第3章 死んだ友だちと会ってみた
声をかけられるまでわからなかった。いくら三十数年ぶりだとはいえ、面影がほとんどなかったのだ。
平日の夕方。待ち合わせた駅の改札で会った山村はいたく老け込んでいた。高校の時の前向きでユーモアにあふれた親友は変わり果てていた。どろんとした目。ぼさぼさの髪は白髪だらけで無精ひげ。平日なのに私服を着ている。仕事は何をしているのか。
「よう、久しぶり」
山村の笑顔はぞっとするほどすさんでいた。
近くの居酒屋に入った。二人とも生ビールを注文。仕事帰りでスーツ姿の直弘とよれよれの私服姿の山村は対照的な姿だった。
問わず語りに山村がこれまでの人生を語り出す。大学を中退した後はいくつか仕事をしては辞めてを繰り返し、この三十年のほとんどはアルバイトで生きてきた。最近はそのアルバイトすらしておらず、実家の老父から小遣いをもらって暮らしているとのこと。
「その親父がよう、最近渋いんだわ。六十近い息子が年金暮らしの親父にたかってんじゃないとか言って、金くれなくなったんだよ。ありえないだろ?」
ありえないのはおまえだと直弘は思ったが、何も言わなかった。それにしても、この生気のなさ、やる気の無さは何だろう。
「おめえ、いいスーツ着て羽振りが良さそうだな。人生うまくいっているやつは違うね。外資系だから給料たくさんもらえるんだろ」
嫉妬とも取れる表情で山村が言う。爽やかな好青年だった高校の時は決してこんなことを口にするやつではなかった。
確かに離婚を経験し、役職定年で不当な立場におかれているとはいえ、直弘の人生は山村と比べると、はるかに順調だ。比較の対象が悪すぎるけれど。
直弘はどうしても気になっている質問をすることにした。
「山村、大学に入った時のことだけど」
「ん?」
「おまえ、ワンダーフォーゲル部に入ったのか?」
「入ってないよ」
山村は焼き鳥を口に入れたまま答えた。
「だって、神部が入るなって言ったじゃん」
「えっ?」
直弘の体を電流が走った。
「誘われてよう、入ろうかと思ったんだけど。おまえが公園で泣きながら入るなって言ったのを思い出してやめたのよ」
やばい。俺は世界を変えてしまった。
「でも」
山村は思い詰めた表情になった。
「入ればよかった」
「どうして?」
あろうことか、山村の目に涙がにじみ始めた。
「俺が一緒に山へ行ってたら、恵美ちゃんを救えたかもしれなかった」
「えっ? どういうこと?」
「同じクラスの子でよう、すげえ可愛い子がいたんだよ。岡田圭子ちゃんといって。俺が初めて女の子と二人で飯を食った子だった。山が好きで、ワンダーフォーゲル部に入ってた。山村くんも一緒に入ろうよって誘ってくれていたんだ。それが」
「それが?」
「新歓合宿の山で足を滑らせて、崖から落ちて死んじゃったんだよ」
「・・・・・・」
やばい。直弘は固まった。あの山で山村の他に女の子が亡くなったなんて話は聞いていない。あれば絶対に知っているはずだ。山村の身代わりか?
