#ENDERGLOWN19728

十文字青

#ENDERGLOWN19728


 ヴェルハギウム十三王子の一人であるアザニは、天翔る愛龍グンニヴルの鞍上から屍者の行進を見下ろしていた。


 地上は人類かそれに類似した形態のものだけでも推定百三十億超のおびただしい屍者どもに埋め尽くされている。

 その全てが嘗てれっきとした生者だったという事実がアザニにはまず信じがたい。


 ヴェルハギウムのみならずエンダーグローンの帝国を構成する全王国及び共和国の人口を総て足しても、一億に届かないのだ。


「こんなもの、どうやって食い止められる――」


 既にアザニの兄二人が屍者の行進阻止に挑んで愛龍もろとも散華していた。


 屍者どもの根源を探るべく旅立った長兄ドールダンは杳として消息がわからない。


 先つ日、屍者の行進から突如として巨大な飛翔体が飛び立った。のちに屍鳳鳥と名づけられたこの飛翔体は、ヴェルハギウムに来襲する進路をとったため、次兄ラブリーズが迎撃して討ち果たしたものの、払った犠牲は大きかった。ラブリーズは愛龍を喪ったばかりか深手を負い、生命維持装置によってかろうじて生きながらえている。


 帝国随一の龍戦士として名高い次兄がみまかれば、ヴェルハギウム十三王子は実質、九王子と成り果てるのだ。


「無力だな、ボクは――」

 風防面頬内で呟くアザニ自身の声が呼吸音とともに増幅されて虚ろに響いた。

 遅滞なく前進しつづける屍者の行進をこうして上空から偵察する以外、アザニにできることはない。

 実はそれすらも、ヴェルハギウムの主戦力であり生命線である六方飛龍軍の大将らに再三再四諫止された。


 十三王子の駆る龍は、六方飛龍軍の龍乗りである龍士、その最精鋭たる龍戦士たちの飛龍とは別種と言ってもいいほど異なる。飛龍は四脚二翼一尾だが、十三王子の龍は六脚四翼にして尾は二股か三股に分かれており、飛龍との交配もできない。飛龍より生みだされし種でありながら、龍種の源流である祖龍種に近いともいわれ、真龍と称されている。飛龍とは体格が大きく違い、戦闘能力、飛行速度も格段の差があるのだ。従って、六方飛龍軍の龍戦士たちでさえ十三王子の真龍には追いつけないので、随行して補佐や護衛の任を果たすことが十分にできない。自然、真龍に乗る十三王子が出撃すれば何を目的とするのであれ、基本的には単独行にならざるをえないのだ。


「だからって、じっとしてられないだろ。屍者は命あるものなら動物でも植物でも手当たり次第に食らって、腐物か屍者のともがらに変えながら前進しつづける。このままじゃ、ヴェルハギウムだけじゃない、エンダーグローンが……人類が、滅ぶ――」

 そのときアザニが「ンッ……」と風防面頬内で眉をひそめたのは、愛龍グンニヴルが心鳴によって訴えかけてきたからだった。


 心鳴は龍種特有の音波とは異なる波動で、本来同属しか感知しえないが、脳内に専用の感応器を埋めこんで訓練を受けた人類種であれば、それを風防面頬の感受器と接続することによって聞きとれる。ただし、闕贐萋灎嬖鐇といった文字の羅列のようなものとして大脳左半球に流れこんでくる心鳴を適切に解釈できなければ、心鳴は痛みすらもたらす意味不明の刺激でしかない。


 アザニの左脳は無論、心鳴を解釈しうる。グンニヴルは注意を喚起し、最大限とも言えるほどのきわめて強い調子で警戒をうながしたのだ。


 山野をほとんど隙間なく覆って地形そのものと化している屍者どもの一部が盛り上がった。風防面頬の視界確保眼鏡越しに、アザニはまさにその瞬間を目撃した。ということは、グンニヴルはそれが起こる何らかの前兆を感じとってアザニに報せたのだ。


 屍者どもの隆起は見る間に膨れ上がり、山というよりは巨塔の様相を呈しつつある。その巨塔の頂は、明らかにアザニを乗せた真龍グンニヴルに向けて今現在も刻一刻と伸張しつづけている。


 現在グンニヴルは四翼を羽ばたかせずに滑空しているとはいえ移動中だ。それにもかかわらずアザニは屍者どもによって形づくられる巨塔の頂、細まったその先端部を目視することができている。空中滑走するグンニヴルに合わせて屍者の巨塔先端部も動いているということだ。


「来るのか――」

 アザニは左手で手綱を握ったまま右手でグンニヴルの頸をさわった。龍戦士用の手甲は耐冷耐熱性能と耐久性にすぐれるだけでなく、龍鱗の感触を余さず伝えてくれる。自身の頸にアザニがふれたことを当然グンニヴルも感じている。龍は偉躯を誇る生き物だが、きわめて鋭敏な感覚を有しており、繊細な感性をも併せ持つ。龍が心鳴で吟ずる詩歌は太古の偉大なる文学作品もかくやと思われるほどだ。

