第4話 森山緑
後日、退院になった灯は、妹の蛍を連れて、病院を後にした。
大人の足でも二時間かかる距離を二人は歩いていた。
火事によって棲家(すみか)が無くなった四人は、親戚の家に身を寄せる事になった。
先を行く灯の後をトコトコと、蛍が一生懸命ついて行く。
あまり距離を開けて、置いて行ったりしないように、灯は蛍の様子を確認しつつ、スピードを調整しながら、なるべく歩幅(ほはば)を合わせて、一緒に歩いていた。
『ねえ、にいたん』
蛍が話しかけた。
『ん?何だ?』
穏やかな声で灯は訊ねた。
『おひるのごはん、なあに?』
蛍が知ってる単語で言葉を紡いだ(つむいだ)。
『ママがラーメン作って待ってるって』
それを聞いて、蛍は嬉しそうに燥いだ(はしゃいだ)。
『やったあ、らーめんだあ』
その様子を見て、灯も小さく笑った。
それから少し歩くと、また、蛍は兄を呼んだ。
『ねえねえ、にいたん』
灯が振り返った。
『ん?何かな?』
また、一生懸命、蛍が言葉を並べた。
『ほたる、いつ、ようちえん、いくの?』
柔らかな声で灯は答えた。
『来週からだ』
聞き慣れない単語に、蛍は首を傾げ(かしげ)た。
『らいしゅう?』
それを感じとった灯は、言い直した。
『あと四回お日様が出て来たら、行けるよ』
灯の言葉に、蛍は嬉しくなった。
『わーい、わーい、ようちえん、ようちえん』
スキップをすると、次はクルクル回って、同じ言葉を繰り返した(くりかえした)。
追い越された灯は、早足で蛍の後をついて行った。
『そう言えば、この間の幼稚園は何して遊んだのかな?』
思い出したように、灯は聞いた。
楽しそうに蛍は答えて行った。
『えっとね、おにごっこでしょ、かくれんぼでしょ、いろおにに、おすなあそび、ねんどにおりがみ』
指折り数えながら、一つ一つ、思い出して行った。
『それから、おうたもうたったの』
月並みな質問を灯は口にした。
『そうか、楽しかったか?』
元気のいい声で、蛍は答えた。
『うん、とっても』
そんな会話をしているうちに、いつの間にか、坂の下まで来ていた。
『ママの作ったお弁当、ちゃんと好き嫌いしないで、全部食べたか?』
こんな質問にも元気よく、蛍は答えた。
『うん、だって、みんなおいしかったもん』
それを聞いて、灯は言葉を返した。
『そうか、よかったな』
蛍も灯の真似(まね)をした。
『うん、よかった、よかった』
二人で喋っていた、その時だった。
『どいて、どいてー!』
そう、声がして、建ち並ぶビル群の物影から、何かが飛び出して来た。
ドンっと音がして、それは、灯とぶつかって、二人は互いに尻餅(しりもち)をついた。
『っ痛(って)ー……』
灯が言って、思わず、ぶつかった相手を見た。
『痛(た)たたた……』
そう声がした。
よく見ると、少女だった。
年は灯と同じくらいだろう。
『ごめんなさい、大丈夫ですか?』
少女は立ち上がって、制服であるスカートの裾を払い、灯に手を差し伸べた。
『ええ、こちらこそ、すみません』
灯が少女の手を掴んで立ち上がった。
『いえ、そんな、巻き添えにさせたのは、こちらの方……』
少女が喋っている途中で、肩を震わせた。
何かに対して、動揺しているようだ。
『ワンワンとか、ニャンニャンとかのこえがする』
不思議そうに蛍が、兄に報告した。
『とかって、他にも聞こえるのか?』
灯の言葉に頷いた。
『うん』
続けて灯は訊ねた。
『どんな声だ?』
蛍は答えた。
『えっとねー、ブーブーとか、モーモーとかのこえもする』
蛍の言葉を聞けば聞く程(ほど)、少女の顔がみるみる青褪めて(あおざめ)て行く。
『マズい、こうしちゃいられないわ』
小声で独り言のように呟くと、赤里兄妹(きょうだい)に声をかけた。
『あの、私、もうそろそろ、行きますね、先を急ぐんで』
妹同様、灯はキョトンとしているが、承知した。
『?そうですか?分かりました』
灯の言葉を聞いた少女は、別れを告げた。
『それではこれで失礼します、本当にすみませんでした』
一礼すると、全力疾走であろう速さで、走り出した。
『あ、お気をつけて
遠ざかって行く少女の背中に、灯は山彦(やまびこ)を叫ぶ時のように、手でメガホンを作って、声をかけた。
少女がいなくなった後(あと)、蛍が灯に話しかけた。
『いっちゃったね』
蛍の言葉を聞いた灯は言葉で頷いた。
『ああ、そうだな』
すると、衝撃の質問が、蛍の口から出た。
『あのおねーたん、にいたんのかのじょ?』
思いがけない質問に、灯がずっこけた。
なんとか、立ち直ると、蛍が続いて聞いた。
『どーしたの?』
二つの質問に、灯は続けて答えた。
『いや、なんでもない、それよりも、違うよ、
あの人は今、会ったのが初めてだよ』
灯の答えに納得が行かないのか、更に蛍は質問した。
『ほんとーに?』
突き刺さるような、妹の視線にたじろぎながらも、兄としての威厳を保ち、なんとか堪えて(こらえて)、答えた。
『う……って、本当も何も、今、見てただろ』
訝りながらも、さっきの出来事と一致する証言を聞いて、蛍は渋々といった感じで、納得した。
『ふーん』
《確かに、ちょっと可愛いかったけど》
蛍に気づかれないように、心の中でそう思った。
灯が話をすり替えた。
『さあ、この話はこれでお終い(おしまい)にして、帰ろう、ママがラーメン作って待ってる』
言われて、蛍はハッとした。
『そうだった、らーめん、らーめん』
急かすように、繰り返した。
今の今まで忘れてたらしい。
『じゃあ、パパが車で待ってるから、駅に行こうか』
拳を高く掲げて、元気よく蛍が、灯の言葉に返事した。
『おー!』
その時だった。
ワンワン
ニャーオ
ブーブー
モー
カアカア
何やら、道が騒がしい。
さっきの少女が走って来た方角から、聞こえて来る。
兄妹はその方向を見た。
灯は目を見開いた。
何かが集まって、列を成し、段々とこちらに近付いて来ている。
灯も蛍も、目を凝らした(こらした)。
姿がはっきりと見えた瞬間、灯は衝撃を受けた。
動物だった。
しかも、数匹だけではない。
物凄い(ものすごい)数の軍団が、道路を占領して、走って来ている。
『うわあ、どうぶつさんたちがいっぱい』
嬉しそうに蛍が言葉を述べた。
『危ない!』
灯は蛍を抱き上げて、ビルの物影に隠れた。
競争のような行進は、それに目もくれず、通り過ぎて行った。
数々の鳴き声が、少しずつ遠ざかって行き、やがて、聞こえなくなった。
物影からそっと、外を覗き込むと、動物達の姿はなかった。
『行ったようだな』
灯はホッとして、蛍を降ろすと、ビルに背中を預け、寄りかかり、大きく息を吐いた。
灯は先程(さきほど)の少女の事を思い出した。
恐らく(おそらく)、あれから逃げて来たのだと推測し、一人で納得した。
蛍はキョトンとしていたが、すぐに直り、灯を急かした。
『ねえー、はやく、えきにいって、かえろうよー、ほたる、らーめん食べたいよ』
灯が言葉で頷いた。
『そうだな、じゃあ、行こうか』
灯の言葉に、蛍は元気よく返事をした。
『はーい』
二人はしりとりをしながら、駅まで歩いた。
バス停近くの駐車場に、見覚えのある車が停まって(とまって)いた。
二人は迷わず、赤と青に挟まれた、黄色い車に乗り込んだ。
家に向かって、車は発進した。
※
『いやあああ、誰か助けてえええ~!!』
悲鳴を上げ、叫びながら、一人の少女が逃げまわっていた。
逃げても逃げても追いかけて来る、動物達の軍勢から。
ワンワン
ニャーオ
ブーブー
モー
カアカア
複雑に入り組んだ、ビルの集合地帯によって出来た通路に逃げ込み、まるで迷路のような間の道を右往左往しながら、あちこちに進んで行く。
少女は一生懸命逃げているが、動物達はなんだか、楽しそうだ。
そして、そのまま路地裏に入った。
しかし、その先にはブロック塀が立ちはだかり、そこで、道は途切れていた。
少女が後ろを振り返ると、動物軍団が追いついていた。
《もうダメ……!》
そう思って、きつく目を閉じた。
その時だった。
料理の匂い(におい)がした。
玉葱(たまねぎ)やコンソメを煮込んでいるような、甘い匂いだった。
匂いに鼻を擽られた(くすぐられた)動物達は、釣られてクルリと向きを変えると、そのまま、匂いのするであろう方向へと、行ってしまった。
一人、残った少女はペタンと、膝(ひざ)から崩れ落ち、その場に座り込んだ。
《た……助かった……》
心の中で、そう思うと、大きく息を吐いた。
※
チャイムが放課後の合図を知らせた。
部活や委員会、自習などで残らない者達が、何人か、仲間とつるんで、すれ違う生徒や教師と別れの挨拶を交わしながら、帰って行っていた。
中には一人の時間を味わいながら帰る者もいた。
少女も、その一人だった。
帰り道。
少女はトボトボと歩きながら、大きな溜め息をついた。
《つくんなら、もっとマシな嘘をつけ》
あの後、全力疾走で学校に戻ったが、授業はもう既に(すでに)始まっていた。
《すみません、色んな動物達に追いかけられて、逃げまわっていたら、遅くなりました》
正直に遅刻の理由を述べたら、前述の通りに教師から叱られ、教室では爆笑が起こった。
少女はその事を思い出すと、再び大きな溜め息をついた。
《動物軍団に追いかけまわされるわ、それで授業に遅刻して、先生に叱られるわ、教室のみんなに笑われるわ、散々(さんざん)な一日だったな》
気晴らしにカラオケでも行こうかと思った、その時だった。
ジャリ、と、校庭の土が鳴る音がした。
ハッとして、顔を上げると、いた。
自分の目の前に。
今、会いたくないナンバーワンの、動物軍団が。
『何だ、何だ?』
生徒の一人が喋った。
『動物がいるぞ、しかも、あんなに』
また、別の生徒が言った。
他の生徒達も気づいたらしく、校庭中の生徒達が騒ぎ出した。
《しまった!》
大変な事態を引き起こしてしまったと、少女はその場にいづらくなり、二、三歩下がって、助走をつけると、動物達を突っ切って、全力疾走で逃げ出した。
また、動物軍団との追いかけっこが始まった。
※
バンッと、音がして、一件の家のドアが、勢いよく開いた。
素早く、少女が入って来て、ドアを閉めた。
疲れた身体を預けると同時に、背中でドアが開くのを防いだ。
動物達が去ったのを悟ると、少女は大きく息を吐いた。
《何なのよ、もうっ》
動物達と格闘すること、約四十五分。
また、なんとか、少女は逃げきった。
『お帰り、遅かったわね』
リビングから、母親の声がしたが、耳を傾ける事も無く、二階に上がって行った。
勢いよく閉まる、ドアの音が聞こえた。
部屋に入り、スクールバッグを学習机の椅子(いす)の側(そば)に置くと、制服を着替えもせず、ベッドにダイブした。
分からない。
何故、自分にだけ、こんな事が起こるのか。
『ひょっとして、神様の仕業とか?』
寝返りをうって、独り言を口にしてみた。
いやいやと、頭(かぶり)を振り、言った言葉を否定した。
『まさか、そんなわけ無いか』
自虐的に笑って言った。
〈ええ、そうですよ〉
天井から、声が降って来たように、聞こえた。
《え……?》
少女はベッドから飛び起きた。
『お母さん、何か言った?』
ドアの側で聞こえるくらいの音量で話しかけてみた。
が、返事は無かった。
外の喋ってる声が聞こえたのかと、カーテンと窓を開けて、下を覗き込んだが、誰もいなかった。
《空耳かしら?》
きっとそうだと判断し、少女は制服を着替えた。
気分を変えようと、数学の教科書とノートをスクールバッグから取り出し、今日出された課題のページを開くと、問題を解き始めた。
〈選ばれし者よ、目覚めなさい……明日の美術の時間、荒野山(こうやさん)で会いましょう〉
この時、少女は問題を解く事に夢中で、また、声がしたのに、気付かなかった。
ーーーその夜。
少女は不思議な夢を見た。
まだ、幼い頃の少女が、小鳥と話をしている。
『ぶどうはおいしい?』
頭(あたま)に直接語りかけるように、小鳥は言った。
『うん、とっても』
それを聞いて、少女は嬉しそうに言葉で返した。
『たくさんあるから、いっぱいたべてね』
小鳥と一緒に歌っていると、他の動物達も集まって、みんなで歌った。
少女は動物が大好きだった。
けど、ある時、同じ幼稚園の男の子が言った。
『どうぶつとはなせるなんてへんなやつ、きもちわるい』
男の子の言葉に、少女はショックを受けた。
『え……』
その日を境に、少女に対するみんなの態度は変わっていった。
『きょう、なにしてあそぼっか』
幼稚園の教室で、自由時間に女の子達が話をしていた。
『ゆき、おままごとがいいな』
ユキが提案した。
『おままごと?やるやる』
別な女の子が言った。
『わたしも』
他の女の子達もそれに続いた。
『わたしも』
みんなが口々に、ままごとに賛成した。
『じゃあ、おままごとにしよっか』
最初に誘った女の子が言った。
『うん』
女の子達がそれぞれ頷いた。
『きまりね、それじゃ、あそぼ』
女の子達が楽しそうに、遊ぶ内容を決めていると、少女がやって来て、声をかけた。
『おままごとするの?みどりもいれて』
緑の言葉を聞いて、さっきまで仲良く話をしていたのに、女の子達が、場の雰囲気を白け(しらけ)させてしまった。
仲間に入れる入れない、以前に女の子の一人が言った。
『いこう』
別の女の子が言った。
『うん』
ユキも同意を述べた。
『あっちであそぼ』
他の女の子達もそれに従うように、ぞろぞろと、みんなでその場を離れて行った。
みんな仲良くしてくれなくなった。
子供達の親や、他の大人達も気味悪く思うようになり、緑を避けて(さけて)は、ヒソヒソと影で話し、冷たい目で見るようになった。
緑は一人ぼっちになった。
動物と話をしたら、友達がいなくなった。
動物と話が出来るのはいけない事なんだ。
子供心にそう悟った緑は、動物と話すのを止めた。
《どうぶつとおはなしをしたせいで……どうぶつなんか、だいっきらいだ……!》
それからは、動物と関わる事無く、緑は育って行った。
気味悪がる者はいなくなったが、緑は学校に上がっても、友達を作る気にはなれなかった。
その頃(ころ)には、動物の声を聞く事さえ、出来なくなっていた。
今、緑が見ていたのは、夢ではなく、昔の記憶だった。
〈……り〉
〈緑〉
〈緑ー、起きなさーい〉
〈緑ー!起きなさーい、遅刻するわよー!〉
《……え?もう、そんな時間?》
母親の声に起こされて、緑は飛び起き、スマートフォンで時間を見た。
慌てて着替え、髪をセットすると、スクールバッグを掴んで、母親の待つ、キッチンへと階段を降りて行った。
朝食を済ませ、母親に挨拶をすると、玄関でスリッパから、ローファーに履き替え、ドアの取っ手に手を掛け、一呼吸してから、外に出た。
本日最初の追いかけっこが、始まった。
※
なんとか逃げきったが、遅刻ギリギリで学校に着いた。
クラスメート達の喧噪の中、緑は昨日聞こえた声の事を、ぼんやりと考えた。
優しい女性の声だった。
〝神様の仕業か〟と言ったら、〝ええ、そうですよ〟と返って来た。
空耳だと思っていたが、まさか、本当に?
