第11話 ストレッサーとは距離を置け

 金曜日、朝から頼子は少しだけ怯えている自分を自覚していた。

 ストレス源の芙由から連絡があるなら多分今日だ。

 絶対断るつもりではあったが、名前を見るだけで心拍数があがりそうだ。


 昼休み。ここ数日と同様にゼリー飲料を流し込んで昼食終了。やはり味がわからない。

 味がしないのでこの一週間晩酌もしていない。素面状態がこんなに続くのはいつぶりなんだろうか。


 自分のデスクに戻り、休憩時間が終わるまでスマートフォンでSNSをチェックして過ごす。

 ――と、着信があった。


 うわ、と思わず跳ね上がりそうになったが、着信画面に表示された名前を見て落ち着きを取り戻した。

 芙由ではなかった。




「突然呼び出してごめん! 約束してた相手がドタキャンしちゃってさー。頼子なら空いてるかなって思って!」


 店に着いた途端、拝むように手を合わせ、頼子を迎えてくれたのは、芙由ではない友人、亜由美だ。


「いやいや、誘ってくれて本当に嬉しい! ていうか久しぶりに会えたの嬉しい!」


 感動すら覚えながらも、頼子は既に店に到着していた亜由美の向かいに座る。

 久しぶりの落ち着いた雰囲気に座るだけでもう落ち着く。


「亜由美先生、相変わらず忙しいんでしょ?」

「先生はやめてよー。まぁまぁね、最近は働き方改革とかって言ってるけどさ」

「うん、私には遠い異世界の話だけどね」

「学校にとっても異世界だわ」


 亜由美はそう言ってあははと豪快に笑う。中学校の教員をやっている亜由美は高校時代の同級生だった堅実女子だ。

 結婚経験者だが、唯一の離婚経験者でもある。

 生まれてから低空飛行で人生を生きてきた自覚がある頼子からすれば、経験豊富な頼れる友人なのだ。会えて嬉しい、は心からの本音。


「同僚と飲む予定だったんだけど、急に生徒指導が入っちゃってさー」

「あらら、そういうのあるから大変だね」

「まあいつものことだしね。この店お酒美味しいから頼子が好きかなーって」

「思い出してくれて嬉しい! 本当に」


 でもな、と頼子は思う。

 味がしないからお酒も料理も楽しめないだろうな、と。

 亜由美に会えただけでも、今日ここに来た価値はある。


「この店、果実酒美味しいの。果物っぽいの好きでしょ」

「そういえば、よく飲んでる!」

「自分のことなのに知らなかったの?」


 さすが現役の先生である。人のことを良く見ている。


「じゃあ、あらごしみかん、ソーダで割っちゃおうかな」

「私は初っ端から日本酒飲むか」

「かっこいい!」


 二人してケラケラ笑いながら注文をする。食事も適当に頼む。


 すぐにお酒と突き出しがテーブルに置かれた。

 突き出しはシンプルに枝豆だった。普段だったら嬉しかったと思う。


「お疲れー!」

「おっつー!」


 乾杯をして、みかんのお酒を飲む。


(あれ?)