「一度きりの現象じゃなかった。来た――」


 屍者の巨塔が特大の槍となり、屍者どもの地平から放たれた。

 グンニヴルめがけて飛んでくる。

 その直後だった。

 屍者どもの特大槍は翼を広げた。あるいは翼のごとき造形物と呼ぶべきかもしれないが、いずれにしてもそれを下方に叩きつけるかのように動作させることで、上昇速度が甚だしく上がった。

 形態からしてもはや屍者の巨塔でも特大槍でもない。

「屍鳳鳥――」


 グンニヴルはアザニが指示するまでもなく滑空から全力飛行に移行し、迫り来る屍鳳鳥を引き離そうとしている。

 アザニは次兄ラブリーズと屍鳳鳥との戦闘状況を六方飛龍軍司令部で即時監視し、戦闘後には全資料及び測定情報を繰り返し閲覧した。屍鳳鳥の速度は頭に入れていたつもりだが、これほどまでとは考えていなかった。実際の相対速度よりも疾く感じているのか。実戦ではままあることだが、それにしても疾い。疾すぎる。次兄ラブリーズの愛龍フラガリヤは屍鳳鳥と五十七秒交戦した後、一時離脱しようとしたが果たせなかった。アザニのグンニヴルよりも年長で加速にすぐれていたフラガリヤでさえ、屍鳳鳥を振りきることはできなかったのだ。グンニヴルは遠からず屍鳳鳥に捕捉される。

「ヤツを墜とすぞ、グーヴ――」

 アザニが愛称で呼びかけると、グンニヴルが心鳴で薆將槑櫺と応えた。アザニに言われるまでもなくグンニヴルはやる気だ。


 見ればすでに屍鳳鳥に肉薄されているかのようでもあるが、恐怖心と焦燥からくる錯覚にすぎない。まだ距離はある。


「けぇぇッ、転回ッ――」

 アザニが号令を掛けた途端、グンニヴルは四翼を一斉に折り畳んだ。これによって真龍はただ落下しはじめただけにとどまらない。急角度に降下しながら螺旋状に旋転しだした。錐揉み降下だ。

「ッッッ……――」

 アザニはその前に手綱を最短に調節し、鐙の位置も固定形式に変更していた。龍鞍は緊急時に騎乗者の腰部や上腿を束縛する機能も備えており、それは作動している。おかげで空中にアザニが投げだされる危険はないはずだが、本当にそうなのか疑わしい。もしアザニの肉体がちぎれてしまえば束縛具などまったく無意味だ。死にものぐるいでグンニヴルにしがみついているアザニの努力は無に帰してしまう。

「ンンンンッッ――」

 なんとかアザニが四分五裂する前にグンニヴルが身をよじって四翼を広げ、急停止した。骨も内臓も血肉も五感も振り混ぜられて何が何やらわからない今のアザニには認識できないが、グンニヴルが屍鳳鳥と正対したに違いないと思考することはかろうじてできた。そのためにグンニヴルはわざと錐揉み降下したのだ。交戦するのなら背後をとられた状態は圧倒的に不利だが、旋回して有利な位置を確保しようにも速度では相手が上だから実現可能性がない。陸上のように回れ右することも叶わないのだから、錐揉み降下からの停止によって急転回するしかない。


 それから二秒と経たないうちにグンニヴルと屍鳳鳥は激突した。


 次兄ラブリーズとその愛龍フラガリヤが八百六十三秒間交戦した測定情報が存在するにもかかわらず、ヴェルハギウム計測演算省は確実に有益と認められる屍鳳鳥についての解析資料を作成できていない。屍鳳鳥の生態や戦術に関する資料はどれも推測の域を出ていなかった。

 身をもってそれを味わった、否、現在進行形で味わっているアザニも、わけがわからない、としか言いようがない。

 正確には、言いようさえない。

 何も言うことができない。

 考えることも、思うこともできない。

 おそらく何か感じてはいるのだろうが、いったいそれが何なのか把握できない。


TYEEEEEHHHHHHNNNNNNNNNNHHHHHHHHHHHHHHH――


 気がつくとグンニヴルが咆えながら垂直降下していた。

 アザニはさかんにグーヴ、グーヴ、グンニヴルと愛龍に呼びかけているつもりだが、果たして声は出ているのか、発声する機能が自分に残っているのか、定かではない。

 踏んばりがきかない、という感覚はある。愛龍の手綱を握っている実感もない。少なくとも、右手は。

 グンニヴルも無傷ではないはずだ。それどころか満身創痍だろう。


「生き残る、ぞ――グーヴ……――」


 グンニヴルが心鳴で狠羣抛骭と返してきた。

 アザニは少しだけ笑った。


 間違いなく屍鳳鳥はグンニヴルに追いすがろうとしているに違いないが、アザニは敵影を目視して確認しようとはしなかった。現状の身体機能でそれが可能なのかという問題はさておき、愛龍に任せておけばいい。いかなる人類も種として龍に優越することはないのだ。龍士たちの頂点に君臨する龍戦士だろうと、龍を敬し、龍を愛し、龍を信じ、龍と生死をともにすることでこの超越生物の親愛にひたすら応える以外、できることはない。