だとしたら、一体誰なのだろう。
〈美術の時間になれば分かりますよ〉
また、聞こえた。
空耳なんかじゃ、なかった。
《美術の時間……》
緑は黒板の横に張ってある、時間割り表を見た。
美術は、二時間目だった。
謎の声が伝えて来たメッセージを気にしつつも、緑は他のみんなと同じように、朝読書の本を準備した。
用意した本は、芥川龍之介の【蜘蛛(くも)の糸・杜子春(とししゅん)】。
蜘蛛の糸はお釈迦様(おしゃかさま)が、罪を犯して(おかして)地獄に落ちた、カンダタという男を、蜘蛛を助けたと言う善行によって見直し、蜘蛛の糸を垂らして、助けようとする話で、杜子春は、杜子春という、道楽をしていた男が、不思議な力を持った、目の悪い老人と出会い、弟子入りする話だ。
【蜘蛛の糸】を読み終えて、【杜子春】は三分の一まで読み進めた所で、チャイムが鳴った。
担任の教師が教室に入って来て、朝のホームルームがスタートした。
一時間目は歴史だった。
担当の教師に言われて、指定された教科書とノートのページを開いた。
教師が言葉で解説を交えながら、黒板にいろんな色のチョークを使って、書いていく。
クラスメート達がみんな、教師と黒板に向き合って集中する中で、緑は謎の声と、そのメッセージの事が気になり、授業が手に着かないでいた。
《気にしちゃダメ、授業に集中、集中》
頭(かぶり)を振った。
《気になるって言えば、あの男の子、どうしたんだろう?》
ぼんやりと、灯の事を考え出した。
《大丈夫だったかな、怪我(けが)しなかったかな、あの女の子連れて、無事にお家(おうち)に帰れたかな》
『ーーーこれが、黒船事件と呼ばれる、ペリーの来航でーーーん?』
《私と動物軍団との逃走劇に巻き込まれたのに怒らなかったし、こちらが悪いのに謝ってくれたし、良い(いい)人だったな》
『……ま、森山』
灯の事を考えるのに夢中になっていて、教師が呼んだのに、緑は気がつかなかった。
《こう思うのは、失礼かもしれないけど、顔に似合わず、優しい人なのね》
『森山、森山』
続けて教師は呼んでみたが、気づいていない。
《ルックス好みだったし、わりとタイプかも、なんてね》
思わず顔がニヤけた。
『森山、おい、コラ!』
しびれを切らしたらしく、教師が強い声で緑を呼んだ。
緑の肩が跳ね上がった。
『あ、はい!』
三回目の呼びかけで、ようやく緑は返事をした。
『今の授業、本当に聞いていたって言うんなら、何年何月何日にペリーが浦賀に来たのか、言ってみろ』
慌てて返事をすると、緑は教科書に書かれていた文字を目で追った。
『は、はい!えっと、えっと……』
《ペリー、ペリー、何処(どこ)にあんのよ!?》
急いでページをパラパラと捲る(めくる)が、焦れば焦るほど、目当ての文章は見つからない。
『先生、すみません、分かりません、聞いてませんでした』
緑は下を向いて、正直に白状した。
教師は自分を宥め(なだめ)るように、一呼吸おくと、抑えた声で、緑に言った。
『一八五三年の七月八日だ、ちゃんと聞いておかないと、授業について行けなくなるぞ、後で困るのは自分だからな、みんなも分かったな』
緑のとばっちりを、クラスメート達全員が喰らった。
緑が、いや、性格には緑〝達〟が叱られた後、教師は、もう半ページほど教科書を進めた。
と、此処(ここ)でチャイムが鳴り、今の授業のタイムリミットを知らせた。
『ようし、それじゃあ、今日は此処まで、次の美術は外に出かけて、写生だそうだから、始まる前に準備をして、校庭に集合するように』
日直が号令をかけた。
『起立、礼』
合わせて動いた後、全員で教師に挨拶をした。
「ありがとうございました」
教師が出て行った後、一気に教室中が騒がしくなった。
みんな、外に出るのが楽しみなようだ。
ただ一人、緑を除いて。
緑は、先程(さきほど)、教師が言った言葉を、反芻させた。
《『次の美術は外に出かけて、写生だそうだから、始まる前に準備をして、校庭に集合するように』》
『嫌な予感……』
一人青くなって、独り言を言うと、大きく溜め息をついた。
※
ワラワラと、校庭に生徒達が集まって来た。
緑もトイレを済ませ、絵の具とバケツに、パレットや絵筆、鉛筆にスケッチブックを持って、重い足取りで渋々、校庭に集合した。
動物軍団に襲われるという不安があるが、謎の声とメッセージの事が知りたいと思ったからだ。
『全員、整列』
日直の号令で、バラバラに乱れていた列が綺麗(きれい)に並んだ。
チャイムが鳴って、授業は、緑にとって、問題の美術に突入した。
《いよいよ、謎が解けるのね》
緑は緊張して、ゴクリと唾を呑み込んだ。
担当教師が現れて、点呼を取り、人数を確認をした。
『全員いますね、いない人はいませんね?』
生徒達からの元気な返事を聞くと、大きく頷いて、移動についての、説明を行った(おこなった)。
『それでは今から二手に分かれて、バスに乗って、荒野山に行きます、一、二班の人は右のバス、三、四班の人は左のバスに乗って下さい』
担当教師の指示に従って、五十人いたクラスは、二十五人が二組(ふたくみ)になった。
緑は二班なので、右のバスに乗った。
バスの座席は縦に一脚ずつ並んでいて、緑達が座っても余る程だった。
こっそりと、でも、賑やかに談笑が行なわれる中で、バスは出発した。
みんながお喋り(おしゃべり)に夢中になっている様子を、緑は聞き耳を立てながら、黙って見ていた。
その内容は、〝昨日の数学分かった?〟とか、〝一昨日(おととい)の歌番組見た?〟とか、〝この間出された課題、やった?〟とか、〝あのお菓子、もう食べた?〟と、言ったような具合いだった。
暫く(しばらく)の間は、耳を傾けていた緑だったが、聞き飽きたらしく、車窓からの景色を、窓を開けないで、眺めた。
木村屋という菓子屋、薬王堂、日本銀行、銀カフェ、ローソン、ホーマック、ファミリーマート、ミスタードーナツにマクドナルド……民家に混じって、立地に大きく構えられた店を、二台のバスが追い抜いて行く。
流れるように去って行く店を見ながら、緑は心の中でその名前を、数え(かぞえ)るように挙げて行った。
そんな遊びで暇を潰していると、ふと、バスに動きがあったのが、感じられた。
荒野山への登り口に入ったのだ。
緩やかな傾斜の坂道を、直進でグングン登って行く。
荒野病院を越えた、更にその上。
そこが荒野山の頂上だ。
全員がバスを降りた。
転ばないよう、気を付けて見ていた、足下から顔を上げると、生徒達は目を見開いた。
辺り一面に緑が広がっていた。
〝わあ!〟とか、〝すげえ……〟とか、生徒達から、感嘆の声が漏れた。
綺麗に五列に並んだ生徒達に、担当教師は言った。
『それでは写生を始めます、自分の好きなもの、興味のあるものを見つけて、被写体をよく見て描きましょうーーーそれでは、開始』
教師の言葉を合図に、生徒達は、散り散り(ちりぢり)になった。
生徒達が、何人かで固まって、同じものを写生している中で、一人で、誰ともつるまず、描いてる者もいた。
緑も、その一人だった。
そして、緑は、迷っていた。
《どうしよう……》
緑は辺りを見回した。
草原に生えてる、植物という植物にはもう、他の生徒達がついてしまっている。
とてもじゃないけど、手を出したくはない。
緑は探した。
被写体となるものを。
《うーんと、何処がいいかな?》
もう一度、首から上を動かして、周りを見た。
《被写体になりそうなもの、被写体になりそうなものっと》
呪文のように、緑は繰り返した。
《他に何処か、被写体に良さそうなものは……》
目当ての被写体が見つからず、困り果ててしまった。
《仕方ない、不本意だけど、諦めて、何処かのグループに入れて貰うか》
そう思い直すと、緑は座り込んだ。
その瞬間、緑の目が大きく見開かれた。
緑の口から、言葉が零れ(こぼれ)た。
『あった……』
緑の視界に、あるものが入った。
それは、森だった。
一気にテンションが、最高潮に達した緑は、道具を持って、森へと向かって行った。
※
森は鬱蒼(うっそう)と、覆い茂っていて、薄暗かった。
しかし、緑の気分はルンルンだった。
『あ、茸(きのこ)』
珍しいものを見つけたかのような発言を、緑はした。
茸の色は、おどろおどろしい赤色をしていた。
今の所、自分以外に、此処を見つけて入って来たものはいない。
いい被写体を見つけたと思った緑は、今がチャンスとばかりに、スケッチブックと鉛筆を、美術セットから取り出して、写生を始めた。
※
下描きを終えて、緑は色塗りを行なっている。
スケッチブックの、鉛筆が通って(とおって)ない場所に、絵の具のついた絵筆で、色が塗られて行く。
緑は作業に没頭した。
トントン。
何者かが、緑の肩を叩いた。
『ちょっと待って、今、これ、済ませちゃうから』
緑が返した。
グルルル。
トントン。
また、何者かが、緑の肩を叩いた。
『はいはい、ちょっと待って』
緑が返した。
グルルル。
トントン。
更に、何者かが、緑の肩を叩いた。
『もうっ、待ってって、さっきからそう言って……!』
緑は言いかけて、息を飲んだ。
非常に驚いた。
今、緑の視界に映ったもの。
それは、熊だった。
『ーーーーーー!』
美術セットを放り投げて、緑は逃げ出した。
熊はその後を追いかけた。
『ハァ、ハァ、ハァ』
息が切れる。
足が痛い。
それでも、恐怖をもたらすものから、逃げる為に。
緑は、走る。
走る。
走る。
森の迷路のような道を、何処をどう、通って来たのか、自分でも分からない程、あちこちに、逃げまくった。
走っていると、森を抜けた。
そのまま、逃げ続けていた。
しかし、次の瞬間、緑はあるものを見て、衝撃を受ける。
《!道が無い》
崖だった。
退路には熊が追いついていた。
追い詰められた緑は、どうせ殺られる(やられる)ならと、崖から飛び降りた。
※
目を開けると、視界に入って来たのは、木だった。
《私、死ななかったんだ》
起き上がると、叢(くさむら)から、ガサガサと、物音がした。
ビクッと緑の肩が跳ねた。
『ひっ』
思わず、木の後ろに隠れ、頭を抱えて、その場に伏せた。
恐る恐る、目を開けて、木の影から覗くと、出て来たのは、うさぎだった。
安心した緑は、大きく息を吐いた。
そして、木の影から出て来た、その時だった。
パンと、強い音がして、うさぎが転がった。
うさぎの様子の異変に気づくと、緑は、うさぎの元に駆け寄った。
うさぎは、頭から血を流して、亡くなっていた。
また、叢が揺れて、ガサガサと音をたてた。
緑はまた、木の影に隠れた。
次に現れたのは、人間の男だった。
再び安心した緑は、木の影から出て来た。
『今のうちにお逃げ下さい、女王様が貴方の命を狙っています』
男が言った。
『はい?』
緑が返事で訊ねた。
『この先に小人が作った小屋がありますから、そこで匿って(かくまって)貰って下さい』
男は続けるように言った。
猟師のような格好をしている。
『さ、早く』
猟師が急き立てた。
『あ、は、はい!』
何の事やらさっぱりと、状況が呑み込めていない緑だったが、自分に何らかの緊急事態が起こっているのだと言う事を咄嗟に悟り、返事をした。
そして、猟師の言う事に従い、走り出した。
※
『ハァ、ハァ、ハァ』
顔にかかる木の枝を手で避け、雑草の伸びた蔓(つる)や蔦(つた)に足を取られたりしながら、緑は走っていた。
『あっ』
木の根元に躓いて(つまずいて)、転んだ。
『ハァ、ハァ、ハァ』
痛くなって来た足を休めるのに丁度いいと、緑は思った。
うつ伏せ(うつぶせ)の状態から、立ち上がろうと顔を上げると、道端(みちばた)に帽子(ぼうし)が落ちているのが見えた。
《なんで、こんな所に帽子が?》
そう、思いつつ、呼吸を整えながら、立ち上がって、帽子を拾い上げた。
すると、風も無いのに、ザワザワと森の木々達がざわめき始めた。
『え?え?』
帽子を握りしめながら、緑は戸惑った。
動揺していると、木の枝が伸びて来て、緑の前で止まった。
『?』
不思議に思って見ていると、枝先で帽子を指すように突付いた。
〝貸してくれ〟とでも言ってるかのようだった。
試しに帽子を渡してみると、森の木は器用に枝先で帽子を広げて、緑に被せた(かぶせた)。
〈どうだい?聞こえるかい?〉
そう声がした。
『わっ』
緑が驚いた。
活気の良い(いい)、女性の声だった。
〈あっははは、びっくりした?そりゃそうか〉
愉快そうに笑うと、女性は自分で聞いて、自分で納得した。
『誰?何処にいるの?』
キョロキョロしながら、緑が問いかけた。
〈ちょっとそこで待ってな、今、行くから〉
女性がそう言うと、一本の木が揺れた。
『よっと』
そう、声がしたかと思ったら、揺れた木の枝から、何かが落ちて来た。
と、思ったが、よく見てみると、それは人の姿をしていた。
女性だった。
そして、小さかった。
前言撤回。
何かが〝降りて〟来た。
小さい人は、着地から立ち上がると、二本の指を額(ひたい)に当てて、挨拶をした。
『こんちゃーっす、あたいはドリアードってんだ、一つ、よろしくな』
緑も挨拶を返した。
『あ、これは親切に、どうも、森山緑です、一つ、よろしくお願いします』
ペコリと、頭(あたま)を下げた。
『そんなに畏(かしこ)まらなくていいよ、お互いパートナーになるんだ、仲良くしようぜ』
両手で緑の手を握り、ブンブン振って、握手を交わした。
自分の事をドリアードと呼ぶその女性は、大正ものの映画に出て来そうな、着物と丈の長いスカートの様な衣服を身に着けていた。
『パートナー?』
緑が聞いた。
『なんだい、あんた、女神様から、何も聞いてないのかい……ん?』
ドリアードは話を途中で止めると、何かに気づいたような声を上げた。
『どうか……したんですか?』
緑が訊ねると、ドリアードから、こんな言葉が返って来た。
『チッ……こんな時に』
面白くなさそうに舌打ちをして言った。
『っ!?』
緑の身体に、急にゾクッと寒気が走り、ブルブル震え出した。
ピシ、パキンと、弾け(はじけ)るような音がして、森中(もりじゅう)の草木が凍り(こおり)始めた。
『くそっこうなったら仕方無い、融合するよ』
思いも寄らない、ドリアードの言葉を聞いて、緑は驚きの声を上げた。
『ええっ!?どうやって?』
足下に魔法円を展開すると、ドリアードは答えた。
『とにかく、今は、教えた通りの言葉を唱えな』
緑は承知した。
『わ、分かりました』
緑は言葉を教わり、唱えた。
『アンドルイド装着ーーー融合』
緑の身体を、木の葉が包んだ。
大正時代の着物と袴(はかま)を纏った(まとった)緑が現れた。
緑の頭上を、大きな影が覆ったかと思ったら、地面に影が出来て、見上げると、一頭の大きな竜が地上に降り立った。
『お前か、俺の機嫌を更に損ねた奴は』
エコーがかかってるように、声が聞こえた。
『だっ、誰ですか?』
あまりの圧に怯みながらも、緑は訊ねた。
[リヴァイアサン……この森の外れにある、寒冷の洞穴(どうけつ)の主(ぬし)だよ]
竜について教えると、ドリアードは威嚇(いかく)するように、リヴァイアサンに向けて言葉を放った。
『千年の眠りについた筈のあんたが、此処に何しに来たんだい』
リヴァイアサンは怒鳴った。
『うるさい!異形(いぎょう)の者共(ども)め、勝手に俺の縄張りに入った挙げ句(あげく)、追い出しやがって、それだけじゃねー、その退治に、町の聖職者共め、俺を駆り出しやがって、お陰で眠る暇も無いじゃねーか、その女だって、異形の者に違いねー、此処から追い出してやる』
リヴァイアサンは翼を広げ、咆哮(ほうこう)した。
『違う、緑は、その子は』
ドリアードの言葉を遮って(さえぎって)、リヴァイアサンは更に吠(ほ)えた。
『黙れ!その女ともども、叩き出してくれるわ』
リヴァイアサンは、天を仰いだ(あおいだ)。
森中が、猛烈に吹雪いて、緑を襲撃(しゅうげき)した。
冷たい風が空気を冷やして、更に寒さが増した。
『……っ』
緑達は、リヴァイアサンの攻撃を受け続けた。
《もう駄目……!》
パキパキ、ピシ
音をたてて、足下から順に、緑の身体は凍り始めた。
そして、一体の氷像と化した。
『フン……このまま、動物達の餌にしてくれる』
リヴァイアサンが、片手の掌を上に向けると、菱形(ひしがた)の氷の刃(やいば)が現れた。
『とどめだ』
リヴァイアサンは、氷の刃を放った。
その時だった。
地面が盛り上がり、叢で出来た壁が現れ、氷の刃を打ち砕いた。
『な、何!?』
叢の壁の向こう側から、シュウウウと音がした。
『はー、よかったー、一生あのまま氷漬けなのかと思った』
緑の声も聞こえた。
[今度はこっちの番だね]
緑の中で、ドリアードが言った。
足下に魔法円が現れた。
『樹木よ、緑の力を持って、我が前に立ちはだかる者を食い止めよーーーウッド』
緑が言葉を唱えると、地面が隆起(りゅうき)し、
蔓(つる)や蔦(つた)が飛び出して来て、リヴァイアサンに絡み(からみ)ついた。
そして、身動きが取れないよう、力いっぱい締め付けた。
[今だよ!]
ドリアードが、声を出すと、叢が避けて、真ん中に道が出来た。
緑は首から下げていた御守り(おまもり)を、リヴァイアサンめがけて、投げつけた。
御守りは、炎を纏い(まとい)、燃えながらリヴァイアサンに命中した。
炎は広がり、リヴァイアサンの身体は燃え始めた。
『ギャアアア』
悲鳴を上げると、リヴァイアサンは苦しみながら、天を仰いだ。
空が曇り、雨が降り出した。
雨は、炎の勢いを段々に弱めて行った。
『ぐ……炎使いでもないのに、火が使えるとは、何をした』
疲れ切ったような声で、リヴァイアサンは訊ねた(たずねた)。
[気をつけな、もう戦わないとは、限らない(かぎらない)よ]
ドリアードが忠告した。
『安心しろ、こうなったらもう、戦える身体じゃない、さあ、話せ』
リヴァイアサンの言葉を信じたのか、緑は地面に落ちた、御守りを拾い上げ、見せた。
『これが助けてくれたんです』
それを見た、リヴァイアサンは納得したように、言った。
どうやら、合点(がてん)が行ったようだ。
『フン……人間の作った物が、力を持つとはな』
リヴァイアサンは、そう言うと、緑達に背を向けた。
『俺は、凍らせる事は出来るが、溶かす事は出来ない、森を元に戻したいのなら、小人達の家に行き、小人達に頼んでみるといい』
それを聞いたドリアードが、呼ぶように、リヴァイアサンの名を言った。
[リヴァイアサン……]
『こんな事、頼めた柄(がら)じゃないが、異形(いぎょう)の者どもから、この森を守ってくれ、じゃあな』
リヴァイアサンは、そう話すと、翼を広げて何処かへと、飛び去って行った。
『あ……』
緑が呼び止めようとしたが、一足遅かった。
『ああ、行っちゃった、元気でね、さようならって言おうとしたのに』
緑の中で、ドリアードが言った。
[また、会うかもしれないから、言わなくてよかったんじゃないかい?]
