼミナールの進行役である。自治区の南にある山岳地には彼の生家があり、牧畜が盛んだ。クベルナの邸で飼われている山羊はエチオピアからの調物らしい。
ヴィオラ弾きはオイルで固めた横髪を丁寧に撫でつけながら、これだから地球帰りの子どもは、とキリマンジャロを𠮟りつけた。隣席の自分について何も言わないことをブルボンは顔を顰めながら腕を組んでいる。キリマンジャロもこのゼミナールに通ううちにすっかり居直っていて、咥えたリードを湿らせながら譜面に黒鉛を走らせた。視線の右端で腰掛けているクベルナの横顔をちらと見やる。彼は時折ヴァイオリンの弓に脂を塗り、おそらく自身は既に飽きるほど聞いているであろうエチオピアの講義に耳を傾けていた。軽く首を左に向けながら静かに瞬きする横顔は、キリマンジャロとさほど歳の違わないように見えてしまう。
ほんの数秒そうしていただけだと思っていたのに、気づけばエチオピアの声は意識からすっかり消え失せ、青年はただブルーマウンテンの美しい佇まいに見惚れていた。人のいない教会も時が止まったように静かで、陽光を透かすステンドグラスの光の屈折や、座ると微かに軋む木の椅子で、ああ今確かに外と同じように時間は経過しているのだな、と分かる。席について天井を眺めると、自分のちっぽけな存在をその場では許されている心地がした。まるでクベルナは青年が或日に見たかの教会に座り、遠く自治区で些末な議論を繰り返す皆を待っているみたいだ。もしかして、ビー、貴方もかつて碧落へ渡ったことが……?
青年の視線があんまり明け透けなので、クベルナは弓を持つ手で自分の耳朶を軽く擦った。人目憚らずこうして耳を擽るぞ、とキリマンジャロへ投げかけられた視線は瞬きのうちに逸れ、諌める手はすぐに膝へ下ろされる。その仕草に気づく者は殆どいない。
ふと我に返った時、キリマンジャロの思考にはエチオピアの声が流れ込んでくる。きっぱりとした語調の講演は平均律による古楽の革新に触れられていた。そのまま、バッハがその平均律の解説書を当時刊行したのである、と彼が発言すると、前後の文脈も確かめず、青年はぱっとその場で立ち上がった。
「お言葉ですが、マジス、バッハは平均律を提唱していません」
ヴィオラ弾きはさっと怒りで顔を赤くする。キリマンジャロに口を噤みなさいとぴしゃりと言いつけたが効かず、青年はすたすたとチェンバロまで歩み寄った。
「ミサ曲は使われる調が決まっています。演奏する前に調律して純正律にするのです。しかし、それだと使えない和音が多すぎる。バッハの指すWell temperedは全ての均等配置ではない、できるだけ多くの和音が有効である調律を示唆すると考えます。現に、以降の作曲家も多くがミーントーンを好んで用いるなど……」
説明しながらキリマンジャロがチェンバロを弾いてみせる。トニック、サブドミナント、ドミナント、トニック。シンフォニーエのチェンバロは常に完璧な平均律で調律されていた。それが可もなく不可もないと聞こえてしまうのならそれは耳による学習に過ぎず、もしもそれが寸分も狂いなく置かれた純正律の和声であれば、澄んだ水のように向こう側まで見通せるような共鳴が起こるはずなのだ。それを管弦楽では忠実に遵守されているのにも関わらず、鍵盤楽器のみ独自の調律をしているのはおかしい、それは楽器の発生と楽曲への使用におけるルーツを無視した解釈だ。バッハは穏便な和声の歪みと弱い衝突は作曲において加味していない。譜面は矛盾のない純正律で成立している。
青年は一息に反駁すると、チェンバロの蓋を開け調律用のハンドルを持ち出した。エチオピアが卒倒しそうな勢いでふらりと倒れ込み、周囲の楽団員が慌てて古参のヴィオリストの体を支える。誰か氷を、そのまま医務室へ、すぐさま彼の介護にかかる数名は、衛生兵のようにてきぱきと動いてあっという間にエチオピアを運び出した。