あの山では誰かが死ななくてはいけない運命だったのか? 俺が余計なことを言ったためにその女の子が死んでしまったとしたら。
直弘は自分のひと言がもたらした波及効果に慄然とした。ひょっとして、元の世界ではその岡田圭子さんは結婚して子供を産んだかもしれない。とすると、俺はその子まで消してしまったことになる。
「誘ってくれてたんだ、圭子ちゃんが。なんでワンダーフォーゲルに入らなかったんだ。俺も一緒に山へ行って、ずっと圭子ちゃんの手を握っていれば死ななかったのに」
山村の目から涙が流れた。
部活でそれは無理だろうと直弘は思ったが、そんなことは言えなかった。
「大好きな子が死んじゃったんだよ。それ以来、すべてにやる気がなくなって、大学の授業にも出なくなった。単位取れずに大学やめて、いろいろ働いたりもしたけど、どれもつまらなくて、すぐやめちまった」
「・・・・・・」
「神部」
山村は直弘の目をじっと見た。
「俺の人生はあの時、山で圭子ちゃんが亡くなった日に終わったんだよ」
まずい。まず過ぎる。よかれと思ったひと言が、人生を終えるはずだった山村を何十年も苦しませ、死ぬはずのなかった女の子を殺してしまった。
直弘は抜け殻のような山村を見て、心の底から後悔した。ここにいる男は生きていちゃいけない人間なのだ。
「ところで、神部」
山村が急に顔を上げた。媚びるような笑顔。
「おまえ、金持ちじゃん」
「えっ?」
「少し金を貸してくれないか。俺、仕事ないんだよ。いくらでもいいからさあ」
直弘は絶望に包まれながら、財布から二万円を出して山村に渡した。そして、立ち上がる。
「これ、返さなくていいよ。悪い、用事を思い出した。おまえ、まだ食っててくれ。ここは俺が払っておくから」
唖然とする山村を残し、直弘は伝票をつかんでレジへ行こうとして止まった。振り返り、じっと山村の顔を見る。
「山村、ごめん。申し訳ない」
深々と頭を下げると、その場を去った。
直弘は駅へ向かって歩きながら、自分を責め続けた。なんてことをしてしまったのだ。もう他人の人生に関与するのはやめにしよう。母親だって二十三年前に亡くなったのは同じだけれど、よく聞いてみれば、俺が知っている亡くなり方と変わっている可能性がある。
たとえば、直弘が勧めた脳の検査を早期に受けて、その結果、手術を受けたかもしれない。しかし、もし、その手術が失敗していたとしたら。本来は元気に暮らしたはずの何年かを母が植物人間で過ごしたことだってありえる。
悪い方に考えればきりがない。山村の時のように別の記憶が流れ込んでこないので大丈夫とは思うが、それはあくまでも推測だった。もちろん、良い方に変わっていることもあるだろうが、その確率は五分五分だ。終わったはずの人生を俺のせいで勝手に丁半博打へ仕切り直すのは許されない。直弘は寒気を感じた。
電車に乗り、直弘は鞄を網棚に放り上げると、スマホでフェイスブックを開いた。山村と同じ大学にもう一人高校の同級生が進学していたのを思い出したのだ。しかもワンダーフォーゲル部。吉田真由美という女の子だ。山村の葬儀で目を泣きはらしていた姿を思い出した。彼女のページを探す。ほとんど交流はないが、確か友達になっていたはず。
あった。あわてて過去のページを順に見ていく。そして、つい二ヶ月前のイベントに目がとまった。『ワンダーフォーゲル部卒業三十周年の集い』。十名ぐらいの男女がにこやかに飲んでいる。真ん中には額縁に入った女の子の写真。山歩きの服装で満面の笑顔。確かに可愛い。
コメントにこうあった。「岡田圭子さんが亡くなって、もう三十七年になるんですね」
うわっ。俺が殺した子だ。直弘は顔を両手で覆った。まずい。ごめん。可哀想なことをした。すぐに戻してあげるからな。
一九八二年一月二十日。無心におでんを頬張る山村の姿があった。今回はコツをつかんでいたため、直弘はすぐに体の主導権を取れた。
自己催眠で再び『公園おでんの夜』へ戻った夜。そこにいたのは無邪気で、希望に満ちあふれた十七歳の青年。さっき見た抜け殻の山村とは全くの別人だった。人には持って生まれた天命がある。それを超えて無理に生きると、あんな姿になってしまうのだろうか。そう思うと、直弘は複雑な気持ちになった。
今回は泣かず、そしてワンダーフォーゲル部のことはひと言も言わなかった。山村、申し訳ない、と直弘は心で詫びた。
山村はいいが、母親の時はさすがに抵抗感があった。家に帰って顔を見た瞬間に涙があふれ出てきてしまったのだ。しかし、直弘は母の病気について何も言わなかった。
実家の自室。布団に横になりながら、直弘はあれこれ考えた。前回変更を加えた部分はすべて何もしなかった。山村にワンダーフォーゲルの話、母に脳の病気の話はしなかった。これで元の世界に戻ってくれればよいのだが。
SFは結構読んでいた。タイムパラドックスの処理方法にはいくつかあることも知っている。過去を変えると、現実もそれに沿って変わってしまう形。一方で、変えた過去はそこから時間の分岐を生み出し、別の方向に流れて行くので現実に影響を及ぼさないという話も読んだことがある。山村が死ななかった世界を体験しているので、やはり前者が正しいのだろう。
もし、そうだったとしたらと直弘は思う。確かにワンダーフォーゲルや脳卒中の話はしなかったが、自分のそれ以外の言動は元の人生そのままではない。気をつけたつもりではあるが、一挙一動が完全に同じなはずはない。そもそも三十九年前に自分がどう動いたかなんて覚えていないし。
まだまだ気がつかないところで歴史に影響を与えているかもしれないなあとあれこれ考えいているうちにねむたくなってきた。直弘は布団に入ったまま現在に戻る儀式を始めた。右手で左膝を二回、左手で右膝を二回叩き、そして・・・・・・。
気がつくと五十六歳の部屋にいた。さっき見たのは夢だったのかと思った。それにしては記憶がはっきりしている。直弘はあわてて枕元のスマホをつかむと、LINEの履歴を確認した。山村の「飲みに行こうぜ」というメッセージは存在しなかった。
あわててフェイスブックを開くと、岡田圭子を探した。すぐに見つかる。年齢を重ねていても美人だ。プロフィールを確認すると、山村と同じ大学出身。間違いない。
彼女には二人の子供がいることがわかった。上の男の子は社会人で、下の女の子が大学生。危なかった。あやうく彼らも消してしまうところだった。それと優しそうな旦那さん。彼は岡田圭子が消えた世界では誰と結婚していたのだろう?