『そうですか?』
[それより、小人の家に行かないと]
ドリアードに言われて、緑はハッとした。
『そうだった、この森を抜けた先にあるんですよね?』
[そうそう、案内するから、言う通りに進みな]
ドリアードの指示に従って、緑は森を進んで行った。
緑の腰くらいまである、草の根をかき分けて行くと、平地に出た。
[最後に此処を右に曲がると、着くよ]
緑は、身体の向きを右に変えると、一軒の家が見えた。
煙突(えんとつ)から、白い煙(けむり)が立ち昇っていた。
家の前まで来ると、緑は足を止めた。
[さあ、着いた、此処が小人達の家だよ]
『此処が小人の家』
緑は、小人達の家をまじまじと見た。
小人達の家と言うだけあって、入り口の大きさは、人間が這って(はって)入れるくらいのものだった。
見慣れない、緑にとっては、一回りも二回りも小さく見えた。
どちらかと言うと、小屋だった。
[それじゃ、中に入ろうか]
『ええ!?そんないきなりで、大丈夫なんですか!?』
慌てたように、緑が言った。
[だって、中に入って、小人達と会わないと、話だって出来ないし]
冷静にドリアードは、言葉を放った。
『う……そ、それは確かに、そうですけど、でも』
緑は躊躇(ちゅうちょ)した。
[あーもー、じれったいね、ただ会って話するだけだろうが、何を躊躇う(ためらう)事がある]
痺れを切らして、ドリアードは緑から離れた。
『いや、だって、話した所で、受け入れて貰えるかどうか』
緑が不安を打ち明けた。
『やってみなきゃ、分かんないだろ、つべこべ言わずに、とっとと話す』
ドリアードはそう言うと、小人達の家のドアをノックした。
『ひえええ』
怯えたような声を、緑は出した。
『誰だ?』
返事が機嫌の悪そうな声で、返って来た。
『あたいだよ、開けてくれ』
ドリアードが答えると、少し、機嫌が和らいだように、声が言った。
『ドリアードか、珍しいな、まあいい、今、開けてやる』
声が止んだかと思った途端に、ドアが少し開いた。
中から小さな老人が、顔を出した。
眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せて、気難しそうな顔をしている。
老人は、緑を見るなり、ドリアードに訊ねた(たずねた)。
『そいつは?』
ドリアードが、大まかに紹介した。
『あたいの宿主さ』
緑は名乗った。
『はじめまして、森山緑です』
緑が一礼すると、ドさリアードは言った。
『それはさておき、さっき、リヴァイアサンと戦って、森が氷漬けになっちまったんだ、力を貸してくれないか』
それを聞いた小人(こびと)は、大きな声を出した。
『何ぃ!?またか!!』
緑が口を出した。
『だ、駄目(だめ)ですか?』
溜め息をついて、小人が言った。
『ハァー、凍っちまったもんはしょうがないからな』
渋々(しぶしぶ)だが、色良(いろよ)い返事を聞いた緑とドリアードは、顔を見合わせて喜んだ。
『そう言ってくれると思ってた、いつも助かるよ、ありがとう』
言ったドリアードに、小人はこう返した。
『礼なら、森の凍結(とうけつ)が解(と)けてからにしてくれ』
ドリアードは引き続き、小人にこんな頼み事をした。
『それと、この娘(こ)を回復させてやっとくれ』
一瞬緑に首を向けたが、また小人の方に向き直った。
小人は確認するように、ドリアードに訊(たず)ねた。
『そいつが元気になるまで家に置けと言うのだな?』
ドリアードは言葉で頷いた。
『ああ、先程(さきほど)一戦(いっせん)交(まじ)えて、体力を消耗(しょうもう)してるんだ、頼むよ』
ドリアードの言葉を聞いて、小人は緑に話し掛けた。
『おい、そこの娘』
いきなり呼ばれた緑は慌てて返事をした。
『は、はい!』
小人は言った。
『他でもないドリアードの頼みだ、長い付き合いのよしみで、此処に暮らさせてやる』
その言葉を聞いて、緑は喜んだ。
『良いんですか!?』
ただし、と前置きをして、付け加えるように小人はこう返した。
『ただでは住まわせられん、此処で暮らす以上はお前さんに、それなりの働きをして貰うぞ、良いな』
小人の言葉を聞くと、自信無さげに緑は言った。
『う……頑張ります』
緑の返事を聞いて、小人はまた口を開いた。
『そうか、それじゃあ、中に入りな』
そう言うと小人はドアの脇(わき)に避けて、スペースを空けた。
ドリアードと一緒に中に通された緑は、眼の前に広がるその光景を見て、あんぐりと口を開けた。
脱ぎっ放(ぱな)しの服、蜘蛛(くも)が巣を張っている壁(かべ)、散らかっているバナナの皮や林檎(りんご)の芯(しん)、肉の骨、丸まっている紙クズ、隣(とな)り合っているキッチンのシンクにはソースが付いたまま洗ってない、食器の山や鍋(なべ)。
生活感が丸出しで満載(まんさい)の証(あかし)がそこら中(じゅう)に現れていた。
『此処で家事をして貰う、これがお前さんの仕事だ』
簡潔に小人が説明した。
(これは大変そうだわ)
『わ……分かりまし……た……』
なんとか言葉を絞り出すように返事をすると、小人は言った。
『それじゃあ、早速仕事に取り掛かって貰おうか、
おーい、みんなー、集まってくれー!』
上を見上げて、そう叫ぶと、二階のロフトから複数人の小人達が、木で出来た梯子(はしご)を使って、下に降りて来た。
集まって来る小人の数を、緑は数(かぞ)えてみた。
(一……二……三……四……五……六……)
六人だった。
自分達と会話をした小人も含めると、全部で七人いると言う事になる。
『呼んだかい?』
集まった小人のうち、緑色の服を着た小人が訊いた。
『ああ』
と、赤い服の小人が答えると、そのまま続けた。
『紹介する、今日からうちの家政婦になる、えーと……』
名前が思い出せず、言葉に詰(つ)まった赤い小人に緑は小声で助け船を出した。
『緑です』
それを聞いた小人は、思い出したように言い、続きを喋り出した。
『そう、ミドリだ、みんな宜(よろ)しくな、じゃあ、ミドリからもみんなに挨拶(あいさつ)をしな』
話を振られた緑は、口を開いた。
『初めまして、緑と言います、至らない所もあるかと思いますが、頑張って行きますので、宜しくお願いします』
挨拶を言い終えると、姿勢を正して頭を深々(ふかぶか)と頭を下げた。
『さて』
と、此処で赤い小人が緑に声を掛けた。
『折角(せっかく)の機会だ、今から仲間達を紹介するから、名前を覚えとけ』
それを聞くと、緑は短く返事をした。
『あ、はい!』
そして、赤い小人は小人達を紹介して行った。
『まず、この黄色くて元気いっぱいなのが〝ファイン〟』
紹介されたファインが挨拶をした。
『宜しく!』
緑の手を両手で握って握手を交わした。
『次に青くて、すましてる眼鏡を掛けているのが、〝ルーク〟』
自分の名前が出て、呼ばれたと思ったらしく、ボソリとルークは言った。
『宜しく……』
挨拶が済むと、視線を読みかけていた本に戻した。
『で、さっき俺と話していた、緑色が〝マイル〟』
爽(さわ)やかに微笑(ほほえ)んでマイルも挨拶を交わした。
『宜しくね』
そう言って差し出された手を緑は握り、握手をした。
『そして、紫色で鏡を見ているナルシストが〝イワン〟』
紹介されると、イワンは緑に跪(ひざまず)き、手の甲に口づけた。
『宜しく、素敵なお嬢さん』
イワンの紳士的な振る舞いに、経験の無かった緑は顔を赤くした。
『いつまで惚けてるんだ、次行くぞ』
赤い小人の言葉に緑は我に返った。
『それから、ピンクを着ていて、サングラスを頭に乗せてるこいつが〝パンク〟』
名前を言われたパンクは戯(おど)けて挨拶をした。
『ちーす、宜しくッス』
パンクが握(にぎ)り拳(こぶし)を掲(かか)げると、緑も同じように拳を構えた。
二人は互いにグータッチを交わした。
『そいでもって、そこで林檎(りんご)齧(かじ)ってるオレンジが〝レオン〟』
口の中にある林檎を咀嚼(そしゃく)しながら、レオンは挨拶をした。
『よろひく』
そして、赤い小人は最後に自分を紹介した。
『そして、この俺が〝アンカレッド〟だ』
立てた親指で自分を指しながら名乗った。
緑は教えられた小人達の名前を振り返った。
『黄色がファインさん、青がルークさん、緑がマイルさん、紫がイワンさん、ピンクがパンクさん、オレンジがレオンさん、そして赤がアンカレッドさん、ですね?』
アンカレッドは言葉で頷くと、こう言った。
『そうだ、それじゃあ早速、頼んだぞ』
言われた緑は訊ねた。
『まず、私は何をすれば良いですか?』
アンカレッドは緑を叱った。
『それを考えるのが、お前の仕事じゃないか』
緑は慌てて返事をした。
『は、はい!』
そして、裸足(はだし)になると、袖(そで)と裾(すそ)を捲(まく)って、家事に取り掛(か)かった。
まず、最初に始めたのは、掃除。
ドアを開けて、溜(た)まった埃(ほこり)を箒(ほうき)で掃(は)いて、外に出すと、バケツに入った石鹸(せっけん)水にたっぷり浸(つ)かったモップで床を磨(みが)く。
次に行(おこ)なったのが、料理。
火の起こし方を教わると、湯を沸(わ)かした鍋の中に刻(きざ)んだ食材や材料を入れる。
更に熱したフライパンに溶(と)いた卵を入れて、塩・胡椒(こしょう)を加えると、フライパンの火を止めた。
鍋の中身が煮える間に、食器を洗い、使うものだけを並べた。
料理の匂いが部屋中に漂(ただよ)った。
『イエーイ、良い匂いだぜ、ベイベー』
パンクが言った。
八等分に切った、焼いた卵を皿に置いて行く。
中皿ぐらいの器に、味つけをしながら煮え立った鍋の中身を入れる。
こうして、今晩の食事が出来上がった。
『これでよし、みなさーん、出来ましたよー』
緑が小人達を呼んだ。
ロフトで思い思いに寛(くつろ)いでいた小人達が、キッチンに降りて来た。
『うわあ、ご飯だー!』
ファインが嬉しそうに声を出した。
今日の献立(こんだて)はオムレツとビーフシチューである。
八人は席に着いた。
『早く食べようよ』
ファインが急(せ)き立てた。
『食べていいかい?』
マイルが緑に聞いた。
『待て』
緑が答える前に、アンカレッドが注意した。
『その前に感謝の祈りを捧げるのが先だろ』
レオンが気づいたように言った。
『おっと、そうだった』
引き続きアンカレッドが喋った。
『それでは自然に生きるもの達に感謝の祈りを込めて』
手を組んで、そう言った。
他の小人達も、アンカレッドに続いて祈りを始めた。
それを見ていた緑も、最初は戸惑ったが、小人達の真似をした。
『よし、食べよう』
アンカレッドの言葉に、他の小人達と緑も、祈りの姿勢を解(と)いた。
小人達は料理をがっつき始めた。
それをまじまじと緑は見ていた。
そんな緑の様子が気になったファインが声を掛けた。
『どうしたの?』
緑は答えた。
『もう、食べて良いのかどうか、迷ってて』
それを聞いたファインが言葉を返した。
『勿論(もちろん)、ミドリも食べなよ』
緑は訊いた。
『え?良いの?』
ファインが他の小人達に振った。
『良いよね、みんな』
小人達が口々に言った。
『ああ』
と、アンカレッド。
『どうぞ』
マイルも返した。
『食べて良い』
ルークが言った。
『食べようぜ!』
パンクも続いた。
『お食べ下さい』
イワンが喋った。
『食べないと僕が貰っちゃうよ』
レオンが返した。
『それじゃあ、お言葉に甘えて』
言うと、緑は手を合わせて、挨拶をした。
『いただきます』
そして、自信が作った手料理を食べ出した。
『ん、美味しい』
そこから、食事を進めていると、刺さるような視線を感じて、緑は手を止めて、顔を上げた。
『どうしました?』
不思議そうな顔で緑が訊ねた。
『いや、ちょっと気になってな』
アンカレッドが返した。
『美味しくなかったですか?』
緑の質問にルークが答えた。
『違う』
少し考えてまた、緑は訊いた。
『おかわりなら、ビーフシチューだったらありますよ?』
今度はマイルから返答が来た。
『そう言う事じゃないよ』
アンカレッドが二人の質問の真意を教えた。
『お前のいた世界では手を合わせて挨拶をするのが決まりなのか?』
どうやらこちらの世界では、食事前に感謝の儀式は存在するが緑が行なった方法は珍しいらしい。
『生命(いのち)を頂くから、〝いただきます〟って言うんです』
手を合わせる由来の教えから詳しく、緑は説明した。
小人達は興味深そうに、緑の話に耳を傾(かたむ)けていた。
『さて、講義はこのくらいにして、続きを食べましょうか』
緑はそう言うとまた、ビーフシチューをスプーンで掬(すく)って、口の中に入れた。
『いただきます』
物(もの)は試しにと言わんばかりに、ファインが先陣を切って、緑が行なったやり方を真似(まね)て、再び料理を食べ出した。
他の六人もファインに続いた。
『それはそうとミドリ』
口の中の物を飲み込んで、アンカレッドが緑に声を掛けた。
『はい』
アンカレッドと同様にして、緑は返事をした。
『明日、凍りづけになった森を溶かしに出かけるから、朝ご飯を作って貰いたい、良いな』
命じるように、アンカレッドは喋った。
『分かりました』
緑は言葉で頷いた。
夕食が終わると、緑は溜(た)まっていた小人達の服を洗濯し、洗い物も行なった。
洗濯物を手作りの物干しに干し終えると、時間に余裕が生まれた。
暇を持て余していた緑はキッチンの食卓の側(そば)に並んでいた八つ(やっつ)ある椅子のうちの一つに腰掛けた。
空(くう)を見つめ、投げ出した足をぶらぶらさせながら、ぼんやりしていると、意識の奥底で誰かが自分を呼んでいる声が聞こえた。
《……どり、緑》
気がつくと、不思議な光の中にいた。
『目覚めましたか?選ばれし者よ』
頭上(ずじょう)から降(ふ)って来るように聞こえた声に、緑はキョロキョロと、首を左右に動かして、辺りを見回した。
『何処を見ているんだい?こっちだよ』
ドリアードの声に誘(いざな)われるようにして、正面を向くと、古代中国の王族を彷彿(ほうふつ)とさせる装(よそお)いの見知らぬ女性が、ドリアードと一緒に立っていた。
『こんにちは』
緑は挨拶をした。
『こんにちは』
女性も柔らかく微笑(ほほえ)んで、挨拶を返した。
『失礼ですが、どちら様ですか?』
緑が質問した。
何故か女性に代わってドリアードが答えた。
『こちらはデメーテル様、この夢の世界の全てを統括(とうかつ)なさっている女神様だ』
ドリアードの紹介が済むと、デメーテルは名乗った。
『初めまして、デメーテルです』
それにつられたのか、緑も自己紹介をした。
『森山緑です』
名乗り終えると、ドリアードがデメーテルを紹介した言葉に疑問を感じた緑は訊いた。
『ん?今、夢の世界って聞いたような……』
デメーテルが答えた。
『ええ、貴方が今いるこの場所は、夢の世界です』
デメーテルの言葉を聞くと、緑は確認するように言葉を口にした。
『って言う事はやっぱり私、生きてるんですね?』
落ち着いた声でデメーテルは答えた。
『ええ、重傷(じゅうしょう)を負って、意識も失ってますが、助かります』
そう聞いて緑は、眼に涙を浮かべて喜んだ。
『よかったー』
そんな緑に、デメーテルは言った。
『助かるその前に、緑、貴方に話しておかなければならない事があります、聞いて下さいますね?』
その声には真剣味(しんけんみ)が宿っていた。
『え?あ、はい』
不思議そうな顔をして、緑は頷いた。
デメーテルは、この世界を魔王が支配しつつある事、夢生魔と呼ばれる魔王の支配下(しはいか)に置ける怪物(モンスター)達が侵略を行なっている事、襲撃を止める為(ため)には魔王や怪物を倒さなければならない事、それにはデメーテルの力では足りず、選ばれし九(ここの)つの力が必要である事等(など)を説明した。
緑は相槌(あいづち)を打ちながら、デメーテルの話を聞いていた。
最初こそ不思議がっていたが、話を聞いてるうちに、段々(だんだん)顔つきが真剣なものになって行った。
『つまり、魔王達を倒す力の一つを私が持っていて、他にもその力を持つ人達が後八人いて、探し出して一緒に戦う必要がある、と、言う事ですか?』
デメーテルは頷(うなず)いた。
『ええ、そうです』
緑は言った。
『分かりました、その使命、引き受けさせて頂きます』
それを聞いて、デメーテルは返した。
『ありがとう、そう言って貰えると、助かります』
ドリアードが割って入った。
『本当に良いのかい?』
緑は答えた。
『はい、袖(そで)擦(す)り合うも多生(たしょう)の縁って言いますし、折角(せっかく)授かった力なんですから、使わなきゃ勿体(もったい)無いです』
ドリアードも緑の言葉を聞いて、受け入れた。
『そうかい、分かった、ありがとよ』
謝礼の言葉の後に、こう続けた。
『でも、その前に、戦うにはまず、身体(からだ)を回復させて、元気にならないとね』
緑は頷いた。
『ええ』
次の瞬間。
〈……リ、……ドリ、……ミドリ〉
声が聞こえた。
〈ミドリ〉
誰かが呼んでいる。
『?』
緑は考えた。
聞き覚えのある声だった。
その様子を見て、デメーテルが言った。
『呼ばれているようですね、さあ、お帰りなさい』