 グンニヴルは屍者どもが覆い尽くす地表を目指して真っ逆さまに落ちていった。墜落の衝撃はすさまじく、アザニは数秒かそこら気絶した。


 アザニが意識を取り戻すと、愛龍は屍者どもをかき分けて地上を疾駆していた。このまま屍者どもに埋もれてグンニヴルもろとも死ぬのか、屍者の行進の一部と成り果てるのかとは微塵たりとも思わなかった。


「行け……行け……グーヴ……行ッ……けぇぇ……――」

 巒頄遶琿とグンニヴルが心鳴で応じる。


 あくまでもヴェルハギウム計測演算省の推測にすぎないが、屍鳳鳥は飛翔体であり走行体ではない。龍はしかし、地を駆けることも得手とする生き物だ。

 グンニヴルは屍鳳鳥に、謂わば、駆けっこを挑んだのだ。

 屍鳳鳥に飛力ほどの走力がないとは限らないし、飛行して追跡してくることもありうるから、賭けではあった。


 のるかそるか、とは考えまい。

 愛龍が選んだのだから、これでいい。

 これしかありえなかった。


「グーヴ――」

 行け。

「グンニヴル――」

 奔れ。

「グーヴ――」

 どこまでも奔り行け。


 アザニは一度だけ振り返りたい衝動に駆られた。何か途方もないものがすぐ背後にいる気配がしたのだ。だとしたら屍鳳鳥に違いない。それでもアザニは振り向かなかった。


 遂に愛龍が屍者どもを振り払いながら飛び立った。

 いまだ屍鳳鳥に追いつかれていない。追いつかれていたら飛べはしなかった。

 頭上を屍鳳鳥に押さえられてもいない。屍鳳鳥が先に飛んでいたらとうに襲われている。


 グンニヴルは屍者の行進すれすれの超低空を飛びつづけた。そうすることに何か利があると愛龍は判断し、どうやらそれは功を奏しているようだ。


 とうとうグンニヴルは屍者の行進の最先頭を飛び越した。

 さらに数粁進んだところで速度を緩めたのではなく、維持することができなくなったのだろう。

 高度も急落した。

 向かう先には廃墟同然の建物が並んでいる。

 衝突することでしか止まれまいとアザニは思ったし、身体機能はいくらか回復しているものの、十分な耐衝撃姿勢をとることまでは望みえないから、どうにか力の入るところにだけ力をこめ、あとは運を天に任せるしかない。

 アザニはそうした。

「――ッッッッッッッ……――」



 これはエンダーグローン19728年として記録される時間軸の一点で起こった出来事だ。



 我に返ると、アザニはまだ龍鞍に取りすがっているというよりも束縛具によって縛りつけられていた。

「……グーヴ?」

 愛龍は囨緲と心鳴で応じたが、いかにも弱々しい。


 風防面頬の視界確保眼鏡が、砕け散ってこそいないものの、ほぼ全面に亘ってひび割れている。これでは視界確保どころの騒ぎではない。


「……転生……するしか、なさそうだ……な。グーヴ……できるよ、ネ……?」

 柰獒、とグンニヴルは心鳴で応じた。

 ならばアザニは龍鞍から離れないといけない。


 風防面頬がまずもって邪魔だ。どのみち心鳴感受器以外の各種機能は停止している。一時的な機能停止ではなく壊れてしまっているのだろう。苦労して風防面頬を脱ぐと、それはアザニの左手からこぼれてしまった。

 右腕は案の定、失われていた。

 左脚もまた原形を留めていないが、右脚は比較的ましだ。

「同じ側の腕と脚だったら……まずかったな……不幸中の、幸い……か……フッ……」


 もとより瓦礫に半ば埋もれている愛龍が負った傷はアザニの比ではない。

 六脚のうち五脚はとても脚とは呼びえない惨状で、残存する一脚も当然無事ではなかった。

 四翼はその全てがむごたらしく傷んでいる。それでもここまで飛んでこられたのは、左右それぞれの一翼がどうにか翼の形を保っていたからだろう。

 二股の尾は跡形もない。

 七割から八割の龍鱗が剥ぎ取られるか切り裂かれるかして、あちこちから骨が覗き、露出した臓物は損傷を受けている。滴り落ちる龍血は元来白濁しているのだが、黄濁の様相を呈していた。この変色は生命活動の極端な低下を示す証左だ。


 アザニは試行錯誤の末に束縛具から自らの体を解放し、龍鞍から転げ落ちた。

 龍鞍に様々な装備が据え付けてあり、それらを使いたくはあったが、痛ましいばかりの龍体を支えに立ち上がったところで、欲しい装備にはとうてい左手が届かない。やむをえず龍戦士用の自在刀を抜き、その刀身を一米余りまで伸張させると、アザニはこれを杖代わりとして用いることにした。


