第4章 やりたい放題やってみた

 最初にやってみたいことは大好きなアイドルグループ、ムーンライツのデビュー時をこの目で見ることだった。想像しただけでドキドキする。


 さっそく直弘は潜在意識経由で十年前の自分へ戻った。時間は土曜日の朝、休みの日。いつもの通り、布団の中の自分が最初だ。別に寝床でなくてもいいのだが、昔の体に戻った直後は体が自由に動かずぎくしゃくしてしまうため、下手に昼間に戻ると危ないのだ。道で車に轢かれたり、駅のホームから線路に落ちたりしかねない。


 自分の部屋を見渡して、うわっ地味だなと思った。部屋に色彩がない。何とも殺伐とした空間だ。ムーンライツのファンになる前はこんな生活をしていたのか。これが十年後にはポスターやグッズだらけで華やかになるとは。いかに彼女たちが自分の生活に潤いを与えてくれていたのかと、今さらながら感謝の気持ちが沸き起こる。


 起き上がり、洗面所で顔を洗って鏡を見た。えっ、これが俺? さぞや若返っているだろうと思ったら違った。どんよりとして生気がない。たぶん現在の俺より老けて見えるな、これは。


 直弘はふと気になって、数年前に捨てたはずの財布を見た。この時はまだ買ったばかりなので、当たり前だが新しい。中身を広げてみると、あまり金が入っていなかった。銀行でおろさなくては。いや、そもそもこの頃、いくら貯金を持っていたのだろう? 預金通帳のありかは机の二番目の引き出しだ。それは十年前も変わらないはず。そこを開けると、ちゃんとあった。


 通帳に記されていた金額は思っていたものよりずいぶん少なかった。この頃、俺これだけしか持っていなかったっけ? 直弘は愕然とした。


 アイドルのファンになってから遠征してライブに行ったり、グッズを買いまくったりしているわけだが、時間と共に貯金は少しずつ増えている。逆にこれといった使い道がなかった十年前の方が浪費が激しかったことになる。確かにこの頃は刺激を求めていろいろなことに手を出していたのだ。暇さえあれば旅行に行っていたし、少しでも面白そうだと思ったら、スポーツ、習い事、セミナーと何でもやってみた。結局、そのほとんどは続かなかったわけだが。


 結局、主な使い道が絞られている十年後の方が無駄遣いしなくなったというわけか。そして日々の生活はどちらが楽しいかというと、圧倒的に十年後なのだ。


 ムーンライツのライブへ行く前に直弘は場外馬券売り場へ寄った。勝ち馬券を買うためだ。今日のレースで勝つ馬を調べ、十年後から記憶に刻みつけてきた。メモを持ってくるわけにいかないので、覚えるしかない。生活の自由度を高めるため、懐は豊かにしておきたかった。


 過去へ来る前にいろいろ検討したが、未来からの知識で迅速かつ安全に収入を得るには公営ギャンブルが一番だった。宝くじは当選番号はわかっても、当たりくじをどこで買えばいいかわからないし、株は時間がかかる。それに下手するとインサイダー疑惑をかけられない。直弘はギャンブルを基本はやらなかったが、競馬狂だった父親に付き合って数回だけ馬券を買ったことがあった。


 馬券売り場は人でごった返していた。やや殺伐とした空気に漂う独特のすえた匂い。そこにいる人々の服装に明るい色はあまりなく、ほぼモノトーンの光景。彼らはファッションなど、どうでもよい。それどころか、食べることや飲むことも二の次だ。賭けられる金はすべて馬券に変える人たち。金が欲しいなら、もっと確率の高い手段はあるだろう。馬が好きなら競馬場か乗馬クラブで食い入るように見ているはずだ。本当に求めているものはそのどちらでもない。おのれの勝負勘が当たった時の痺れるような快感。ただ、それだけだ。


 子供の頃。たまに競馬に勝った時、父親が誇らしげに己の推理を語っていた様子を見てきたので、そう思うようになった。やれ騎手がどうだ、馬の血統がどうだと。もちろん、時々勝ったといってもトータルで勝ち越せるはずもなく、父の競馬は家計にかなりのダメージを与えていた。裏で母親が泣いていたことも知っていた。だから彼自身はこれまでギャンブルに手を出さなかったのだ。


