第2章 過去へ戻ってみた
土曜日の夜。直弘は部屋を暗くすると、壁に背をつけて座り瞑想の体制に入った。横になると寝てしまうので、必ず座って行うことが重要なのだ。何十年かぶりの自己催眠。
それは過去への旅。本格的な人生やり直しの前に一度練習をしておこうと思った。大きく三回深呼吸すると、目を閉じる。深く深く、もっと底へ。まずは、あそこからだ。行ったことがある、あの日、あの時へ。
ゆっくりと直弘の意識は暗闇の底へ落ちて行った。
寒かった。ガタガタ震えている。だが、両手は温かい。手に持っているのはコンビニで買ったおでんだった。真冬の公園。直弘はベンチに座っていた。
隣を見ると、仲の良い友人、山村が既におでんを頬張っている。彼はこちらを見てニタッと笑った。
「何してんだよ。食おうぜ。うまいぞ」
一九八二年一月二十日。直弘は高校二年生の自分に戻った。一度戻った経験のある日なので、戻りやすいと思ったのだ。
ただ、今回は違う。前回は「お客さん」としてのタイムトラベルだったが、今回は「主体者」として、この時代で縦横無尽に動き回ることが目標だ。
まず、前に出ることが必要だった。今は二人羽織の後ろ側にいる状態。全身の意識をぐっと前に傾ける。すると、風船のようなものに押し返された。でも、できる。前に行ける。なぜかそんな確信があった。再び前へ。また弾力と共にはじき返される。
力では駄目なのだ。直弘は意識の中で一歩退き、静かに意識を集中させた。俺は今、高校二年生の神部直弘としてこの体に入り、動き、考える。そして自分の魂が柔らかな光に包まれているところをイメージした。今、俺はこの体を使う。頭のてっぺん、手と足の指先がぴったりサイズのぬいぐるみに入るように、自分の若い体へフィットしていることを想像する。
そして、心を無にした瞬間。直弘はこの体の主体者になった。
無心におでんを頬張る山村の姿を自分自身の目で見た。高校二年生は五十四歳の意識を持つ直弘に取って、完全に子供だった。顔が幼い。体が細い。
意識の地下深く、忘却の倉庫へしまい込んでいた記憶が一気に浮上してきた。直弘の目から涙があふれる。
「山村・・・・・・」
ちくわを加えたまま、こちらを見る山村。無邪気な童顔。そこにいるのは、まだ何も知らない少年。こいつは本当にいい友達だった。生まれて初めてダブルデートをしたのもこいつとだった。そして、その後、同じような時期に二人とも女の子に振られてしまった。
涙が止まらない。なぜ忘れていた。なぜ今、思い出した。なぜ、俺はこんなところに戻ってきた。
直弘はおでんをベンチに置くと、手で顔を覆って号泣した。
「どうした? 神部」
心配そうな顔で見る山村。
「山村、おまえ、おまえ」
言えなかった。言えるはずがなかった。おまえは二年後に死ぬのだと。第一希望の大学に現役で合格し、入部したワンダーフォーゲル部の新人合宿で死ぬだなんて。足を滑らせ、崖下に転落したのだ。レスキュー隊が来た時には既に手遅れだったと聞いた。
「何だよ、いきなり」
「いや、死んだ犬のことを急に思い出して」
「シロが死んだのは小学生の時だろ?」
とっさにごまかしたつもりが駄目だった。こいつにその話はさんざんしていたのだった。
「山村!」
「えっ?」
「大学に入っても、ワンダーフォーゲル部だけには入るなよ。いいな、絶対だぞ」
「はっ、何それ?」
今の時点では、山村はワンダーフォーゲルという言葉すら知らなかったのだ。ますます墓穴を掘ってしまい、直弘は焦った。この時代にはもちろんスマホなどないから言葉を調べるのはひと苦労だ。
その後、不審がる山村を何とかごまかしつつ、何とか帰りの電車に乗った。帰りの通勤ラッシュで混んでいる。二人は吊革につかまった。
