カーナビに『お兄ちゃん』と入力をしたら、画面が真っ青になり、『目的地まで、およそ4万キロ、3分ぐらいかかります』という音声案内が流れた
Q輔
第1話
コーヒー牛乳みたいな曇天の昼下がり。周囲を鉄壁で覆われた世界。中央にそびえる廃車の山。その片隅で息づく、霊長類ヒト科ヒト属の廃棄物。いわゆる人間の屑と呼ばれる生き物が、二ひき、蠢いている。
「うおおおおお! カーナビだ! カーナビだ! 俺っちのポンコツ軽自動車にカーナビがついたぞおお! すげー! かっけー! え、お兄ちゃん、これどうしたの? 買ったの? いくらしたの?」
「聞いて驚くな、ヤス。これは無料だ。今朝解体予定のキャブオーバーに残っていたのを取り外したのさ。随分古い機種だが、使えないことはないぞ。こら、ヤス、弟が昼寝をしている間に、兄が苦労して取り付けてやったのだ。感謝しろい!」
「うん、俺っち、感謝する! お兄ちゃん、ありがとう!」
油染みだらけのツナギを着たお兄ちゃんは、助手席に座わり、見様見真似で移設をしたカーナビを満足そうに眺め、汚れた手で顔の汗を拭った。鼻の頭に機械油がついている。
同じく油にまみれたツナギ姿のヤスが、運転席で寝グセだらけの頭をボリボリと掻きむしり、目やにのついた瞳をキラキラと輝かせて、古びたカーナビを食い入るように見ている。
お兄ちゃんとヤスは、郊外の港町にある場末の自動車解体作業所で働いている。二人は実の兄弟で、二人はいつも一緒だ。
「ヤス、お前ってやつは、地図もまともに見れねえ。同じ道を何度走っても憶えられねえ。慌てると右と左が分からなくなる。そんな致命的な方向音痴だからな」
「ごめん、お兄ちゃん! 馬鹿な弟でごめん!」
「別に謝ることはない。ヤス、お前は何も悪くない。悪いのはボクシングだ。お前はボクシングのやり過ぎで、ちょっと頭が残念になってしまっただけさ」
二人の父は、彼らが高校生の時に、性犯罪者として逮捕をされ、刑務所に行ったきり、帰ってこない。母は、それを苦にして、やがて精神を害し、心の病院に入院をしたまま、戻ってこない。
お兄ちゃんが20歳、ヤスが19歳の時に、二人はヤード業を営む親戚のもとで働き始めた。しかし、その年お兄ちゃんは夜の歓楽街で傷害事件を起こし、父と同じ刑務所に入ってしまう。
残されたヤスは、親戚のもとで働きながら、世界チャンピオンを目指して近所のボクシングジムに通い始めた。ところが、たちの悪いジムの先輩に頭をパンチングボール代わりにされ続け、成人式を迎える頃には、見るに堪えないパンチドランカーに成り果てていた。世界チャンピオンの夢は、断念せざるを得なかった。
それから、刑務所帰りのお兄ちゃんと、パンチドランカーのヤスは、将来に何の希望も見出せぬまま、親戚の自動車解体作業所で、日銭を稼いで暮らしていた。
「でも、よかったなあ、ヤス。このカーナビさえあれば、もう道に迷うことはないぞ」
「うん、俺っち、よかった! ちょーラッキー!」
「そして、これからは二人で取り引きへ行く時も、昨日までのように右往左往した挙句、約束の時間に遅刻するなんて失敗も無くなるぞ」
「うん、俺っち、もう道に迷わない! 今日からは、お兄ちゃんを、真っ直ぐに取り引きの場所に送り届ける!」
「よ~し、偉いぞ、ヤス。それじゃあ、今からお兄ちゃんが伝える住所をカーナビに入力するんだ。午後の取引きの時間が迫っている。急ぐぞ、ヤス」
「うん、俺っち、急ぐ! 急いで麻薬の取り引きに行く!」
――――
重油色の海。鉄板のような凪。二艘のタンカーが水平線で停船している。100メートル程海に突き出た防波堤の上空で、数十羽のカモメが、まるで機械仕掛けのように旋回をしている。
