卒業式

野志浪

卒業式

ピアノの後奏が終わると、体育館に再び静寂が訪れた。

歌い終えた卒業生たちが立つ前方から、あちこちで啜り泣く声が聞こえてくる。


うちの娘も泣いているだろうか。


きっとそうに違いない。


一番の親友だった亜美ちゃん。クラスではいつも一緒にいて、私がこちらにいる日は娘を学校まで迎えに行った帰りに、よく家まで送ってやった。

後部座席でスマホを見ながらはしゃぐ二人は、いかにも今どきの女子高生といった様子だった。


テニス部の後輩、由紀ちゃん。娘が部活で怪我をして入院したとき、毎日のように見舞いに来てくれた。引退試合の後は、受験を激励するために手作りのお守りを娘にくれていた。



私の中にある、私のものではない青春の記憶が歌声に乗せられて響き、胸を打つ。



斉唱の後、啜り泣きの声に私の分も混ざっているのに気が付いたのは、隣にいた康介だけだった。


「おいおい、お前までもらい泣きしたのか。人間らしくなったなあ。」

「いや、違う。これは…違うんだ。」


私がスーツの袖で溢れ出る涙を拭うと、康介は穏やかに微笑んで、そのまま何も言わなかった。






「お父さん、来てくれてありがとう。私、今日はみんなと遊んで帰るから…。」

「ああ、父さんは先に帰るよ。気を付けてな。」


式が終わった後、娘は亜美ちゃんと一緒に教室へ戻っていく。


二人の後ろ姿を眺めていた康介が、隣で一つ溜め息をついて言った。


「子供どうしがまた親友になるなんて、奇遇なもんだね。そんな歳になっちまった自分も怖いよ。」

「お前のところは上の子もいただろう。これを何度も見せられたんじゃ、俺より年季も感じるはずだ。」


康介は私の肩に手を置いてきた。


「感慨深いもんだろ?自分の青春が終わっても、子供たちがまた新しい人生を見せてくれる。卒業式なんて、親にとっても忘れられないもんさ。お前が泣いちゃうのも、分かるよ。」

「…いや、そうじゃないんだ。さっきのは…。」


私は康介の手をそこに残して背を向けた。


「俺は…初めて見たんだ。卒業式を。」


その言葉を聞いて、康介は「あ…」と声を漏らした。


「…そう…だったな。お前、大学もなのか?」

「…ああ。」



そう、私は生まれてから一度もまともな卒業式というものに出席したことがない、稀有な人生を歩んできたのだ。


小学校で不登校だった私は卒業式を欠席。

中学はフリースクールで卒業証書の郵送。

人生を立て直し、高校はこの学校に入学したものの、遠方にある大学の受験が年度末で、前乗りのため式の参加を放棄。

そして大学の卒業式は、流行病の影響で省略された。



「卒業式が、こんな感動的な行事だと知らなかった。俺はそれを、一度も自分で味わったことがない。俺の人生には、きっと何か大切なものが欠落しているんだ。だから、娘の卒業式で自分のために悔し泣きをするような、仕方のない大人になってしまったんだろう。」