投稿を遡ると、あった。四年前。
『ワンダーフォーゲル部卒業三十周年の集い』。十名ぐらいの男女がにこやかに飲んでいる。真ん中には額縁に入った男性の写真。
コメントにこうあった。「山村孝則くんが亡くなって、もう三十七年になるんですね」
直弘は思わず寝床から飛び起きると、ガッツポーズと共に叫んだ。
「やった! 山村、死んでた。よかった!」
親友に対して何て不謹慎な言葉を・・・・・・と気がついたのは、しばらくたってからだ。
二日連続で下の妹の靖子に問い合わせるのは気が引けたので、LINEでわざわざニューヨークの智恵美、上の妹にメッセージを送った。怪しまれないよう精一杯工夫をして。
「今度いつお母さんのところに行く? 夏休みには日本に帰るのか?」
ほどなく返信が来た。
「帰りたい。お墓参りに行きたい! でも、まだわからないの」
すぐに望みの返事がきた。知りたい情報を得るまで数回のLINE往復は覚悟していたのだが、一度で済んだ。お母さんは間違いなく死んでいる。と、直弘はまたもや罰当たりな思いを浮かべて喜んだ。
直弘は出勤の身支度をして駅に向かった。歩きながら、過去をいじるのはこりごりだと思った。自分だけではなく、場合によってはまわりの人々に多大な迷惑をかけることがわかった。俺に人の人生をもてあそぶ資格などない。もうやめよう。そう決意した。
直弘が毎朝乗る電車はいつも同じだ。七時五十八分発。最寄り駅の始発電車なので運が良ければ座れるし、無理な時でもドア脇のいいポジションをキープすることができる。
駅に着き、電光掲示板を見て直弘は固まった。始発電車が七時五十九分発と書いてあったからだ。特に遅延のメッセージもない。壁に貼ってある時刻表を確認すると、やはり七時五十九分。今日からダイヤ改正をしたとも書いていない。前回の改正から半年以上、毎日五十八分発に乗っていたので、思い違いはあり得なかった。直弘は何とも嫌な予感に包まれながら電車に揺られた。何かが起きている。
オフィスに着くと、袖机の位置が変わっていた。昨日まで左だったのが右だった。昨日直弘が帰宅した後に誰かが移動させたのか? 何のために?