光が強くなって、緑の眼を眩(くら)ませた。
『改めて宜(よろ)しくな』
ドリアードの言葉に最後に言い放つと、緑の意識は遠退(の)いて行った。
『はい、宜しくお願いしまーす』
誰かに身体を揺さぶられて、呼びかけられた。
『ミドリ、ミドリったら!』
叱るような強調された声に、緑は気がついた。
『え?』
マイルだった。
『どうしたの?ぼんやりして、大丈夫?』
心配そうに緑へ声を掛けた。
『え、ええ、ごめんなさい、時間に余裕が出来たから、つい、のんびりしてしまいました』
答えると、緑は訊(たず)ね返した。
『それで、何かご用事ですか?』
マイルは答えた。
『うん、もう寝るから、おやすみを言おうと思って』
呑気な言葉を緑は口にした。
『あれ?もう、そんな時間ですか?』
緑はキョロキョロと辺りを見回して、時計を探した。
振り子付きの時計台を見つけると、英数字の文字盤で時刻は九時を差していた。
オホンと、咳払いが聞こえて振り向くと、小人達が緑と向き合うように、縦一列に並んでいた。
口々に、緑へおやすみを言うと、小人達はロフトに置いているベッドに向かった。
緑も一人一人に、おやすみを返して行った。
ベッドも掛けるものもなかった緑は、どうしたものかと思案を巡らせたが、良い考えは浮かばず、結局壁に寄り掛かって寝る事にした。
寝る前にドリアードに、夜明けになったら起こすように頼んだ。
背中を壁に預けると、緑は蝋燭(ろうそく)の火を吹き消した。
足を投げ出した、楽な姿勢で緑は眠りについた。
〈……どり、……緑〉
自分を呼ぶ声が聞こえた。
女性の声だった。
『緑、緑、起きて』
その声に誘(いざな)われて、緑は重たい瞼(まぶた)を開けた。
視界にドリアードの姿が映った。
『あ、ドリアード、さん……どうしたんですか?』
眠さが残っている声で、緑は話し掛(か)けた。
叱りつけるようにドリアードは喋った。
『どうしたんですかじゃないよ、夜が明けたら起こせって、あんたが言ったんじゃないか』
この言葉を聞いて、緑は完全に眼が覚めた。
『ハッ、そうだった』
緑は立ち上がると、キッチンに入った。
鍋(なべ)を取り出すと、水を入れて、火にかけた。
フライパンも鍋の隣りに置くと、卵を割(わ)って掻(か)き混(ま)ぜずに、直接焼き始めた。
食材を刻(きざ)んでいると、鍋が沸(わ)いた。
火の加減を気にしながら、刻み終(お)えた具材を鍋の中に入れた。
調味料を入れてひと煮立ち。
小皿にお玉で掬った中身を入れて、味を確かめる。
『うん、美味しい』
料理の匂いが、家中に漂い始めた。
匂いは鼻に届き、眠っていた小人達が起き出した。
食器を並べて、料理を盛り付けて行く。
階段を降りて来た小人達が、次から次へと緑に朝の挨拶をして行った。
そんな中、ファインが声を掛けた。
『ねえ、今日の朝ご飯、何?』
緑が答えた。
『シチューと、目玉焼きです、出来てますよ』
言われてファインは食卓に並べられた朝食を見た。
『うわあ、美味しそう』
舌舐〈な〉めずりをして言った。
ファインを追い越すようにして、他の小人達は次々に席へと着いて行った。
それを見たファインも、慌てて空いてる席に着いた。
最後に緑が食卓に座ると、小人達は人形のように固まって動かなくなった。
『?』
その行動に異変を感じた緑は、小人達に訊ねた。
『あれ?皆(みな)さん、どうされたんですか?感謝の祈りは?』
マイルが答えた。
『今日からミドリの方法でやろうと思って、だから、挨拶はミドリが言って?』
緑が眼を丸くして言った。
『私が?』
自分を指さす緑に、イワンが急(せ)かした。
『早く、食事が冷めちゃう』
小人達(たち)の意見に緑は従(したが)った。
『う……それじゃあ、いただきます』
手を合わせて、挨拶を述べた。
「いただきます」
小人達も緑に続いた。
他の小人達がシチューにがっつく中、マイルが口を開いた。
『それで、今日の予定なんだけどね』
緑は頭の中に?が浮かび上がり、疑問を口にした。
『予定、ですか、何で私に?』
自分達の時間の過ごし方など何故、部外者の人間に話す必要があるのだろう。
『うん、その事なんだけどね』
噛み砕いて説明するように、マイルは続けた。
『昨日(きのう)、リヴァイアサンと戦ったんでしょ?それで凍った森を溶かして、元通りにする為(ため)に、儀式を行(おこ)なうから、ミドリさえ良ければ案内をして欲しいんだけど、どうかなと思って』
マイルの言葉を聞いて、緑は納得した。
『ああ、それで』
アンカレッドが話に混ざるように、訊ねた。
『で、どうするんだ?一緒に行くのか?』
緑は遠慮がちに答えた。
『皆さんさえ良ければ』
その答えを聞いて、ファインも話に入って来た。
『勿論(もちろん)、一緒に行こうよ』
緑は他の小人達を見て、訊ねた。
『いいですか?ついて行っても』
小人達は各々(おのおの)に頷いた。
『ありがとうございます』
その反応を見て、緑は嬉しくなって、喜んで礼を述べた。
『どう致(いた)しまして』
イワンが返した。
『ミドリも早く食べなよ、美味しいから、食べないと僕が取っちゃうよ?』
レオンが急(せ)き立てた。
『そうだった、た、食べる、食べます』
三口(みくち)ぐらい連続で、シチューをスプーンで掬って、口に運んだ。
『俺達も午前中は仕事に行って来るから、魔法の儀式は午後から取り行なう予定だ、その間、ミドリには家事と買い出しと昼食(ちゅうしょく)作りを頼みたい、良いか?』
アンカレッドが食べた物を飲み込みながら、緑に指示を出すように、喋った。
『あ、は、はい!』
一度に沢山(たくさん)の仕事を頼まれた緑は、頭の中で内容の理解を急いだ為(ため)に、返事を慌ててしてしまった。
朝食を食べ終わると、小人達はシャベルやツルハシ等(など)、工事や発掘現場で使うような道具を担ぎ上げて、仕事に出かける準備を整えた。
『良いかい?僕達が出かけている間は、家の中に誰も入れちゃいけないよ、それから出かける時は戸締(とじ)まりをしっかりね、後(あと)、真っ直ぐ(まっすぐ)帰って来る事』
マイルの忠告に、緑は頷いた。
『分かりました、行ってらっしゃい』
初めて聞いた挨拶だったらしく、ファインが言った。
『見送る時もそう言うんだね』
緑は返した。
『ええ、気を付けて行ってらっしゃい』
その言葉に小人達も挨拶を言った。
『行って来ます』
小人達を見送ると、緑は家事を行なった。
洗い物、洗濯、掃除と、順調に片付けて行った。
それが終わると、買い物籠(かご)とお金が入った巾着(きんちゃく)を持って、家を出た。
鍵(かぎ)を掛(か)けて、戸締まりを確認すると、緑は道を歩き出した。
歌を歌いながら足を進めて行った。
『ある日、森の中、熊(くま)さんに出会った』
歩いていると、緑はその足を止めた。
轟(とどろ)くような轟音(ごうおん)が聞こえたからだった。
(?何の音かしら?)
どの道、緑は前を行くしか無かった。
だから、その正体を突き止める為にも、先を進んで行った。
歩いている間〈あいだ〉にも、轟音は鳴り続けた。
『熊さんの、言う事にゃ、』
ふと、急に頭上が翳(かげ)り、緑は歌と足を止めた。
見上げると、大きな岩が道を塞(ふさ)いでいた。
歩いていた時よりも、一番強く、轟音が聞こえた。
どうやら、此処(ここ)から鳴っているらしい。
(?どうしてこんな所に岩があるの?って言うか、なんで岩が鳴っているの?)
湧(わ)き上がってきた疑問を一人で考えていると、ドリアードが緑に声を掛けた。
『どうしたんだい?緑』
緑は答えた。
『此処に岩があって、通れないんです』
その言葉を聞くと、ドリアードは少し驚いたように言った。
『岩だって?変だねえ』
ドリアードは緑の言う〝岩〟らしきものに近づくと、その体に触(ふ)れた。
『?』
触った部分が凹(へこ)んだ。
フワフワしていて、柔らかかった。
『これ、岩じゃないねえ』
まさかの様子と返答に、緑は驚いて眼を見開いた。
『それじゃあ、一体、何なんですか?』
そう、ドリアードに訊(たず)ねた。
『う〜ん、何だったかねえ、この音にこの感触、身に覚えがある気がするんだけど』
ドリアードは記憶を辿り、考え出した。
そんなドリアードの調べ方(かた)に興味を抱(いだ)いたらしく、緑も触(さわ)ってその触感を感じた。
ふんわりしていて、温かだった。
『気持ち良い、動物の毛並みみたい』
動物達(たち)と仲が良かった、幼(おさな)い頃(ころ)を思い出して、緑が言った。
(動物……?)
ドリアードは、緑の言葉に、何か引っ掛かるものを感じた。
ふいに、緑が先程(さきほど)歌っていた歌が頭を過(よ)ぎった。
頭の中に浮かんでいた、全ての情報が一つになった。
『あ……』
一つの答えに行き着いた、ドリアードは強い声で緑に話し掛けた。
『緑、それ以上触っては駄目(だめ)、早くそいつから離れて!』
緑はキョトンとして、短く返した。
『え……?』
ドリアードは更に言った。
『早く、起きちゃう前に、逃げて!』
緑が返した。
『?どう言う事ですか?』
意図を訊ねて、動こうとしない緑にドリアードは苛立った。
『何でもいいから、早く離れて、早くしないと、』
言いかけた途中で、ああ、と、ドリアードは声を上げた。
緑の姿が薄くなり、半透明になった。
痺(しび)れを切らしたドリアードは、声を張り上げた。
『だーもう!だから、それは岩じゃなくて、熊だよ、起きないうちに、早いとこ逃げないと、』
言いかけた、その時だった。
『うーん』
野太(のぶと)い声がした。
二人は熊を見た。
もぞもぞと動いて、身体の向きを変えると、熊は寝返りを打った。
そして、再び寝入ってしまった。
その様子を見て、ドリアードは安心して、ホッと溜め息をついた。
『どうやら、この音は揖斐(いびき)のようだね』
と、言って、緑に教えた。
『揖斐!?これが!?』
緑は驚きのあまり、大きな声を上げた。
ドリアードが飛んで来て、緑の口を押さえた。
『むぐっ』
緑から声が漏(も)れた。
『大声出さないでおくれ、起きちゃうじゃないか』
自分の事を棚に上げて、ドリアードが緑を注意した。
『でも、これじゃあ、通れませんよ?どうするんです?』
緑に訊かれて、ドリアードは言葉を返しながら考えた。
『う〜ん、そうだねえ……仕方無い、回り道を迂回(うかい)して行くしか無いね』
緑は訊ねた。
『回り道って言っても、此処(ここ)からは水路ですよ?通れそうな道なんて、何処にも……』
そう言われると、ドリアードは眼光(がんこう)を光らせて、不敵に笑い、こう言った。
『ふふふ、私に考えがある、でも、まずは此処を離れましょ』
緑はドリアードの言葉に頷〈うなず〉くと、熊を起こさないようにそっと遠回りをして、水路の前に立った。
『それで、どうするんですか?』
ドリアードは答えた。
『まずは、アンドルイド化しな』
確認するように緑は訊(き)いた。
『あの、変身みたいなヤツをやるって事ですか?』
言葉でドリアードは頷いた。
『そうだよ、さあ、とっととおっ始(ぱじ)めな』
緑は眼を瞑(つむ)って、意識を集中させた。
光の空間が現れ、身体が中に取り込まれて行く。
『合言葉(あいことば)を唱えな、緑』
身体が緑の輝きに包まれた時だった。
緑は自分の記憶を頼りに、一つ目の合言葉を唱えた。
『アンドルイド装着』
ドリアードが緑の身体目掛(めが)けて、飛び込んで来た。
此処で緑は二つ目の合言葉を口にした。
『融合』
光の空間が去ると、ドリアードと一体化した緑が現れた。
〘次は、眼を閉じて、手を合わせて〙
緑が言われた通りにすると、ドリアードは詠唱を始めた。
〘木々よ、我が分身達よ、今、此処に集(つど)いて、我が前に進む歩(あゆ)みの助けとなれ〙
唱え終わると、ドリアードは緑に話し掛けた。
〘もう、いいよ、楽にして〙
言われて緑は、眼を開けて、合わせていた手を下ろした。
と、突然、野原の端(はし)と端から蔓(つる)が伸びて結びつき、アーチを描(えが)いた一つの橋となった。
緑はポカンとして、その場に突っ立っていた。
〘さあ、渡りな〙
緑の中で平然として、ドリアードは話し掛けた。
体育の授業で偶(たま)にやる、体力測定で出る平均台を渡る気持ちで、緑は橋を渡った。
水路から何か出ると言う様子は無く、あっと言う間に、向こう側(がわ)に着いたのだった。
野原に足を着けて、緑は降り立った。
橋が形を何時まで保てるのか気になった緑は、橋を見た。
足を降ろしたぐらいでは消えたりしないようだ。
〘大丈夫、数時間なら離れてもこの橋は無くなったりしないよ〙
緑の心の中を呼んだかのように、ドリアードは話し掛けた。
そして、こう続けた。
〘それじゃあ、行こうか〙
『は、はい』
緑は返事をした。
そして、再び道を歩き始めた。
小(こ)一時間程(ほど)歩いて行くと、町に着いた。
更に緑は歩を進めて行き、人気(ひとけ)の無い町の隅(すみ)に出た。
そこで緑は足を止めた。
着いたのは、パン屋だった。
ドアを開けて中に入ると、上に付いているベルが揺れて、カランコロンと聞き心地(ここち)よい音をたてた。
緑はフランスパンと食パンを籠(かご)に入れると、カウンターに置いて、代金を支払った。
『ありがとうございました』
背中越しに店員の声を聞いて、緑は店を出た。
そして、パン屋から続いている路地裏に足を踏み入れた。
次に訪れたのはフリーマーケットだった。
商人達の明るくて元気な声が飛び交い、賑(にぎ)やかに市場(いちば)を活気づかせていた。
食べ物だけでなく、植物や衣類、生活用品、家具や工具、食器なんかも売られていた。
緑は代金を支払いながら、肉に魚、卵、野菜、小麦粉、乳製品、蜂蜜(はちみつ)にメープルシロップ、調味料と目当ての物を次々と籠(かご)に入れて行き、各店を周(まわ)った。
買い物を終えると、緑は来た道を退(ひ)き返した。
水路のある野原まで戻って来ると、ドリアードの言う通り、アンドルイドの力を使い、蔓を操(あやつ)って出来た橋はまだ、残っていた。
それを見て、緑は声を上げた。
『本当だ、まだあった』
ドリアードが緑の中で話し掛けた。
〘ね、だから言ったでしょ〙
そう言うと、ドリアードは言葉を続けた。
〘さあ、まだ消えないうちに、早いとこ渡りな〙
緑が短く返した。
『は、はい』
橋を渡る前に、緑は本来通る筈だった橋を塞(ふさ)いで寝ていた熊の事を思い出し、橋の方を見た。
熊はいなくなっていた。
〘どうしたんだい?〙
緑の様子が気になった、ドリアードが訊(たず)ねた。
『さっきの熊どうなったのかなと思いまして』
正直に緑は内心で思っていた事を打ち明けた。
〘ああ、そう言えばいないね、自分の塒(ねぐら)に帰ったんだよ、きっと〙
『そうか、そうですよね』
ドリアードの言葉を聞いて、緑は納得した。
〘さて、話が分かったなら、橋を渡ろうか〙
『は、はい』
蔓で出来た橋の上を緑はスタスタと歩いて行く。
渡り終えて、野原に足をつけて降りた時、アンドルイド化が解けて、緑とドリアードに戻った。
更に歩くと、家に帰って来た。
買い物をした荷物を一旦(いったん)野原に降ろすと、鍵(かぎ)を穴に挿(さ)し込み、解錠(かいじょう)して、扉を開ける。
再び荷物を持って中に入ると、緑はキッチンに行って、テーブルの上にそれらを置いた。
『ふー、重かった』
そう零(こぼ)すと緑は、肩に手を置いて押さえ、反対の腕をゆっくりと回した。
『扉が開けっ放(ぱな)しだよ』
ドリアードに言われ、緑はハッとした。
そして、座ろうと椅子(いす)引いていた手を止めた。
『おっと、そうだった』
そう言葉を返すと、早足で入り口に向かって行った。
ギィーと軋(きし)む音がして、バタンと重たげな音が、その次に聞こえた。
扉を閉めると、緑はゆっくりと歩いて行き、キッチンに戻った。
コップを水道の下に充(あ)てがうと、蛇口(じゃぐち)を捻(ひね)って水を出し、それを汲(く)んで持って行き、テーブルに置いた。
そして、今度こそ椅子を引いて、腰を降ろした。
『お疲れさん、緑』
ドリアードが労(ねぎら)いの言葉を掛けた。
緑は一気(いっき)にコップの中の水を飲み干した。
一息つくと、緑は再び椅子から立ち上がった。
そして、買い物籠の中から野菜を取り出して、洗い始めた。
それが済むと、竈門(かまど)の上にある、壁に立て掛けておいた、まな板を横にして、シンクに寝かせるように置いた。
次に下の収納庫(しゅうのうこ)から、包丁(ほうちょう)を取り出して、野菜を刻(きざ)んだ。
鍋に水を入れて、湧いてくるのを待つ間(あいだ)、籠の中に残った、使わなかった食材を食料庫
の中にしまった。
フライパンを乗せた五徳(ごとく)にも火を着けると、鶏肉(とりにく)を細切れにして、炒め出した。
焼き目がつくと、それに合わせたかのようにグツグツと音をたてて、鍋が湧いた合図を知らせた。
その鍋の中に、刻んだ野菜と炒めた鶏肉を入れた。
煮えるのを待つ間、食パン、ハム、チーズをスライスして、更にレタスをちぎる。
食パンにマスタードを塗(ぬ)って、パンの間に食材を挟んで行く。