言うまでもなくその日のゼミナールは中止になり、残るのは意固地になって調律をするキリマンジャロと、それに付き添うブルボン・サントスだけになる。
ぽおんと音叉をハンマーで叩くと、キリマンジャロはチェンバロの側板に耳を当て、くるくると何度も弦を張ったり緩めたりして音の高低を整えていく。ひとつの調の中にある音の重なりは複雑な機構でできており、それそれが完璧な多面体になるのではい。あるところの和音を作ると別のところはまったく不成立の部分ができてしまうし、それを埋め合わせることはできなかった。しかし生まれてしまう欠落こそが和声の正しい作りといえる。
「キリマンジャロ、ファはもっと音程を下向きに」
「難しいな、もうずいぶんハンドルを緩めてしまっている」
「弦が悪いのか」
「いや、これが響かない所為さ」
限りなく明察に近い和声を弾きながら、チェンバロの開いた天板をオーボエ吹きがコンコンと拳で打つものだから、雄渾で知られるブルボンもさすがに相好を歪めた。
「プェリ、プェリ、もうだめだ、おまえはいつかそれを自分のチェンバロでやるといい」
自分やモカより少し年長の男が宥める声に、キリマンジャロはあははっと屈託のない笑顔で応える。
「僕を子どもと言ったの、ブルボン? ふふ、自分でもそう思うよ。ビーも少し前は、よくそう呼んで眠る前に髪を撫でてくれたよ。ここには優しいひとが多くてつい甘えてしまうな」
小さく肩を竦めてからチェンバロの天板を閉じると、青年は真紅の天鵞絨で鍵盤を拭き、蓋を下ろして楽器に鍵をかけた。それから、居残りに付き合ったラッパ吹きに、シンフォニーエは総て在るべきモノから作り上げた楽器によって演奏されなければならない、と明朗に論じた。若き音楽家の志に触れたサントス家の総領は、その肩に黙って手を置き強く握る。
しかしムジカシステマによって作られた完全な世界は、その小さな革新が許される機構の柔軟さを持ち得てはいないのだった。歯車のあるところに出た棘も杭も、次に巡った歯車が噛み合った時に押し折られてしまう。曖昧な信心と無条件に平原と化した共産主義は、歪さと凹みのある楽器を受け容れられないのだ。例えそれが、確かに息をしているとしても。
*
夕刻、ブルーマウンテンはポーチに腰かけて山羊に葉菜を与えていた。夕餉に拵えたスープの残りで、根のところはキリマンジャロの好物だからこの白いミグラタスの牧畜はその甘いところまではありつけない。長細い顎をむしゃむしゃと動かし、臼歯で歯を磨り潰す動作を繰り返して餌を咀嚼すると、休符みたいな形の双眸を向けてバア、と低く鳴いた。
「ぼやくなよ、友があまりに熱心だからといって」
気怠げに吐かれた悪態はそのまま自分に返ってくる。ブルーマウンテン邸は小島になぞられインスラと呼ばれるほど、辺りは静かで家屋の間取りもゆったりとしていた。音楽家がひとり自宅で研究や修練に没頭するにはちょうど良い造りになっていて、この頃はキリマンジャロが独り籠るのに邸をたびたび訪れている。
シンフォニーエではひとつ大きな祭事が目前に控えていた。十年に一度行われるトゥールは、いうなれば自治区全域への巡業で、必ず総ての楽団員が帯同する。農耕地や漁営場、港、山岳地をくまなく巡り、古楽から近現代曲そして自治区で生まれた新たな考証を披露していく。それは興行ではなく伝導と呼ぶのに相応しい。ムジカシステマはヒトに分け隔てなく与えられるものであり、誰もが手に触れ慈しむもの、そして市民に音楽を与えるシンフォニーエに敬愛の念を注ぐものだった。