 直弘はマークシートに記憶していた馬単の馬番号を記入し、窓口で一万円を払った。一着と二着を順番通りに当てないといけない。何度も見てきたので間違いないとは思いつつもどきどきする。でも失敗したとしても一万円だからなと受け取った馬券を見ていると、初老の男が声をかけてきた。ここに数多くいるねずみ色のジャンパーと履き古したスラックス。気さくな感じで、ここの常連らしい。彼は馬券売り場の壁や柱と同じくこの空間の一部だった。


「第四レースかい? にいちゃん、何買ったの?」


 怪しい人に思えなかったので、直弘は黙って馬券を見せた。


「えーっ、馬単か? これに一万円って、にいちゃん男だな。はっはっは。その心意気は買うけど、これは無理だろ。マイルスターで堅いよ。可哀想に」


 男は大声で笑うと、直弘の肩を軽く叩いて去って行った。本命の馬が勝つと信じて疑わないようだ。おじさん、ごめんなと直弘は思った。


 二十分後に第四レースが始まった。テレビの前に群がる人々。よっしゃ、行けとの声援が上がる。テレビの一番前で、ねずみ色のおじさんが食い入るように画面を見ていた。


 五十数万円も受け取るのだから、もっと嬉しいかと思っていたが、その逆だった。俺はずるをしたのだという自責の念がふつふつと湧き上がってくる。後ろめたさと恥ずかしさ。それしかなかった。


 先ほどのテレビ前。他の男たちと同様、本命が勝つに違いないと余裕だったおじさんの顔が驚愕に変わり、最後はえーっ、嘘だろと悲鳴を上げた。直弘は喜ぶどころか、とんでもないことをしてしまったと背筋が凍るのを感じた。やばい、俺、本当に勝っちゃったよと。


 恐る恐る窓口で賞金の札束を受け取り、急いでセカンドバッグにしまっていると、後ろから声をかけられた。


「にいちゃん」


 振り返ると、ねずみ色のおじさんだった。


「すげえな。おめでとう」


 直弘は一瞬身構えた。金を少しくれとか貸してと言われるかと思ったのだ。ところが、男はくるりと背を向けると、そのまま出口へ歩いて行った。背中に敗者の寂しさを背負いながら。直弘は彼を疑い、そして結果的にずるみたいな手段で小遣いを巻き上げてしまった自分を恥じた。


 大金を持ち歩くのは物騒なので、銀行のATMへ寄り、数万円を抜いた残りを貯金した。嬉しい気持ちは皆無で、厄介なものを抱え込んだという感覚が強かった。早く使ってしまおう、と直弘は思った。まさに悪銭身につかずとはこういうことか。別に犯罪ではないのだが、そんな言葉が頭に浮かんだ。


 何とも後味の悪い思いをしながら直弘は地下鉄へ乗った。ムーンライツの路上ライブを見に行くためだ。車内はそこそこ混んでいたが、空席を見つけて座ることができた。今日は土曜日。週末特有のリラックスした空気が漂っている。当然ながらスーツなどの仕事着姿はあまりおらず、ほとんどの乗客は姿だった。


 直弘はまわりを見渡して自分が未来人だからか? と思った。皆の格好がとてつもなく野暮ったく見えてしまうのだ。もちろん、先ほどの馬券売り場と違って色とりどりではあるのだが、何ともずれているのだ。昔の人物写真を見ると、そう言えばこんな服を着ていたなと懐かしさというか微妙な違和感を抱くものだが、今リアルタイムにまわりがそれだった。女性の化粧や髪型も、最近こういう人に会わないなと思うものばかり。たった十年しかたっていないのでそれほど極端には変わっていないはずだが、明らかに違うことはわかった。


 公園の最寄り駅に着いた。ついに念願の路上ライブを見られるのだと思うとわくわくした。このために十年前へ戻ってきたのだ。改札口を出ると、直弘は地上への階段を駆け上った。胸がどきどきする。十年後にはファンの間で聖地となるライブ場所で、デビューしたての本人たちに会えるなんて。