「グーヴ――」

 アザニが呼びかけても心鳴は聞こえない。心鳴感受器を備えた風防面頬を被っていたとしても、もう愛龍の心鳴を聞きとることはできないだろう。


 グンニヴルは死のうとしている。


 もっともそれは本当の死ではない。真龍は即死さえしなければ生存しうる。これは祖龍にあった特質と同一のものだという。龍と龍とを掛け合わせ、交配に次ぐ交配の果てに生まれた真龍は、ついに先祖返りを果たした。真龍に心臓はないが、循環器系の中枢としても働く別の器官を生まれ持つ。その器官とは骨より硬い龍内殻に鎧われた幼体龍で、幼体龍の中にも幼体龍がある、というよりもいる。その幼体龍の中にも幼体龍がいる。


 今、グンニヴルの体内では龍内殻が自壊しつつあるはずだ。龍内殻の構造が崩壊したら、幼体龍がグンニヴルの体外に這い出てくるだろう。幼体龍が成長すれば、新たなグンニヴルとなる。新たな、と言っては語弊があるかもしれない。転生によって体色や骨格に変化が認められることはあるというが、同一個体だ。転生前も転生後もアザニの愛龍グンニヴルであることに変わりはない。


「とりあえず、ボクは待つしか――」

 アザニは独言を中断して右方に視線を向けた。

 物音らしい物音は聞いていないから、その人物は初めからそこにいた、ということなのか。十二米ほど離れているとはいえ、今まで目に入っていなかったとは考えづらい。ということは、その人物は一切音を立てずに移動してきたのか。古びた舗装路は破損しており、建材の破片がそこらじゅうに散らばっているのにもかかわらず、そのようなことが可能なものか。


 その人物は小柄だ。アザニも全人類種の平均に達するか達しないかといったところだが、その人物の身長ときたら百四十五糎程度だろう。あらわになっている顔部の皮膚は透きとおるほどに白く、瞳は青白色で、頭髪は自然白金のような色合いだ。防護服らしき厚手の上衣を身につけ、両手をその上衣の衣嚢に突っこんでいる。脚衣は薄手だが、おそらく何重にも重ね穿きしているのではないか。靴は軍靴を思わせる堅牢そうな作りだ。しかし上衣も脚衣も靴も白か白に近い。北方の雪原で活動する部隊でもなければこのような配色の装備を用いたりはしない。


「――ジェステル……?」

 アザニは杖にしている自在刀なしでも自立できるかひそかに確認した。


 その人物の頭部には特異な突起物がある。それは一部哺乳類種の垂直に立ち上がった耳のようでもある。


 身体的特徴からいってその人物はまさしく人物であり、すなわち人類の範疇に属するものと思われる。しかしながらあのような形状の立ち耳を持つ人類種はきわめて稀だ。耳のようでいて耳ではないともいう。


 稀だからこそ、名高くもある。誉れ高いとは言いがたい。なぜ稀少かといえば、弾圧を受けたからだともされている。排斥されたのにはそれ相応の忌むべき理由があったからだともいう。そうした人類種がいると聞き及ぶことはあっても、直接目にする機会はめったにない。アザニもこれが初めだから、確信を持つことはできずにいた。


「あァん……?」

 その人物が口を開くと、ちらりとだが鋭い犬歯が見えた。寒くなどないのに、吐く息が白い。

「ジェステルで何が悪ィーンだァ? タコしちまうぞォ、ビチグソがァ……」


「いや――」

 アザニは念のためもう一度自在刀なしで、つまり右脚一本で動けそうか確かめながら首を横に振ってみせた。

「悪くはない。ただめずらしいから。場所が場所だし、ネ」


「ハッ……」

 異形種ジェステルの、少女なのだろうか。若年の女性のように見える人物は、転生しようとしているグンニヴルを一瞥した。

「そのくたばってやがるビチグソ龍だってだいぶめずらしィーだろ。並のビチグソ龍じゃねェ。テメェーもしかしてビチグソ龍戦士ってヤツか? まさかビチグソヴェルハギウムのビチグソ王子じゃねェーだろォーなァ?」


「ビチグソビチグソって、人をクソか何かみたいに……」

 アザニは苦りきるふりをしつつ迷っていた。正直に身分を明かすべきか否か。

 この地域は現在もエンダーグローンの勢力圏内だが、どの王国もどの共和国も影響を及ぼしていない。エンダーグローンが退避命令を出して久しいからだ。屍者の行進が間近に迫っている現状からしても無人であるべきだし、当然廃墟しかないものとアザニは思いこんでいた。


ゆきうさぎ!」

 瓦礫の山の向こうから声がした。間髪を容れず異形種ジェステルの人物がそちらを振り向いたので、雪兎というのはジェステルの識別名か固有名なのだろう。


 間もなく声の主が瓦礫の山を回りこんで姿を見せると、アザニは悪い夢でも見ているのではないかと怪しまずにいられなかった。

 これまでただ一度しか発生していない屍鳳鳥が再度出現し、愛龍グンニヴルが即死こそ免れたものの転生を余儀なくされた。

 屍者の行進にのみこまれようとしている退避命令地帯で、稀有な異形種ジェステルに出くわした。

 そして今度は、ジェステルの雪兎ほど小柄ではないにせよ、少女とも少年ともつかない華奢な人類種が、単なる赤毛とは見るだにわけが違う真紅の長い毛髪をなびかせてやってきたのだ。