食材が挟まったパンを包丁で半分に切ると、サンドウィッチが出来上がった。
『出来た』
緑がそう声を漏らすと、ドリアードがまだ調理中の鍋が残っている事を教えた。
『緑、カレーは?』
言われて、緑は気づいた。
『そうだった』
竈門に向かい、鍋に入ってる具材にフォークを、箸の代わりに刺すと、どれも簡単に貫通した。
鍋の中に、カレー粉やクミン、コリアンダー等のスパイスを入れて、混ぜて行く。
納得するまで味を見ながら、調整をして行き、そして、火を止めた。
『今度こそ完成、これでよし』
腰(こし)に手を当てて、偉(えら)そうに威張(いば)ったポーズを取り、準備が万全(ばんぜん)に整った事を態度で示した。
その時、家の扉の向こうで、トントントンとノックを三回する音が聞こえた。
『はーい』
と、元気の良い声で返事をすると、扉の前まで早足で歩いて行き、立ちはだかった。
『どちら様ですか?』
緑は訊(たず)ねた。
『僕達(ぼくたち)だよ、中に入れて』
聞き覚えのある声に、緑は安心して言葉を返した。
『開(あ)いてますよ、どうぞ』
外側(がわ)から、ドアノブが回されて、引かれながら扉が開いた。
そこに立っていたのは、マイルだった。
『ただいま、ミドリ』
挨拶をしたマイルを先頭に、他の小人達も緑に〝ただいま〟を言うと、中へと入って行った。
『皆さん、お帰りなさい』
後ろ手で扉を閉めると、緑も小人達に挨拶を返した。
『うーん、良い匂いだね』
鼻をヒクヒク動かしながら、マイルが緑に話し掛けた。
『今日のお昼はカレーかい?』
アンカレッドが訊いた。
『サンドウィッチもありますよ』
緑の言葉を頼りに、キッチンのテーブルを見て、ファインが燥いだ。
『本当だ、美味しそう』
パンクがファインに続くように急(せ)かした。
『イエーイ、早く食べようぜ』
緑がパンクを宥(なだ)めた。
『そう慌てないで、今、パンを切りますから、座って待ってて下さい』
そう言うと緑はバゲットを八つ(やっつ)に切り分けた。
食器を並べて、各皿の上に、人数分置いて配って行く。
その次にサンドウィッチがバゲットの隣りに置かれて行った。
最後に空いている器(うつわ)に、鍋からお玉でカレーを盛り付けて、お昼の料理が出揃った。
『準備完了です、それでは頂きましょうか』
緑がみんなに言うと、小人達は顔を見合わせて、互いに頷き合った。
『では、ミドリ、挨拶を』
アンカレッドが緑を指名して言った。
『え、私!?……ですか?』
思い掛(が)けない、出て来た一言に、緑は自分を指さして、驚きの声を上げた。
小人達(たち)は揃(そろ)って頷(うなず)いた。
緑はキョロキョロと首を左右に動かし、自分を囲むように、席に着いた小人達を見た。
みんなの視線が緑に集中していた。
やらない選択肢(せんたくし)が緑の中には無かった。
コホンと咳払いをして、緑は口を開いた。
『えー、それでは皆(みな)さん、手を合わせて下さい』
緑の指示に小人達は従った。
『いただきます』
この挨拶に小人達も続いた。
『いただきます』
それを合図に全員で一斉(いっせい)に食べ出した。
『お味は如何(いかが)?』
一度作った事があるが、それでも自信が持てなかった緑は、不安そうに小人達に訊(たず)ねた。
開口一番、小人達は一斉に声を上げた。
「美味(うま)ーい!!」
『昨日(きのう)のも美味かったがこの昼飯(ひるめし)も負けてない』
アンカレッドが言った。
『美味しい(おいしい)よ、ミドリ』
ファインが続いた。
他の小人達も口々に、緑の手料理を褒めた。
『本当ですか?よかった』
思いの他、好評(こうひょう)を得(え)た事に、緑はホッとした。
『ミドリは料理上手(じょうず)なんですね』
イワンに褒められて、緑は嬉しくなった。
『あ、ありがとうございます』
頬(ほお)を赤く染めて、緑は喜んだ。
『食べないなら僕に頂戴(ちょうだい)』
レオンがそう言って、スプーンを持っているのとは、反対の手を差し出した。
『た、食べる、食べます』
そう言うと緑も、小人達の真似(まね)をするように、バゲットを小さく千切(ちぎ)って、カレーに浸(ひた)して、続きを食べ出した。
それから、三十分の時が経(た)った。
「ごちそうさまでした」
盛り付けられていた料理は無くなって、テーブルの上には食器だけが残った。
待っているのは暇(ひま)だからと、小人達が緑を手伝って、みんなで洗い物をした。
それが終わると、続いてホットケーキを作った。
アンカレッド曰(いわ)く、儀式にはお供(そな)えが必要らしい。
緑がホットケーキをバスケットに入れると、アンカレッドが言った。
『それじゃあ、行こうか、ミドリ、ドリアード、案内頼むぞ』
緑は心配そうに返した。
『は、はい』
それとは対照的にドリアードは自信満々に返事をした。
『任せて』
薪(まき)も担(かつ)いで、八人は出発した。
話をしながら、八人は歩いて行った。
『ミス・ミドリはどうしてあんなに家事や料理が上手なんですか?』
イワンが訊ねた。
『え!?あ、そうですねぇ、』
〝上手〟と言う単語が言葉の中に入っていたのを耳にした緑は、褒められた気持ちが湧いて来て、思わず表情が緩(ゆる)みそうになった。
『小さい頃から母親の手伝いをしていたから、でしょうかね』
上手(うま)く堪(こら)え切れず、頬(ほほ)を赤く染め、照れながら微笑んで答えた。
イワンが続けて言った。
『そうでしたか、お母様の、ミス・ミドリのお母様なら、きっと見目麗(みめうるわ)しい、素敵な方(かた)なんでしょうね』
口説(くど)き文句(もんく)のような言葉を発するイワンに、緑は言った。
『もう、イワンさんたら、お世辞が上手なんですから』
益々(ますます)赤くなる顔を抑(おさ)えるように、緑はバスケットを持ってない方の手を頬に当てた。
この時褒められたのは、緑の母親だが、そこはご愛嬌(あいきょう)と、言う事にしておいて欲しい。
『本心を言ったまでですよ』
と、イワンは言葉を返した。
『またまたぁ、煽(おだ)てたって何も出ませんよ』
イワンの言葉にすっかり上機嫌(じょうきげん)になった緑はニヤけと戦っていた。
『そう言えばミドリとドリアードは、リヴァイアサンと戦ったんだよね?』
マイルが話し掛けた。
『ええ、そうです』
我に返った緑はコホンと咳払いをして答えた。
『凍らされたりしなかったの?』
続けてマイルが訊(き)いた。
『凍らされましたよ、寒いし、動けないし、大変でした』
感想を述べるかのように緑は、答えて返した。
『どうやって凍り状態から出て来られたの?』
更にマイルは質問をした。
『ああ、はい、それは』
そう言って言葉を切ると、緑は制服のスカートのポケットから、御守(おまも)りを取り出して、みんなに見せた。
『これのお陰(かげ)で助かったんです』
興味ありげにアンカレッドが訊(たず)ねた。
『それは?』
訊かれた緑は答えた。
『御守りです、五歳(さい)の頃(ころ)に、お祖母(ばあ)ちゃんから貰いました』
そう言って柔らかく微笑むと、緑の優しい笑顔を見て、マイルが言った。
『ミドリはお祖母ちゃんが大好きなんだね』
頷きながら、緑は言葉を返した。
『ええ、沢山(たくさん)甘えさせてくれました』
マイルはまた、緑に質問をした。
『お祖母ちゃん、今も元気なの?』
緑は首を左右に振って答えた。
『いいえ、もう亡(な)くなりました、私が六歳の頃に』
ファインが気遣(きづか)うように、短い言葉で優しく声を掛けた。
『そっか……』
しん、と、静(しず)まり返った空気に、緑は慌てて謝った。
『あ、ああ、ごめんなさい、しんみりさせちゃった』
マイルが首を横に振って、否定した。
『ううん、謝る事無いよ』
レオンも同調(どうちょう)した。
『そうだよ、ところで、まだ着(つ)かないの?』
話題を変えるような、レオンの質問に緑が答えた。
『そうですねぇ、もうそろそろの筈(はず)だと思うんですが……』
そう言った直後に、ドリアードが声を出した。
『着いた……此処(ここ)だよ』
凍(こお)りついた森を見回して、アンカレッドは言った。
『これまた、なかなかの凍りっぷりだな』
ドリアードが短く返した。
『まあね』
パンクに至っては調べるように、凍った樹の幹(みき)を、握(にぎ)り拳(こぶし)でコンコン叩(たた)いている。
ファインが急(せ)かすみたいに訊いた。
『それで、いつ、始めるの?』
アンカレッドが頷いて答えた。
『そうだな、善(ぜん)は急げって言葉もあるし、早速(さっそく)だが、始めるか』
マイルがアンカレッドの言葉に反応をした。
『はーい』
返事をすると、担(かつ)いで来た薪(まき)を輪の形(かたち)に並べ始めた。
他の小人達や緑も加わって作業を進めて行った。
咲いた花びらのように薪を置き終わると、ファインがアンカレッドに声を掛けた。
『いいよー!』
それを聞いて、アンカレッドはみんなに声を掛けた。
『よーし、それじゃ、みんな並んでくれ』
その声に従(したが)って、小人達は薪を囲むように円になって並んだ。
小人達の視線が集中して、緑を見た。
『緑も早く並べってさ』
ドリアードが言った。
『お供えを忘れずにね』
言われて緑はバスケットの中から、ホットケーキの乗った皿を取り出すと、並べられた薪の中心に置いた。
そして、自分も空いていたスペースに立って並んだ。
静まり返った空気の中でコホンと、咳払(せきばら)いをして、アンカレッドが喋った。
『それでは、只今より、焔(ほむら)の儀式を執(と)り行う』
挨拶が済むと、詠唱(えいしょう)を始めた。
『パイモンよ、自然界の王よ、我らに燃(も)ゆる灯し火(ともしび)を与えたまえ、汝(なんじ)の力を以(も)って、凍てこごる呪縛に取り込まれし者達に、熱(あつ)き祝福を』
唱(とな)え終わると、小人達は薪の中心をじっと見つめた。
薪の、ホットケーキの方を向いている先端に火が着いた。
火は燃える一つの輪になって、周りを熱し始めた。
『よし、成功だ』
弾(はず)んだ声でアンカレッドが言った。
他の小人達も喜びの声を上げて、盛り上がった。
すると、歩きながら、両腕を上下(じょうげ)させて、崇(あが)めるように火の輪の周りを、回り始めた。
緑も最初は戸惑っていたが、空気に呑まれて、見よう見真似(みまね)でアンカレッド達に続いた。
それから三時間くらい経っただろうか。
やっとの事で、小人達は歩き回るのを止めた。
みんなでその場に座り込み、延々(えんえん)と燃える焔をじっと見つめた。
焔の熱さは、森の植物達の凍結状態をゆっくりそして、じっくり溶かして行った。
雨が降った後のように、植物は瑞々(みずみず)しく潤(うるお)い、体から浮き出て来た水滴(すいてき)が、陽(ひ)の光を反射して、キラキラと輝いていた。
そのうちの一粒が、葉っぱから滴(したた)り落ちた。
『よーし、そろそろ良(い)いだろ』
自分の言葉に仲間達が頷くと、アンカレッドはまた、詠唱を始めた。
『パイモンよ、自然界の王よ、汝の力を以って、我らが抱(かか)えし災いを治(おさ)めん、その力に感謝を捧(ささ)ぐ、しかし、今、一度我らの願いを聞き届けよ、恵みの雨を望(のぞ)まん』
口上(こうじょう)を述べ終わると、小人達は天を仰(あお)いだ。
そのままじっとしていると、雫が一つ、二つと空から落ちて来て、一気に数を増し、雨となって降り注いだ。
『イエーイ、雨だぜ、ヒャッハー』
パンクの一声(いっせい)と共に小人達がまた、賑(にぎ)やかな声を上げた。
『今度も上手(うま)く行ったようだな』
そう言ってアンカレッドが満足げに柔らかく微笑(ほほえ)んだ。
ふと、ドリアードが何気に、緑に目をやると、首から上を動かして、キョロキョロと辺りを見回していた。
『緑、何か探してるの?』
訊かれた緑は答えた。
『濡れたままのホットケーキに、何か被せられそうな、葉っぱか何か無いかと思いまして』
それを聞くと、ドリアードが言った。
『そう言う事なら、私に任せな』
ドリアードは万歳(ばんざい)をするように腕を上げ、掌(てのひら)を上空に向けた。
気を集中させると、地面から茎(くき)が生(は)え、大きな葉っぱがホットケーキに覆(おお)い
被(かぶ)さった。
『これでどうだい?』
腰に手を当て、胸を張り、自慢(じまん)するように威張(いば)ったポーズを取るドリアードに緑は礼を言った。
『ええ、ありがとうございます』
ドリアードは更に姿勢を仰け反らせると、緑に言葉を返した。
『なあに、このぐらい、どうって事無いね』
それを聞くと、緑はバスケットを持ち上げて、独り言(ひとりごと)のように、短く呟いた。
『さて、と』
見ていたドリアードが訊ねた。
『何処(どこ)行くんだい?』
緑はキョトンとして、答えた。
『家ですよ?帰って夕飯(ゆうはん)作らないと』
ドリアードが納得した。
『あ、そっか』
二人から少し距離が開いた所にいた、アンカレッドが締めるように、言葉を唱えた。
『自然界の王、パイモンよ、汝に礼の言葉を捧ぐ』
言葉を終えると、小人達はじっと、傘代わりとなった大きな葉っぱに隠れた、ホットケーキを見つめた。
身体に雨粒が当たる感覚が無くなった。
雨音がしなくなった。
どいた雲の切れ間から、隠れていた太陽が顔を出した。
雨が晴れ上がったのだ。
『わあ……!』
差し込んだ光の明るさに、ファインが元気の良い声を出した。
嬉しそうに燥(はしゃ)ぐ、自分以外の小人達を見ながら、アンカレッドは緑の側まで歩み寄ると、口を開(ひら)いた。
『焔の儀式は以上だ』
緑は即座に返事をした。
『あ、はい!』
ドリアードが話し掛けた。
『帰っても良いってさ』
この言葉に賛同して、緑は小人達に言った。
『それじゃあ、帰りましょうか』
アンカレッドを先頭に、小人達は列を作って、歩き出した。
緑とドリアードも後ろからついて行った。
また、会話をしながら、緑達は来た道を帰って行った。
陽(ひ)が沈みかける頃(ころ)、九人は家に着いた。
中に入ると、小人達はソファやベッドに行き、寛(くつろ)ぎ始めた。
その間に緑は、夕飯を作った。
献立のハンバーグとコーンスープをみんなで食べた。
緑は家事をこなしながら、暫(しば)しの間、小人達と共に生活を送って行った。
それから一ヶ月が過ぎたある夜(よ)。
緑は不思議な声に誘(いざな)われた。
〈……い〉
声は繰り返し緑に、話し掛けた。
〈……なさい〉
聞けば聞く程(ほど)声は鮮明に聞こえて来た。
〈……目覚めなさい〉
声は、こう言っていた。
〈選ばれし者よ、目覚めなさい〉
自分の事かと思い、緑は声に従って、閉じていた眼を開けた。
白い光の空間に、緑はいた。
『お久し振(ぶ)りですね、緑』
また、聞こえた、聞き覚えのある声に、身体ごと振り向くと、デメーテルがドリアードと一緒にそこにいた。
『あ、確(たし)か、デメーテル……様』
その姿を見て、気づいたように緑が口を開(ひら)いた。
危(あや)うく〝さん〟付(づ)けで名前を呼びそうになった緑は、喋っている途中で、敬称を改めた。
『ええ、そうです』
デメーテルが言葉で頷いた。
緑は訊ねた。
『どうなさったんですか?また、何処(どこ)かで、夢生魔の襲撃(しゅうげき)か何かあったんですか?』
緑の予想するような質問に、デメーテルは否定して答えた。
『いいえ、そうではありません、貴方(あなた)が此処(ここ)に来てから、一ヶ月が経ちました、そろそろ現実の世界に戻っても良いでしょう、身体(からだ)は十分に休んで、体力も回復している筈(はず)です』
デメーテルの言う事に、緑は言葉で頷いた。
『そっか、もう、そんなに経(た)つんですね』
小人達との生活を振り返りながら、しみじみと緑は言った。
『分かりました、明後日(あさって)の朝、現実の世界に帰ります』
残念そうな声で緑は言葉を続けるように喋った。
『また会いに来れば良いじゃないか』
ドリアードが前向きな発言をした。
『ええ、そうですね』
それを聞いて、緑は微笑(ほほえ)んだ。
その笑顔を見て、デメーテルとドリアードの二人も穏やかな表情になった。
『そうと決まったら、早速寝ないと』
緑は二人に言った。
二人も緑の意見に了承した。
『そうですね、それでは何時(いつ)かまた、お会いしましょう』
デメーテルがそう言うと、向き合っていた三人の間(あいだ)に距離が出来た。
ドリアードがデメーテルから緑の側(そば)に移動した。
二対一に三人は引き離されて行った。
『あ!ところで、どうやって帰れば良いんですか?』
緑の問いに、デメーテルは答えながら、遠ざかって行った。
『家の何処(どこ)かにこの家を描(か)いた絵画(かいが)がある筈(はず)です、それに手を翳(かざ)し、〝帰りたい〟と念じてみて下さい、そうすればきっと帰れます』
薄れ行(ゆ)く意識の中で、緑はデメーテルの声を聞いた。
そして、光に呑まれて行った。
翌朝(よくあさ)。
緑はいつものように、ドリアードに起こして貰った。
朝食を作りながら緑は、夕(ゆう)べ、デメーテルが言ってた事を思い出した。
この家を描いた絵が飾ってある場所を探そうと、家の中を見回した。
(何処にあるのかしら?)