 やがて噴水の横に二~三十人が集まっているのが見えてきた。幸いなことにまだライブは始まっていないようだ。そう、ウェブで過去の路上ライブ開催日と場所は見ることができるが、時間はどこにも出ていない。だから、およその当たりをつけて来ざるを得ない。


 直弘は思わず顔をほころばせながら人の輪に加わった。ムーンライツのメンバーはまだ来ていない。それにしても、と彼は思った。路上でこんなこぢんまりとしたパフォーマンスをする少女たちが四年後に紅白歌合戦に出て、六年後にはライブで日本最大のスタジアムを満員にするのだと言っても誰も信じないだろう。


 名物マネージャーの山下が独りで黙々とCDプレイヤーや物販の準備をしていた。この眼鏡をかけた青年はムーンライツを無名から国民的アイドルに成長させた立て役者だ。十年後は相撲取りですかと尋ねたくなるぐらい太っているが、今はまだ中年太りにもなっていない。


「メンバー、ただいま着替えていますからね。もう少々お待ちください」


 にこやかに客へ声をかける山下は後に鬼軍曹と呼ばれるようになる威厳はみじんも見えず、ただの腰の低い若者だ。もっとも厳しいのはメンバーやスタッフに対してであって、客に対しては今も今も愛想がいい。


「すみません」


 声をかけられ振り向くと、犬を連れた中学生ぐらいの女の子がにこにこしながら立っていた。小林亜沙美だ。十四歳の。直弘は息をのんだ。十年後に同じオフ会に所属し、二人でよく飲みに行くことになる小林亜沙美がそこにいた。彼女がここで踊ってもおかしくないぐらいの美少女だった。そう言えば彼女はこの近くに住んでいて、この路上ライブを目撃したと言っていた。


「ちょっとだけ、これを持っていただいていいですか?」


 直弘が返事をしないうちに犬をつないでいるリードを渡された。亜沙美はバッグの中を何か懸命に探していたが、やがて直弘に向かって叫んだ。


「ごめんなさい。トイレに忘れ物です。すぐ取ってきます」


 あっと言う間に向こうへ走り去った。そそっかしいのはこの頃からだったようだ。

 名前をメロンというコーギーはちょこんとその場に座ると、自分のリードを持った未来人の顔を興味深げにじっと見た。


 直弘はしゃがみこむと、犬の耳に囁いた。


「安心しろ。おまえは十年後も生きているからな」


 メロンはバウッと小さく吠えた。


「お待たせしましたーっ」


 やがて、どこで着替えたのか、そろいのTシャツを着た女の子たちがバタバタと駆け込んできた。歓声と拍手が起きる。ムーンライツのメンバーだ。十年後は四名のグループだが、この時は九名いる。このうち十年後もメンバーなのは直弘が推すリーダーの鉾田佐和子、そして高井香織と浅木恵美の三名だけだ。後に加わる桃井沙耶香はまだいない。ムーンライツをやめた六人については他のアイドルグループに加わった者が二名。ソロ活動と舞台女優が一名ずつ。そして残りの二名は芸能界を引退して一般人になっていた。確かそのどちらかは結婚して子供もできているはずだ。


 メンバーたちは山下マネージャーと小声で打ち合わせを始めた。今日の段取りを確認しているらしい。


「すみません。犬をありがとうございました」


 はあはあと息をはずませながら亜沙美が駆け戻ってきて、直弘からリードを受け取る。飼い主が現れたにもかかわらず、メロンはまだじっと直弘の顔を見ていた。


「何だよ?」


 直弘がメロンに声をかけると、またバウッと吠えた。その様子を見て笑い出す亜沙美。 


「忘れ物はあったの?」


「はい。洗面所にお財布置き忘れたんですけど、そのままの場所にありました」


「危ないな。気をつけないと」


「そうですね。へへっ」


 照れ笑いする顔は十年後とあまり変わらない美形だった。でも、子供だ。間違いなく子供。今、十四歳か。十年後に彼女と二人で飲みに行くことを考えると、とてつもなく不思議な気がした。よく人の子供の頃の写真を見て、変わったの変わっていないのと言うことがあるが、今はその過去の実物を見ているのだ。