キリマンジャロがトゥールに備えて熱心に稽古するのには理由がある。巡業には祭事の他に副次的な目的が内包されていた。地方に赴けば物資が流通する。とりわけ盛んな商戦は調度品の材料のひとつである木材だった。ムジカシステマでは楓から掘り出された楽器を用いているのはこの若きオーボエ吹きただひとりなのである。他のすべての演奏家、クベルナでさえ物心ついた時に触れた初めての楽器は樹脂だった。その耐久性と汎用性の高さを比べれば、木材で作られた楽器はただの粗悪品と呼ばれて然るべきかもしれない。それぞれに不測の要素があり、根本的に不完全で、そして朽ちるまでの間に何度も変容する恐ろしい存在と言われていた。楓やグラナディラが自治区では家の置物としてしか使われないのは、ミグラタスが地球での過ちを二度と繰り返さないための深い悔恨の情が含まれているかもしれなかった。
キリマンジャロ青年は、このコロニーではもはや旧来と呼ばれる樹脂造りの楽器を、ひとつでも木製へ変えていきたいと思っている。市民にとっては未だ遠い存在である木の楽器を演奏できる次の才能をも見出すための旅と心を決めているのではないか。完全に機構として成立しているムジカシステマの体制をひとたび変革の道へ向かわせるには、彼の持つ楓でできたサトキ・オーボエで瓏々と演奏することが唯一で最も大きな声になるだろう。
果敢にも在し日の地球へ回帰しようと試みるオーボエ奏者は、それを実現しうる素晴らしい才能も備えていた。彼の明朗で魅力あふれる演奏に多くの人々が心を突き動かされ、やがて新たな集団を生むことをクベルナは既に理解している。穴も死角もないシステマが瓦解する時を見通していたブルーマウンテンは、奥底に眠るストラディヴァリウスの一挺を己の新たな声として蘇らせることを躊躇った。
「プェリ、プェリ、夕餉は終いにしろ。おまえの友を呼んでくるから、背中をブラシされるまでいい子にしてくれ」
少し前までは、こうしてキリマンジャロのことも幼子にするように撫でて可愛がっていたのに。褐色の手に重たい溜息が落ちる。
最後の葉を咀嚼する山羊の手綱をポーチの柱へ繋ぎ、長く美しい細かいうねを描いた黒髪を揺らして男は自邸へ入った。廊下の明かり取りは春の西陽を微かに拾うようになっている。南へ渡る鳥の群れがテントリウムの投写を横切って影を落とした。
今はキリマンジャロの練習室になっている、北側の書斎のドアをノックする。コツコツコツコツ、アンダンテで四分音符を並べると、扉の内からオーボエが『悲壮』を吹いて応えるのが聞こえた。
外からノブが下ろされて中のラッチが引っ込められる。リードから口を離したオーボエ吹きが振り返ったが、ドアは錠を上げてからそのまま動かなかった。
「ビー、怒っているの? 僕はまた、貴方の素敵な晩餐をほうって拙い練習ばかり」
ドアまで大股に歩み寄り、注意深くノブを引くキリマンジャロはひどく狼狽えている。この頃すっかりブルーマウンテンの寛容に甘えていた自分を戒めて唇を噛んだ。僅かな抵抗の後にノブを抑えていた手が緩み、ブルーマウンテンの相貌が半ば見える。在期二十余年の間、シンフォニーエを導いてきたクベルナは、その時初めて己の胸に斜陽を映した。
「……どうか行かないでくれ」
キリマンジャロはドアからそっと手を離すと、踵を返して部屋の中央へ戻っていく。天板が閉じられたピアノフォルテの上に手入れ布で包んだオーボエを横に置くと、またくるりと体を返してほんの数歩の間を駆けて戻り、彼より頭半分だけ身丈の低い男に抱きついた。
「行くって、何処へ? 貴方は慣れているかもしれないけれど、僕には初めてのトゥールで……ねえ、少しでも離れることは考えられないよ」