今見た限りでは、見つからない。
『絵を探してるのかい?』
ドリアードが話し掛けた。
『ええ、そうなんですけど、見当たらなくて』
と、緑は返答した。
『ん〜そうだねぇ、小人達に訊(き)いてみたらどうだい?』
ちょっとの間(あいだ)考えてから、ドリアードは提案した。
『あ、そうですね』
握(にぎ)り拳(こぶし)で掌(てのひら)を打って、納得したように、緑が言った。
『さて、悩みが晴れたら、ご飯を作ろうか』
ドリアードに言われて、気がついた緑は慌てて返事をした。
『あ、はい!』
そして、調理(ちょうり)を再開(さいかい)した。
漂(ただよ)う料理の匂いに誘われながら、小人達が起き出し、梯子(はしご)を使って、二階から緑達のいる、一階へと降(お)りて来た。
『おっはよー、緑!』
元気いっぱいに挨拶をするファインを先頭(せんとう)に、小人達は次々(つぎつぎ)と緑に挨拶をして行った。
食器が並べられたテーブルを囲むように置いてある椅子に、七人は座った。
空になっている食器に、緑が持って来た鍋(なべ)から、料理が盛りつけられて行く。
全ての食事が出揃(でそろ)うと、緑もみんなが待っているテーブルの残っていた空席についた。
今朝の献立はフレンチトーストとベーコンエッグだった。
八人が手を合わせると、緑は挨拶を述べた。
『いただきます』
小人達も緑の後(あと)に続いた。
「いただきます」
味の感想はいつも通り、好評(こうひょう)だった。
『うん、美味しーい!』
ファインが元気の良い声を出した。
『ミドリの作る料理はいつも美味しいよね』
マイルも緑が作った食事を褒めた。
『よかった、嬉(うれ)しいです、ありがとうございます』
と、緑は頭を下げて返した。
『ミドリが此処(ここ)に来て暮(く)らし始めてから、そろそろ一ヶ月が経つね』
マイルがナイフとフォークを握ったまま、口の中にある物を飲み込んでから、喋った。
『そうか、もうそんなになるんですね』
イワンが言葉を返すように言った。
『帰るのも時間の問題だな、此処には何時(いつ)まで居(い)られるんだ?』
現実を突きつけるような質問をアンカレッドが訊いた。
それは別れの時が迫っている事を意味していた。
『私もその事について話そうと思ってたんです』
そう言うと緑は昨日の夜、眠っている間に、光の空間に飛ばされ、そこでデメーテルに会い、交わした会話の内容を、小人達に打ち明けた。
『ーーーなので、明日には帰る事になったんです』
小人達にショックを与えないように、言葉を選びながら、緑は話を終えた。
その声には悲壮感(ひそうかん)が漂(ただよ)っていた。
話を聞いていた小人達は、返す言葉が見つからない程(ほど)、動揺(どうよう)を隠(かく)しきれずにいた。
『そうか』
と、言葉を返して来たのは、アンカレッド一人だけだった。
『朝ご飯の続きを食べようか』
その一言を合図に、八人は食事を進めた。
さっきまで明るくて賑(にぎ)やかだった朝食(ちょうしょく)の席がしん、と、静まり返っていた。
沈黙が広まったまま、朝ご飯は終了した。
『ハァ~』
小人達が仕事に出かけて行くのを見送り、洗い物をしていた緑は大きな溜(た)め息をついた。
『元気出しな、緑』
ドリアードが声を掛けた。
『これが終わったらまた、〝家が描かれた絵〟を探すんだろう?』
ぼんやりした声で緑は返事をした。
『はい……』
掃除をしながら、緑は絵の在り処(ありか)を探した。
キッチンスペースのテーブルの下、食料庫や収納庫の中、壁掛けの鏡や鳩時計の裏、食器を仕舞うシンク下の引き出しの中、考えられるような、ありとあらゆる場所を探した。
しかし、目的の〝家が描かれた絵画〟は何処(どこ)にも見当たらなかった。
(やっぱり無いわね)
緑は昨日、光の空間で言っていたデメーテルの言葉を思い返した。
〈この家の何処かに、この家が描かれた絵画がある筈です〉
確かにそう言っていた。
緑は考えた。
(他に探してない場所があるって事かしら?)
思い当たる場所は全て探した。
でも、デメーテルは言っていた。
この家の中にあると。
他に探してない、家の中。
まだ見てない場所があるんだとすれば、今から掃除に取り掛(か)かろうとしている二階ぐらいである。
(この家が描かれた絵、この家が描かれた絵)
頭の中で、目当ての物を反芻(はんすう)させながら、緑は小人達の寝室(しんしつ)へと通じている
梯子(はしご)を伝って、その二階に上がった。
互いにそっぽを向いて、四対三に分かれているベッドの周りを箒(ほうき)で掃いて、次にはたきではたいて、埃(ほこり)を払う。
次々と各々(おのおの)のベッドを掃除していた、その時だった。
『きゃあ』
何かに足を滑らせて、緑は転倒(てんとう)した。
『っ痛(た)〜』
身体を起こすと、頭上にも何かが落ちて来て、ぶつかった。
『あたっ』
ドリアードが気遣(きづか)うように声をかけた。
『大丈夫かい?』
緑が絞(しぼ)り出すような声で答えた。
『な、なんとか』
ぶつかった頭を撫(な)でるようにさすりながら、緑は投げ出していた、自分の両足を見た。
そこには、バナナの皮が姿を露(あら)わにしていた。
恐(おそ)らく、レオンの私物だろう。
『まったくもう、誰が片付(かたづ)けると思ってるんだか、気を付けて欲しいね』
自分が片付けるわけでもないのに、何故かドリアードが愚痴(ぐち)を零した。
『緑の頭にぶつかったのは、何だろうね?』
更(さら)に続けてそう言った。
『そうですね』
言葉で頷くと、緑は自分の頭から落っこちたそれを拾い上げた。
正方形の形(かたち)をしていて、額縁(がくぶち)の中に収まっていた。
(何かしら?)
背を向けて裏返しになっていた額縁をひっくり返して、その画(え)を見た。
緑は眼を見開いた。
白い煙が立ち昇(のぼ)っている、煉瓦(れんが)で作られた煙突(えんとつ)。
オレンジで彩(いろど)られた屋根。
間隔(かんかく)を開(あ)けて横続きになっている窓。
それは、正(まさ)しく緑が探していた、〝この家が描かれた絵画〟だった。
『あった』
緑は思わず、声を漏らした。
『よかったじゃないか』
ドリアードが緑の言葉を拾って、返した。
『ええ、けど、元の持ち主に返さないと、どなたのでしょうか?』
緑は小人達と付き合いが長そうな、ドリアードに訊(たず)ねた。
すると、ドリアードは、悩(なや)ましそうな声を出した。
『う〜ん、そうだねぇーーー確か、その絵は昔に、と、言いたい所だけど、小人達とは古くからの付き合いだけれど、そう言う所までは、ちょっと分からないねぇ』
それを聞いて、緑は弱々しい声を出した。
『そ、そうですか』
ドリアードは力になれない自分を残念に思い、悲しそうな声で謝った。
『ごめんよ……』
緑は慌てて、ドリアードの謝罪を取り下げた。
『謝らないで下さい』
でも、と、緑が続けた。
『誰のなんでしょうね?』
緑は無い知恵を絞るように頭を働かせた。
そして、一つの考えに行き着いた。
『そうだ、絵なら誰が描いたのか、サインがあるかもしれません』
そう言うと緑は、絵を上下逆さまにしたり、裏表(うらおもて)をひっくり返したりして、サインを探した。
すると、右下の隅(すみ)に文字を見つけた。
その文字は走り書きで書かれていて、手で擦(こす)ったような跡(あと)があった。
その文字はこう書かれていた。
〝Ankared〟
『ア……ン、カ、レ……ッド』
何気(なにげ)なく、そう読めた。
『へーっこの絵、アイツが描いたの』
ドリアードが驚(おどろ)いたような声を出した。
『どうやら、そうみたいですね』
アンカレッドの寝ていたベッドに絵を置くと、緑は掃除を再開(さいかい)した。
最後に、箒(ほうき)で掃(は)いた場所を、濡(ぬ)らした雑巾(ぞうきん)で掛けて、掃除は終了した。
小人達の脱いだ服は、外で洗って、日当たりの良い場所に干(ほ)した。
洗い物も、粉末(ふんまつ)の石鹸(せっけん)を使って、泡立てたスポンジで汚れを落とすと、水で綺麗(きれい)に洗い流し、食器を入れる籠(かご)の中に立て掛けた。
こうして、緑の今日こなす任務の殆ど(ほとんど)が終わった。
『後は買い物に行って来るだけだね』
ドリアードの言葉に、緑は言葉で頷いた。
『そうですね、それじゃあ、行きましょうか』
買い物籠にお金を入れて持つと、緑はドアを開けて、ドリアードと共に外に出た。
ドアを閉めて、鍵(かぎ)を掛(か)けると、二人は通い慣れた道を当たり前のように、歩いて行った。
買い物を済ませると、緑は来た道を戻って帰った。
ドアを開ける為(ため)に鍵を鍵穴に刺(さ)そうとした時だった。
鍵が掛かっていた筈のドアがいきなり開いて、中から誰かが出て来た。
『わっ』
緑が驚いて、声を出した。
それはファインだった。
『おっ帰りー!』
と、ファインは笑顔で、緑を出迎えた。
『た、只今、帰りました』
ポカンとして、緑は応(こた)えた。
『どうなさったんですか、こんな所で、お仕事は?』
ファインが答えた。
『早めに切り上げて来たんだ、今日はもう終わりだよ』
そう聞くと、緑は更に訊(き)いた。
『え?どうしてです?』
ファインは答えを返した。
『まあ、中に入れば分かるよ』
そう言うと、執事(しつじ)のように、横に退(ど)いて、一旦(いったん)閉(し)めたドアを開けて、中に入れるようにした。
『さあ、どうぞ、みんながお待ちかねだよ』
ファインの意図(いと)が分からないながらも、緑は恐る恐る(おそるおそる)、家の中に入って、床板にそっと足を踏み入れた。
『みんなー、今日の主役が、帰って来たよー!』
ファインの声に、他の小人達が一斉(いっせい)に緑がいる方を向いた。
『よう、帰ったか』
アンカレッドが嬉しそうな声を上げた。
『お待ちしていましたよ、ミス・ミドリ』
と、イワンが続いた。
『みんな、待ち侘びていたぞ』
次に声を発したのは、ルークだった。
『早く来ないかなって、みんなで言い合ってたんだよね』
マイルも言った。
『イエーイ、そうそう、それでミドリに見せたい物があるんだぜ』
その次に言ったのはパンクだった。
『それはね、じゃじゃーん、これだよ』
レオンがそう言って、テーブルに掛けられた布を捲(めく)った。
『わあ……!』
それを見て緑は、眼を見開いて、驚いた。
そして、歓喜(かんき)の声を上げた。
サンドウィッチにサラダ、ローストビーフ、海鮮(かいせん)具材のオードブル、オムレツにパンケーキ、チーズやチョコレート、ジャムの側(そば)に並んで置かれた、カナッペの為(ため)のクラッカー、それにコーンスープやホットミルク。
そこには様々(さまざま)な料理の数々(かずかず)が並べられていた。
『こんなに沢山、どうなさったんですか?』
どんな人でも考えられるような質問を緑は訊(き)いた。
『今日が最後の日だからな、俺達(おれたち)からのプレゼントだ』
と、アンカレッドが答えた。
『ミドリにはミドリの帰る場所があるんだもんね』
マイルが続いた。
『みんなで楽しく笑って帰って貰おうって、僕達(ぼくたち)で相談して決めたんだ』
ファインが言葉のラリーを繋(つな)げた。
『勿論(もちろん)、この準備もみんなでした』
ルークにバトンが、渡った。
『ねえ、早く食べようよ、僕、お腹(なか)空いちゃった』
レオンが急(せ)かした。
『そうだな、それじゃあみんな、席に着(つ)こうか』
アンカレッドの言葉を合図(あいず)に、小人達は思い思いに着席(ちゃくせき)した。
みんなが緑を見るので、緑も空(あ)いている椅子(いす)に座った。
『では、食事の挨拶(あいさつ)を緑、宜(よろ)しく』
アンカレッドに言われて、緑は音頭(おんど)を取った。
『それでは皆(みな)さん手を合わせて下さい』
小人達は緑の言葉に従(したが)った。
『いただきます』
緑に続いて、小人達も言った。
「いただきます」
小人達は味の感想を教えて貰(もら)う為(ため)に緑が食べるのを待った。
緑は皿に海鮮具材のオードブルを盛りつけると、それをフォークで刺(さ)して、口の中へと運んだ。
『お味は如何(いかが)ですか?ミス・ミドリ』
イワンが訊ねた。
噛(か)んでいた物を飲み込むと、緑は口を開いた。
どんな言葉が出て来るのかと、一同は唾(つば)を飲み込んで見守った。
『うん、美味しいです』
明るい声でそう言うと、緑は満面の笑顔を見せた。
それを聞いた小人達はホッと安堵(あんど)の息を漏らした。
『よーし、僕達も』
ファインの声が合図になり、小人達も緑に続いて一斉に、自分達で作った料理を食べ始めた。
『このオードブル美味しいね』
マイルがそう言うと、アンカレッドが言葉を返した。
『当然だ、俺とレオンの合作(がっさく)だからな』
自慢げに腰に手を当て、胸を張り、威張(いば)って見せた。
レオンがフォークを刺そうとした瞬間、別なフォークがローストビーフを持って行った。
『このローストビーフは貰った』
ルークがニヤリとほくそ笑んだ。
『あー、僕が眼をつけていたのにー』
悔しそうに自分の中の不平不満を、狙っていた獲物を奪った相手にぶつけた。
『まだこんなにあるじゃありませんか』
むくれるレオンに緑が言った。
そう言われて、レオンは渋々(しぶしぶ)、まだ半分残っている、ローストビーフの別な切り身にフォークを刺して食べた。
『うん、そうだね、これも美味しい』
あっと言う間(ま)にコロッと表情が変わって笑顔になった。
『現金な奴だ』
ルークがボソリと言った。
『何か言った?』
レオンにそう訊かれると、こう返した。
『いや、何でもない』
そして自分も、さっきレオンとの取り合いで手に入れた戦利品をフォークで食した。
『美味い』
緑が海鮮具材のオードブルをおかわりしていると、マイルに声を掛けられた。
『ねえねえ、これも美味しいよ』
そう言って、緑の席のサンドウィッチを手に取り、勧めて来た。
緑はマイルからサンドウィッチを受け取ると、試しのつもりで、一口齧った。
ハムにレタス、チーズと一緒にマヨネーズの味が口いっぱいに広がった。
『本当だ、美味しい』
その言葉を待っていたかのように、マイルが返した。
『でしょ?』
調子が出て来た緑は、もう一つのサンドウィッチにも手を伸ばし、掴(つか)んで口に入れた。
『こっちは卵ね、これも美味しい』
次々と八人の食事は進んで行き、所狭(ところせま)しと、キッチンスペースのテーブルに置かれていた料理は段々(だんだん)に減って無くなり、
空になった皿だけが残った。
食事が済むと、みんなで食器を洗った。
その後、みんなでトランプにダーツ、ビリヤードやオセロを使って、ゲームをして遊んだ。
『私の勝ち』
ガッツポーズを作って、緑は喜(よろこ)んだ。
『あちゃー、負けちゃった』
片手で目隠しをするように顔を覆って、ファインが悔しそうな声を出して言った。
『ミドリは強いんだね』
ファインが緑を褒めていると、アンカレッドが話に加わった。
『まったくだ、本当に今までやった事無かったのか?』
嬉しそうにその顔を緩ませて、緑は答えた。
『えー、本当ですよー?』
それを聞いたアンカレッドが言い返した。
『幾(いく)ら強いと言っても、流石にありえないだろうーーー七連勝なんて』
そして、チラリとある方向に目をやった。
その先には、撃沈(げきちん)した敗北者達が集(つど)っていた。
『元気出して下さい、また帰って来た時に一緒に遊びましょう』
緑のこの一言に、マイルが顔を上げた。
『本当?また、遊んでくれる?』
甘えるように、緑に訊ねた。
『魔王を倒さない限りはまた会えますから、ね?』
と、緑は答えた。
『約束だよ』
マイルの言葉に緑は短く返事した。
『ええ』
二人は指切りを交わした。
『よーし、今度こそ負けないぜ、イエーイ、次は何やる?』
パンクが再度、ゲームでの勝負を申し込んだ。
『トランプが良いんじゃない?』
マイルが提案した。
『そうだな、で、やる種目(しゅもく)は何にするんだ?』
ルークが訊ねた。
『えっとねぇ、』
マイルがそう言いかけた時だった。
ボーン、ボーン。
鈍(にぶ)くて重たい音が聞こえた。
鳩時計の音だった。
九人は口を噤(つぐ)んでその音を鳴り止むまで聞いていた。
先程(さきほど)の二回も含めて、十一回連続して、その音は聞こえた。
音が鳴り止むと、ポッポー、ポッポーと二回鳩の鳴き声が聞こえた。
『もう、そんな時間か、そろそろ寝るか』
十一時を指し示した鳩時計を眺めるように見たアンカレッドがみんなに声をかけた。
『えー、もっと遊びたーい』
不満をマイルが言った。
『ミドリが帰るのを見送れなくなるぞ?』
アンカレッドの言葉を聞いて、マイルは短く唸ると、理解を示した返事をした。
『う……分かった』