「おはようございます」
出社した課長の山田英俊がにこやかに挨拶すると、直弘の隣へ座った。なぜ自分の席に座らない? と疑問を持つと同時に当然だと理解することもできた。今の世界では、このひと回り年下の男は俺の上司ではない。ただの後輩だという記憶が直弘に流れ込んでくる。
「神部さん、あとで提案書の作り方を教えてくださいよ。ユニバーサル石油に出すやつ。ぼくが知らないサービス、結構盛り込まなきゃいけないんですよ」
山田が人懐っこい笑顔を浮かべて頼んだ。こいつ、俺の上司だった時は眉間に皺を寄せて、結構俺につらく当たっていたのに、と直弘は思った。年上の部下になめられてはいけないと、課長のポジションに過剰適応していたのかもしれない。関西の言葉で言うところの「いきってる」というやつだ。
「おはよう」
高橋浩二が出社して課長の席に座った。うわっ、彼は今年の四月に福岡へ転勤になったはずなのに。当然、この世界ではそうではない。昨年から直弘の上司で、ずっと東京にいる。転勤などはしていない。
直弘はめまいが止まらず、トイレへ駆け込んだ。個室へ入り、鍵を閉めて頭を抱える。なぜだ? なぜなのだ。一度目のタイムトラベルでは死んだはずの山村が生きていたが、会社は何も変わったことがなかった。二度目はできるだけ過去を改変しないように気をつけたのに。何だよ、この変わりよう。
そもそも高校生に戻って過去と違うことをやったら、会社の上司が変わるか? 意味がわからなかった。やはり、過去を少しでも変えたら、元いた世界ではなく別の宇宙に送り込まれるのか? もし、そうだとしたら。
もう二度と戻れないのだ、元の世界に。
ふらふらになりながら、どうにかオフィスに戻ると、同僚は皆席にいなかった。やばい、本日は朝礼だと気づき、直弘はエレベーターで食堂へ急いだ。
数百人が一度に昼食をとれる社員食堂は本部の朝礼等、大規模なミーティングの際は机と椅子を取り払い集会場としても利用される。直弘が到着すると、そこは既に社員でごった返していた。何食わぬ顔で一番後ろに立つ。ぎりぎり間に合ったようだ。
「おはようございます!」
司会の女性社員が声を張り上げる。マイクを使っているのでそんなに大声を出さなくてもいいのだが、力が入っているようだ。
「それでは時間になりましたので、全体朝礼を始めます。まず、本部長から。沖永さん」
ダブルのスーツを着た初老の男がにこやかにマイクを握る。直弘はあっけにとられた。
「皆さん、おはようございます!」
大きなよく通る声。本部長は沖永憲三だった。今月末で定年だから来月から嘱託契約になって、給料が四掛けになったとぼやいていた、あの沖永だ。三百人を統括する組織のトップになっていた。年齢は同じ六十歳だが、執行役員も兼務しているため定年が延長されているのだ。
それにしても、と直弘は思った。スピーチをする沖永は直弘が知っている男と別人だった。営業畑にいたことは変わらないが、出世コースとは関係なく、ひっそりと隅の方でいい仕事をしていた「匠」の姿はそこになかった。
脂ぎったギラギラの皮膚。オーダーメイドに違いない縦縞のダブルのスーツ。腕には外国製の高級腕時計が光っている。典型的な体育会型のイケイケ営業にしか見えなかった。背格好は同じなのにここまで印象が変わるものか。要は生き方なのだな、と直弘は思った。
沖永のスピーチが始まった。聞けば聞くほど前向きで空疎。元の世界では、絶対にこんな話し方をする人ではなかった。訥々と人の心を打つ喋りで社内の信用を得てきた人だったのに。
朝礼が終わり、トイレで小用を足していると、後ろからドンと肩をたたかれた。直弘は危うく便器からはずしそうになり、振り返ってにらんだ。
「おう、わるいわるい。おしっこ中ごめんな」
ニタニタ顔の沖永だった。
「うわっ。びっくりしました」
相手は本部長なのだと瞬時に自分へ言い聞かせ、恭順の顔に改めた。長い間サラリーマンを続けていれば誰もが身につく技だ。
「大丈夫? こぼさなかったか?」
だったら触るなよと思ったが、そんなことは言えない。直弘はお愛想笑いをした。
「ちょっと午後いちに会議室来てくれる? 場所はすみちゃんから連絡させるから」
すみちゃんというのは本部長秘書の高田澄子だ。沖永より年下ではあるが、前の世界ではちゃんと「高田さん」と呼んでいた。彼女は本部長の威光を背にやたらときつい喋り方をする女性で、元の世界の沖永は「すみちゃん」呼ばわりできるほど仲が良くなかった。たぶん一番苦手なタイプだったはずである。
直弘が会議室で待っていると、沖永が二十分遅れて入ってきた。にたにたと笑っている。前の世界で見たことのない野卑な笑顔だ。
「ごめん。お待たせ」
「いえ、大丈夫です」
本当は仕事があるのに待たせやがってとイライラしていたのだが、そんなことを言えるはずもない。直弘は子犬のような顔をして沖永の言葉を待った。
