第10話 機能しろ! コンプラ!
家でも会社でも何を食べても何を飲んでも味がしないのは変わらなかった。
当然食も細くなった。味がないものを無理やり食べてもつらいだけだ。
感染症を疑い検査をしたが、陰性。
「心因的なもんかなー」
自分の状況を鑑みて、頼子はそう判断を下す。
昼休みだが、食欲はない。味がしないゼリー飲料を無理やり飲み下してデスクに戻る。
今日は昼休み中の電話当番だ。
電話が鳴るたびに「死ね!」と呪いをかけながら電話に出る。
昼休みぐらいみんな休んでほしい。
今日もぐったりだ。
不在者あての電話に「折り返し」を伝え受話器を置く。
(いねーのわかってんだろーがよ! 携帯かけろ、番号知ってるって言ってたぞ、この間!)
全てが憎くて、ひたすらつらい。
「佐藤さん」
同じ部の後輩女子が頼子の横に腰を下ろして、こっそり話かけてくる。
気遣いのできる可愛い後輩だ。頼子がそう育てた。これはひそかな自慢だ。
「あの、佐藤さんが不倫相手にふられたって噂が流れてるんですけど、心当たりあります?」
気遣いができるから、普通の声量ではなく昼休み中にこっそり確認してくれる。
自分の育て方は間違いではなかった! と胸中で二、三度頷いてから頼子は今の質問内容を分析する。
(誰だそんな噂流してるやつ!!)
「え、全然、心当たり、ない……、」
「佐藤さん最近元気ないんで、色んな憶測が飛び交ってるんですけどー……、やっぱ違いますよね。ちょっと聞き込みしてみます」
後輩はできる後輩だ。
社内の同年代ネットワークをちゃんと構築して、独自の情報網を持っている。
ちなみに頼子も同じようなネットワークを構築しているが、構成員は課長以上管理職だ。おじさんばかりの情報網。社内の派閥やら人事やらには明るいが、こういう噂話にはとことん疎い。
だから後輩のような人材は超貴重だ。
「助かる、ありがとう」
「いえいえ、いつも助けられてますんで!」
こういう社内サバイバルも先輩に教わったのだ。頼子は教わってきたそれを惜しげもなく後輩に伝えてきた。
仕事は単純で、誰でもやれる仕事だが、こういう技術は長くいなければ身に付かない。
(結婚せずに長く居るのも悪いことじゃないんだよね)
そんなことを思いながらも、頼子の中で闘争心が高まっていくのを感じた。
普段の頼子はこの上なく平和主義だ。
一方的に非難されてもニコニコできるし、謝りもする。
だが、怒る時はちゃんと怒る。
(不倫してんのは私じゃないし!)
「部長、お話があります。どこかで時間をいただけませんか」
メールで伺いをたててもよかったが、口頭で伝えた。
今日はアポもなかったはずだし、会議もない。全部確認済み。
怒れる頼子は自分の使える手は全て使い、自分の思うようにことを運ぶ。
疲れるからよほどでないと使わない手だが。
「どうしたの、頼ちゃん」
部長は入社当時の頼子を知っているので頼子のことをそう呼ぶ。
今日の情勢からセクハラと訴えられかねない案件だが、頼子は別にいいと思っている。地方都市の中小企業などそんなにコンプライアンスは機能していない。だから不倫野郎がいるのだ。始末してやりたい。
会議室に入って、部長と対面。
緊張などしない。
「それがですね、ぶちょー、私が不倫して失恋したって大変不名誉な噂が流れちゃってるんですよー」
「はあ? 頼ちゃんが不倫!? ……無理でしょ」
「言い切られるのも……なんか微妙ですけど」
部長とは腹を割って話す仲だ。お互いの為人はばっちり把握している。
頼子の倫理観念は部長もよく知っているはずだ。
「不倫できるぐらいなら、その前に結婚できてるよ」
「それをセクハラっていうんですよ!」
「あ、ごめんごめん。じゃあそれとなく噂は消しとくから」
「頼りにしてます」
「ほんとでも頼ちゃんさー、そろそろ結婚したら?」
「できないって言ってんですよ! セクハラですよ! ホント。社長に言いつけますよ!」
「頼ちゃん本当に言いつけるから」
(……コンプライアンス部を勝手に立ち上げてやろうか)
一応社内にあるはずなのだが、コンプライアンス委員会。
今の頼子ならやれそうな気がした。
「佐藤さん、噂の出どころわかりましたよ。肝田さんです、営業の」
「……ほお」
頼子が席に戻ると後輩が相談を装って、報告にやってきた。
先日のトナー交換監督不倫疑惑先輩だ。
「なんか、佐藤さんああ見えて意外と既婚者好きぽいみたいなことをちらっと言ってたみたいです。佐藤さんが元気ないのは失恋のせいじゃないかって憶測と交じり合って、大変不名誉な噂になっちゃったみたいですねぇ」
後輩は仕事ができる。
(あれ、私、忍者を育ててる?)
後輩の仕事の速さに舌を巻きながらも、頼子はふと疑問を抱いたがあまり考えないことにした。
戦国時代でも、現代でも忍者は喉から手が出そうなほど欲しい人材なはずである。情報を制するものは戦いを制すのだ。会社で戦いってあるのだろうか。
と、内線電話の呼び出し音がなる。
後輩にありがとう、と伝えて頼子はさっと電話を取った。
「佐藤です」
「あ、佐藤さん、またトナー切れちゃってさー」
噂をすればトナー交換監督からの内線だった。
まず名前を名乗れ、と反射的に思ったが今はそれは置いておく。
「あーすみません、私今部長に呼ばれてまして(嘘)ちょっと手が離せないんで(嘘)周りの人に聞いてやってみてください! 大丈夫、前回教えたとおりにやってもらえれば! 簡単ですよ」
ガチャ切り。
「都築さん、営業の肝田さんだけど」
席に戻った後輩に、頼子は普通の声量で告げる。周りに聞こえるようにわざと。
「なあんか浮気相手探してるっぽいんだよね、同期の子たちに気を付けるように言っといた方がいいかも」
「そうなんですか!」
後輩も多分わざと大きな声で答える。さすが後輩。わかってる、と頼子は感動した。
「それはちゃんと大々的に伝えないとですね」
「お願いします。間違いが起きたらみんな不幸になるんで」
(社内でこんな会話が飛び交う時点でヤバい会社なんだけど、まあいいか、これで)
別に泣かされたわけでもない。ただターゲットにされただけだ、遊び相手の。
不快は不快だったがこれ以上の報復は痛み分けになる。まだこれから先も同僚としてやっていかなければならないのだから円満に終わらせたい。
ビール瓶片手に手酌飲みする大好きな先輩の教えの一つだ。
(先輩、私、先輩の教えを胸に、頑張ってます!)
頑張りすぎてどこを目指してるのか最近よくわからなくなってきたが、頑張っているのは確かだった。
(芙由の方はどうしようかな)
頼子は椅子に座ってキーボードに触れてしばし考えた。
(放置でもいいよな。あの生々しい話、多分心が拒否ってるからこんなことになっているわけで)
そもそも芙由はあんな馬鹿だったか。不倫すると頭が馬鹿になるのか、不倫という麻薬にやられたのか。
(もういいや、しばらく近づかないとこう。あれは劇薬だわ)
近づかないに限る。くわばらくわばら!
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