 むろんアザニは即座に染色の可能性を考えた。専用の染料で染め抜かなければ、人類種の毛髪があれほどまでに鮮やかな色彩を現出することはありえない。だとするなら、毛根に近い部分は真紅とは別の地色であるはずだ。さもなければ染めたてということになるが、地色らしき色は見あたらない。エンダーグローンが退避命令を出している地帯でまめに染髪しているのだとしたら、たいそうな骨折りだ。何かおかしい。違和感がある。というよりもやはり、ありえない。


 だいたいにおいて毛髪の色だけではなかった。その少女だか少年だかの瞳は完全にアザニの意表を衝いた。黒でも褐色でも青でも緑でもなく、それらの濃淡色や中間色でもなければ、色素欠乏症者に見られる赤でもない。


 あれは――何て色だ?


 思わずアザニはそう自問した。見たこともない色というわけではない。人類の瞳、しかも、虹彩だけでなく瞳孔までもがその色合いを帯びているように見えるというのは、まさしく異色なのだ。


 真紅の髪を持つその少女だか少年だかの瞳は橙色に輝いていた。


「そいつなの? 雪兎――」

 少女だか少年だかは雪兎のそばで足を止め、橙色の目でアザニを射すくめた。

「ヴェルハギウムの龍士? 怪我してるけど。見た感じ重傷じゃない? 痛くないの?」


「あぁ――」

 アザニはつい下を向いた。

「これは……大丈夫。ボクの腕と脚は、義肢だから。擬似痛覚は備わってるけど、重度の損傷では自動的に切れるように調整されてる」

「腕も脚も本物じゃないってこと? 全部? どっちとも?」

「まあ、ネ。内臓の一部も人工臓器で――」

 アザニは愕然として口をつぐんだ。


 何を言っているんだ、ボクは。


 ヴェルハギウム十三王子の末席を汚す者が出来損ないであることは、べつだん機密事項ではない。むしろ、宮廷関係者や六方飛龍軍の軍人、軍属まで、知らない者のほうが少数だろう。民間でも首都居住者ならアザニの渾名を耳にしたことがあるか、口にしたこともあるに違いない。


 半王子、と。


 十三王子の中で蔑みと憐れみだけこめられた異名で呼ばれているのはたった一人、アザニだけだ。アザニがあの半王子であることはヴェルハギウムでは周知の事実といっても過言ではない。


 だからといって、何も半王子呼ばわりされている理由を自らつまびらかにすることはない。義肢についてはともかくとしても、生まれつき内臓まで揃っていなかったというごくごく私的な身体情報を明かす必要がどこにあるだろう。


「ふうん」

 少女だか少年だかは一つ息をついた。

「じゃ、どう見ても痛そうだし放っといたら死んじゃいそうだけど、痛くはないしとりあえず死ぬってこともないんだね? そりゃ何より」

「マァーリアァ」

 雪兎も息をついた。わざとらしいほどに明瞭なため息だった。

「テメェー何こォーんなビチグソヤロォのコトまで心配してんだァ? いつも言ってっけどよォ、悪ィークセだぞァ?」

「心配なんかしてないし。するわけないだろ。ヴェルハギウムの龍士なんて関係ないんだから」

「ただの龍士じゃねェーよ。龍が段違いだしよォ。ビチグソ六方飛龍軍はビチグソビビって最前線になんざ出てこねェーわ。きっと十三王子だぜ?」

「余計どうでもいいってば。きみが言うビチグソアッパーの人ってことでしょ」

「まァ-なァ。ケドよォ、屍者の行進のほうから飛んできたんだろァ、ソイツ。度胸だけはあんじゃね?」

「それで死にかけてたら世話ないよ。何事かと思ったけど、ようやく避難も終わって、誰も残ってないって確認できたし、行こ。ラースとハノンが戻ってくるって、今さっき無線で連絡があったから。バッテリなくなって、すぐ切れちゃったけど――」


「ちょっ……ちょっと待って」

 アザニは自在刀を支えにして雪兎と少女だか少年だかに一歩半ほど歩み寄った。たまたま自在刀を突いた先が不安定でよろめきかけると、マーリアかマリアという名なのか、少女だか少年だかが「あっ」と叫んで、雪兎が意味ありげな薄笑いを浮かべた。アザニはなんとか転ばずに体勢を立て直した。

「――避難が終わった? ようやく、だって? このあたりの住民はまだ避難してなかったのか? エンダーグローンが退避命令を出してからずいぶん経ってるはずだ。地上でここほど危険な場所はそうないくらいなのに、どうして今までとどまっていた?」


「ほとんどの住民はとっくに逃げてたよ」

 マーリアだかマリアだかが呆れたように頭を振ると、真紅の髪が花弁の渦のごとく揺れ乱れた。

「でもね、逃げられない人だっていた。それに、どうしても逃げたくないっていう人もいたんだ。逃げたってどこにも行き場がない人は少なくなかったし、ここで生まれてここで年をとったんだからここで死ぬ、それでいいんだって考える人たちを説得するのは簡単じゃなかったよ。僕だってその気持ちはわからなくもないしね」