酒を飲んだわけでもないのに、どうやって家に帰ったかを覚えていなかった。目の前が真っ暗になり、世界がぐるぐる回転していた。定時まで会社にいて、それから帰宅したはずなのに途中の記憶がない。
部屋に入ると直弘はかばんを投げ捨て、その場にへたりこんだ。なぜこんなことが起きるのだ。この数時間、会議室での沖永との会話が頭の中を何度も駆け回っていた。ふざけるな、と頭を抱える。すべてはこんな会話から始まった。
「神部さん、今年でいくつだっけ?」
「五十六になります」
「あと四年だね」
定年のことだ。沖長は思わせぶりな笑顔。直弘はどきりとした。
それからの話だが、要はソフト開発を行う子会社への転籍を打診されたのである。出向ではなく転籍。もちろん、こういう場合の打診とはまわりくどい業務命令に他ならない。ただ、それが命令の形を取らないのは会社の席を移動するからで、本人の同意が必須だからである。
「五年得するわけだよね。もう我々の年齢になったら五年は大きいよね」
システム子会社に転籍すると定年が六十五歳まで、つまり通常の六十歳定年より五年ほど延長されるのである。その代わり給料は八掛けで、今より二割ダウン。ただし、今の会社に残って四年後に給料が四掛けになるよりは得なのかもしれない。
だけれど、と直弘は思った。なぜ俺が給料を減らされなくてはならないのだ。そもそも俺が受注した大型顧客は俺の顔で今も取り引きが継続しているというのに。突然、会社から俺がいなくなったらどうなるのだ? 直弘が受注した企業のうち、三社は誰でもその名を知る大手だった。取り引きゼロから開拓して利用サービスを次々と拡大させ、今では各社とも毎月の売り上げは直弘の年収を軽く超えていた。
あっ。直弘は悪い予感に襲われ、自宅のPCを立ち上げると会社のネットワークにアクセスした。まさかと思いながら三社の情報をチェックする。
画面を見ると、そのまさかだった。この世界では三社から受注した営業は直弘ではなかった。そこには全く別の名前があった。これではうちの会社なら飛ばされて当然だ。ろくな実績もなく、ただ給料が高いだけのシニア社員なんて。
自分の社員番号で検索すると、その代わりもとの世界では記憶にない会社から何社も受注していることがわかった。しばらくすると、それらの会社に営業をかけていた記憶が浮かび上がってきた。ただ、元の三社と比較するとあまりに小粒で地味だった。これでは会社上層部の記憶になど残らない。並の営業扱いされて当然だ。
完全に自分がこれまでより格下の扱いを受ける世界に戻ってきてしまったのか? 全部が不利になってしまったのだろうか?
直弘は思いつく限りの身辺をチェックした。すると、悪いことばかりでないこともわかった。アパートの家賃が五千円安くなっている。給料の手取りも記憶より一万円近く高くなっている。ありがたいが、沖永の言うとおり出向すると給料が二割減るので、こんなものは吹っ飛んでしまう。
クローゼットを開けてみると目まいがした。買った記憶のない服が何着かあった。探してみると、いつも着ていた服がない。時間と共に買ったはずのない服を「買った記憶」がじわじわと脳内に染みこんできた。かと言って、消失した服を買った記憶もそのままだった。頭がごちゃごちゃになりそうだった。
次にムーンライツファンのオフ会仲間をチェックした。真っ先に小林亜沙美。いくら趣味の付き合いで年の差があるとは言っても、独身の男女が二人きりで会っている以上、お互いにそれなりの好意はある。オフ会幹事という立場上前面に出さないが、直弘は亜沙美にぞっこんだった。スマホの写真をチェックしたが、記憶通り。可愛い笑顔はそのままだ。直弘とのツーショット写真もちゃんとあった。その他のメンバーについても特に変化はないようだった。
直弘はベッドに身を投げると、天井を見つめた。オフ会関係に変わりなくひと安心と思ったのもつかの間、貼った覚えも買った記憶もないムーンライツのポスターが目に入った。そして、このポスターを買った記憶と貼った記憶がじわじわと・・・・・・。 頭を抱えた。やばい。もう元の世界に戻れないのか。俺は自分が生きてきた世界を完全に変えてしまった。この先どうすべきかと、あれこれ脳内でシミュレーションしてみる。
しばらくして、直弘は決意した。元の世界に戻れないなら、過去へ行って好き勝手にやってやらせてもらおう。やりたいことを全部やる。そして、またこの世界に戻ってくる。俺の過去旅行のせいでここがどうなろうと知ったことか。
とは言っても、既にいろいろな目に遭っているので、何も考えずに過去へ飛び出すほど直弘も馬鹿ではない。さまざまなケースを想定してシミュレーションを行い、対策を考えることは怠らなかった。
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