「美味しい!!」


 思わず大きな声をあげてしまい、頼子は慌てて口を押える。

 静かな落ち着いた雰囲気だ。大声はマナー違反である。


「それさ、前飲んだけど、日本酒のリキュールなんだって。ジュースみたいに口当たりがいいし飲みやすいよね」

「うん、みかん、美味しい。ちゃんと、みかんの味も、アルコールの味もする」

「アルコールの味って」


 あはは、と笑い声をあげる亜由美に断り、突き出しの枝豆にも手を伸ばす。

 両手の指で殻を押して飛び出してきた豆を口で迎える。

 絶妙な歯ごたえと、強めの塩。


「こっちも美味しい」

「そんなに感動してくれると誘った甲斐があるというもんよ」

「ほ、ほんとに、美味しいよ」


 ぽろりと、頼子の目から涙がこぼれた。


「え、ちょ、泣くほど感動するかー!?」

「だって、美味しい。美味しいよぉー」


 一口しか飲んでいないから全然酔ってないのに、一旦堰を切ってこぼれた涙は止まりそうにない。

 頼子は泣いた。思いきり泣いた。一応声は抑えた。


「うううう、美味しい。お酒も、枝豆も、美味しいよぉ!」

「うんうん、美味しいね」

「ちゃんと味がするし、落ち着いて飲めるし、美味しいよぉぉ!」

「そうだね、ゆっくり飲みなー」


 亜由美は慌てることなく、ゆったりとした口調で頼子の言うことをただ同意してくれる。

 それが心地よく、頼子はしばらく泣き続けてしまった。



「いやあ、ホントごめん。迷惑をおかえけしました」

「なんかストレスたまってるみたいじゃない。仕事?」

「えーと、実は」


 正直に話すかどうするか少しだけ考えて、亜由美なら大丈夫か、と話をしてみることにした。


「ここ一ヶ月近く毎週芙由と飲んでて」

「芙由と? 珍しー。ああ、彼氏自慢でストレスマックス?」

「さすがに彼氏自慢だったら微笑ましく聞けるよ。さすがに」

「あ、そっか、頼子はそうだよね」


 じゃあ何、と問われ、個人情報だからさ、と頼子は切り出す。


「何か芙由、不倫地獄に片足突っ込んでるみたいで」

「不倫地獄?」

 