「皆さん、こんにちは。ムーンライツです」


 リーダーの鉾田佐和子が、かん高い声で挨拶。突然、地面に置かれたスピーカーがハウリングを起こし、メンバーたちが悲鳴を上げて驚いた。観衆が笑う。彼女たちは当然のことながら、みんな子供だ。十年後には二十歳をいくつか越えて、すっかり大人の女性になりつつあるというのに。


 そしてライブが始まった。ついに俺は伝説の路上ライブを過去に戻ってみているのだと思うと直弘は興奮した。ポケットから二つ折りの携帯電話を取りだし、何枚も写真を撮った。直弘いち推しの鉾田佐和子を中心に高井香織と浅木恵美、そして、もう少したつといなくなる六人のメンバーたちを。十年後はライブでの写真撮影は厳禁なので、こんなに取り放題の機会はない。


 今いるこの時代ではまだスマートフォンを持っていない。スマホの元祖と言える、あの有名な機種が売り出されたのはこの年だが、初代のもっさりとした動作に当時の直弘はまだ興味を持てなかった。さくさく動くようになったのは次の世代からである。

 夢中になって写真を撮りながら、ふと直弘は思った。この写真、誰にも見せることができないのだと。スマホで写真を撮る動機はたぶん誰も似たり寄ったりだと思うが、自分の保存用が半分と人に見せるためがもう半分である。直弘は携帯のシャッターボタンを押しながら急激に動機の半分が消失していくのに気がついた。


 いや待てよ、パソコンにでも保管しておけば十年後に見せられるかとも思ったが、当てにならなかった。何しろもとの世界に帰るたびに上司が変わったり、死んだ友達が生き返ったりする状況なのだ。今こうしたから未来にこうなるという一貫性は全く期待できない。


 ただ、その問題よりも、むしろ誰かに今すぐこの写真を見せたいという気持ちが強かった。 特にオフ会の連中に見せたかった。もちろん、彼らは今もこの世に存在していて、十年若い姿でどこかにいる。だが、その四十人全員はまだムーンライツのファンではない。路上時代のからのファンは一人もいないのだ。この時代に彼らの前に現れてこの写真を見せても間違いなく無反応だろう。だって、まだムーンライツ自体を知らないのだから。


 直弘は写真撮影をほどほどにしてライブに集中することにした。気がつくと、隣にいたはずの小林亜沙美と犬がいなくなっていた。今日も犬の散歩がてら少し寄った程度らしい。まだムーンライツのファンでもなんでもないのだ。十年後にあの時、もっとしっかり見ておけばよかったと後悔することになるのだが。


 直弘はにこにこしながらライブを見ていたが、曲を重ねるごとにだんだん退屈を覚え始めた。


 デビュー間もないので仕方ない。だが、とにかく下手なのだ。踊りも歌も。そのへんの素人で彼女たちより上手にできる子はいくらでもいるだろう。踊りはぎこちなく、歌はかぶせである。かぶせというのはスピーカーから録音済みの歌を流し、そこに肉声をかぶせることだ。口パクよりはましだが、それでも九人全員が音程をはずしていることがはっきりわかった。


 特にリーダーの鉾田佐和子。歌が下手を通り越して明らかに音痴の域である。直弘は今から六年後に彼女の歌に魂を揺さぶられてファンになったわけだが、その時と同一人物とはとても思えなかった。


 彼女たちはこのレベルから気の遠くなるような努力を重ね、数百万人を魅了する国民的アイドルになったのだ。その努力は敬服すべきだが、今この時点では先は遠いなとの思いしか浮かばない。直弘はこの世界に腰を据え、ムーンライツと一緒にこれからの十年を過ごそうかと思っていたのだが、それはかなりしんどそうだった。