お兄ちゃんとヤスには、親戚の自動車解体作業所とは別の仕事がある。二人は、地元の反社会勢力から分配される麻薬を市民にさばき、その収益の一部を組から得ていた。
波止場の入り組んだ車道を走り、取り引きの場所へと急ぐ。車は、いつものようにヤスが運転をする。お兄ちゃんは、車の免許を持っていない。
「何だよこのカーナビ、さっきから嘘ばかり教えやがって! 右に曲がれってほざくから、言う通りに曲がったら、行き止まりじゃねーかバカヤロー!」
怒ったお兄ちゃんが、カーナビの液晶画面をぶん殴る。方向音痴のヤスの為に取付けたカーナビであったが、やはり廃品は廃品、誤作動が激しかった。指示通りに曲がった先が行き止まりだったり、一方通行を逆走させたり、道なき道を走ろうとしたり。
「まったく、このポンコツが! ぶち壊すぞコノヤロー!」
助手席のお兄ちゃんが、事あるごとにカーナビを殴る。その度に運転席のヤスが苦言を呈する。
「カーナビを殴らないでくれ! こいつまでパンチドランカーになっちゃうよ!」
「ごめんよ、ヤス。お前は、優しい子だ。お兄ちゃんの自慢の弟だ」
――――
そんなある日のこと。二人は、高速道路の橋桁の下に車を停車して、麻薬を大量に購入してくれるお得意様の到着を待ちわびていた。暇つぶしに、海を見ながらラジオに耳を傾けるヤスに、携帯電話をいじっていたお兄ちゃんが、何気なく質問をする。
「……ヤス、お前、スマートフォンって知っているか?」
「何それ? 知らねー。俺っち、スマートフォン、知らねー」
「新型の携帯電話だ。近々発売されるそうだ。それさえあれば、電話、メールはもちろん、外出先からもインターネットに繋がり、いつでも、どんな場所でも、瞬時にして世界中の情報を仕入れることが可能になるらしい」
「すげーじゃん! スマートフォン、神じゃん!」
「時代は、目まぐるしく前進しているぞ。俺たちも、いつまでもこんなことをしている場合じゃないぜ。なあ、ヤス、お前の夢は何だ?」
「世界チャンピオンの夢は諦めた! だからもう夢はない! 強いて言えば、いつまでもお兄ちゃんと一緒にいられることが、俺っちの夢だ!」
「嘘つけ。お兄ちゃんに隠し事はするな。正直に言え」
「ごめん! 隠し事はしない! 正直に言う! 俺っち、出来るだけ貧しい国に移住して、その国の子供たちにボクシングを教えたい! 恵まれない子供たちに、ボクシングを通じて希望を与えたい!」
「ほう。ボクシングのトレーナーか。でも、トレーナーなら日本でも出来るぞ? 外国は、言葉が通じないいぞ? 大丈夫か?」
「言葉なんて通じなくていい! むしろ通じない方がいい! 言葉は意地悪だ! 言葉は残酷だ!」
「オッケー、その夢、一緒に叶えようぜ。お兄ちゃんに、任せとけ」
お兄ちゃんが、まるで自分に言い聞かせるように言い、煙草に火をつけポカリと煙をくゆらせる。叶う筈のない夢だけど、お兄ちゃんがうそぶいてくれただけで、ヤスはとても嬉しかった。胸の中が、幸せな気持ちでいっぱいになった。
――――
お兄ちゃんが行方不明になったのは、それから半月後のことだ。
忽然と姿を消した。家にも、職場にも、立ち寄った気配がない。ヤスは、仕事が終わると、毎日ポンコツ軽自動車に乗り、深夜まで街中を駆けずり回ってお兄ちゃんを捜した。どこにもいない。手掛かりすら掴めない。お兄ちゃん、どこへ行ったの? お兄ちゃん、俺っち、お兄ちゃんがいないと何も出来ないよ。一人ぼっちになったヤスは、途方に暮れた。
一週間が過ぎた頃、午前中の作業を終え、よく晴れた午後に昼飯を食べ終えたヤスは、オンボロ軽自動車の車内で、いつものように昼寝をしていた。コンコンと運転席のガラスを叩く音。目を覚ます。何となく見覚えのある男が、車外で仁王立ちをしている。え~と、この人、誰だっけ? あ、思い出した、この人は組の偉い人だ。