私がゆっくりと振り返ると、康介は眉間に皺を寄せたまま目を伏せていた。







二階の体育館を降りた私たちが駐車場に着くと、口数の減っていた康介が急に大きく声を上げた。


「あ、そうだよ!そうそう!感傷に浸ってて忘れるところだった!」


そう言うと彼は自分の車まで走り出してトランクを空け、ゴソゴソと荷物を漁りだした。


「何やってるんだ?」


近寄って尋ねると、私は2つの小さなスコップを手渡された。


「穴掘りやるぞ。今ならホームルームで教員にも見つからない。」

「何を言ってる?」


バタン、とトランクを閉めると、康介はスコップの片方を私の手からひったくり、駐車場奥の空き地へと歩きはじめた。


「卒業式の日にさ、C組のみんなでタイムカプセル埋めたんだよ。結構深いとこまで掘ったから、まだ残ってると思うんだよなあ。」


二人はそのまま、隅にある桜の木の下へやってきた。


「よし、これだったはず…。ガンガン掘って、終わったらガンガン埋める!健司も手伝えよ。」

「このスコップでか?大人2人のやることじゃないな…。」


言いながらも、私はもう掘りはじめている彼に倣って、ザクザクと土を掬っていく。



「健司、お前…嫁さんは今日どうした?」

「朝から急患が入って来られなかった。お前んとこは?」

「うちのは来てるぞ。式のときは撮影のために俺を置いて前の方に座ってたけど…。しかしそりゃお前、可哀想だったな。一人娘の卒業式を見られないなんて。」

「まったくだ。写真も撮らないで泣いていた俺もたちが悪い。」

「ウハハ、そうじゃん、バカでえ!」



さぞ恨まれることだろう。

娘を心から愛している、母親の鑑だ。


しかし彼女は嫁としても、非の打ち所がない。


就職して転勤族となった私に、ずっと着いてきてくれた。免許を持っていながら看護師の仕事を一度辞め、娘の面倒を見ながら器用に在宅ワークをこなす超人だった。


引越しを繰り返すうち、地元である北九州に偶然配属され、娘が大きくなってからは看護師のパートを再開する傍ら、ときどき私の両親まで介護してくれる。


よくも私などの伴侶となってくれたものだ。



「お前、今はどこで仕事してるんだっけ?」

「2年前から仙台だ。もう明後日には戻らなきゃならん。」

「せっかく一度九州に着いたってのに、大変だよなあ転勤は。その度に人間関係がやり直しになるんだろ?既に出来上がってるコミュニティの中に入っていくのは、簡単じゃねえよ。俺にはちょっと無理だな。」

「それほどのことはない。どうせ3年ごとの付き合いだ。引越しが終わったら、もう次の引越しのことでも考えていれば、孤独でもすぐに終わる。」


ふーん…と言って、康介は地面を掘り進める。


「もう家族は連れて行かなかったんだな。」


そう呟かれて、私は動きを止めた。


「…それは…あの子が……」



言いかけたそのとき、康介のスコップがカツンと音を立てた。


「お!出てきた!」


地面に埋まっているのは、砂糖菓子の入っていたようなアルミ缶だ。

私と康介は周りの土を細やかに削ると、丁寧にそれを取り上げた。


「ああ、結構覚えてるもんだな。タイムカプセルとしてはちょっと開けるのが早すぎる気もするけど…今日、コイツの仕事は思い出の提供じゃないからな。」

「そうなのか?」


康介はニッと笑って、アルミ缶の蓋を爪でこじ開けた。


中に入っていたのは、寄書きとクラスの集合写真。

私は手に付いた土を払い、それらを拾い上げた。


私の文字がない色紙。

私の影がない卒業写真。


それはそうだろう。分かっている。

この箱の中に私の思い出はない。



「どうだ?」

「…みんな、ちゃんと卒業したんだな…。」


そう返して康介の方を見ると、彼はタイムカプセルの底を私に見えるよう傾けていた。


中には、まだいくつも写真が残っている。

私はその一枚を見て、声を上げた。


「…これ…俺が委員をやった文化祭の…。」


それだけではなかった。



修学旅行で派手な寝癖を付けた康介と私。

夏の日に後輩の坂田と剣道の練習をする私。

そして、合唱コンクールで音痴を隠しながら必死に歌う私…。


「なんで…なんで俺の写真なんだ…?」


康介は笑って言う。


「お前が卒業式にいなかったからだろ。」


よく見ると、写真にマジックペンで『SEE YOU 健司!また会う日まで!』などと書かれていた。


「お前は孤独でもいいのかもしれないけど、クラスのみんなは嫌なんだ。仲がいいやつも、ムカつくやつも、最後は全員でお別れを言いたかったんだよ。それが3年間の重みだから。」


私は写真を一枚一枚眺めて、長い間茫然とした…。






暫くして、私たちはタイムカプセルを元の場所に埋め直した。中身は全て、そのままだ。



「さて、誰にも見つからなくて良かった。久々に大人2人で青春したな。俺、もう穴掘りとか一生やらないかも…。」


康介が2つのスコップを持って再び車の方へ歩き出すと、私はその後ろで呟いた。


「娘が…友子が小学5年生のとき、俺に言ったんだ。『私、もうさよならは嫌』って…。俺はそのときまで気が付かなかった。あの子は俺なんかと違って、転勤の度に心を痛めていたんだ…。」


康介は優しい眼差しで振り返った。


「それでいいんだよ。そこでの時間を大切にしているからこそ、別れが辛いんだろ。だけど人はどんなに別れを惜しんでも、次に進んで行かなきゃならない。さよならを言わないと、いつまでも思い出が心のどこかにこびりついたまま、今度はそれが前に進む足を引き止めてしまうから…。亜美も友子ちゃんも、今日はきっと、それを噛みしめるよ。」


私たちは何の気なしに、タイムカプセルを守っていた桜の木を見上げた。


「これからはもう、お前が亜美をうちに送迎してくれることもない。友子ちゃんも一人暮らしだし、お前自身も仙台だ。俺たちはもしかしたら、もう会う機会はないのかもしれないな。」



桜の木から、ひらひらと花弁が舞う。





「じゃあな、健司。」

「…ああ、元気で。」





そうして友人に手を振ったとき、私の人生最初の卒業式が終わった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

卒業式 野志浪 @yashirou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