 五曲ほどでライブは終わり、握手会が始まった。インディーズのCDを買うと、買った数だけムーンライツのメンバーと握手してツーショット写真が撮れるのだ。このイベントはあと二~三年で終了する。直弘がファンになった四年後には既になかった。そんな接触イベントはやらなくてもライブだけで客を集められるようになったからだ。


 実はそんなアイドルは希有な存在で、ムーンライツが所属する事務所でも彼女たちだけだ。それなりに名前が売れている妹グループたちもみんな握手会だのお渡し会だのをやっている。これが貴重な収入源なのだ。


 このビジネスモデル? を考案した有名プロデューサーはいろいろ世間から批判される人だが、直弘はこの件に関して高く評価していた。世界には例のないこのアイドルという職業が、日本でそれこそ地下からメジャーまで数多く乱立できているのは彼のおかげである。CDがほとんど売れない今、こういった接触のおまけつきで収入を得られることはありがたいはずだ。特にデビューからそれなりに名が売れるまでの期間は生命線である。彼がいなかったら、絶対にムーンライツも存在できていなかったのだ。


 直弘はマネージャーの山下からCDを三枚買うと、握手の列に並んだ。もちろん、十年後のメンバーである高井香織と浅木恵美、そして推しの鉾田佐和子と話をするためだ。


 気がつくと、イベントの最初に比べ、だいぶ人が増えていた。とは言っても、各メンバーの列は長くて五~六人である。直弘は最初に高井香織と浅木恵美の列に並び、鉾田佐和子を最後にした。ゆっくり話したかったのだ。


 この時点では必ずしも十年後に残る三人の人気が高いわけでないことは興味深かった。途中で辞めた六人の方がむしろ列が長いぐらいだった。


 直弘は高井香織、浅木恵美の二人と握手して、誰にも見せるあてのないツーショット写真を撮ってもらった。後にライブで至近距離で見た時には美人だなと思った二人だが、そこにいたのは年齢通りの中学生にしか見えない子供だった。ツーショットを撮ると、まるで親戚の中学生と記念撮影をしているように思えた。


 そして、いよいよ目的の鉾田佐和子だと思い、そちらを見て直弘は驚愕した。


 何と彼女の列は途切れ、独りでぽつんと立っていたのだ。後の日本のトップアイドルグループで、その中でも一番人気の彼女の前にファンが一人もいない。自信なさげに下を向いている姿はとても皆を引っ張るリーダーだと思えなかった。


「佐和子ちゃん」


 直弘が声をかけると、佐和子がはっと上を向いた。さすがに美少女だ。ただ、もともと彼女は人見知りで、愛想のいい他の八人と比較すると、こういう接触イベントでは損をしてしまう。十年後にライブやテレビでがんがん前に出ているとは誰も想像できないだろう。


「これお願いします」


 握手券を出すと、佐和子は微笑んで嬉しそうに受け取った。直弘の手を両手でつかんで握手する。やった、ついに佐和子と握手したと、直弘が内心盛り上がっていると、佐和子がじっと彼の顔を見ながら言った。


「あれっ? 前にも来てくださいましたよね?」


「いや、初めてですよ」


「えっ、人違いかな」


 佐和子は常識レベルの知識がいろいろ欠けていていて、よく笑いの対象になるのだが、反面その記憶力と空間認識能力は驚異的だった。たとえば、ファンの顔をよく覚えていることは有名だった。これは数年後も健在で、何かの折にあのライブに来ていたでしょ? と数千人規模の公演にいたことを指摘され、驚くファンは多かった。特に最前列にいたわけでもないのに佐和子はその場にいた人間の多数を認識し、顔を記憶できるのだ。


 まだファンも少ないこの時点において、佐和子が人違いをすることは考えづらい。このことは妙に直弘の心に引っかかったが、答えは見つからなかった。


 ツーショット写真は二人の手でハートを作る定番のやつを撮った。接触イベントをやめている十年後においてはファンと同じフレームの写真に収まることだってが希有である。やっぱりこの時代に来てよかった、と直弘は思った。