直弘が横目で山村の顔を見ると、泣き出した直弘に困惑しつつも笑顔である。恐れを知らない十七歳。希望に満ちた表情はキラキラと輝いている。こんな若者がまさか二年後に女も知らず、酒もろくに飲まないままこの世を後にするなんて。神さまは間違っている。
「あっ」
「どうした?」
いきなり声を上げた直弘にビクリとする山村。直弘は全身を震わせながら泣き出した。まわりの乗客が何事かと注目している。
「家に帰ったら」
「帰ったら?」
「母ちゃんがいる」
山村は吹き出した。
「いるに決まってんじゃん。何を言い出すんだよ」
違うのだよ、山村。この時代にはいるけれど、俺の、俺の時代ではもう亡くなっているのだよ。二十三年も前に。
まだ直弘が結婚している時だった。前からの約束だったので、夫婦で直弘の実家を訪ねた日。いくら取り繕っても、直弘たちの夫婦仲が崩壊しているのは誰が見ても明らかだった。両親と二人の妹たち。そして、直弘夫婦。楽しいはずの七人の夕食は終始ぎこちない雰囲気のままだった。
時折心配そうな顔をこちらに向ける母を見て、直弘は一緒に来るのじゃなかったと後悔した。それでも行きたくないとごねる妻を半ば力ずくで連れてきたのだ。彼女との衝突の原因は、そのドタキャン癖が大半だった。行くと返事しておきながら直前に嫌だと言い出す。それで何度友人や実家に迷惑をかけたことか。こんなことをこれ以上続けていては社会的に抹殺されてしまう。そう思った直弘はその日、強固に約束を果たすことを要求した。
何とも言えない嫌な空気の食事を終え、帰途につこうとした時。母は直弘に何か物を言いたげだったが、何も言わなかった。
「ごちそうさまでした」
玄関へ見送りに出た家族へ作り笑いで挨拶する妻。すーっと家を出て行くと、駅へ向けて歩き出した。彼女は母が手間暇かけて作ってくれた料理へろくに箸をつけなかった。もはや直弘の実家と関係を保つ努力も放棄したようだった。
大切な家族が住む場所へなぜこんな奴を連れてきたのか。いや、そもそも結婚してしまったのが大間違い。直弘の心には絶望的な想いがうずまいた。別れてやる。今すぐ別れてやる。
「じゃ」
直弘は玄関に見送りに出た家族にひと声挨拶すると、家を出た。おまえ、あの態度は何だと妻を帰りの車で怒鳴りつけてやろうと考えながら。
「お母さん!」
妹たちの絶叫が聞こえた。直弘は慌てて家へ駆け戻った。母が仰向けに倒れていた。既に意識はない。そして二度と戻らなかった。
この時のことを思い出すと、直弘は今でも頭をかきむしりたくなる。なぜあの日、妻を実家に連れて行った? 妙な空気で母を困惑させ、心配させて、もともと異常が指摘されていた脳の血管を破裂させてしまったのだ。
いや、とも思う。早かれ遅かれ母がクモ膜下出血で倒れたのは間違いない。もし検査で発見されていた脳動脈瘤の手術を母が受けていたなら。その時、必ずしも安全と言えない脳の手術を母は拒否し、天が定めた寿命を生ききる選択をした。家族は母の選択を尊重したが、もし強く手術を勧めていたらならば。
後悔してもしきれない母の死。その母に会える。元気な姿で。
乗客の注目を浴びながら、直弘は泣き続けた。隣で困り果てる山村。もう彼のことは直弘の頭から消え去っていた。ただ、母のことを想い続けた。
駅で降りて山村と別れ、自宅へ向かう。心臓の高まりが止まらない徒歩十分の道。直弘は泣きながら歩き、途中二回ほど電柱にぶつかり、一度車にひかれかけたが、何とか家にたどり着いた。こぢんまりとした一軒家。両親と妹たち、そして自分が住んでいた家。
明かりがついている。直弘の全身に電気が走った。一歩、一歩と近づいていく。そして玄関のドアノブを握ると、大きく息をしてドアを開けた。カランコロンカランと、どこかで買ってきた飾り物が音を鳴らす。