小人達は緑に寝る時の挨拶を言った。
『おやすみ』
と言ったのがアンカレッド、パンク、ルーク、レオン。
『おやすみなさい』
と言ったのが、ファイン、マイル、イワンだった。
ファインとマイルは抱っこをせがんだので、ジャンケンをして、決まった順番にハグをした。
『おやすみなさい』
緑もそう、小人達に返した。
そうして九人は眠りについた。
一軒(いっけん)の家の明かりが消えた。
小鳥の囀(さえず)りが朝の訪(おとず)れを教えた。
例に習(なら)って緑はドリアードによって起こされた。
今日も今までのような朝が始まる。
いつもみたいに、パンを人数分に切り分け、具材を刻んで、調味料を加え、煮たり焼いたりしながら、おかずやスープを作る。
火の加減を気にしながら、籠の中に立て掛けておいた食器を、テーブルに並べて行く。
調理された食材達(たち)から漂(ただよ)って来る匂(にお)いに誘われて、起床(きしょう)した小人達が、二階(かい)のロフトから降りて来た。
『おはよう、ミドリ』
一人一人が緑と挨拶を交わした。
『おはようございます、ミドリ』
イワンも丁寧(ていねい)に挨拶を述べた。
『おっはよー、ミドリ』
ファインが元気な声で挨拶をした。
『おはよう』
ローテンションなこの声はルークだ。
『おはようございます』
緑も挨拶を返した。
挨拶が済むと小人達は思い思いの席に着いた。
出揃った食器に料理を盛りつけて、朝ご飯が出来上がった。
バゲットにマカロニサラダ、茹(ゆ)で卵のカボチャ和え、そして、オニオングラタンスープ。
これが今朝の献立(こんだて)である。
最後に緑が座ると、アンカレッドが言った。
『では、ミドリ、挨拶を』
緑は頷くと、小人達に声を掛けた。
『それでは皆(みな)さん、手を合わせて下さい』
八人は合掌(がっしょう)した。
『いただきます』
緑の声に小人達は続いた。
「いただきます」
八人は、食事を始めた。
今日の緑の手料理も好評だった。
朝ご飯が終わると、緑が食器を洗うのを小人達は手伝った。
そして、いよいよ、暫(しば)しの別れ。
緑を囲むように、小人達は並んだ。
首を左右に動かして、小人達を見回すと、緑は言った。
『色々とお世話になりました』
頭を下げた緑に、小人達は一人一人、声を掛けた。
『こちらこそ、お世話になりました』
イワンが最初に言った。
『今度も遊んでね』
次に言ったのはマイルだ。
『元気でいてね』
その次がファインだった。
『またご飯作ってよ』
レオンも言った。
『イエーイ、シーユーアゲイン』
と、パンク。
『いつでも帰って来ると良い』
その次に言ったのがルーク。
『気をつけて帰るんだぞ』
最後にアンカレッドが言葉を述べた。
次々自分に降り掛かる言葉に、緑は一言で返した。
『はい、きっと』
すると、この家を描いた、アンカレッドの絵に手を翳(かざ)した。
絵から、黄金(こがね)色の光が現れ、緑を包んだ。
『本当にありがとうございました、さようなら』
そう言い残して、緑の姿は消えて行った。
『行っちゃったね』
ファインが言った。
『ああ』
アンカレッドが返した。
『寂しくなりますね』
イワンが話に参加した。
『仕事しよっか』
マイルが声を掛(か)けた。
『そうだな、よし、それじゃあみんな、行くか』
アンカレッドの言葉に七人は高々(たかだか)と拳(こぶし)を掲(かか)げ、声を揃(そろ)えた。
「おー!!」
*
緑は目を開けた。
腕に感触(かんしょく)があり、首を動かして、自分の横を見ると、透明(とうめい)な液体が入れられた袋が眼に入った。
点滴に緑は繋(つな)がれていた。
この白い部屋は、どうやら、病院の一室のようだ。
首を戻して、天井(てんじょう)を見つめながら、
緑はそう、理解した。
カララ……と、音がして、取っ手が取り付けられた、引き戸が開(あ)き、看護婦が現れた。
『森山さーん、分かりますか、』
言いかけた、看護婦の言葉が引っ込んだ。
声を掛けられた緑は、再び首を動かして、振り向くと、看護婦と眼があった。
『せ、先生、呼んで来ますね』
看護婦が出て行くと、病室の引き戸が閉(し)まった。
《私……そうだ、熊(くま)に追いかけられて、それで崖(がけ)から飛び降りて》
緑は自分がこの状態(じょうたい)になるまでの記憶(きおく)を、振り返りながら段々(だんだん)に思い出して行った。
自分の中の記憶が全て一つに繋がった時、また病室の引き戸が開いて、先程の看護婦が、医者を連れて現れた。
緑の担当医らしい。
『如何(いかが)ですか、気分は?』
点滴を受けて、動けないでいる緑は呼吸機(き)の下から言葉を発(はっ)した。
『大丈夫です』
医者は更に訊(たず)ねた。
『痛みはありますか?』
緑は当たり前のように答えた。
『いいえ、何(なん)ともありません』
次のようにも医者は質問した。
『食欲は?ご飯も食べられそうですか?』
自分のお腹(なか)の具合いが上手(うま)く掴めなかった緑はちょっと考えてから答えようとした。
『えーっと、』
その時だった。
グウウウ。
緑の腹(はら)の虫が鳴いた。
『すみません』
点滴が繋がってない方の手で腹を押さえて、緑が軽く詫(わ)びた。
『お腹の調子も大丈夫そうですね』
クスクスと笑って、医者は言った。
体温と血圧を測(はか)り終えると、看護婦は言った。
『包帯も取り替えますね』
そして、緑の寝ているベッドに近づいた。
丁度(ちょうど)その時、点滴が終わった。
頭に巻いてある包帯を取ると、看護婦は眼を見開(みひら)いた。
そして、驚きのあまり、数秒硬直(こうちょく)した。
まだ抜糸(ばっし)もしてない傷口が、もう痣(あざ)になっていた。
医者にも見せると看護婦と同じように固まった。
『?どうしました?』
緑の声に二人は我(われ)に返った。
『いいえ、何でも』
と、医者は答えた。
点滴を取り外すと看護婦は包帯を巻くことなく、医者と共に病室を出て行った。
緑は呼吸機を外(はず)すと、枕元に置いた。
《あれは、夢だったのかしら》
そう思いながら、やる事が無いので、もう一度眠ろうと目を閉じた。
〈そうさ、夢だよ〉
聞き馴染みのある声がした。
《夢か、やっぱりね》
その声につられて、緑は言葉を返した。
『!?』
少しの間(ま)をおいてから緑は、声の存在に気づいた。
思わず、勢い良く起き上がって、キョロキョロと首を動かし、辺りを見回すが、今、この病室の中には、自分以外誰もいない
自分の他に声を発(はっ)するものなど無い筈(はず)だ。
それなのに、今、声が聞こえた。
《空耳かしら》
とも、考えた。
〈空耳でも気のせいでもないよ〉
軽くパニックになりながら、緑は聞こえて来る声に訊(たず)ねた。
《え?何?誰?って言うか、何処?》
心の中でそう、話し掛(か)けた。
不思議な声は答えた。
〈あたいだよ、ドリアードだ〉
緑は心中(しんちゅう)で会話した。
《夢の中だけの存在じゃなかったんですか》
ドリアードは説明した。
〈契約を交わした宿主の意識界なら、夢でも現実でも、あたい達(たち)精霊は行き来(き)自由なんだよ〉
緑は感心した。
『へー』
と、その感想を声に出した。
〈と、言う訳で、当分は此処(ここ)に棲(す)まう事になったから、これから宜しくな、緑〉
『へーって、え!?』
つられて返事をしていた緑は、とんでもない事を平然と言ってのけたドリアードの言葉に気づいて、思わず訊き直した。
『す、棲むって、貴方が、ですか?』
当たり前のように、ドリアードは答えた。
〈そうだよ、他にいるか?〉
分かりきった答えの質問に、緑は言葉に詰(つ)まった。
『う……』
他に言葉が見つからなかった緑は、理解したように
ドリアードが、自分の脳内に棲むのを承諾した。
『分かりました、これから宜しくお願いします』
と、その時。
いきなり病室の引き戸が開(あ)いた。
その向こうから、またさっきの看護婦が、今度は一人で可動式の、ステンレスのような物質で出来た棚を、引っ張って運んで来た。
〈緑、後は任せたよ〉
『え、あ、ちょっと、もしもーし』
慌てた緑は、ドリアードに声を掛けた。
しかし、返事は返って来なかった。
『森山さーん、昼食(ちゅうしょく)の時間ですよー』
にこやかな顔で、看護婦が言った。
棚には、下の段に食事が一人分、置いてあった。
献立(こんだて)は、牛乳、ほうれん草のお浸(ひた)し、タンドリーチキン、ご飯に豆腐と若芽の味噌汁(みそしる)だった。
ベッドに設置されている、簡易(かんい)テーブル
を横に倒すと、その上に、持って来た食事を置いた。
『美味(おい)しそう』
用意された料理から漂(ただよ)う匂いが、緑の空腹(くうふく)を誘った。
『どうぞ食べて下さい』
にっこり笑って看護婦が言った。
緑は手を合わせると、挨拶を口にした。
『いただきます』
次の瞬間、緑の脳裏(のうり)にある光景が過(よ)ぎった。
〈『それでは皆(みな)さん、手を合わせて下さいーーーいただきます』〉
〈『いただきます』〉
それは、つい先程(さきほど)まで一緒に食事を摂(と)っていた、小人達との記憶だった。
『森山さん?』
動きが止まった緑に、看護婦は声を掛(か)けた。
看護婦の声によって、思い出に集中していた、緑の意識はあっと言う間(ま)に、現実に引き戻された。
看護婦の方に顔を向けると、話し掛けて来た。
『どうしました?』
緑は首を左右に振って、答えた。
『い、いいえ、何でもありません』
そう言うと緑は〝いただきます〟を唱え直し、箸(はし)を持って、タンドリーチキンを一切れ、口に運んだ。
その様子を見守るように、看護婦は緑からの反応を待った。
『美味しい』
緑が顔を綻(ほころ)ばせた。
それを見て、看護婦もにっこり笑って言った。
『食べ終わったら、これを押して、お知らせ下さいね』
そう言って、看護婦がナース服のポケットから出したのは、ブザーだった。
ブザーをお昼ご飯の隣(とな)りに置いて、看護婦は病室を去って行った。
病室の引き戸が閉まり終えるのを見届けると、緑は自分の意思とは裏腹(うらはら)に、緊張していた全身から力を抜いて、大きく息を吐いた。
『もう大丈夫ですよ』
心の声を言葉にして、緑はドリアードに話し掛けた。
ふう、と息を吐くと、ドリアードは言った。
〈ずっと黙ってるの大変だった〉
そんなドリアードを緑は労(ねぎら)った。
『お疲れ様です』
ドリアードは軽く礼を言った。
〈ん、ありがとう〉
『ん?ちょっと待って下さい』
何かに気がついた緑に、ドリアードは話し掛けた。
〈どうしたんだい?〉
緑は訊き返すように答えた。
『ドリアードさんは、この現実の世界でも、他の人達にも、声が聞こえたりするんですか?』
ドリアードは答えた。
〈いや、それは無い、頭の中で会話出来るのは、あたいと緑しかいないよ〉
緑は言った。
『聞こえないのなら、別に黙らなくてもいいんじゃないですか?』
ドリアードは納得した。
〈ああ、成る程(なるほど)、そりゃそうだね〉
その言葉を聞くと、緑は食事の続きを再開した。
味噌汁(みそしる)を一口、啜(すす)る。
じんわりと身体(からだ)が、内側(うちがわ)から温まって来るのを感じた。
思わず口から、吐息が漏れた。
《食べ終わったら、何をしようかしら?》
そう考えながら、ほうれん草のお浸しを箸で摘(つ)まんで、口に入れた。
その問い掛(か)けは勿論(もちろん)、ドリアードの耳に届いた。
〈そうだねぇ……〉
二人は考える事に集中して、黙り込んでしまった。
緑はパックの牛乳に、付属品(ふぞくひん)のストローを刺(さ)すと、中身を吸った。
暫(しばら)くすると、ドリアードが口を開いた。
〈あ〉
緑が話し掛けた。
『どうしました?』
ドリアードが言葉を返した。
〈他の精霊達が宿(やど)っている、宿主達を探すっていうのは、どうだい?〉
緑は答えた。
『あ、成る程、それは良(い)いですね』
ドリアードが当然のように声を出した。
〈だろう?〉
『でも、どうやって探すんですか?何か手掛(が)かりでも無いと、探しようが』
緑の心配そうな声と言葉に、ドリアードはこう言った。
〈手掛かりならあるさ〉
無謀(むぼう)と言える捜査に対して、ドリアードが言ったこの言葉に、緑は希望を見出(みい)だして、訊ねた。
『本当ですか!?』
ドリアードは言葉で頷(うなず)いた。
〈ああ、精霊と契約した宿主には必ず、何処(どこ)か身体の一部に、契約した精霊の姿をかたどった痣があるんだよ〉
『成る程、それを目印にして探せば良い訳ですね』
ドリアードの言葉の続きを口にするように、緑は言った。
〈そう言う事〉
『問題はその痣が付いてる人をどうやって探すか、ですね』
残る未解決の問題を緑は口にした。
〈そうだね〉
と、ドリアードが返した。
二人はまた、考え出した。
〈医者や看護婦に聞くのは、どうだい?何か教えて貰えるかもしれないよ〉
暫(しば)しの間(ま)があってから、先に口を開(ひら)いたのは、ドリアードだった。
緑は気づかされたように、言葉を返した。
『あ、そうか、そうですね』
しかし、その後(あと)でこうとも言った。
『あくまでもしもの話ですけど、それが駄目だったら、虱潰し(しらみつぶし)に探すしかなくなりますね』
ドリアードはそれを否定した。
〈ま、まあ、まだ、どうなるか、分かんないけどさ、取り敢えず(とりあえず)、今は食べようよ、仲間を探す為(ため)にも、とにかく、体力をつけないと〉
そう促(うなが)されると、緑は言葉で頷(うなず)いた。
『あ、はい、そうですね』
そして、いつの間にか止まっていた、箸(はし)を進めた。
食器の上に乗っていた料理を全(すべ)てたいらげ、牛乳を飲み干すと、手を合わせて挨拶をした。
『ごちそうさまでした』
それからドリアードに一言、断(ことわ)りを入れた。
『それじゃ、押しますね』
緑の言葉を聞いたドリアードも一言、返した。
〈ああ、良いよ〉
ドリアードから許可を得(え)た緑はブザーを押した。
ブー、と、クイズ番組で答えを間違えた時のような音が聞こえた。
その一、二分で看護婦はやって来た。
『それではお下げしますね』
優しい笑顔を緑に向けると、看護婦はそう言って、空(から)になった食器が乗っているトレーを持った。
『どうも、ごちそうさまでした』
緑はそう言うと、看護婦に向かって一礼をした。
『はい、どうも』
と、看護婦が返した。
『そうだ』
思い出したように緑は言うと、看護婦に訊(たず)ねた。
『すみません、ちょっと訊(き)きたいんですけど』
緑の声に反応して看護婦は返事をした。
『はい?』
続きの言葉を緑は並べた。
『患者(かんじゃ)さんの中に、身体(からだ)に変わった形の痣がある人はいませんか?』
看護婦は上を見上げて、考えるような仕草(しぐさ)をすると、緑の質問に答えた。
『ああ、確か、三人程(ほど)いましたよ』
それを聞いた緑は飛びついた。
『本当ですか!?』
しかし、緑の期待は看護婦の次の言葉で、外(はず)れるのだった。
『ええ、でも、もう退院されました』
言われた緑はがっかりして、肩を落とし、残念そうにこう一言、返した。
『そうですか……』
すると、今度は逆に看護婦が訊(き)いて来た。
『お知り合いですか?』
曖昧(あいまい)に緑は答えた。
『いえ、ちょっと気になったものですから』
そこで緑は看護婦の仕事を止めていた事に気づいた。
『あ、すみません、引き止めちゃって』
陳謝(ちんしゃ)する緑に、看護婦は首を横に振って、詫びの言葉を否定した。
『いいえ、どうぞお気になさらず、それでは私はこれで』
食器を置かれていた元の場所に戻すと、棚を引いて病室を出て行った。
『だ、そうですよ』
緑はドリアードに話し掛けた。
〈そうかい、それは残念だねぇ〉
そう返すと、つまらなそうな声を出した。
〈緑も暇(ひま)になったねぇ〉
『そうですねぇ、時間に空きが出来(でき)ちゃいましたね』
でも、と緑は逆接(ぎゃくせつ)すると、続けた。
『収穫(しゅうかく)は得(え)られましたよ』
そう言うと、小さく笑(え)んだ。
ああ、と言葉で頷(うなず)くとドリアードは説明するように、言葉を並べた。
〈あいつらが誰と契約したのかは分からないけれど、その宿主になった人物が恐らくだが、三人はいるかもしれない〉
そこまで話すと、続きは緑にバトンタッチした。
『ええ、それが分かっただけでも、小さなものですが、進歩ですよね』
〈ただ、やっぱり〉
『その仲間が』
二人がそれぞれで言った言葉が一つに合わさった。
「気になります(る)よねー」
『でも、その人達はもういないし、私達は動けないから、探そうにも出来ないし』
緑の言葉に二人は溜め息をついた。
『動く事無く、仲間を探し出す方法があればなー、例えば仲間同士で意思を通じて会話で連絡を取り合うとか』