「だけど、逃げなきゃ屍者の行進にのみこまれるんだぞ。あれがもたらすのはただの死じゃない。おぞましい、死以上の、それか、死とはまったく別の、誰も望むはずがない結末だ」

「わかってるよ、そんなことくらい。ひょっとしたら、きみは今、屍者の行進を見てきたのかもしれないけど、僕らはずっと前からここにいるんだ。屍者の行進は先遣隊を送りだしてくる。屍者たちはもう何回も攻めてきたしね」

「屍者どもに攻められて、なぜキミたちは無事でいる?」


「ンーなの、決まってんだろァ?」

 突如として雪兎が、跳んだのではない。

 あれは、飛んだ、と表現するべきだろう。

 膝を曲げ腰を落とすなどの予備動作がなかったはずはないが、アザニには見てとれなかった。雪兎が飛んでゆき、それを目で追うことができたというより、目で追おうとすることができただけでも、アザニの反射神経や動体視力からすると上出来だろう。


 雪兎はまさに屍者の行進が押し寄せてくる方向へと飛んだ。

 ただ無目的に常識外れの速度で飛んでいったりするわけがない。

 屍者だ。

 おそらくそれは四、五人の屍者が絡みあって損傷した身体を補いあった結果なのだろう。そのような大型屍者がいることはアザニも知っていた。屍者の行進を自らの目で見て、その中には大型屍者も含まれていたに違いないが、正直なところあのときは識別できなかった。


 アザニは今、大型屍者をはっきりと目にした。

 途端に大型屍者は中心から外側に向かって破裂したかのようにばらばらになった。

 雪兎が飛び蹴りを見舞って大型屍者を破壊したのだ。


「避難が終わったあとでよかった」

 マーリアだかマリアだかはたいして驚いてもいない様子だった。それどころかアザニには落ちつき払っているようにさえ見えた。


 大型屍者は分裂を強いられてもまだ不活性にはなっておらず、それぞれ雪兎に襲いかかろうとした。雪兎は衣囊から手も出さずにその屍者どもを矢継ぎ早に蹴り飛ばすと、軽々と跳躍してマーリアだかマリアだかのもとに引き返してきた。

「ンじゃ、行くとするかァ、マリア」

「だね。すぐ後続がぞろぞろ来るだろうし――」

 マリアはアザニに顔を向けた。

「きみは? どうする?」


 アザニはグンニヴルに目をやった。いつ幼体龍が体外へ出てきてもおかしくない。しかし、まだのようだ。幼体龍を待たずに去ることなどできるはずもない。

「ボクは残らないと。行ってくれ」


「そ」

 マリアが雪兎の体のどこかを叩く音がした。行こう、とうながしたのだろう。


 二人分の足音が遠ざかってゆく。

 アザニはマリアと雪兎の後ろ姿を見なかった。

 足音は地鳴りのような音にかき消されてすぐ聞こえなくなった。屍者の行進が近づいてきている。


 アザニは瞑目した。瞼を閉じたまま微動だにしないでいると、何かが地面に落下する音が耳に飛びこんできた。アザニは目を開けた。

「――グーヴ! グンニヴル……!」


 死して瓦礫に半ば埋もれた愛龍のはみ出した腸と腸の間から、それはこぼれ落ちたのだろう。体高は三十糎を超える程度だが、脚は六本あり、背中からは小さな四翼が生えている。短い尾もちゃんと二股に分かれているものの、全身を覆うのは龍鱗を形成する前段階の龍毛だ。こぢんまりとした頭頂部には短い角が確認でき、頭から首にかけて垂れのびる龍毛は何か頭髪のようでも垂れ耳のようでもある。


 アザニは五体満足であればしゃがんで迎えたかったが、自在刀を杖にして立っているしかない。それでも幼きグンニヴルはちょこちょこと六本脚で駆けてきて、アザニの右脚に頭やら首やらをこすりつけた。

「きゅう」

「グーヴ。よかった。また会えて。会えないと思っていたわけじゃないけどサ。よし――」

 アザニはどうにか身を屈めて左手を差しのべた。

「おいで」

 もはや幼体龍とは呼べない幼龍グーヴは素早くアザニの左腕に取りすがり、するするとよじ登って左肩から首に六本の脚でしっかりとしがみついた。アザニが体勢を崩さずにすんだのは、むろん転んでしまわないように努力したからだが、幼龍グーヴがあまりに軽かったせいでもある。


 あの真龍グンニヴルが、かくもいたいけな生き物として新たな生を受けたという事実に打ちのめされている場合ではなかった。今やこの半王子と幼龍こそ、屍鳳鳥と交戦して生き残った貴重な龍戦士と真龍なのだから、是が非でも本営に帰還しなければならない。生の情報を祖国に持ち帰ることで、少しでも人類に貢献するのだ。