 その単語に亜由美の顔色が変わった。頼子はそれに気づいたが、気づかないふりをして話を続けた。


「悪いことなのはわかってるんだけど、好きなのは止められないって、ずーっと同じことをぐるぐる言ってて、聞いててつらい」

「ふうん」

「話聞いて、さすがにと思って諭してたらさ、お酒もごはんも味がしなくなってて」

「うんうん」

「何を食べても味がしなかったのに、久しぶりに美味しいのがわかって、はー何か泣けちゃった」


 もう一度ごめんね、と頼子が詫びると、料理が運ばれてきた。

 浅く漬けた白菜に韓国のりを和えたサラダと大根の煮物を揚げた大根カツだ。


「大根カツおいしいから、まずは熱いうちに食べなよ」

「じゃ遠慮なく」


 亜由美に勧められるがままに頼子は大根カツに手を付ける。乱切りされた大根にパン粉を付けて揚げたという感じの外観のものを箸で口へと運ぶ。

 口に入れると熱さの中から出汁の味がしみだしてきて、衣にじんわりと染みるように口の中で混ざり合っていく。


「うぉおおお」

「何その反応」


 亜由美に笑われて、頼子も笑った。


「だって、これ、めっちゃ美味しい! 大根の可能性を感じる」

「大根はねえ、宇宙の可能性だから」

「野菜なのに揚げるとメインを張れるね」

「そう、でも肉よりヘルシー」

「最強!」

「そう最強」


 みかんソーダをごくごく飲んで、今度はサラダにも手を伸ばす。

 浅付けに、ごま油風味の海苔が多めに和えてあって、食欲をほどよく刺激する。

 パリっとした白菜漬けの歯ごたえも楽しかった。


「やばーい、美味しい」

「やばいとしか言えなくなるの、わかる」


 感想に同意してくれるのはとても大変嬉しい。

 頼子はちょっとお酒が回ってすっかり上機嫌になった。好きな酔い方だ。


「あ、頼子、ここね、日本酒自慢なんだけど、おすすめは梅酒。日本酒に漬けてあるやつ、絶対好きだと思う」

「へえ、頼んでみる」


 亜由美おすすめのお酒と、ちょっと肉系の料理を追加注文する。


「いいお店知ってるね、さすが」

「お褒めにあずかり光栄の至り。で、何、芙由、不倫してんの?」

「あー何か二番目の女でもいいとか言いながら奥さんに怨嗟をまき散らしてたよ」

「怨嗟って。感想が『やばい』しか出てこない人と同じ口から出た単語だとは思えないわー怖い」

「あの子、可愛いのになあ、なんでそうなるんだろ」

「背徳感とかね、変な麻薬なわけよ」


 亜由美がため息交じりに言う。


「私、みんなに離婚原因言ってなかったと思うんだけど」

「あ、うん」


 『離婚したんでよろしく』だけの報告だったように記憶している。

 皆大人だ。自分から言ってことないことを無理やり聞き出したりはしない。

 亜由美は確か職場結婚だったな、と頼子はかなり昔の記憶をたどった。結婚式をやらなかったので、旦那さんだった人と面識はなかった。


「元旦那の浮気なの」

「うそ!?」


 叫んでしまい、慌てて声を抑える。


「亜由美が奥さんなのに?」

「元奥さん」

「あ、はい」


 訂正してくる亜由美に、これは相当わだかまりがあると頼子は読んだ。


「卒業生に誘われてふらっといっちゃってねー」

「ふらっと。……現役生徒でなくてよかったね、で良い?」

「そうそう、正しい認識」


 亜由美は感心したように言って、お猪口に口をつける。冷酒だ。

(美味しそうに飲むなあ)

 話題とは違うことをぼんやりと考えて、頼子はあらごしみかんソーダを飲み干した。


「でまあ、修羅場」

「修羅場」

「その後、離婚。元旦那と教え子不倫ちゃんからたっぷり慰謝料をむしり取ったよー」

「むしり取る……!?」

「最終的に、貯金増えて身軽になってオールオッケイ!」

「そう、だったんだ。知らなかったとは言え無神経な話を――」

「あ、いいのいいの、昔の話だから」


 あっさりと首を振るが、頼子はそれが亜由美の強がり半分なのがわかっていた。


 注文したお酒と料理が来た。

 梅酒だ。すぐに一口飲んでみる。


「おお、まろやかな! 確かに違うね、日本酒!」

「それ美味しいよね」

「すごいな、こんないい店よく知ってるよね」

「それ二回目だから」


 お酒に舌鼓を打てばまた和やかなムードが戻ってくる。

 豚バラネギまの串焼きも串にさしたまま豪快にほおばる。


「そのままいくのか、漢か!」

「漢字の漢でおとこと読む」


 塩のおかげか豚バラの油が気にならない。そしてネギ。さっきから歯ごたえがたまらない料理が多くて感動しきりである。


「芙由に説教しとこうか?」

「現役教員の説教? 怖そう」

「専売特許だから」


 ちゃんと恋愛して、結婚して、修羅場って、離婚した亜由美の経験値は、芙由のそれよりははるかに高い。

 亜由美に話をしてもらえば芙由などひとたまりもないのは簡単に想像がついた。俺Tueeeプレイだ。

 だけど、と頼子は思う。


 何を言っても全然話が通じないからもう放っておこうと思った。

 ただ、このまま放っておけば芙由は負のスパイラルに堕ちていくことは確実。

 そして、亜由美の元夫とその不倫相手のように全てをむしりとられて、ぽいっと捨てられるのだろう。周りから。


(でも、今ならまだ間に合うんだよねー)

 そう、まだギリギリセーフだ。かなりアウト寄りだが。

 もし、芙由がむしりとられてボロ雑巾みたいになったら、頼子は今までのように美味しくお酒を飲むことができるのだろうか。

(一応相談相手に選んでもらったんだから)


「私、もう一回芙由と会ってみる」

「健康被害出てるんだから無理しない方がいいよ」

「亜由美に会って元気チャージしたから大丈夫」


 ちゃんとご飯も美味しい。お酒も美味しい。楽しく酔える。

 駄目になっても、復活できる。

 そんな小さなことが頼子の勇気につながる。


「今、私、戦闘モードなんだよね!」


 会社でも小さい勝利を得たのだ。ここまできたら「やっちゃえよ!」だ。

 頼子はいつものことながら酔っていた。酔っていたから強気になれるのだ。


「そっか。何かあったらちゃんと声かけてよ」

「ありがとう亜由美先生!」


 

 惜しみながらも亜由美と別れた後、スマートフォンを見れば、予想通り芙由から何件か不在着信通知があった。

 頼子は躊躇うことなく、着信通知にリダイヤルする。

 

「あ、芙由? ごめん、ちょっと用事があって電話出られなくてさ。明日、昼間空いてる? たまには私にも付き合ってよ、話はちゃんと聞くからさー。ほんと! やったー。じゃあよろしくね!」


 電話を切って、頼子は大きく息を吐き出した。

 これで、よし。勝負は明日だ!


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