懐かしい匂いが鼻腔に飛び込んでくる。夕飯はお茶漬けらしい。神部家代々に伝わる秘伝のたれと白身の魚で作る直弘の大好物だった。
「ただいま」
どうにか声を絞り出し、リビングへ入った。小学生の女の子がテレビでアニメを見ていた。一瞬、姪っ子の和美かと思ったが、そんなわけはなく、そこにいたのはその母、靖子だった。七歳離れた下の妹。直弘がもといた世界では靖子の娘、和美が十歳だった。まさに母と娘は生き写しと言っていいくらい似ている。
妹も昔はこんなに可愛かったんだ。感心してしげしげと靖子の顔を見ていると、けげんな顔をされた。
「にいちゃん、どうしたん?」
若い。いや、子供だから当然だ。もといた世界では二児の母で貫禄十分なのに。おまえは職場で知り合った三歳年下の男性と結婚するのだよ、なんて今言ってもわけがわからないだろう。
「お母さん、私のホッチキスどこ?」
二階から上の妹、智恵美が降りてきた。この時、中学一年生。昔から優等生で、大学は直弘よりいいところへ行った。商社へ就職し、ニューヨークへ赴任。土地がよほど性に合ったらしく、帰国命令が出ると同時に退社。日系企業の現地法人に転職し、同僚の日本人男性と結婚。一児の母であり、今もニューヨークへ住んでいる。
あまりに若い妹二人を見ていると、直弘にあり得ないコスプレという言葉が浮かんだ。服装や化粧だけでなく、身長や肌の若さまで変えてしまう変身。タイムトラベルをしない限り、絶対に見られない姿だ。スマホで写真を撮りたいなと思ったが、あるわけがないことに気がつく。持ってこられるはずがない。過去へ戻れるのは意識だけだ。
「えっ? さっき返したやろ」
台所から母が手を拭きながら出てきた。若い。すごく若い。当たり前だ。この時はまだ四十歳。今の直弘より十六歳も若いのだから。そしてきれいだ。お母さんはきれいだ。
「あら、お帰り」
母の笑顔を見た瞬間。直弘は鞄を手から落とし、両手で顔を覆って泣き出した。
「お母さん、お母さん」
あっけにとられる母と妹たち。
「俺、絶対に変なやつと結婚しないから」
「はっ?」
「それから、お母さん。行って。すぐに行って」
「えっ。どこに?」
「頭の検査」
「何言ってんの?」
直弘はどうにか泣きやみ、食卓についた。だが、食事どころではなく、視線を母からはずすことができなかった。動いている。しゃべっている。生きているのだ。
いつもと違う兄の様子を薄気味悪そうに見る妹たち。でも、仕方ない。おまえらだって過去に戻って同じ体験してみろ。絶対泣くから、と直弘は思った。
「直弘、何しとるん。冷めるよ。早く食べり」
心に染み渡る母の方言。直弘はれんげを持ち、神部家直伝のお茶漬けをひと口食べた。うまい。そして懐かしい。目から自然と涙があふれてきた。
「兄ちゃん。何めそめそしよっと。どうしたとね?」
智恵美に冷静に突っ込まれる直弘。こいつは昔から大人びていたっけ。この口調は三十九年後もそのままだ。
カランコロンカラン。ドアの飾り物が鳴った。
「おーい」
これもまた懐かしい声。食堂にスーツ姿の父が姿を見せた。この時、四十五歳。今の直弘より十一歳年下だが、結構老けているな、と感じた。
社会人になってからも感じたことだ。入社直後に見た四十歳の人々は中年というより初老という言葉がぴったりであり、五十歳に至っては完璧に老人だった。
それがどうだ。今では四十歳なんてガキだし、直弘は五十歳を超えても顔に皺がなく、ムーンライツの現場では自分の子供のような年齢の男女と対等に遊んでいるのだ。
もちろん個人差はあり、直弘の友人でもずいぶん老けた連中はいる。それでも、全体としては明らかに年を取るのが遅くなっている印象がある。これは一体何なのだろうか? 世の中が変わったのか?