 アザニはあえて屍者の行進が来る方向を見なかった。

 自在刀を杖にして、一歩でも二歩でもいい、とにもかくにも歩く。

 屍者の行進から遠ざかる。

 歩行にはすぐ慣れた。物心がついたときから義肢を使っている。肉体の変化に合わせて取り替えるたびに義肢は言うことを聞かなくなった。同型、同機能で寸法だけ異なる義肢でも、使用者にとっては別物なのだ。半王子とはいえ特権階級であるアザニだけに、技術開発に資する目的も兼ねて常に最上、最先端の擬生体義肢と人工臓器を与えられてきた。しかしそれだけに不具合は多く、また微細な差違が大いなる違和や、ときにはありとあらゆる不快感、甚だしくは激しい痛みをもたらした。アザニのまだそう長くもない人生は、それらとの熾烈な格闘なしには文字どおり歩むことができないものだった。人工臓器の不全により血反吐を吐いて死にかけ、義肢の装着痛に悶絶した日々と比べれば、自在刀を杖代わりにするくらいなんということもない。


 わかってはいた。

 本営に帰りつけはしない。

 歩いても歩いても無駄なのだ。

 屍者の行進から逃れることはできない。

 何をしても無意味だ。


 初めから意味など持ちえなかった。父も、母も、兄たちも、姉も、妹も、親類縁者一同、それ以外の誰一人として、アザニには何も期待してなどいない。王の子だから法に則って王子であり、放置すればただちに死ぬ身だからといって、王子であるがゆえに放置はできず、生存のためならばあらゆる処置を施してもいい実験動物ではあり、さりとてそれらの実験が失敗したところで何だというのか。人びとの尽力で天寿を超えて生きた半王子がようやく死ぬ。それだけのことでしかない。


 ただ幼龍グーヴだけが哀れだ。かわいそうグンニヴル。半王子をあてがわれなければ、このような虚しい最期を遂げることはなかっただろうに。


 けれどもアザニはその思いを口にはしなかった。ここまで生きてきて同情を買おうとしたことは一度もない。一度もだ。侮られようと愚弄されようと、何らかの企みで持ち上げられようと、欺かれようと騙されようと、想像を絶するような扱いを受けようと、不平を鳴らすことだけはすまいとアザニは決めていた。自分が劣った者だということは百も承知だが、それを認めて卑下してしまったらグンニヴルがあまりに気の毒ではないか。地上の誰にとってもアザニは路傍の石よりも価値がないが、グンニヴルだけはこの半王子を掛け値なしに愛している。グンニヴルの心鳴を聞いてきたから、アザニはそれを真実として感じているのだ。


「だから、ボクと行こう、グーヴ――」


 アザニはすでに、自在刀を杖というより右脚代わりにして小走りくらいはできるようになっている。

 ここがどこかはわからない。かつて街だったのだろう。ここで人びとが暮らしていたのだろう。

 前を向く余裕はない。かといって下を向いているわけではない。アザニは足許から少し前方に視線を落としている。足場を確認するためだ。

 グンニヴルとともにいくらかでも進むためだ。

 一秒でも長く愛龍とともに生きるためだ。

 この一瞬一瞬がアザニの全てなのだ。


 何かが後方から追いかけてきてどうやら並走しているらしいことに気づいても、アザニは変わらずグンニヴルとの瞬間瞬間を刻みつづけた。


「きみ……!」

 呼びかけられて、アザニは横目で左を見た。車両だった。内燃機関で自走している。戦闘車両ではない。大きな荷台を備えている。運搬用の車両だろう。


 荷台ではなく乗用部の開閉扉車窓から、真紅の髪の毛をなびかせてマリアが身を乗りだしていた。

「間に合わない……! 乗って……!」

「や、でも――」

「でもじゃないだろ、ばか!」

 マリアは顔を引っこめて車内にいる何者かを怒鳴りつけた。

「ラース! 車、停めて……!」


 車両はもともとさしたる速度で走行していたわけではないから、程なく停車した。


 アザニも我知らず進むのをやめていた。


 乗用部の開閉扉が開き、そこからマリアが下りてきて、立ちつくしているアザニの左腕を迷うそぶりもなく掴んだ。

「来て、ほら、早く。急いで。ああ、もう、何なんだよ、肩、貸すから――」

 あれよあれよという間に、マリアのほっそりした体がアザニの左腋に収まった。


 こんなにも頼りない体つきをしているくせに、その歩みはどこまでも力強い。マリアはすさまじい勢いでアザニを進ませた。抗議する暇も与えてくれない。もっとも、仮に抗議できたとしても、果たしてこれは不当だと主張するべきなのかどうか。


 そうこうしている間に、車両乗用部の開閉扉から別の何者かが手をのばしてアザニを引っぱり上げようとしている。黒髪を後ろに撫でつけていて、やけに目つきの鋭い男だ。


 何か警戒すべきものを感じたのか、グンニヴルがアザニにぐっと身を寄せた。アザニもその男にふれられたくなかった。そうでなくても、肉体的な接触は得意ではない。医療者たちに体の隅々まで容赦なく調べられ、切開され、縫われ、弄くり回されてきたから、我慢はできる。耐えられはしても不快なのだ。ただし、マリアにここまで密着されているわけで、そちらのほうはどうなのかという問題はある。まったくもって、どうなのだろうと我ながら思い、至近距離にあるマリアの顔を見やった。


 ぞくり、とした。


 マリアと目が合った。

 その橙色の瞳の中に何かを見つけた。


「キミ、は――」


 そうなのか。

 そう?