 やがて握手会は終わり、スタッフは片づけに入った。ムーンライツのメンバーはまだその場に残っていて、ファンと雑談している。あと数年すればあり得ない距離の近さである。


 直弘はあらためてファンの顔を見た。六年もファンをやっていて、あっちこっちのライブに顔を出していると知り合いも増えるし、顔だけ知っている人もかなりいる。いわゆる、おまいつというやつだ。『おまえいつもいるな』を略したオタク間の業界用語だ。


 ところが、ここには知っている顔が全くいない。たぶん、こいつら全員他界したのだ。もちろん他界と言っても死んでしまったわけではなく、ファンをやめることをこれまたオタク用語で他界と言うのである。実際にこの路上ライブから十年間ファンを続けた者もいないことはないが、極めてまれだ。直弘の知り合いには一人もいなかった。一番古くても直弘と同じ年からファンになった者だ。つまり、直弘はグループ内の最古参だった。


 なぜこの年が分かれ目になっているかというと、この年の春先にムーンライツは握手会などの接触イベントをやめたのだ。それ以来、一回もやっていない。直弘がファンになったのはたまたまやめた直後だった。


 やめた理由について、直弘は山下マネージャーが雑誌のインタビューで語っているものを読んだ。ファンから握手会なんかいらないから、ライブの曲を増やしてという要望がたくさん来たとのこと。それを読んで直弘は納得し、かつ大賛成だった。それほどムーンライツの曲は魅力的だったのだ。もっとも、それはムーンライツみたいに圧倒的なライブ動員力やグッズ売り上げを誇るグループだからできたことだ。


 ところが、これをよく思わない古参のファンは少なくなかった。これは体験するとわかるが、握手会に足しげく通い、自分の推しのアイドルに顔や名前を覚えてもらうのは何とも嬉しいものである。いわば認知の喜びとでも言おうか。


 それを封じられたデビュー時からのファンは不満を漏らし、次々と他界していった。成長を見守ってきたアイドルが手の届かない所へ行くのが許せなかったのだ。握手会を続ける妹グループのファンに「推し変」した者も多かった。


 ただ乗り換えるだけならいいのだが、可愛さ余って憎さ百倍なのか、少数ながらアンチに転じた者までいた。これが口汚くムーンライツを罵倒するものだから、ムーンライツファンの怒りを買い、その妹グループまでそっぽを向かれる事態となった。彼らが余計なことをしなければ、ムーンライツの後輩だからと応援していたはずなのだが、妹グループにとっていい迷惑である。ちなみにムーンライツと妹グループのメンバー本人たちは可愛がり慕われる相思相愛の関係である。


 片づけを終えて去って行くムーンライツ一行を見送った後、直弘は夕闇の街を歩いた。メンバーと握手したり、ツーショット写真を撮れたのは嬉しかったが、ライブ自体はそれほど楽しめなかった。未来とはいえ、圧倒的なクオリティのパフォーマンスを体感しているだけに、今の未熟な姿は何だか見てはいけないものを見てしまった気すらした。


 公園でのライブはあと一回で終わりになる。それまでは公園管理事務所が見て見ぬふりをしていたのだが、ムーンライツを含む各アイドルグループが多数の客を集めだすと、週末の公園が非常に騒がしくなってしまった。ムーンライツは運営、ファンともマナーがよかったが、すべてのアイドルグループファンがそうではなかった。昼間から酒を飲んで大騒ぎし、ライブと関係ない通行人に迷惑かけたり、ファン同士で喧嘩したりのトラブルが相次ぎ、ついに路上ライブは全面禁止になってしまったのだ。


 これからはショッピングモールやCDショップでの無料ライブと握手会兼即売会が主な活動になる。ライブハウスでライブをやるのは一年半先。何とか会館のようなホールに至っては、さらにその一年先なのだ。


 直弘はムーンライツのデビュー時からずっとファンでいられたら幸せだろうなと思っていたが、さっきのパフォーマンスを見て、かなり気持ちをトーンダウンさせていた。曲数は少ないし、歌とダンスは未熟の極みだ。握手会を楽しみに彼女たちの追っかけをするのは性に合わない。公園に入った時の高揚した気分は跡形もなく去り、彼はうつむいたまま、とぼとぼと歩いた。