「なんか。おまえ泣きよるんか?」
父がめざとく直弘の異変に気づいた。
「父ちゃん」
直弘はしげしげと父を見た。現在も父は生きているが、八十歳で認知症が悪化し、現在は施設に入っている。もはやまともにコミュニケーションを取ることが困難だ。
父にはたまに行く競馬以外は趣味らしい趣味がなく、仕事だけが生きがいだった。それだからこそ、定年後は急激に年を取った。
頭が良く、現実的な考えを持つ男だった父。目に見えない世界には一切関心を持たなかった。その点、ロマンティストな母とは対照的で、正反対だからこそ二人は仲が良かったのかもしれない。
元気なときにもっともっと父と話せばよかった。施設で父に面会するたびに直弘はそう思った。今はまだ息子や娘を認識できているが、いつわからなくなってもおかしくない。普通に話をしていたかと思うと、突然突拍子もないことを言い出す。
「お母さんはどうした?」
介護施設を訪ねた、ある日のこと。真顔で尋ねられて、背筋が冷たくなったことがあった。
「何言ってんだよ。もう二十年以上前に亡くなったやん。父ちゃんが葬式だしたじゃんよ」
驚いた表情の父。
「えーっ。ほんとか? それは知らんかったの」
こんな状態になる前に話したいことはたくさんあったのだ。今、それができる。直弘にその思いが湧き上がってきた。何とか泣き止んで、声を絞り出す。
「父ちゃん」
「なんか?」
「ビール飲もう」
「何とぼけとんか。高校生が」
すっかり忘れていた。
不審がる家族とどうにか夕食を終え、直弘はリビングで妹たちとテレビを見た。長方形の液晶テレビではなく、正方形のブラウン管テレビ。見ている番組は展開や結末を知っているドラマだった。三十九年後も活躍している俳優が若いなと驚いたり、ああこの人、事故で亡くなったのだよなと感慨にふけったり。それなりに興味深かった。
インターネットのない世界。家での娯楽はテレビか本しかない。特にテレビは三十九年後の世界と比べたら、何倍もの時間は見ていた。
「直弘」
洗い物を終えた母が顔を出した。
「なに?」
つい笑顔になってしまう。本当はこの頃、母親に対してこんなに愛想良くなかった。高校生の男子なんてそんなものだ。
「お風呂入りなさい」
息子のあまりの笑顔に思わず母はたじろいでいた。
二階の自分の部屋で、箪笥からパジャマと下着を出す。懐かしい。昔、こんなのを着ていたよなと思う。確か大学で一人暮らしをする時も持って行った。
あらためて部屋を見渡す。壁には銀河鉄道999のポスター。謎の微笑を浮かべているメーテル。この映画は日本映画のアニメで最高傑作だと直弘は今も思っている。最近ブルーレイを購入して、その思いを強くしたばかりだ。公開は一九七九年だから二年前だ。確か続編の映画が一九八一年に公開されたが、あれはあまり好きではなかった。
そして中学の修学旅行で買った京都と奈良のペナントも壁に貼ってある。昔はお約束だったなあと思う。今の学生もこういうのを買うのだろうか? 部屋の隅には京都で買った木刀も。当然ながら、一度も使ったことがない。みんなが買うので釣られて買っただけだ。
机の本棚には参考書がちらほら。まだ高校二年の冬で、真面目に受験勉強はしていない。クラスでの成績は悪かった。後ろから数えて十番目。悪いときは五番以内に入ることもあった。だが、高校三年になると一念発起して予備校に通い始めた。さらにいろいろ参考書や問題集を買い込んで受験勉強に燃えた。そう。学校の定期試験と一発勝負の入試は全く別物である。直弘は明らかに入試向きだった。
クラスのほとんどが浪人となる中、直弘は有名大学に現役で合格した。みんなより一年得した気持ちがしたものだ。
だが、五十六歳になった今、その一年のリードなどたいした意味はなかったなと思う。友人たちは子供を育て上げ、大学まで卒業させた者も少なくない。直弘は皆と同じような時期に結婚したが第一コーナーで落馬し、気がつけば一人である。