 何が?


 わからない。それなのに、わかっている。総毛立つ。全身の皮膚が粟立っている。


「……何?」

 マリアがまばたきをし、アザニは自分が何を感じているのか、その瞳の中に何があるのか、それが何を示しているのか、わからなくなる。そもそも、わかってなどいないのだ。わからない。でも、わかっている。マリアはわかっていない。わかるはずがない。わからなくていい。


「何でもない」

 アザニはそう答えると、おとなしく黒髪の男に引っぱり上げられ、車両に乗りこんで、乗用部の思ったより広々とした座席に、雪兎ともう一人、栗色の髪を三つ編みにした少女の姿を認めた。少女はアザニのほう顔を向けてはいるものの、見ていないことは一目瞭然だ。少女の瞼は閉ざされている。見ようにも見ることができないのだろう。

「龍戦士?」

「ああ」

 アザニが肯定して空いている座席に腰を落ちつけると、少女がふたたび問うてくる。

「もしかして、龍もいる?」

「いるよ。グンニヴルだ」

「私はハノン。よろしく」

「よろしく、ハノン。ボクはアザニだ」


 マリアが車両に乗り、開閉扉を閉めて、黒髪の男が運転席に座った。

 この車両の乗用部には、後列席を入れて十人以上乗れそうだ。

 雪兎は後列席を独り占めし、前列席に黒髪の男、マリア、アザニとグンニヴル、ハノンの順に座ると、車両は走りはじめた。


「アザニ、か」

 操縦桿を握る黒髪の男が呟いた。

「ヴェルハギウムの半王子」

「ラース」

 すかさずマリアが黒髪の男の肩をはたいた。

「それ悪口だろ。やめな」

「……みんな言ってることだろう」

「そういうの関係ないから。みんながどうだとか。きみ自身がどうするかだから」

「あんたもたいがい口が悪いじゃないか」

「聞こえなかった? 僕がどうとかじゃない。きみがどうするか、だよ。僕が好きこのんで泥水啜ってたら、きみも啜る? 僕によくないところがあるからって真似するの? きみはそれでいいわけ?」


 ラースと呼ばれた黒髪の男はうんともすんとも言わず黙りこんだ。マリアもそれ以上追及するつもりはないらしい。


 車両はみるみる加速して、そうとうな速度で走っている。旧式の車両だと思われるものの、性能はなかなか良好なようだ。速いだけに揺れもひどいが、龍に乗っているときと比べたらたいしたことはない。

 どれだけ乗り心地が悪くても、龍に乗りたくてたまらない。

 またグンニヴルに乗って空を飛びたい。

 もしかしたら、グンニヴルとともにふたたび飛べるかもしれない。


「住民もなんとか全員避難させたし、これからどうすっか、だよなァ……」

 目をやると、雪兎は後列席の占有を見せびらかすように、自分の腕を枕にして仰向けになっていた。

「何でもいいケドよォ。どうせならおもしろおかしィーコトしようぜェ? このビチグソ世界が終わっちまうまでは、ビチビッチに楽しまねェーとなァ?」


「そういえば、一つ断っておかないといけないことが」

 ハノンがいやに淡々と言った。

「マリアと雪兎を迎えに引き返してくる前に車の燃料を調達することはできたけど、量が少なくて。あと五十粁くらいしか走れないと思う」

「五十……――」

 マリアは絶句して目を剥き、雪兎が跳び起きた。

「どうすんだッ? 燃料切れて車ァ停まっちまったら、その先……」

「さあな」

 ラースはなぜか低く笑った。

「考えるのはあんたらに任せる。頭を使うのは得意じゃないんでな」


 グンニヴルがアザニの頬を舐めた。きっと励まそうとしているのだろう。もしかしたら、ふたたびグンニヴルと飛べる日なんて来ないかもしれない、とアザニが考えたせいに違いない。


「――っとにもう……」

 マリアは何秒間か真紅の髪の毛を引っかき回していたが、不意にやめた。べつにアザニを見たわけでもないだろうし、偶然にすぎないのだろうが、また目が合った。

 気のせいでも錯覚でもなく、やはり橙色の瞳の中にそれは存在していた。

 それが何なのかは依然としてわからない。

 わからないのに、わかっている。

 マリアが微笑んだ。

「ま、なんとかなるよ。ね?」

「ああ」

 アザニはうなずいた。

「そうだネ、マリア」

 名を呼ぶと、マリアは微かに首を傾げた。

 わからなくていい。


 百億、千億、億兆の、これまで生きて死んでいったものたちと同じように、ボクがいて、キミがいる。

 そして、ボクはキミと出逢った。


 ただそれだけのことだから。


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