 空腹を覚えたので直弘は牛丼屋へ入り、定食を頼んだ。メニューを見ると、そういえばこんなのあったなと懐かしさを感じるものがいくつかあった。十年後には影も形もなくなっている、そのうちのひとつを頼む。


 運ばれてきた料理を見ると、強い違和感を抱いた。そしてひと口食べると、その違和感はさらに高まった。あえて表現すると、それは過去の味だった。 


「なんでわかったんですか?」


 会社の後輩、藤森拓哉の気味悪げな顔。またやっちまった、と直弘は後悔した。雑談の途中で意識せぬまま未来予知をしてしまい、それがことごとく的中しているのだから仕方ない。スポーツや選挙の結果に始まり、仕事では商談の成否等。


 今回は顧客へ出す提案書の記述で藤森がサービス仕様と見積金額を間違えることを言い当て、トラブルを事前に防止した。前に体験した過去では顧客が激怒し、こちらの本部長までが謝罪に行く大ごとに発展していたのだ。


「あのまま提案書を出していたらと思うと、ぞっとしますよ」


「よかったな」


「みんな神部さんは未来人じゃないかと噂していますよ」

「そんなわけないだろ」


 いや、実はそうなのだとも言えない。何が起きているかをこと細かに語っても誰も信じないだろうし、直弘の頭がおかしくなったと思われるだけだ。


「じゃないと、こんなに予言が的中しないですよ」


「いや、たまたまだよ。最近、妙に冴えてるんだ。一時的に神がかっているだけで、そのうち当たらなくなるよ」


 直弘は自分が口の軽い男だと思ったことはないし、周囲からそのように言われた記憶もない。だが、秘密というのは自分が知っていることのごく一部だから守れるのだ。知識の大部分が秘密であれば、それを避けていると喋ることがなくなってしまう。


 最初は些細なことで未来に起きることを軽く人に語り、それが当たって驚かれたり喜ばれたりしたことに気をよくし、さらに続けてまた何かを語っての繰り返しになってしまった。


 藤森のケースで直弘が致命的なミスを犯したと思ったのは、彼が提案書を読む前に小沢へ「おまえ、そこを間違えているだろう」と指摘してしまったことだ。ちょっとしたイタズラ心が起きたのだが、さんざん予言を当てていた後だけに反響は大きかった。


 直弘は会社で予言者というあだ名をつけられ、まるで著名な占い師のように次々と誰かが相談に来る事態となってしまっていた。さすがに百発百中はまずいので、いくつかわざと間違えたり、知っていても知らないと答えてみたが、それはかなり精神的につらいことがわかった。人間、嘘をつくことは精神的に不自然なのだ。かなりストレスが溜まってしまった。


 そのうち本物の占い師みたいに社内恋愛の相談が来るのも時間の問題だろう、と直弘は思っていた。実は直弘、趣味として算命学や手相などの占いを勉強したことがあるのだが、その技術はお呼びではなかった。どんな占い師も未来を知っている者に勝てるはずがない。


 直弘はこの時代以降に社内結婚して、十年後までに離婚しているカップルを三組知っていた。いずれも知り合いである。離婚というのは夫妻双方に同程度の問題があることはまれで、直弘自身のケースのように片方が社会的または人格的に破綻していることが多い。


 この三組も片方の浮気、ギャンブル狂い、度を超した浪費があったことをそれぞれ知っている。直弘の知り合いは被害を受けた方であり、不幸な家庭生活で憔悴しきった姿も見ていた。彼自身にもその大変さはわかるので、できれば救ってあげたかった。ただ、だからと言って、不幸になるから結婚はやめておけと言えない。今の時点では相手の良いところしか見えないから理解されるはずはない。下手に真実を教えると、逆恨みされるだけで丸損である。会社で暮らしにくくなってしまう。


 過去でひっそりと生きるつもりが妙な注目を浴びてしまい、直弘は不自由で仕方がなかった。自分で巻いた種ではあるのだが。

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あの日からもう一度 山田貴文 @Moonlightsy358

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