ドリアードは緑に言った。
〈うーん、そうだねぇ、水や風の精霊なら情報や知識を収集したり伝達するのにむいてるんだけど、あたいは木の精霊だからねぇ……って、そうか、それだ〉
閃いたように、ドリアードは喋った。
『ドリアードさん?』
その様子の変化に、声で気がついた緑がドリアードの名前を呼んだ。
ドリアードはそれに答えず緑の頭の中で眼を閉じて、気を集中させて行った。
『?どうしまし』
いきなり何も言わなくなったのが心配になって話し掛けて来た緑に、ドリアードはシーと口止めをした。
注意を受けた緑がそれに従い、大人(おとな)しく黙り込むと、ドリアードは改(あらた)めて、眼を瞑(つむ)り、自分の中の全神経を集中させた。
〈こちら、ドリアード、契約に寄りて、現実に来られたし精霊達よ、我が声に応(こた)えよ〉
唱えるようにドリアードは喋った。
その直後、緑の頭の中で何者かの声がした。
〈こちら、ウィル・オ・ウィスプですわ、如何(いかが)なさいましたの?〉
それが聞こえた緑は、思わず声を上げて驚いた。
『わっ』
〈カーカカカ、こちらジャック・ランタン、どうしたー?トラブルかー?〉
〈ちーす、こちら、サラマンダー、呼んだか?〉
〈やっほー、こちらウンディーネ、聞こえますかー?〉
自分達以外の声を四つ聞いた。
〈よかった、ちゃんと繋がるみたいだね、みんなは今、何処(どこ)にいるんだい?あたいは宿主と一緒に病院だよ〉
ドリアードの質問に、他の精霊達が答えた。
〈私は宿主と一緒に学校ですわ〉
〈カーカカカ俺様もだぜ〉
〈俺も同じだ〉
〈あら、私は宿主と一緒に家にいるわよ〉
ウンディーネの答えに疑問を持った、ドリアードが訊ねた。
〈まだ、こんな明るい時間帯なのに、家だって?ウンディーネ、あんたん所(とこ)の宿主は一体、年幾(いく)つだい?〉
言い返すように、ウンディーネが喋った。
〈違うのよ、魔王の手下に呪いを掛けられたせいで、夜しか現実の世界で活動出来なくなってしまったの〉
ウンディーネの言葉を理解したドリアードが言った。
〈成程(なるほど)、太陽の光と愛する人からの本体への口づけじゃないと解(と)けない呪いだね〉
答え合わせをするように言うドリアードの声にウンディーネは、言葉で頷(うなず)いた。
〈そう言う事〉
ジャック・ランタンが話に混ざった。
〈と、言う事は夜にその家を探せば、会いに行けるって事だな、俺様達(たち)の出番って訳(わけ)か、カーカカカ〉
サラマンダーも口を出した。
〈お前達だけじゃないぞ、俺達も探すぜ〉
ウィル・オ・ウィスプもサラマンダーに続いた。
〈みんなで力を合わせればきっと大丈夫ですわ〉
ドリアードも賛同した。
〈うん、そうだね、それが良い〉
それを聞いたジャック・ランタンからこんな声が返って来た。
〈カーカカカ、流石(さすが)は俺様の下僕(しもべ)達、そう来なくっちゃな〉
サラマンダーがツッコんだ。
〈誰もお前の家来(けらい)になった覚え無いけどな〉
ウンディーネは胸の辺(あた)りにほっこりするものを感じた。
(みんな……)
〈うん、ありがとう〉
胸に手を当てて、熱くなった目頭(めがしら)から溢(あふ)れ出て来るものを、反対の手で拭(ぬぐ)った。
〈どうした?声が震(ふる)えてるぞ〉
サラマンダーの問い掛けにウンディーネは慌てて答えた。
〈ち、違うわよ、泣いてるわけじゃないんだからね〉
此処(ここ)でウィル・オ・ウィスプが提案をした。
〈そうですわ、折角(せっかく)こうして繋(つな)がったんですから、みんなで集まりません?〉
ジャック・ランタンが賛成した。
〈悪くねーな、カーカカカ〉
サラマンダーもジャック・ランタンに続いた。
〈良いんじゃねーか、みんなで食べ物とか飲み物を持ち寄って〉
ジャック・ランタンがドリアードに訊(たず)ねた。
〈ドリアードも行くだろ?〉
大賛成でドリアードは答えた。
〈勿論(もちろん)行く行く、何それ、楽しそう〉
ウィル・オ・ウィスプが眼を輝かせて、話を続けた。
〈良いですわね、それでティータイムをしながら、ウンディーネの宿主についての情報を提供(ていきょう)しあいますの〉
一人で勝手に想像しながらウキウキしていると、サラマンダーが訊(たず)ねた。
〈それで、何処(どこ)に集まれば良いんだ?〉
ウィル・オ・ウィスプは考え出した。
〈うーん、そうですわねぇ〉
そこにドリアードが提案した。
〈だったら、うちの森を使いなよ〉
サラマンダーが問い掛(か)けた。
〈あの神隠しの森をか?〉
〝神隠し〟と聞いて、緑は青くなった。
しかし、邪魔になってはいけないと思い、今はまだ訊(き)かず、不安を抱えたまま、精霊達の会話の続きを聞いた。
〈ああ、そうさ、あそこなら、ひっそりしてるから見つかりにくくて、住人(じゅうにん)達(たち)に情報を知られる心配がない〉
ウィル・オ・ウィスプがドリアードの意見に賛同した。
〈そうですわね、それが良いですの〉
それを聞いていた三人のうち、サラマンダーが口を出した。
〈でも、俺達の情報のやり取りを気にする奴なんて、住人の中にいるか?〉
ウンディーネが反論した。
〈あら、分からないわよ、何処かで魔王の手下が聞いてるかもしれない〉
そんな意見にサラマンダーは納得した。
〈成程(なるほど)、そうか、そりゃそうだな〉
不気味で怪しげな笑い声を上げて、ジャック・ランタンは喋った。
〈カーカカカ、どうやら、俺様達の集合場所は、神隠しの森で決まりのようだな〉
ウィル・オ・ウィスプもジャック・ランタンと同じような台詞(せりふ)を言うと、話題を変えるように次の質問をした。
〈決定ですわね、それでいつにしますの?〉
サラマンダーが訊き返した。
〈なんだ、日取りも決めてないのに提案したのか?〉
ウィル・オ・ウィスプが言い返した。
〈みんなの都合を私に合わせるわけには行かないんですの〉
ドリアードが言葉を口にした。
〈自分から提案しておいて、何言ってんだい〉
サラマンダーも賛同した。
〈そうそう、水臭(みずくせ)え事言いっこ無しだぜ〉
ウィル・オ・ウィスプは頷いた。
〈うん、そうですわね〉
先程ウィル・オ・ウィスプが言った質問をジャック・ランタンが繰り返した。
〈カーカカカ、で、いつにするんだ?〉
ウィル・オ・ウィスプは答えた。
〈明日が丁度金曜日ですから、今日と明日で情報を収集して、明後日(あさって)の土曜日に集まると言う事で如何(いかが)ですの?〉
ドリアードが賛成した。
〈良いね、緑も多分(たぶん)だけど、明日には退院だろうし〉
ジャック・ランタンもこう言った。
〈カーカカカ、俺様もそれで良いぜ、活動するのは基本的に夜だから、日付けなんて関係無いしな〉
ウンディーネが納得した声を出した。
〈ああ、成程〉
サラマンダーが意見を纏(まと)めた。
〈じゃあ、明後日の土曜日、神隠しの森に集合って事で〉
そんな精霊達の会議を聞いていた緑の耳に、コツコツと硬そうな音が届いた。
音が聞こえた方を向いてみると、一羽(いちわ)の青い鳥が嘴(くちばし)で窓を叩いていた。
〈ねえ、開けて、開けてよ、中に入れて〉
少年のような声で、そう聞こえた。
『え?何でですか?』
緑が問い掛けると、青い鳥は急き立てるように答えた。
〈分からないの?これ見てよ〉
そう言って、身体(からだ)の向きを変えると、自分の翼を見せた。
上部に怪我があった。
傷口は大きく、深いものだった。
『うわぁ……』
それを見て、緑は顔を顰(しか)めた。
〈もう、羽が限界なんだ、お願いだから中に入れて〉
せがむ青い鳥の頼みを緑は聞き入れた。
『わ、分かりました』
緑は鍵を解錠して、窓を開けた。
青い鳥は吸い込まれるようにして、病室内へと入室した。
そして、窓の桟(さん)に、足を引っ掛け(ひっかけ)て止まった。
〈ふぅー、これでやっと休める〉
溜め息を漏らして、安心したように青い鳥は喋った。
『こんな酷(ひど)い傷、一体、どうしたんですか?』
気になった緑は、青い鳥に訊ねた。
〈猟師(りょうし)に撃(う)たれたんだ〉
脱力するように、残念そうな声でそう答えた。
『そんな、痛むんですか?』
続けて緑は訊いた。
〈まあね、やっとの思いで、此処まで飛んで来たんだ〉
青い鳥は自慢するように胸を張った。
『お辛かったでしょう、大変でしたね』
労(いたわ)るように緑は労(ねぎら)いの言葉を掛けた。
苦しそうな顔をして。
〈お姉ちゃんがそんな顔する必要無いよ、支(ささ)えてくれるみんなの力があったから、痛さなんてへっちゃらだったよ〉
『みんなって?』
緑が訊ねると、病室の引き戸が開(あ)いて、看護婦が駆け込んで来た。
『あ、森山さん、大変です、すぐに逃げて下さい』
切羽詰(せっぱつ)まったような声で、緑にそう言った。
『何があったんですか?』
緑が訊ねた。
今度は看護婦が急き立てるように喋った。
『説明してる暇(ひま)はありません、とにかく、今すぐ逃げて下さい、でないとたいへーーーきゃあっ』
話している途中で、看護婦の身体が浮き上がった。
よく見ると、何者(なにもの)かの手が、看護婦を、まるで猫がそうするように、襟(えり)元で掴(つか)み上げていた。
茶色でふさふさした毛に覆(おお)われていて、鋭(するど)く長い、伸びた爪をしていた。
その手の持ち主は、持ち上げた看護婦を横に移動させると、その場に降ろした。
手の持ち主の正体は、熊だった。
〈やあ、お見舞いに来たよ〉
鳴き声でそう、話し掛けた。
『お見舞い?』
訊ねるように緑は返した。
〈うん、みんなも来てるよ〉
言葉で頷くと、熊がそう言った。
『みんな?』
再び緑が問い掛けるように、言葉を返した。
熊がわざとらしく、脇(わき)に逸(そ)れると、幾(いく)つかの、ずらりと横に並んだ影があった。
それぞれ、ウサギ、アヒル、イヌ、ネコ、ネズミ、キツネ、タヌキと、動物達が集まっていた。
熊に続くようにして、七匹も病室の中に入った。
〈具合いどう?〉
医者にも訊かれたのと似たような事をウサギは訊いた。
〈大丈夫?〉
アヒルもお決まりの質問を訊ねた。
『ご覧の通り、健康そのものよ』
片腕をぐるぐる回しながら、緑が答えていると、こんな声が飛んで来た。
『何だこれは』
その声に反応して、動物達と聞こえた方に振り向くと、引き戸が開けっ放し(あけっぱなし)になっていた入り口のすぐ側(そば)に、医者が立っていた。
『これじゃあまるで動物園じゃないか』
そう言って叱りつけるような声を医者が出していると、看護婦が近寄って来て言った。
『す、すみません、止めたんですけど、効かなくて』
こんな声が医者から返って来た。
『またか』
憂鬱(ゆううつ)そうに頭を抱えた。
『これでもう三回目だぞ』
看護婦が悩みを相談するように言った。
『なんとか、解決する方法が無いものでしょうか』
すると、とある声が二人の間に割(わ)って入った。
『ありますよ』
声のした方に二人は一斉に振り向いた。
「!?」
緑だった。
今までの話を聞いていたらしい。
『こら、大人の話に子供が口を出すんじゃない』
医者が窘(たしな)めた。
しかし、看護婦からの次の一言が、それを打ち消した。
『どんな方法ですか?』
医者が呼び止めた。
『お、おい』
けれど看護婦は言う事を聞かず、緑に答えを求めた。
『そんなに難しい話じゃないですよ、私を退院させれば良いんです』
と、緑は答えた。
『退院、ですか?』
看護婦が訊ねた。
『何を言うかと思えば、自分が思うように動けないからと言って、出鱈目(でたらめ)を言うんじゃない』
医者がそう叱った。
『動物達の狙(ねら)いは私です、その証拠に、今、此処に動物達が集まっています、これを見ても出鱈目を言っていると言えますか?』
緑に言い返されると、医者は押し黙った。
『ぐ……』
更に緑は言った。
『私を退院させれば、動物達もついて来ますから、こんな風に病院に来る事は無くなる筈(はず)です』
看護婦が納得して、右の握(にぎ)り拳(こぶし)で、左の掌(てのひら)を打った。
『あ、成程』
緑は言った。
『これからも入院したまま、動物達をお見舞いに来させるのと、退院を早める事になってしまうけど動物達に私ごといなくなって貰うのとどっちが良いですか?』
訊かれた医者は、言葉に詰まった。
『う……うぬぬ』
看護婦も緑に続いて、詰め寄った。
『先生、どっちなんですか?』
医者はせめてもの抵抗とばかりに、看護婦に言い返した。
『君はどっちの味方なんだ』
看護婦が当たり前のように言った。
『勿論(もちろん)、患者さんの味方ですよ、決まってるじゃないですか』
医者がずっこけた。
『ああ、そうかい』
他に反論を考えた医者だったが、それらしい言葉は浮かんで来なかった。
『くっ……親御(おやご)さんに連絡してくれ』
なんとか絞り出した言葉がこれだった。
『はいはーい』
楽しそうに喜々(きき)として看護婦は返事をすると、病室を出て行った。
『迎えが来るまでの間(あいだ)暇だろう、リハビリでもしながら待ってたらどうだ?』
緑はこう答えた。
『あ、良いですね、それ、じゃあ、リハビリも兼(か)ねて、トイレに行って来ます』
ベッドから降りると、しっかりと自分の足で立ち、
医者に訊ねた。
『何処ですか?トイレ』
信じられない光景を目(ま)の当たりにした医者は、硬直した。
『先生、どうしました?』
緑の声が耳に届いたらしく、医者は我に返った。
『病室を出ると、すぐ側(そば)がトイレだ』
そう教えられると緑は礼を言った。
『分かりました、ありがとうございます』
動物達が道を空けると、スタスタと病室を出て行った。
誰にでも想像がつくように、緑はすぐに戻って来た。
ベッドに腰掛けると、医者は言った。
『病気や怪我のような異常も見られないし、これなら退院しても大丈夫だな』
緑が言葉で頷いた。
『ですよね、お母さんまだかなー』
早る気持ちを抑(おさ)えながら、緑は母親を心の中で急(せ)かした。
『それじゃ、これで』
医者はそう言って、入り口に向かって歩いて行った。
『まったく訳(わけ)の分からん事ばかりだ』
出た病室の引き戸を閉(し)めながら、そう零(こぼ)して。
二人の医療従事者がいなくなると、一人になった緑は、自分の頭の中に住んでいる精霊に声を掛けた。
『終わりましたか?』
ドリアードから返事が聞こえた。
〈ああ、話はついた、早速(さっそく)今日から情報を集めるよ〉
緑は言葉で頷いた。
『了解です、でもその為(ため)には、一刻も早く家(うち)に変えらないと、ああ、お母さんはまだかしら』
と、言っていると、ウサギが緑に聞こえる言葉で喋った。
〈ん……?〉
象徴を現している特徴的な耳がヒクヒクと動いた。
何らかの音を聞き取ったらしい。
『どうしました?』
気になった緑が訊ねた。
〈足音が三つ……こっちに近づいて来るみたい〉
それを聞いた緑は嬉しさのあまり、思わず声を出した。
『本当ですか!?ああ、いよいよだわ』
願い事をするように右手と左手を合わせて組み、二つの眼を輝かせながら言った。
やがて、こちらに向かって来ている三つの足音が緑の耳にも届き、鳴り止むまでそれをワクワクしながら聞いていた。
それから五分程時間が経過した頃だっただろうか。
コツコツと、病室の引き戸を軽く叩く音がした。
(来た!)
心の中でそう思いつつ、平静(へいせい)を装(よそ)おって、緑は返事をした。
『はーい、どうぞ』
引き戸が開(あ)くと、私服姿の女性が入って来た。
『緑、ああ、よかったわ、大丈夫になったのね』
女性は緑を見るなり、そう言いながら抱き締めた。
『あのまま、これからもずっと、目が覚めないんじゃないかって、心配だったんだから』
そう言い終えると、女性の後に続いて医者と看護婦も、頃合いを見計らったかのように、また病室の中に入って来た。
『お母さんたら、苦しいわ』
緑が返した。
『娘さん、無事、順調に回復してよかったですね』
抱きついたままの母親に医者は言った。
『あ、先生、看護婦さんも、この度は娘がお世話になりまして』
掛けられた声のお陰(かげ)で気づいた母親が、二人に向き直ると、頭を下げた。
『いえ、何、娘さんの生命力がそれだけ強かったと言う事ですよ』
医者が謙虚に返した。
『ん?』
両脇から刺さるような何かの気配を、顔を上げた母親は感じた。
左右交互に首を動かして、振り向いて見ると、そこにはベッドと入り口の間のスペースを空けて、端(はじ)っこにはけた動物達の姿があった。
『きゃあ!』
母親は短い悲鳴を上げた。
アンドルイド 高樫玲琉〈たかがしれいる〉 @au08057406264
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