同期が人生のまとめに入っている中、直弘はまだこれからどうしようと悩んでいる。
直弘が過去を懐かしみながら部屋を見渡していると、机の棚にある一冊のノートが目に入った。それを取り出して眺める。まだ真新しい。ノートの表紙にはペンでこう書いてあった。
「ネタノート」
そのノートには小説のアイデアを書いていた。直弘はこの頃、作家を目指していたのである。大学に入ってからは文芸部に入部して、本格的に創作活動に挑むことになる。小説新人賞には何度も応募したが、一次予選通過止まりだった。社会人になって数年は創作を続けていたが、やがてサラリーマン生活の沼に飲み込まれ、いつしかやめてしまった。
直弘の好きなジャンルはSFで、高校生の時から星新一や筒井康隆の愛読者だった。それは三十九年後も変わらないが、まさか自分が小説の登場人物のようにタイムトラベルを成功させるとは。
「おにいちゃん」
母の声だ。
「早くお風呂に入らないと、先に入るよ。いいと?」
やばい。やばい。一回順番を抜かされると、妹、母、父、妹、と四人待ちになることがよくあった。結果、寝不足になったことも一度や二度ではない。
「今行く」
久しぶりにこの返事したなと思いながら一階へ駆け下り、浴室へ。直弘は裸になって鏡でしげしげと自分を見た。うわっ、子供だと思った。
見た目が若く、五十歳を超えているように見えないとよく言われる直弘だが、十七歳の自分は別の生物だった。当たり前だが顔に皺がない。肌がつやつやだ。髪も多い。五十四歳の今でも禿げてはいないが、毛量の差は歴然としている。
何より違うのが腹まわりの脂肪だ。俺、こんなにガリガリだったのかと唖然とした。食事は多分、この頃は五十六歳の自分と比べて、一・五倍は食べていただろう。それでも太らないのはなぜ。体重計に乗ると、最後に見た自分の体重より十キロ以上軽かった。
五十六歳の自分なんて、ある休日に朝飯一食だけしか食べなかったのに前日より体重が増えたことがあった。意味がわからない。年を取ってからの方が相当燃費がいいのだ。今度飢饉になったら、間引くのは若いやつからにして欲しいと直弘は思っている。
久々に実家の湯船につかりながら、ようやく直弘はくつろいだ。思い出は美しすぎてという歌があったが、実際の過去はそれ以上だった。何と表現していいのか。とにかく、すべてが可愛く、そしていとおしかった。当然だよな。両親は自分より年下だし、妹たちは中学生と小学生なのだから。
風呂から上がり、髪をドライヤーで乾かしていると、母親の声。
「おにいちゃん。りんごがあるよ」
パジャマを着てリビングに行くと、リビングで両親と妹二人がりんごを食べながら談笑していた。その光景を見ると胸が熱くなり、また瞳に涙があふれてくる。俺はみんなの未来を知っている。いろいろあるけれど、四人とも総じていい人生だ。皆に愛され、人のためになっている。父ちゃん、母ちゃん、智恵美、靖子。みんな、よくがんばった。いや、未来のことなので、これからみんなよくがんばる。
「おにいちゃん、また泣きよると?」
智恵美に笑われた。
「どうしたんね? 今日はメソメソして」
母親も吹き出す。
「直弘、女に振られたとか?」
父親に突っ込まれた。
「うわー、振られ虫!」
小学生に言われるときつい。振られていないけれど。直弘はどかっと座り込むと満面の笑顔を浮かべた。
「いただきます」
母親がむいたりんごを頬張る。うまい、とまた泣きそうになった。だが、かろうじてそれをこらえ、靖子に言った。
「振られとらんわい」
部屋に戻り布団に入ると、直弘は不思議な感覚に包まれた。ひょっとして、俺は本当に十七歳ではないのか。五十六歳までの人生こそ夢ではないのかと。ただ、それにしてはいろいろなことを知り過ぎている。高校生の俺が取引先の工事スケジュールなんかを微に入り細に入り覚えているわけがない。