「よお、ヤス、明日うちの事務所に顔を出せ。ボスがお前と話がしたいってよ」
「いや、でも、実は今、お兄ちゃんが行方不明で……」
「んなこたぁ知っているよ。オレが後始末したのだから。なあ、ヤス、ボスの話は、その件だ。全てお前の兄貴が勝手にやったこと。恐らくヤスは何も知らない。ボスはそう仰っている。ボスは、寛大なお方だ。お前がケジメさえつければ、命までは取らない」
「え? 後始末? ケジメ? 命を取る?」
「お前本当に何も知らねえのかよ。あのなあ、お前の兄貴は、麻薬の売り上げを、こっそり着服していたの」
「チャクフク???」
「ネコババだよ! ネコババ! とっ捕まえて白状させたら『外国でボクシングジムを開く資金がどうたら』ってほざいていやがった。とにかく、明日ボスの前でケジメをつけろ。そうしたら、今後は俺の舎弟になれるように、俺からボスにお願いしてやるからよ」
「お兄ちゃんは! お兄ちゃんは今どこにいるの!」
ヤスが目に涙をいっぱい浮かべて訴える。くるりと背を向けた組の偉い人は、重油色の海を眺め、冷たく吐き捨て、帰って行った。
「……さあな、今頃シャコのエサにでもなっているんじゃねーの?」
――――
後始末って何だよ! シャコのエサって何だよ! 俺っち、あんなオッサンの舎弟になりたくねえ! 俺っちの兄貴は、お兄ちゃんただ一人だ! ねえ、お兄ちゃん、どこにいるんだよ! 隠れてないで出てきてくれよ!
怒涛のような恐怖と寂しさが、ヤスを襲う。これからどうしよう! 頭をボリボリと掻きむしり考えた。どうしよう、どうすればいい! 自分の頭をゴツゴツ殴って考えた。駄目だ! 分からねえ! 俺っち、馬鹿だからさっぱり分からねえ! なあ、頼むよ、カーナビ、俺っちを、お兄ちゃんのところへ連れて行ってくれ! 錯乱したヤスは、車のエンジンを掛け、カーナビに『お兄ちゃん』と入力をした。
カーナビの画面が真っ青になった。
『目的地まで、およそ4万キロ、3分ぐらいかかります』
異常な音声案内が流れた。
ひゃほ~い! でかした、カーナビ! よくぞお兄ちゃんの居場所を見つけたぞ! よ~し、今行くぞ、 待ってろよ、お兄ちゃん!
ヤスは、ギアを入れ、アクセルを踏んで、作業場から急発進をする。
『目的地までの案内を開始します。……およそ2メートル先を右方向です』
カーナビの案内通りに、急ハンドルで右折。前方に『立ち入り禁止』の柵。突き破って前進をする。
『……およそ10メートル先を左方向です』
一方通行を逆走する。
『……およそ5メートル先をUターンです』
バリケードを破壊して、道なき道をひた走る。
前方に100メートル程海に突き出た防波堤が現れた。
『しばらく直進です』
アクセルをべた踏みして、一直線に加速をする。
『ヤス、お前は何も悪くない』
『お前は、優しい子だ。お兄ちゃんの自慢の弟だ』
『その夢、一緒に叶えようぜ。お兄ちゃんに、任せとけ』
いつか聞いたお兄ちゃんの言葉を、カーナビが案内する。
『直進です』
『直進です』
『直進です』
暴走する車が、防波堤の先端から空中へと跳ね上がる。
フロントガラスいっぱいの青空。
海上を舞う瞬間、カーナビは、最期の案内を告げていた。
『目的地に到着しました』
カーナビに『お兄ちゃん』と入力をしたら、画面が真っ青になり、『目的地まで、およそ4万キロ、3分ぐらいかかります』という音声案内が流れた Q輔 @73732021
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