ブルーマウンテンの体が衣越しに触れているおかげで、キリマンジャロは自分の心臓が脈打つ振幅を感じられた。肩に顔を埋めるように俯くと上品な刺繍が施されたチョッキから仄かに香木に似た匂いがする。
それから、青年は毎度のごとく、ブルーマウンテン家の嫡子に大変な無礼をはたらいたことに気づくと首まで赤くなった。目上の人物から頼まれごとをした時には、膝を折り相手の手を取って、黙してそれを受けるのが習わしだ。キリマンジャロのように相手に尋ね返したり、自らの解釈で好きに喋るようなことはしない。
彼がぱっと片手で口を覆い、しまったという顔をすると、片腕に寄せられたクベルナの背は小さく揺れた。
「見ていて飽きない、あんたは」
「はっきり子どもだと言ってください。思ったことをぜんぶ口にしてしまうんだもの。待って、ちゃんとやり直しをするから」
絨毯に両膝をついた青年が手のひらに褐色の指を乗せる。ヴァイオリニストの手は右手の人差し指に胼胝(べんち)があった。指の腹は滑らかでやや平たい。爪は白い縁が見えないほどに深く磨がれていた。
人々が皆そうするように、キリマンジャロは黙してクベルナの願いを受けた。若きオーボエ吹きが思い描くシンフォニーエ革新の旅は、ブルーマウンテンと彼の持つストラディヴァリ作の一挺が標べになる他ないと信じている。しかしそれよりも青年は想い人が今の交響楽団でムジカシステマを牽引する文化の権威で在ることも捨て置けなかった。
いつかキリマンジャロは、人々とムジカシステマの為にブルーマウンテンを自分の方へ引き寄せるのを諦めてしまうのだろうか。生熟れのオーボエ奏者は、一度繋いだ手を解く時のことを未だ想像できない。
「キリ、忘れていた。山羊が待ってる」
クベルナに手を引かれ絨毯から立ち上がる。白毛の相棒がポーチからのんびりと鳴き声をあげているのが聞こえた。
窓の向こうでは、地球よりもずっと美しい洛陽の画で空が橙に染まっている。東からの群青と混ざり合う境目は不思議と白く映った。
春の香は光によって育まれた草木や大地から匂い立つものだが、無論そのどれもが本物の太陽を仰ぎ見たことはなかった。ムジカシステマの敷かれた自治区の文化秩序は完全であるが同様に神ではなくヒトが与えたものに過ぎない。美しい貴方もそうしてヒトが造った物、そんな風に思ったらいたたまれなくてもうこの場にいられなくなってしまう。
青年が体を起こし向かい合って立つ勢いで、軽く顔を傾げてブルーマウンテンの唇をぺろっと舌で舐めた。ずっとリードを咥えたままだったから口寂しくなったのかと言って、クベルナの両手がキリマンジャロの耳の後ろを丁寧にくすぐった。
「もっと怒っていいのに」
「煩い山羊のことか」
「違いますよ。ゼミナールでちっともおとなしくできないこと。古楽の時間は台無しにしてばかりだ。 ビー、僕は貴方をがっかりさせている?」
耳から離れた褐色の手は、すぐに青年の横髪を手櫛で整える。ピアノフォルテの上に置かれたままの楽器をちらと一瞥し、片付けを済ませるようにとキリマンジャロに告げた。未だ物言いたげにクベルナを見つめる若者を残して、邸の主は先に部屋を出る。
壁に背を預けたブルーマウンテンは、複雑なうねで膨らんだ髪を粗雑に掻き、それから絹糸をそっと垂らしていくように、音のない嘆息を足下へ落とした。ふと気を緩めると、未だ旅路に見た夢の中にいるようだと漏らしてしまいそうになるからだった。
「落胆どころか、いつも眩しいよ、キリ。……どうかいつか此処も俺も捨てて、あんただけは方舟を降りてくれ」
〈了〉
碧に浮かぶ一葉の艇 丹路槇 @niro_maki
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