このままこの世界に残り、高校二年からやり直すか。一瞬そう考えたが、本棚の参考書を見ると、その思いは消えた。もう一度受験勉強をやるなんて、まっぴらごめんだ。
過去へ来られることはわかった。一度もとの世界へ戻って、どうするかを考えよう。直弘は起き上がると、儀式を始めた。この動きをすれば現在に戻れるよう潜在意識に打ち込んでいるのだ。直弘は右手で左ひざを二回、左手で右ひざを二回叩いた。そして右手で左の頬を叩き、左手で右の頬を。そして両手で両方の頬をパシンと叩いた。
気がつくと、直弘は五十四歳に戻っていた。ひざや頬を叩いたのは現在に戻る儀式だった。うっかりやってしまわないよう、意識しないと絶対やらない奇抜な動作を考えた。
それにしても、と直弘は思った。夢にしてはリアル過ぎる。次の瞬間、襲ってきたのは強烈な喪失感だった。元気な母と父。若い妹たちがこの世界にはいないのだ。
ただ、過去に戻る試みは大成功だった。これでいつでも自分の人生を変えられると考えると、直弘は胸の高まりが止まらなかった。
布団から何気なく手を伸ばし、スマホを見た。LINEが来ていた。山村からだった。
「飲みに行こうぜ」
やばい。あいつ死んでない。直弘は布団から飛び起きた。あわてて下の妹、靖子に電話する。呼び出し音がもどかしい。目から涙があふれてきた。
「もしもし。何時だと思っているの?」
絞り出すような声の靖子が言い終わらないうちに直弘は叫んだ。
「お母さん、お母さんはどうしている?」
「はあっ?」
不審げなひと言で直弘はすべてを察した。
「何言ってんの」
「亡くなってる? ねえ、お母さん、亡くなってる?」
靖子が電話の向こうで思いっきり引いている様子が目に浮かんだ。
「亡くなったじゃん」
「いつ?」
「えっと、二十三年前」
「よかった」
「何が? 寝ぼけてんの?」
変な夢見たからと、必死にごまかしつつ直弘は電話を切った。母は亡くなったままだ。でも、でも、山村は・・・・・・。体の震えが止まらない。肩で大きく息をした。たいへんなことをしてしまったのだ。
SF好きの自分はあれだけタイムトラベル物の小説を読んだのに、なんて不用心だったのだろう、と直弘は後悔した。よかれと思って山村にワンダーフォーゲル部に入ることをやめさせようとしたが、それが現在を変えてしまったようだ。どう変わったかはまだわからなかったが、悪い予感しかしなかった。
山村のことを考えていると、急に直弘へ新しい記憶が降ってきた。高校であれだけ仲が良かったのに大学へ行ってから一度も会っていない。実際には大学入学後に二、三度会っていたはずなのに会っていないことに変わったのだ。ずっと連絡が取れなかったが、つい最近フェイスブックで山村が直弘に友達申請をしてきた。それからメッセンジャーでLINEを交換し、彼から飲みの誘いがきたというわけだ。
直弘はそんな経験をしていないはずなのだが、いきなりその記憶が彼の脳に挿入されたのである。
頭がおかしくなりそうだった。もともと山村は死んでなどなかったのではないか? タイムトラベルという変な夢を見て、気が動転しているだけなのでは。
しかし、それにしては、山村の死にまつわる記憶はあまりに鮮烈に残っていた。彼の父親から直弘の自宅に電話があって、息が止まるほど驚いたこと。葬儀での遺影はダブルデートで一緒にディズニーランドに行った時のものだったこと。棺の中で眠るように横たわっていた山村。彼の肌に触れるとひんやりと冷たく、泣き崩れたこと。
当時の十八歳という年齢では、まだ祖父母ぐらいしか人の死に直面していなかった。同い年の友人、しかも高校時代の親友が亡くなるという経験は衝撃的で、直弘の記憶へ強烈に刻まれていた。
山村に会ってみよう、と直弘は思った。話はそれからだ。
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